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オールドイースト  作者: よこ
第3章
503/532

3-16 イカサマ賭博師の愚昧(8)

 「…それで、来週の習い事の日に、娘がお泊りをすることになって…」


マチルダは邪気のない笑みと共に、そう報告した。先ほどからロブは、マチルダの話を、なんとなく聞き流していた。先日、センターで聞いた事態や、その後、父と会った時のことなどを思い出して、少し不快な気分でいたのだ。だが、マチルダは気分を害する風でもない。


…おそらく、ロブの気分になど、全く頓着していないのだろう…。


「へぇ…そうなんだ…」


ロブはおっとりと相槌をうった。マチルダは頷くと

「何もかもあなたのお陰よ…」

と、ロブに向かってうっとりとお礼の言葉を述べ始めた。行儀悪く頬杖をついていたロブは、顔を上げると、あらためてマチルダの方へと向きなおる。


「何を今更…改まって、どうしたんだ?」


マチルダは少女の様な笑みを浮かべたまま

「お薬をくれたでしょう?他にも、色々と教えてくれたわ…。私、何も知らなくて…」

と、マチルダは恥じらいながら俯いた。「ああ」と、ロブは短く頷いた。マチルダが言うのは、女性の特有のホルモン周期のことだった。経産婦の筈のマチルダは、そんな基本的なことすら十二分に、把握していなかったのだ。


「今度こそね…言えるんじゃないかって…その…」

「ジョンを誘えそう?」


あからさまに好色な好奇心でもって、爽やかに問いかけるロブの質問に、マチルダははにかんだ笑みを浮かべた。


「だって…あなたの好意を無駄にしてしまう訳にはいかないから…」


…一見殊勝な理屈だが、中身が中身だ…。よくそんな可憐な表情が出来るなと…例によってロブはうんざりとした。…まったく、一体全体どういう神経をしているのだろうか?


ロブがあきれて黙っていると、その沈黙をどう解釈したのか、マチルダは真顔になって

「その…ごめんなさい」

と、申し訳なさそうに言葉を続けた。


「何が?」

「だって…あなたには色々お世話になったのに、私は何も返せないから…」


…女だったら、ベッドでいくらでも恩返しが出来るだろうに…。だが、そう口にするわけにもいかない。ロブは笑顔になると

「気にしなくてもいい。私がそうしたくて、してるだけだからね」

と、応じた。マチルダも笑みを返すと

「…本当はね、今日はあなたに、何かお礼を持ってこようと思っていたの。でも、あなたは何でも持っているから、私があなたにあげられるものが何もないなって…そう思って…」

「そんなことはないだろう…」


…これは、誘いを掛けろというメッセージか?と、思いながらロブも笑顔を返す。が、予想に反してマチルダは、真面目な顔になって首を振った。


「だって、私は何も出来ないの…。あなたは、着ている物も持ち物もどれも洗練されているし、お食事だっていつも素敵なお店で…。なのに、私が作れるものといったら、子供が喜びそうなお菓子か、小物くらい…。あなただって、子供向けのクッキーや、手編みのコースターを貰っても困るだろうなって…」


…そういう意味かと、ロブはなんとなく拍子抜けしてしまう。…確かに手製のお菓子や小物を貰っても、対処に困るかもしれないが…。


だが、お礼というのは、言ってしまえば、気持ちの問題なのだ。相手の迷惑になるだけだという、一見、相手の立場に立っている理屈の裏にあるのは、贈っても喜んでもらえそうもないという本音だろう。要は、ナルシズムが満たされるか否かが重要なのであって、結局、自分本位でしかない。どこまでもマチルダらしいと、ロブは嘆息してしまう。


…確かに自分はいろんな意味で、すれてはいるが、子供向けの手作りのクッキーだって、気持ちがこもっていれば喜ぶかもしれないではないか?


