1-1 オータムホリデー(5)
ナイトハルトの車は、かろうじて四人乗りだったが、後部座席ははっきり言って狭い。その狭いスペースに、ぐっすり眠っているルーディアと、なぜかアルベルトが座らせられる。
運転席に座ったナイトハルトは、助手席にリパウルが座ったのを見届けると、助手席と後部座席を交互に見ながら
「おい、お前ら、俺が運転中に痴話喧嘩を始めたら、即効で下ろすからな」
と、すごんだ。
二人は早速、何か言いた気に口を開いたが、ナイトハルトのひと睨みに、彼の本気を察して口を噤んだ。
「よし」
と頷くとナイトハルトは車のエンジンをかけた。
ナイトハルトの脅しのおかげか、道中車中は、平穏な静けさに保たれた。アルベルトは早々と睡魔につかまってしまい、さしたる抵抗もせず眠りに落ち、見るとルーディアと丁度支えあうような恰好で眠っている。リパウルは後部座席の様子を見ながらため息をついた。
「お前も眠かったら寝ていいぞ」
「うん…ありがとう。今んとこ平気」
「まぁ、よかったな」
「うん」
いまさら取り繕っても仕方がない。リパウルは素直に頷いた。
「ナイトハルト」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「いや、まぁ、暇つぶしの一環だしな。しかし『眠り姫』、通り名かえたほうがいいんじゃないのか?」
「通り名って…」
リパウルは疲れた様子でため息交じりに呟いた。…そもそもその呼び名は、“通り名”などではないのだが…。
高速道路に入ってから、サービスエリアに寄ってもらう。
洗面台の鏡で自分の姿を見ながら、リパウルは深々とため息をついた。
(みっともない顔…)
こんな顔をアルベルトにさらしていたのか…。
あの女性の方がよほどきれいだった。最初は、やぼったい女だ、と思った。こんな女に振り回されて…と、アルベルトを蔑んだ。でも、立ち去り際に見せた笑顔は、艶やかで魅力的だった。間違いなく若くて、美しいものだけが持つ特権的な強さ…。あれが本来の彼女の姿なのだろう。
リパウルは鏡の前で首を振った。不毛だ。いくら考えたところで時計の針は逆回しには出来ない。
幾分落ち込みながら、リパウルは車に戻った。助手席に座りつつ後部座席に視線を向けると、あるべき姿がなかった。
「…ナイトハルト」
運転席にぼんやりと座っているナイトハルトに、声をかける。
ナイトハルトは
「うん?ああ、眠り姫ね。なんか、「疲れたから帰って寝る」って言う声が聞こえたから、なんだろうと思って後ろを見たら、もう、いなかった」
…もう、いなかった…ではない!!
リパウルの言葉にならない叫びを聞き取ったのか
「だって、どうしろっての?帰るって言うからには、アルベルトの家の地下室に帰ったんだろ?俺に何が出来る?」
と、ナイトハルトはやや投げやりな口調でそう言った。
リパウルはがっくりしたが、ナイトハルトの言う通り、確かにどうしようもないか…と思って早々に諦めた。やや広くなった後部座席で、アルベルトはよく眠っている。
(疲れてるのね…)
眠っていてくれれば、いくらでも素直になれるのに、リパウルは今日、何度目になるかわからない、ため息をついた。
とりあえず、焦ったところで事態は変わらないだろうとの結論に達し、通常運転でアルベルト宅を目指して帰ることになった。
「お前、今日予定は?」
「うーん、特には…まぁ、技研に出ようかな、とは思ってたけど」
「休みの日まで仕事かよ。ご苦労なこった」
なんだろう、なんとなく癪に障る。
「何よ、これでも色々忙しいんですからね」
「ああ、ボスの命令で、気の毒に、子供のお守だろ?」
「よしてよ、そんな言い方。きっかけはそうだけど、今は自分の意思でやってるの。そんな言い方しないで」
ナイトハルトは肩を竦めた。
「やれやれ、いれこんじゃって、お前に保母さんの素質があったとはね」
「保母さんって、それも失礼」
ここまでからむことはないだろう、と思いつつ、ふとひらめく。
「そういうあなたはどうなのよ、夏に散々ぼやいてたじゃない」
「ああ、上司の命令で、子供のお守りね」
どんな愚痴を言い出すのかと思いきや
「意外と楽しいな」
「え、そうなの?」
意外なのはこちらの方だと、リパウルは目を瞠り、運転席側の相手の横顔を見る。ナイトハルトは自然な笑みで口元をほころばせていた。どうやら、その場合わせの社交辞令の類ではなさそうだ。
「ああ、やることがはっきりしてるからか、生徒が優秀だからか、自分でも意外だが、結構面白い」
「…意外だわ」
「だな」
…ならば、入れ込んでるのはそっちも同じじゃないかと、言いたくなる。
そんなささやかな近況の交換をしているうちに、車はようやくオールドイーストのセントラルシティに到着した。ここを出発した頃はまだお昼前だったが、今では日が落ちかけている。
アルベルトの家の駐車スペースに車を駐車すると、リパウルは急いで車を降りた。
「ごめん、ルーディアのことが気になるから」
一言告げると、駆け足で玄関へと向かった。
ナイトハルトはリパウルの姿が玄関の向こうに消えるのを見届けてから、振り返りもせず
「起きてんだろ、この狸」
と、バックミラーに向かって後部座席のアルベルトに声をかける。
狸と呼ばれたアルベルトは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「たぬきはないだろ、たぬきは」
「後半、概ね起きてただろ?」
と、にやにやしながら振り返る。見るとアルベルトは、苦虫を噛みつぶしたような表情をしている。
