3-17 卒業(7)
「…話があったんじゃないのか?」
溜息に気付いたのか、アナベルが探りを入れる様な口調で訊いてきた。ウォルターは再度息をつくと、
「…君、よくその格好で入れたね」
と、全く違うことを言い出した。アナベルは隣に並び歩調を合わせたまま、ウォルターに視線を投げる。今の彼のいでたちは、グレイのカッターシャツに黒のスラックス。通常通り、可もなく不可もなく…と、いったところか?
「そういえば、お前ら、一応普通の格好だな」
「まあ、流石にね」
「でも足元で台無しだ」
と、アナベルがにやりとした。ウォルターは履きなれた黒いスニーカーを履いていたのだ。
彼女の言葉にウォルターは眉を寄せると
「それでも君よりは大分マシだ。Tシャツとジーンズ以外にも、何かあっただろうに…」
「…慣れた格好の方がいいと思ったんだ。何かあった時に動きやすいだろう?」
何でもないことのようにそう言われ、ウォルターは再びため息をついた。
「…そんな覚悟してまで、どうして…」
「…覚悟って、そんな大袈裟な…。言っただろう?会って、話してみたかったんだ。お前らは色々言うけど、実際に会ってみないと分からないって、そう思って…」
「……」
「それにお前が言うのが本当で、あの人がエナに執着してるんだったら、エナの娘である私になら何か話してくれるんじゃないかって、ちょっと…そういう図々しいことは考えていた…」
「…そんなこと考えてたんだ」
呆れた様にウォルターが呟くと、アナベルは肩を竦めた。
「…けど、甘かった。こっちの考えてることなんて完璧に見透かされていた気がする。エナの名前が出る度、逆なでさせられていたのは私の方だった…」
「そもそも、どうして部屋までついて行ったりしたんだ?」
「……そう、だな…」
「具合が悪くなったって言ってたけど」
「…お前は、マチルダさんの日記を読んで…何があったのか、具体的なことは話そうとしなかったけど…」
「うん…」
そこまで言うと、アナベル口を噤んだ。ウォルターは早足にならないよう、注意を払いながら彼女の横顔を盗み見る。アナベルは地面に向かって憂鬱そうに息をつくと、今日のディナーの席で振舞われた飲み物について簡単に話した。
「…スタンリーさん、マチルダさんは酔って寝てしまったって言ってた…。だから、その…」
「うん…」
「お前はマチルダさんの事、批難してたけど、私にはやっぱりマチルダさんはスタンリーさんに騙されたんだって気がしてる…お前は納得いかないかもしれないけど…」
「…そう、だね…」
「その、やり方はあれだし、絶対認めるつもりもないんだけど、けど、スタンリーさんはやっぱりマチルダさんのこと、好きだったんだと思う…」
「ロブがそう言ってた?」
「う、うーん、状況が状況だからなぁ…お前らの言ってる意味が何となく分かったよ。どこまで本音で話してるのか全然わからない…。けど、あの人…」
「何?」
「…マチルダさんが自分のこと忘れたって…そう、言ってた…」
「…え?」
「その、私を油断させるために、意外なことを言っただけかもしれないんだけど…」
「…どういう状況なんだ…」
「それは、その…けど、あれは嘘じゃなかったって、そう思う。流石にあんな嘘、つかない…」
…話があちこちに飛ぶし、奥歯にものの詰まった様な言いぶりが多くて、彼女がきき出したロブの言葉が、どうにも把握しきれない。…だが、彼女が自分に伝えたいと思っていることだけは、伝わった。
「…君が言いたいのは、マチルダはジョンを裏切るつもりなんてなかったってことと、彼女がロブを忘れたって、ロブが思っているって、そういうこと?」
「そうだ!その、普通に聞けば変な話だけど…私、他にもそういう話を知ってるから…」
「…そうなんだ?」
「うん、ただ、まあ、別の話になるし、かなりの特殊事例というか…」
「いや、君が言うことが本当なんだとしたら、辻褄は合うんだ」
「そうなのか?」
「…うん…」
…ずっと、疑問に思っていた…。何故、ジョンがロブと話せと言ったのか…ジョンは、自分にロブと何を話して欲しかったのか?
