3-15 はかり難く御し難い(11)
今回もR-15…です、多分。
窓の外を流れ得る夜景をぼんやりと眺めながら、まだ少し痛む頭で、考えたくなくても浮かび上がってくるのは、先ほどのロブから聞かされた話だ。
…ハリー・ヘイワードに娘を連れて郷里に帰る様に勧めたことくらいだ…。
いかにも楽し気に、ロブはウォルターにそう言った。もしそれが事実なのだとしたら…間違いなく事実なのであろうが…オーランドがロブを受け入れるわけがない。
エナの精子提供者が不在でやりやすかったと、なんでもない事のようにロブは付け加えていたが、恐らく確信犯だ。ロブはあえて、オーランドの不在時を狙って、ハリー・ヘイワードに混乱を引き起こす様、唆し、娘を餌にしてエナを釣らせようとしたのだ。エナがそんな勧めにのる筈がないと分かった上で…。
ウォルターの見たところ、オーランドはアナベルを溺愛していた。ロブがどういうつもりでハリーを唆したのかは知らないが、その事実だけでも、充分、オーランドの不興を買ったことは間違いない。
それに、どさくさに紛れる様に、彼はジョンのことを言っていなかったか?
…マチルダのお腹の中の子供が、俺の子かジョンの子かを、彼と賭けた時より、余程勝算の高い賭けだった…
そのセリフで思い出したのは、かつてジョンから見せられたジョンと自分の遺伝上の関係を示す、遺伝鑑定書だ。何故、あんなものがあるのか、ウォルター自身、後になって不思議に思った。
だが、マチルダのお腹の子供が、ロブの子かジョンの子か、調べないかと、ロブがジョンに持ち掛けたのだとしたら…?
あり得ないほど非常識でバカバカしい話だ。だが、言い出したのがロブだとしたら、全くないとも言い切れない。
そこまで思って、ウォルターは軽くなった筈の嘔吐感に、再び襲われる。
…ジョンは、一体、どんな気持ちで…。
考えたくはなかった。どれほど屈辱的だっただろう?おまけに結果はこれだ。妻の裏切りを、その結果を、彼はどんな気持ちで…。
考えるうち、確かに救い上げられたと思っていた奈落に、再び落ちていくような感覚に見舞われる。
…昨日、微かに与えられたと感じた曙光が、見る間にその光を失っていく…。
無駄なのだ。何をしたところで…こんな風に生まれた自分が、何かを手に入れようだなんて…。希望など抱いたから、失望するのだ…。諦めていればいいのだ、どうせ何も手に入らない。だから、諦めて、しまえばいい…。
夜道を走る車内で一人、ウォルターは出口のない鬱屈に再び足を取られ、一人でそれを発酵させ続けた。
***
月曜日の学校で、アナベルは周囲を見回した。もはや彼の姿を探してしまうのは、彼女の習慣になっていた。同じクラスの筈の数学で、ウォルターは姿を見せなかった。アナベルは、不安げに、無駄に周囲を見渡してしまう。何度見ても、彼の姿は見つからなかった。ルカにも尋ねたが、彼も今日はウォルターとは会っていないらしい。
ナイトハルトやアルベルトの話だと、ウォルターは土曜日に二人と会ったらしい。ナイトハルトは意地の悪い事しか教えてくれなかったが、アルベルトは、かなりまともに、ウォルターの現状を教えてくれた。…あまり、体調がよくなさそうだったということも含め…。
そんな話を昨日聞いたばかりだったので、姿が見えないと妙に不安だった。アナベルは昼休憩と同時に事務局まで確認に行ってしまう。気になることは早々に解決しなければ、勉強にも触りが出るというものだ。
事務局で確認したところ、ウォルター・リューは、本日、体調不良のため、欠席する旨、当人からとの連絡が入っているとのことだった。事務局を後にしたアナベルはロッカーゾーンに向かい、リュックを引き出すと、ランチのため大講義室に行く前に、携帯電話を取り出し、初めてかける番号に電話を掛けていた。さほど待たされることなく、数コールで相手が通話に応じた。
「あの…」
『どうした?』
問いかけが早い。関係を円滑にするための雑談の類に意義を見出さないタイプの人だということは、前に会った時にも思ったことではあったが…。
「あの、急にすみません」
『構わない。ウォルターのことか?』
アナベルが尋ねる前に、通話相手…サラマンダーの方が、察しよく問い返す。アナベルは電話に向かって頷くと
「今日、お休みって…あの、体調不良って、大分よくないんですか?」
アナベルの問いに、相手は数分黙った。
『いや、深刻に心配しなければならない容態ではない。話すか?』
「……え…っと…」
急な申し出にアナベルは電話口で露骨に狼狽えてしまう。
『今はまだ寝ているかもしれないが…』
「あの!だったら、大丈夫。その、水曜日、SATあるし、どうしたのかなって…」
『ああ、聞いている。それもあって、大事をとらせた』
「……」
…なんだろう、保護者みたいになってないか?