 …が、ロブの冷めきった述懐に気付く筈もなく、マチルダは申し訳なさそうに、俯いた。


ふと、ロブは陰険な気分になって、見るも優し気な笑顔を作った。


「…その気持ちだけでいいんだ、マチルダ…。けど、そうだな…、君がどうしても気が咎めるというんだったら、またディナーに付き合ってくれないかな?」

「え…?ええ…」


マチルダは、戸惑った様子で軽く、二、三度頷いた。


「けど…あなたの行くお店は、高くて…」


マチルダの懸念をロブは笑い飛ばした。


「まさか、君ご馳走になろうなんて、思ってないよ。いつも言っているけど、君とディナーの時間を共に過ごせることが私にとってのご褒美なんだ…」

「そんなこと…」


戸惑った様子のまま、マチルダは俯く。ロブはテーブルに肘をつくと、少しだけ身を乗り出した。


「また、以前贈ったドレスを…着て来てくれるかい?」


…いつ…とは言わず、ロブはそう誘った。マチルダははにかんだ笑みを浮かべると、小さく頷いた。



食前酒で互いに簡単な祝杯をあげ、その後でロブがマチルダのためにウェイターに頼んだのは、炭酸水ではなく、炭酸水で割った、甘めのアルコールだった。酔って意識を失ったマチルダの小柄な体を、軽々と抱き上げると、ロブは準備しておいた部屋へ向かった。


ロブは広々としたダブルベッドに、眠るマチルダを横たえた。だが、ここまで自分で御膳立てをしておきながら、ロブの中に、彼女に対する欲望は芽生えなかった…。薄い照明灯に照らされた、マチルダの無防備な寝顔を、ロブはさしたる感慨もなく眺めた。マチルダは規則正しい寝息を立てて、間違いなく熟睡していた。彼女の寝顔は、普段より幼く見えた。


今夜、彼女を抱くつもりでいた…。無論、彼女にも同意を求めた上で…だ。マチルダ自身が、自分は何も返せないと、気に病んでいたのだ。だから、彼女自身に、与えるものがあるのだということを、わからせたかったのだ。…言ってしまえば、その程度のことの筈だった。だが…。


…エナに裏切られ、センターの医師には見下され、…そして、マチルダはパートナーとの子供を得ようとしている…。それらのことが、何の関係もしていないとは、ロブにも断言できなかった。


そう…思うともなく思いながら、ロブはぼんやりとマチルダの、無邪気で無防備な寝顔を見つめ続ける。見ているうちに、ロブは先日会った、父の顔を思い出していた。


…卵子提供者に会っているのかと尋ねると「いや…」と、短く答えた。その、ぼんやりとした覇気のない老いた横顔を思い出して、ロブの心に不可解な怒りが湧き上がった。怒りの矛先はなぜか、自分の目の前で、安らいだ寝顔を無防備にさらしているマチルダへと向かう…。男の子が欲しいと言いながら、そのために何の努力もしていない、清らかな彼女…。


…自分は今まで随分とこの女のために尽くしてきた…。高価なドレスや衣装を購入してやり、それにあうような装飾品も贈った。高いレストランで食事をご馳走したし、何より、彼女の聞くに値しないような下らない愚痴にも、散々付き合ってきたのだ…。外面や、自分のイメージばかりを気にして、欲しいものを欲しいと言えない彼女の背中を押すためだけに、ただの市販薬を子供ができやすくなる薬だと偽り、彼女にきっかけまで与えようとしている。


だが、マチルダ当人が言っていたように、よく考えてみずとも、この子供の様な女が自分に何をしてくれたというのか?彼女が俺に何を与えてくれたというのだ?間違いなく、この女はジョンとの間に子を身ごもったら、二度と俺の相手などしようとしなくなるだろう。あれこれ理由をつけて、優しく拒絶する彼女のセリフが、今からはっきりと聞こえてくるようだ…。


…今までありがとう、ロブ…。あなたも早く誰かと幸せになって、私はずっと祈ってる…。

その想像のリアルさと空々しさに、ロブは一人で自嘲した。


 当たり前だと思っているのだ…。誰もが彼女のために献身的に尽くすのが…誰もが自分に魅了されると、そう思いこんでいるのだ…。だから、気がつきもしない…。彼女の目の前で笑顔を浮かべる自分が、彼女が見ていないところで、どんな目つきで彼女を見ているのか…。