ロブから憎まれていることを知った時、最初に思ったのはそのことだった。…ジョンが僕に知らしめたかったのは、実父が自分を憎んでいるという、そのことだったのかと…。
そんな筈はないと思いたかった。…けれど、思考は暗い方へと容易く堕ちていく…。気づけば抜き差しならないところまで追いつめられていた…。
…ロブだけじゃなくジョンも、本心では僕を憎んでいるのでは?
堕ちて行った先、辿り着いたのは、そんな思考で…けれど、アナベルの言うことが本当なのだとしたら、ジョンも、マチルダの記憶喪失に気付いていたのだとしたら…ロブの、本心を薄っすらとでも察していたのだとしたら…。
…ジョンが僕にロブと話しをするように言ったのは、きっと、この事だ…。
ロブがマチルダを愛し、彼女が息子の本当の父親を忘れていたのだとしたら、ロブにとっての僕の意味は、僕が思うよりずっと重い…。僕はそれを知った上で、選択すべきだと、ジョンは思っていたのかもしれない…。
同時に、ジョンが言っていた、マチルダが僕をジョンの子供だと思っていたという言葉とも辻褄が合う。…彼女がロブを忘れてしまったからこそ、ジョンもまた、僕を息子だと思うことが出来たのだ。
ロスアンで少しだけ読んだ、マチルダの幸せな日記…。あれは、何の作為もなく書かれたものだったのだ。完全な忘却の上に成り立つ、完璧な欺瞞は、もはや欺瞞とは呼べまい。
…けれどそれは、薄氷の上に築かれた危うい幸福だ…。
マチルダが生きている数年間、それはジョンを救ったのかもしれない。けれど、同じ轍を踏むべきではないと、父は思っていたのかもしれない。
「…ウォルター…?」
心配そうに、呼びかけられて、自分が自分の思考に没頭していたことに気付く。
「…ごめん、ちょっと、色々と…」
「いや、いいんだ…。変な話、聞かせちゃったんなら…」
「…まさか…」
心配そうに見つめる彼女が可愛くて嬉しくて、思わず笑ってしまう。すると彼女の視線がせわしなく動いた。
…ひょっとしなくても、僕が彼女の笑顔を苦手なのと同じ理由で、彼女も僕の表情が、苦手なのかもしれない。そんな埒も無い事を、ウォルターは微笑みながら思う。
「…そうか、なら、いいんだ…」
「うん…ありがとう…」
「…うん…」
***
卒業式を翌日に控えたその日、アナベルはエナとの面会のため技研を訪れていた。三学期はほとんど授業もない自由登校期間だ。なので、訪問時間も午前中だ。
…一体どういうつもりで、卒業式の前日なんて日に面会日を設定したのだか…と、アナベルとしてはうんざりしなくもない。だが、エナ当人に、そんな苦情は、無論、言えない。
エナの執務室がある階までエレベーターで昇り、廊下に出た途端、その人の姿が目に入った。アナベルは仰天してエレベーターホールで思わず足を止め「げっ…!」と、あまり行儀が良いとは言えない声を上げた。アナベルの声に相手も気づいたのか、目が合うとにっこりと品の良い笑みを浮かべた。
「やあ…一週間ぶり、くらいだな。あれからどうだい?元気にしてたかな?」
ロブは例によって例のごとく、やけに馴れ馴れしくも爽やかに、そう言いながら近づいてきた。…流石に、回れ右して逃げ出すわけにもいかない。アナベルは不承不承といった態で
「はあ…まあ…」
と、答えた。その返答にロブは軽く吹き出すと
「相変わらず、無礼だな。やはりもっときっちりとお仕置きをしておくべきだったな」
と、片眉を上げた。アナベルはやはり憮然と
「あなたの言うお仕置きを受けたところで、礼儀正しくなったりはしませんが?」
と、輪をかけて生意気なことを言い返す。ロブは口元に笑みを浮かべたまま、片目を細めた。
「本当に、減らず口だけは一人前だな」
「…だって、なんでこんな時間にこんなところにいるんですか?」
と、無礼な返事を繰り返す。
「外回りだよ」
「何の外回りですか?」
「…どうやら、ウォルターはいまだに君に手を出していない様だ。せっかくお膳立てを整えてやったというのに…」
「何の御膳立てですか?また、適当なことを…」
「奥手なのにもほどがあるだろう?これでは君は増長するばかりだな」
「どういう理屈ですか?」
と、言い掛けて、ロブが微笑んだのに気づいたアナベルは、慌てて
「いえ!いいです。言い過ぎました!謝ります!」
と、早口でそう言った。
…自分で突っ込みを入れておきながらロブが展開するであろう“理屈”を、一言たりとも聞きたくなかった。
アナベルの表情から何を読み取ったのか、ロブは声を殺して笑った。
「君の謝罪は本当に軽いな。何の価値もない」
「…すみませんね…」
「まあ、いいだろう。そう言えば、あの時言ったことを覚えているかな?」
「…あの時言ったこと…ですか?」
…どのことを指しているのか皆目見当がつかないアナベルは、宙を見ながら首を傾げた。
「卒業祝いだ。どうせなら、あの時あの場に居た四名全員を呼ぼうか?」
アナベルは唖然とした。
…なんだ、その無理な設定?てか、なんなの、この人?…実はただの寂しがりやなのか?