「妬けちゃった?」
さも楽しげに尋ねるナイトハルトに、アルベルトは冷ややかな眼差しを返すと
「別に、今更だろ」
と、答える。あまりにもそっけないその対応に、ナイトハルトは、やれやれ、と呟いた。
アルベルトの結婚式の話を聞いている間、コヴェントに向かう道中、リパウルは嫉妬にとらわれ、まともに会話も出来ない有様だった。ずっと青い顔をして、やたらとナイトハルトを急き立てた。それが、
(“別に”、かよ)
「…気の毒に」
というナイトハルトの呟きに
「余計なお世話だ」
と、アルベルトが返す。
…おまえのことじゃない、と、心の中で切り返すが口に出しては何も言わなかった。何かを言える立場でもなかった。
***
アルベルト宅には明かりがついていた。
(リースかアナベルが、帰ってきてるのね)
時間的に見ておそらくリースの方だろう。鍵を使って玄関を開けると、屋内に入り、リパウルは地下に下りる階段を急ぎ足で駆け下りた。仮設研究室の扉を開くと、予想通り、リースの姿がそこにあった。
「あ、ドクター・ヘインズ。お帰りなさい」
「ただいま。ルーディアは?」
「眠ってます」
言いながら、計器類を確認している。それから、手にしていたタブレットをリパウルに渡す。
「それほど、いつもと数値、変わりません。心拍数が多いのと、眠りのレベルが浅めかな?」と伝えた。計器を見ると確かにそうだ。流石に一年近くもやっていると、少し頼もしい。
「ありがとう。あの、ルーディアはあなたが帰ってきたとき、ここで眠っていたの?」
他の計器を確認しながら、リパウルは尋ねる。脳波の自己認識閾値に異常が見られる。アルベルトの気配を追ってコヴェントに跳んだり、リパウルを誘導したりと、無理をしすぎたからだろうか。
「はい、あの、ぼくもちょっと前に帰って来たんで。アルベルトもドクターもいないし、まだなんだろうな、とは思ったんですけど、念のため様子を見とこうかなって、思って」
と、リースは、はにかみながら伝える。
「ありがとう、リース。助かったわ」
思わず笑顔になる。本当に助かった。一時はどうなることかと思った。
「いえ、あの、お役に立てたんなら、嬉しいです」
リパウルの笑顔に、顔を赤らめながら、リースは何とかそう答えた。
「あとは、私が見ておくから、大丈夫。アルベルトとナイトハルトもそろそろ入ってくると思うし」
「あ、はい、わかりました。僕、上に上がります」
そう告げると、リースは地上へとあがった。
一人になったリパウルは天井を仰ぎ、ほっとため息をついた。自己認識閾値の異常は気になるが、このまま眠れているなら、正常値に戻ってくれるだろう。正直に言うとルーディアのことは謎が多すぎて、出来る対処も多くはない。ルーディア任せなのだ。それでも、睡眠レベルを深めるようポットの設定数値を変えておく。
それから、ルーディアのスリープポットの傍らに腰を下ろすと、リパウルは自分の額を、ポットのガラス面にのせた。コンクリートの床の上には、淡いオレンジ色の毛長のカーペットが敷いてある。ポットの中を覗くと、ルーディアはよく眠っている。いつもの花柄フリルのワンピースではなく、出会った頃身に着けていた、飾り気のない白いワンピース姿だ。
「ルーディア」
ガラス越しに彼女の姿を見ながら、リパウルは声に出して話しかける。
「今日はごめんなさい…」
「あなたは、私を助けてくれたのに、ひどいことを言ったわ…」
言っているうちに涙がこぼれる。どうしたんだろう。なんだかやたらと抑えが利かない。
「どうしてこうなっちゃうんだろうね」
少女の頃は自分の気持ちが上手くコントロールできなくて、苛立つことばかりだった。大人になったら、きっともっとうまく生きられるようになるのだろうと思っていた。なのに、現実はこうだ。
「アルベルトにも、ひどいことを言った…」
優しくしてほしいのに、怒らせて失望させてばかりだ。そう思って、余計に涙が出る。まただ。結局自分は十代の頃と何も変わってない。求めるばかりで相手を追いつめる。もっと素直になりたいのに。
(あの女性には、優しかったな…)
ぼんやりと自分の考えにとらわれていたリパウルは、階段を降りてくる人の気配に気がつかなかった。
ドアの開く気配にリパウルは振り返った。そこにはアルベルトが立っていた。
一番見られたくない人に一番見られたくない姿を見られたリパウルは、慌てて涙をぬぐうと立ち上がった。気がつけばすでに臨戦態勢だ。
「盗み見の趣味でもあるの?」
と、自分でも驚くほど、棘のある言葉が口から飛び出して、リパウルは内心、パニック状態に陥る。
いきなりの非礼な言葉に、流石のアルベルトも癇に障ったようだ。彼には珍しく露骨に不快気に顔を歪める。
…再会してからこっち、時折、会うことがあっても、いつもどこか様子を伺うような、曖昧な表情をしているのに…。そう思った途端、こちらの方がまだマシだ、と、リパウルは思った。あの、こちらのご機嫌を探るような、曖昧な顔を見るくらいなら、怒っている顔の方がずっといい。
「…驚かせたんなら謝る。けど、そんな言い方はないだろ?」
「あら、ごめんなさい。で、何しにこんな地下へ?」
「俺がルーディアの様子を気にしたら、いけないのか?」
実際にアルベルトは、リパウルも戻って来ていたリースと一緒に、リビングの方にいるだろうと思っていたのだ。今日の件ではルーディアには驚かされてばかりだったし、本当に戻っているのか一目確認したかっただけだ。なのに、彼女のこのケンカ腰は何だろう?