 横たわるマチルダの体の横に腰を下ろすと、ロブは冷めきった眼差しで、彼女を見下ろした。ふと、マチルダの首を飾るネックレスが、気になってきた。ロブは丁寧に、彼女の首からネックレスを外し始めた。寝返りで、マチルダの美しい肌に傷がつくようなことがあっては、ならない…。


ネックレスを外すと、今度は丁寧に耳飾りを外す。そうやってロブのためにマチルダが、彼女の身を飾った装身具を、ロブはひとつひとつ外していく。最後に少しだけ顔を横に向かせ、髪留めを外した。髪留めを外しても、髪は丸まったままだった。


ロブが手で髪の毛を探るとヘアピンが指に当たった。ロブは納得すると、マチルダの髪を探り始めた。髪をまとめるヘアピンを、一本残らず抜き取らなければならない。彼女のくせのない、長い美しい黒髪の中のヘアピンを探すうち、ロブは奇妙な高ぶりを感じ始める。いや、奇妙というより…むしろ、懐かしい…。


ロブはマチルダの隣に横たわると、片肘を立てて自分の頭を乗せ、空いている方の手で、しつように彼女の髪を探り続ける。何本のヘアピンを彼女の髪から抜き取ったかよくわからない。手を伸ばすと抜き取ったヘアピンを、全てまとめてベッドサイドに置いておく。


そのまま、マチルダの寝顔に視線を戻すと、再び彼女の髪に触れた。…甘い香りに、ふっと惑わされる…。


規則正しい寝息に、ドレスに包まれた胸が上下に動いているのが見えた。白い豊かな胸の、露わな部分に、ロブはそっと唇を寄せた。無論、マチルダに、目覚める気配は全くない。ロブは丹念に唇を這わせながら、露わな部分の少なさに、じれるほどのもどかしさを覚えた。


顔を上げると、マチルダは眠ったまま小さく口を開いていた。ロブは自分の正気を疑いながらも、自分が次にしようとしていることを、止めようとはしなかった。


…これくらいはいい筈だ。それだけのことを、この女にはしてきた筈だ…。ロブは躊躇う自分にそう言い聞かせると、眠るマチルダに、深く濃いキスをした。


…意外なことに眠ったままマチルダは、ロブのキスに応え始める。目を覚ましているのかと訝しく思い、一旦離れて見下ろすが、やはりよく寝ている。ロブは面白くなってきた。彼は再びマチルダにキスをする。そのキスが呼び水になったのか、彼は勘のようなものが戻ってきているのを感じていた。マチルダとキスをしながら、彼女のドレスの中に手を入れると、そのままストッキングに守られた足の上に手を這わせる。手はすぐに下腹部へと到達した。


マチルダは太ももで留めるタイプのストッキングを履いていた。…これなら下着も脱がせやすいが、ストッキングを裂く楽しみが減ったな…と、悪趣味なことを思いつき、自分の趣味の悪さに、一人で笑ってしまう。


ストッキングを裂く楽しみは減ったがこれはこれで都合がいい。…まるで、こちらが抱きやすいように、マチルダ自らが、御膳立てしてくれている様だ…。


…そう、思うと、ロブはますます面白くなっていた。ロブは躊躇うのを完全に止めてショーツ越しに彼女の秘められた場所に指を這わせた。


***


そろそろ日が昇り始める、その時間、ロブはマチルダを彼女の自宅付近まで無人タクシーで送った。家よりかなり手前でマチルダがロブに制止の言葉を掛けた。ロブは逆らわずにタクシーに停まるよう指示を出した。


「結構、歩くことになるけど…いいの?」


思いやりに満ちた笑みを浮かべ、ロブはマチルダに確認を取る。マチルダは強張った横顔を見せたまま、無言で頷いた。無人タクシーの窓には黒いシートが張られており、外からは中が見えなくなっている。それをいいことに、ロブは強張った彼女の顔に手を伸ばすと、意図的に、ゆっくりと丁寧に口づけをし始めた。


マチルダは、当然の様に仕掛けてくるロブのキスに、若干、抗うそぶりを見せた。ロブは執拗にマチルダの唇を求めながら、彼女の過剰な慎重さ…というより、自己保身にとらわれた小心さと狡猾さを、心の中で嘲笑った。誰か…近所の人間に万が一でも見られたら…そんな、ありそうもないことを気にしているのだろう。


