3-16 イカサマ賭博師の愚昧(17)
三日間の入院を終え、退院準備を整えたマチルダは、ベッドに腰かけてジョンが迎えに来るのを待っていた。ウォルターはよく眠っている。生まれたばかりのウォルターは、ようやく人らしい様子になっていた。我が子ながら、美しい赤ん坊だと、マチルダはあきることなく腕の中の息子の寝顔に、うっとりと見惚れてしまう。ウォルターを腕に抱いて、ジョンの訪れを待っていた彼女は、人が入ってきた気配に気がついて、何の構えもなく顔を上げた。
…ジョン…と、喉元まで出かかっていた夫の名前は、入り口に立つ人物の姿に、自動的に飲み込まれた。すでに理性とは無関係なところで刻まれたその男の叱責の言葉が、彼が自分に課した禁止事項が、その姿に自動的に発動するのを感じる。
「…ロブ…」
喘ぐように洩れたのは、その男の名前だった。彼が自分の身に刻み付けた無数の傷が…甘い疼きが…自分の内側から、はっきりと呼び覚まされるのを感じて、マチルダは絶望にとらわれる。
マチルダの呟きに、薄い笑みを浮かべたままだったロブの表情が、明るい朗らかなものに変わる。先ほどまでの酷薄な印象は、すでにその顔には存在しない。
「…久しぶりだね、マチルダ…」
そう呟くと、彼は無造作に彼女に近づいた。そして、流れるような自然な仕草で、子供を抱くマチルダの上から、その子の姿を覗き込むようにして、彼女に身を寄せた。マチルダは、思わず腰を引き、ウォルターを自分の胸に抱き寄せた。
「…寄らないで!」
「何故?」
マチルダの引きつった様な小さな叫びに、たじろぐことなく顔を寄せ、ロブはマチルダの長い髪を手で掬い、そっと、その髪に口づけた。
「…ずっと、会いたかった。けど、会いたかったのは俺だけだったようだね…」
うっとりと、彼女の髪を弄びながら、ロブはマチルダの青ざめた顔に視線を据える。マチルダが自分に見せる、強い否定的感情は、不可解な悦びをロブに与えた。
「…どうして?何故、あなたがここに?」
「…ジョンだと思った?」
「…当たり前だわ…」
守るように我が子を抱いて、全身で自分を拒絶するマチルダの頬に、ロブは手を伸ばす。頬に手を添えると、マチルダの顎が震えているのが分かった。
「ジョンは…そうだな、来ないかもしれない…」
「え…?」
「せっかく顔を見に来たのに…子供の顔を、私に見せてくれないのか?」
「あ…あなたには関係ないっ!」
高いかすれた声で、マチルダは断言した。だが、ロブはたじろがなかった。うっとりと目を細めると
「彼に言ったんだ。言わないとフェアじゃないと思ったからね。そうだろう、マチルダ?その子は、私の子供かもしれない…」
と、楽しそうにそう告げた。マチルダは自分の頬に添えられたロブの手を払うと
「…嘘よ!あなたは言わないって…!ジョンには…」
そのまま引きつったように喘ぐと、言葉が途切れた。言葉を、続けることが出来なくなった…。ロブは構わず言葉を続けた。
「…だから、ジョンに言ったんだ。遺伝子を調べてみた方がいいってね。私も調べるからって…」
いっそ優しくロブは告げた。マチルダは青い顔をしたまま、ロブの顔を凝視すると、静かに首を振った。長い髪が左右に揺れる。
「…嘘よ…ジョンは、そんなこと…」
「いいや、多分今頃調べてる。そんなに難しいことじゃないからね」
「ウソ…」
呆然としたマチルダの頬に手を添えると、ロブは慣れた様子で彼女の顔を上向かせた。そのまま、彼女に深く口づけする。マチルダは呆然と、それでもそのキスに応える。
「…ん」
離れると、ロブは少し身を屈め、うっとりとした彼女の表情に、見惚れてしまう。
「…やっぱり、君は君だ…。ずっと、会いたかった…」
「…何を言っているの?ロブ」