「……本気ですか?」
「当り前だろう?」
「あの…飲みませんよ?」
「誰が君に飲めと言った?大体あの時は、気づいていたくせに勝手に飲んで、酔ったふりして騙したのは君の方だろう?」
「…根に持ちますね…」
「それは君の方だろう?」
「…そういうところだけ見てると、スタンリーさんはやっぱり、ウォルターに似ている気がしますよ」
「私が彼に似てるんじゃない、彼が私に似ているんだろう?」
と、ロブは心外だとでも言いたげに、突慳貪な口調で言った。が、なにやら口角が上がっている。似ていると言われて、満更でもない様子だ。
ウォルターは憎まれてるとかなんとか言っていたが、実はこの人、ウォルターのことが大好きなのではなかろうか?と、埒も無い事を思いついてしまい、アナベルはなんとなく複雑な気持ちになってしまう。
「まあ、それでもいいですが…」
「サイラスとは、まあ食事くらいはしたが、双子が揃うのを見たのは、生まれた時以来だったな」
ロブは穏やかな口調で言葉を続けた。アナベルは何となく、口を噤んでしまう。
「あの…会わないようにしていたのでは…?」
「いや?エナが会わせなかっただけだが?」
そうなのか?どうにも、胡散臭い…と、アナベルは露骨に眉を顰めてしまう。その表情にロブは再び声を殺して笑い出す。
「…君は…全く、腹芸が出来ない人間だな…」
「すみません…ですが…」
「まあいい。私に対する君の不信感は周囲の人間が醸成したものだろう。…と、言いたいところだが、自分のことを、信頼に足る誠実な人間だと言い張るつもりは流石にない」
「…なんの開き直りですか…」
と、アナベルがぼやくと、ロブは心外だと言わんばかりに片眉を上げた。
「…人がせっかく謙虚に振舞っているのに、エナですらもう少しオブラートに包みそうなものだが…」
「あなた相手にそれをする意義が見いだせません」
と、アナベルは無駄な正直さを存分に発揮して、正々堂々と言い放った。
「ほお…。どうして?」
「オブラートに包んだって同じでしょう?だってあなたは、誠実であることを、愚かなことだと思ってる。価値観が違いすぎます」
「だから?話しても無駄だと?」
「違います。…私なりに、誠実に…」
「無駄に正直なだけだろう?…君のそれは誠実とは言わない。怠慢なだけだ」
「……」
流石にアナベルは閉口した。…どう言っても言い負かせる気がしない。
「…わかりました。一応、ウォルターと、ルカとサイラスに訊いてみます。ただ、良い返事が得られるとは…」
アナベルの言葉の途中でロブが笑い始める。
「…あの、何か?」
「いや、では、よろしく頼むよ。出来ればよい返事が聞きたいものだがね。お祝いだ、他意はない」
「はあ、そうですか…」
アナベルはそろそろ解放されたくなった。…怠慢だと決めつけられたが、ロブ・スタンリーと話すのは結構、消耗するのだ。
アナベルの倦んだ気配を察したのか、ロブはにこやかに
「ああ、エナに用事だっけ?引き留めて悪かった」
と、言うとエレベーターの方へと足を向けた。
「はあ…いえ、お会い出来て…」
「今更だな。…そうだ。息子たちへの伝言ついでに、エナにも一言、頼めないか?」
そう言いながらロブは改まった様子で振り返った。
「…はい?」
アナベルも思わずかしこまって、ロブの顔を見上げてしまう。ロブはふっと表情を緩めた。
「…私はいい遺伝提供者だったとはいえない。今まで君一人にすべてを押し付けて、すまなかった…」
「……」
真正面に立って静かに見下ろされ、穏やかな口調でそう言われて、アナベルは一瞬、絶句した。