マチルダがあまりにもあからさまに自分の弱みをロブの前に晒すので、これではまるで付け入って下さいと言っているようなものだと、ロブは可笑しくなってしまう。ほんの数時間前まで、ベッドの上で自分に抱かれて、官能の声を上げ続けてきた女が、いまさら何を取り繕おうというのか?だが、自分の内に湧き上がる、マチルダに対する嘲笑も蔑みも、昨日までとは少し色彩が異なっていた。


今までは苛立ちと怒りしか感じなかった彼女の愚かさを、今は蔑みながらも愛おしく感じている自分がいた。


…自分でも呆れるほどに現金だと、ロブは自分で自分を楽しく嘲笑した。かすかに抗うマチルダの唇を解放すると、ロブはそのまま耳へと唇を寄せ、彼女の耳を甘く噛んだ。


「…ん」と、マチルダが肩を竦める。ロブはうっとりと微笑むと

「マチルダ…また、こんな風に、会ってくれるかい?」

と、囁いた。ロブの言葉にマチルダの肩がぎくりと動いた。ロブは彼女の耳から顔を離すと、彼女の顔を見つめた。一瞬の沈黙の後、マチルダは「ええ…」と、かすれた声で小さく応じた。



「ご機嫌ですね、スタンリーさん。何かいいことでもありました?」


局内の女性スタッフから、にこやかにそう声を掛けられる。ロブは笑顔で首を傾げると

「…そうかな?」

と、答えた。その女性は小さく笑うと、自分の口元を指で軽く、二、三度叩いた。


「ずっと、口ずさんでおられますよ。ハッピー・ライフ?いい曲ですね」


女性シンガーの歌うありふれた流行歌だ。正確な歌詞など知らないが、あちこちで聞くのでメロディだけは覚えている。ロブもつられた様に笑ってから

「そうか、気を付けないと…」

と、楽しげな表情で神妙な言葉を返す。


「不機嫌なのよりずっといいですわ」

と、女性は応じると、その場を離れようと、体の向きをかえる。ロブは思わず

「…ひょっとして、私はずっと不機嫌だったのかな?」

と、切り返した。女性スタッフは曖昧に首を傾げると

「さあ、どうでしょうか?」

と、答えた。ロブは笑うと

「そういう言い方をされると、とても気になるんだが。一対一でランチに誘うべきかな?」

と、軽口を叩いた。女性は肩を揺らして笑うと

「そう、ここのところ、そういうところがなくなってましたわよ。真面目になられたのかと思ってましたのに…」

と、答えると、今度こそ素早くその場から立ち去った。


…要領よく逃げられてしまったのだが、楽しい気分のままだった。…どうやら、本当に、ここのところずっと、機嫌がよくなかったらしい。…双子のことがあってからずっと、女性とベッドを共にすることも無く…気がつけば半年近くも禁欲生活を送っていたのだ。…機嫌も悪くなるというものだ。


 マチルダと過ごした時間のことを思い出して、気を抜くと再び鼻歌を口ずさみそうになっている。流石に歌い出す前に口を噤んだが、そうすると今度は自然と頬が緩んだ。…我ながら、締まりがないことこの上ない…。初めて女性と寝た、学生の頃に戻った気分だった。


…禁欲生活はあまり長く続けるものではないらしい…。


 マチルダのパートナーのジョン・リューは今日の夕方には、出張から戻ってくる予定になっている。彼女は首尾よく彼を誘えるだろうか…。主のいない作業スペースのドアを、見るともなしに見つめながら、ロブは腕組みをして、自分の浮かれた気分に自ら進んで水を差してみた。自分の様に、たった、半年の禁欲生活で調子を崩す男もいれば、八年もパートナーと夜を共にしないで、平気な男もいるのだ…。そう、思ってから、ロブは少しだけ眉を寄せた…。


これまで自分は、マチルダの言うことを、素直に信じていた。だが、鵜呑みにし過ぎていたかもしれない。ロブの内側に、浮かれた気分とは別に、マチルダという女性に対する疑念が、明確に生じていた…。


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