その質問に答える気配もみせず、ロブは再び、マチルダの唇を求めた。むさぼるようにそれを求め、それだけでは足りなくて、彼女の耳を優しく噛んで、首筋を吸う。マチルダの吐息が、甘く響く。その吐息にしびれるような快感を覚え、首筋を吸いながらロブは自然な仕草で彼女の胸を探ってしまう。
…が、それまで、甘い吐息をつきながら、ロブの愛撫に身を任せていたマチルダが、唐突にも身を引くと、自分の胸元を探るロブの手を払いのけた。ふっと正気に返り、ロブはマチルダから離れた。見ると彼女は目を見開いて、顎をふるわせていた。
「…マチルダ…」
その顔は、最初にこの部屋に入って、ロブの姿を認めた時と同様、怯えと怒りに蝋の様に白くなっていた。
「…マチルダ…」
戸惑いながら、ロブは再び彼女に手を伸ばす。…だが
「…触らないで…!」
マチルダから、返って来たのは明確な拒絶の意志だった。小さく、そう叫ぶと、マチルダはそれまで、無造作に膝の上に置いて、手だけを添えて支えていた赤子を、両手で抱きなおした。
先ほどまで間違いなく、自分の愛撫に恍惚と身をゆだねていたマチルダの…彼女の拒絶が信じられなくて、ロブは呆然とその顔を見つめてしまう。そのまましばらく見つめ合っていると、ドアからノックの音が響いた。その音に、マチルダの顔が一瞬だけ、その緊張を解いたが、安堵の表情は瞬く前に消え、さらに強い緊張が、その面に現れる。
…ロブは、マチルダのその変化を間近に見ながら、ふっと息をつくようにして笑うと、彼女の傍から一歩だけ身を引いた。ノックの主は間違いなくジョンだ。彼女の正式なパートナー…。
***
マチルダの息子から採取した口腔内の粘膜を、ロブはティムに渡した。場所は育成センター内、ティムたちのチームが使用している部屋の一つ、小さな端末ルームだ。狭い壁、三方に、ディスプレイを乗せた大きなデスクが隙間なく配置されている。その机の、誰も座っていない椅子に腰かけ、ロブは無駄にくつろいでいた。
「いつまでに?」
「…ここをどこだと思ってるんだ?結果はすぐにでる」
やや呆れた様に、ティムは応じて、それからため息をついた。
今ではティムも、ロブの交際相手に正式なパートナーがいることを知っていた。
「しかし、本当によかったのか?」
「何がだ?」
「パートナーにばらしてもだ。その、相手の女性は…」
「俺の知ったことじゃない。あの女…俺の子じゃないと断言しやがった…」
ロブの憎々し気な口調にティムはため息をついた。
「…あんたのことが益々わからなくなってきたよ」
「どこがだ?」
ロブとしては自然な感情だ。ああまではっきり拒絶されて、喜ぶ男がどこにいるか?
「パートナーに暴露なんてしなければ、彼女とよりを戻せたんじゃないのか?」
ティムが、妙にしんみりとした口調で言葉を続ける。そのセリフに、ロブはにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「あんたは意外に不道徳だな。いや、まあ、そうか…」
ロブの言葉に嫌な顔をするでもなく、ティムはため息をついた。
「あんたがいいんなら、俺の口出しすることじゃないがね…」
「…いいわけがない…」
憮然と、ロブは呟いた。…いいわけなど、ない。だが…。
マチルダにキスなどするのではなかった…。あくまでも、彼女の子供のDNAを採取できれば、それでよかった筈なのに…。
思い返すと再び彼女を欲しがっている自分に気が付く。こんなに一人の女に執着したことはない。今のロブは、自分でも、自分がどうかしているとしか思えなくなっていた。これまでも、正気に戻れと、ロブは幾度となく自分に言い聞かせてきたのだ。
…相手はマチルダだ!何を好き好んで、あんな愚かな女を…!それに自分が欲しかったのは、あくまでも、体だけの筈だ。それが…。
病室に入って、自分だと…入って来たのがロブ・スタンリーだと気が付く前に浮かべていた、マチルダの美しい表情を思い出す。…エナと同じだ…。どうして、誰もあの顔を自分に向けてはくれないのだろうか?