「彼女にそう伝えて貰えるかな?」
「……それは、あなたが直接エナに言うべきなんじゃないですか?」
アナベルの険しい口調に、ロブは肩を竦めた。
「私が言ってもどうせ素直に聞きやしない。それに、それこそ、今更、どの面を下げてそれが言える?」
「そんなこと…それこそ、怠慢じゃないですか?」
「誠実を売りにしたことはない。私の怠慢はエナが一番よく知っている」
何やら楽し気に微笑んだまま、そんなセリフを口にする。アナベルは舌打ちしたくなったが流石に堪えた。
「…うまく言えるかどうか、保証は致しかねますが…」
「それで構わない」
と、答えた後、ロブは楽し気に笑った。
「…本当に、君は、無駄に正直だな」
アナベルは何か言い返そうと口を開いたが、そのタイミングでエレベーターが到着の知らせる音を鳴らす。
「…じゃあ、また…」
そう言いながら、気安い様子で手を上げると、ロブは笑顔のままでエレベーターの中へと姿を消した。
エナの執務室の備え付けのインタフォンに向かって来訪を告げると、自動でドアが横滑りに開いた。執務室に入ると、一見してわかるほど不機嫌なエナに
「…今日の面会時間がきちんと伝わっていなかったのかしら?」
と、いきなり皮肉を浴びせられる。
…廊下でロブ・スタンリーに捕まってしまった時点で、半ば予想はしていたが、いきなりの皮肉攻撃に、アナベルはうんざりとため息を噛み殺した。
「…申し訳ありません。時間はきちんと伺っておりました。…廊下で、スタンリーさんと会ってしまいまして…」
アナベルが言い訳がましくそう言うと、エナの眉間の皺が益々深くなった。
「一週間前にも会ったそうですね、ロブと。それも一人で…」
「バイト先の雇い主です。…許可が必要でしたか?」
「あなたのことは私が一任すると決めてありました。ロブに会わせるつもりはなかったのよ」
「…そこまで、嫌わなくても…」
アナベルが呆れた様にそう呟くと、エナは唖然と口を開いた。
「…好き嫌いの話などしてません」
「じゃあ、どういう…」
「あなたこそ、どうしてかばうのです?」
「別に、かばってはいないけど。エナだって、会ってるじゃない」
「彼が一方的にここに来るのです。電話も一方的に…」
「断ればいいじゃない。…ルカとかサイラスとか、ウォルターのこととか、スタンリーさんにきちんと話してるみたいだし」
「それは…訊かれれば答えます。…彼らの父親なのですから…」
「じゃあ、私だって、これまでの総決算…みたいな言い方で食事に呼ばれたら断りにくいよ」
「あなたの父親は彼ではありません」
「そんなの分かってるよ。雇い主!…なんか、意地になってない?」
「なってません!」
「さっき、スタンリーさんからエナに伝言って…」
「…メッセンジャーよろしく伝えるつもり?」
アナベルの言葉にエナはシニカルな笑みを浮かべる。すっかり慣れているアナベルは、一息つくと
「…今まで悪かったって、全部エナに押し付けて…いい遺伝提供者じゃなかったって…」
割合正確にロブの言葉を伝えると、アナベルはエナの反応を伺った。が、特にこれと言って変化は見られない。
「…それで?」
「それでって…他に何かないの?せっかく謝ってるんだし、もう少し、本気で聞いてあげても…」
「私が?何故?」
「それは、その…、別に、かばうつもりはないけど…あの人結構エナの事、気にしてるんじゃないの?エナがもう少し、あの人のこと気に掛けてれば、周囲に及ぼす被害が減ったかもしれないじゃないか…」
アナベルの言葉にエナは口角を上げる。