(ナイトハルトとは普通に話していたくせに)
…普通に?いや、親し気に打ち解けて!…そう思ってから、我ながら低レベルだと益々イライラしてしまう。が、一度たった腹の虫は、そう簡単にはおさまってくれないようだ。
「あ、そう。そうよね、あなた、今日一日で、ルーディアと、随、分、親しくなったみたいだものね」
「…リパウル」
「それとも何かしら、新婦さんとよろしくやる筈だったところを、ルーディアに邪魔されて、腹が立ったとか?」
リパウルはリパウルで、我ながらよくもまぁ、こう次々と品のない、憎らしい台詞が出てくるものだと自分自身に腹が立ってくるのだが、どういう訳だか一向に言葉が止まらない。
「リディアのことは、関係ないだろう?」
イライラしたようにアルベルトが応じる。途端、リディア・オルトの傍らにひざまずいて、優しく肩に手を置いていたアルベルトの姿が、リパウルの脳裏をよぎった。
あの時アルベルトはリディアに、君は若くて美しいとか何とか言っていたのだ。
「何よ…私には、離れた方がいい、とか、会わない方がいいとか、そんなことしか言わなかったくせに…!」
「?!…あ!あの時は君が…!」
リパウルの口から、唐突に飛び出した恨み言めいた低音の呟きに、アルベルトは条件反射の様に応じてしまう。
「…何よ?私が悪いって言うの?」
対するリパウルの声は地を這うように低い…。リパウルの言葉に、アルベルトは眉を寄せ、顔を背けると
「そうは言わないが…」
と、吐き捨てるように呟いた。
「…そんなこと言って、いつも適当にごまかして!!なによ…、アルベルトだって、どうせ、ルーディアや私が行かなかったら、あの人と楽しんでたんでしょ!」
リパウルのその言葉に、“あなたも私で楽しめばいい”と言った、リディアの言葉が重なる。
「リパウル…」
オールドイーストで、選ばれた人として、美しく賢く生まれつき、常に輪の中心にいたリパウル。だからといって、彼女にリディアを侮辱する権利があるとでもいうのか?
それでも、アルベルトの知っている彼女は優しかった。が、目の前のこの傲慢な女は何なんだ?何よりそれが、許せなかった。
「君が俺を嫌っていることは知っている。だからといって、何の関係もない女性を侮辱していい理由にはならないだろう」
アルベルトの言葉に本気の怒気を感じ取り、リパウルはぎくりと体を震わせた。が、出てきたのは
「やけにかばうじゃない。もしかして本気になっちゃった?」
というひどい言葉だった。
アルベルトは返事もしない。無言でリパウルに近づくと、彼女の背後に手を回し、明るい金色の髪ごと細い首筋をつかんだ。
「その口、ふさいでやろうか?」
アルベルトの怒りに身をさらしながら、今のリパウルが感じていたのは、不可解な喜びだった。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
語尾が、震える。が、自分で思っていたよりも挑発的な口調になった。
アルベルトの喉が動くのが見えた。きっと自分は物欲しそうな顔をしているのに違いない。アルベルトの顔が、ゆっくりと近づいてくる。怒っているくせに、近づいてくる彼の表情はは、何故だかうっとりしているように見えた。どこか夢見るような彼の眼差しに、リパウルも思わず目を細める。
ゆっくりとした彼の…その速度に、堪えきれず、リパウルは自分の方から彼にとびついてしまいそうだった。
…早く、早く来て…
そう思った瞬間、階上からかすかな振動と、何かの音がした。
咄嗟に二人は身を離す。リパウルは、真っ先にルーディアのスリープポットを見た。
予想通り、そこは空だった。