憮然としたロブの冴えない表情を横目に見ながら、ティムはやれやれと口を噤んだ。何を言っても無駄なようだ。…知れば知るほど、ロブという男のことが、ティムにはわからなくなっていく。ロブ・スタンリーは、エナに執心しているのかと思っていたのだが…。
するどくノックの音がして、誰何の声もなくドアが開かれる。無造作に入って来たのは、ティムの同僚のキダ・タスクだった。タスクは自分たちのテリトリー内で、大きな顔をしてのさばっているロブに、不快気な一瞥をくれると、黙って自分の席に腰を下ろした。そのまま「ティム…」と、短く声を上げる。何故か立ったままロブと話していたティムは、小さくため息をつくと、タスクの座るデスクの背後に近寄って、彼が座る椅子の背に手をかけた。
「…出来そうか?」
「…うん」
子供の様な返事を返すと、タスクは目の前の端末を操作し始める。ティムは無言でタスクが操作する端末の画面を見続けた。
「…セントラル病院…」
「ああ…」
「入院期間は先日まで、名前はマチルダとジョン・リューだね」
「…そう」
淡々と確認をとりながら、タスクの手の動きは止まらない。まるで自動で動いているのかというほど流麗な手さばきで、目指す場所へと侵入していく。
「…でたよ、どうすればいい?」
タスクの言葉にティムは画面を凝視する。
「わかった。大丈夫だ」
「これだけ?」
業務の簡単さに、物取りなさを覚えているかのようなタスクの口調に、ティムは苦笑を浮かべながら「ああ」と短く相槌を打つ。
二人のやり取りに、ロブも立ち上がり、ティムの横から、タスクの前にあるいくつもの大きなディスプレイのうちの一つに視線を据える。ロブには構わずティムは頷くと
「あとはこっちでやるから」
と、続きを引き受けた。
「ふうーん、そう」
と、呟くとタスクは再び画面を操作し始めた。ロブはタスクのディスプレイから目を離すとティムの方へと顔を向けた。
「…何をしたんだ?」
別の机に腰を下ろして、端末を操作し始めながらティムはロブの方を見もせずに
「セントラル病院が発行したあんたの息子の出生証明書を覗いて、あんたの息子の出生証明番号を盗み見しただけだ。これからその番号を使って、こっちの書類を作成する」
と、答えた。ロブは「ほお」と、目を眇めた。
「お隣だからな、そう難しくもない」
「なるほど…」
「念のために言っておくが、いつもこんなことをしているわけじゃない」
ティムはやや億劫そうに付け加えた。
「そりゃそうだ」
と、ロブは肩をすくめた。
「あと…もうひとつ言っておくが、俺たちが協力できるのはここまでだ。あとは鑑定結果を待って、実際の申請に関しては、あんたがどうにかするしかない」
ティムの言葉に、ロブはさわやかな笑みを浮かべる。
「それはどうも。ご協力痛み入るよ…」
「…スタンリーさん、あんたはバイオロイドだけあって、世界的だね」
唐突にタスクが会話に割って入った。ロブはタスクを一瞥すると
「どういう意味だ?」
と、笑顔を向けた。が、タスクは何とも答えず、自分の背後に立つ、ロブを一瞥すると、すぐに画面の方へと視線を戻す。ロブの方も返事はないものと決めてかかって
「今は?何をやってるんだ?」
と、質問を返した。タスクは
「侵入の痕跡を消してる処。まあ、わかる奴が見ればわかるけど…」
と、呟いた。それから
「エナが知ったら、あんたは切れられると思うけど、スタンリーさん」
と、唐突にもそう言い出した。
「…何故そう思う?」
「…あんたは現実的だね、スタンリーさん。この世はフラクタルだから…。けど、エナはバイオロイドだけど人間的…だからロゴスだ。現実じゃちょっと、いかれてる…」
タスクのセリフにロブは顔をしかめた。彼の言わんとすることが、全く理解出来ない…。
「ロゴスな方がいかれてるのか?」
タスクは画面を見たまま頷いた。
「エナもわかってる。わかってるから、切れるんだ…」
その断定にロブは顔をしかめた。
「…親しいのか?」
訝し気に確認をとるロブの口調は、あからまさに不快気だった。その声音に、タスクだけでなく、ティムまでロブの方を見た。タスクは振り向くと目を眇め
「やっぱりあんたはカオスだね…」
と、意味不明なことを呟いた。
***
後日…センターからの検査結果は、待つほどもなくロブの元へともたらされた。マチルダの息子の遺伝子と自分の遺伝子の親子関係確認の結果を手にしたロブは、自分が賭けの勝者となったことを知る。ご丁寧に、書面でもたらされたその結果を手にし、ロブはこみ上げる笑いを押さえることが出来ない。
…これさえあれば、マチルダを再びこの手に出来る…。
愛人の甘い声を思い出して、ロブはうっとりと、その時が来るのを待ちわびた…。