『気になるなら来ればいい。今なら奴は不在だ』
「……え?」
意外な言葉にアナベルは思わず、間の抜けた声を返してしまう。
「不在?…って、サイラス…のことだよね?」
『ああ、俺が迎えに行く予定になっているが、お前が来ると言うのなら鉢合わせしないよう、時間を調節しよう』
「えっと、それってどういう…」
『…お前は詳しく聞かない方がいい』
…益々気になるのだが…。
だが、結局のところ、サイラスの不在理由に関して、アナベルは尋ねないことにした。そんなことより、“来ればいい”というセリフの実現性の方が重要だった…。
*
何週間ぶりになるのかな…。
ウォルターの家の前に立ち、アナベルは感慨深くため息を吐く。実際のところ、この場所でサイラスと遭遇したのは二週間前のことだ。これまでだって、ウォルターに色々こじつけられて、二週間以上この家に来なかった時期もあった。そういう意味で言えば、二週間は長くはないのだろう。だが…。
アナベルは、かつてないほどの緊張感で、家のインタフォンを押した。待つほどもなくドアが開く。アナベルは大きな両目を見開いて、開くドアを凝視した。…が、まあ、半ば予想した通り、彼女を出迎えたのはサラマンダーだった。
「来たか」
「うん…」
「今はまだ、寝ている」
「…そう…か」
「起こすか?」
玄関から廊下へとアナベルを招き入れながらサラマンダーが問いかける。アナベルは普段の癖で、周囲を伺ってしまう。…予想はしていたが、室内はやはりきれいだった。アナベルはこの家における、ハウスキーパーとしての自分の存在価値について、何度目かになる煩悶をこりずに味わってしまう。
「…いや、いいよ…」
「そうか、俺は今から出るが、戻る前に連絡を入れるようにする」
「うん、ありがとう。それまで起きなかったら諦めて帰る」
「…そうか…」
「どちらにしてもSATが終わったら、一度落ち着いて話さないとって思ってたんだ」
アナベルが静かにそう言うと、サラマンダーの目元が緩んだ。
「そうか、昨日の朝、ウォルターも似たようなことを言っていた」
「そうなの?」
「ああ…では、俺は出掛けるが…」
「うん、大丈夫。気を付けてね」
アナベルはそういうと、静かな微笑と共にそう言った。
*
玄関でサラマンダーを見送ると、アナベルは踵を返す。ウォルターの部屋の前に立ち、ノックをするが予想通り返答はない。アナベルはため息をつくと、開閉スイッチを押して部屋へと入った。
さして広い部屋でもない。壁際に置かれたベッドに、学習机、空いた壁に設置された棚は、ほとんど書籍で埋まっている。それが全部だ。室内で一番の専有面積を誇るベッドに、ウォルターは横になっていた。ベッドサイドには愛用の眼鏡。規則正しい寝息で、ブランケットが微かに上下に動いている。
…何度か、目にした光景だ。
アナベルは静かにベッドに近づいた。眼鏡をかけていない彼の寝顔を見たのは初めてではない。けれど、こんな風に、彼の顔を、見るつもりで見つめるのは、初めてかもしれない…。
アナベルは少し身を屈めると、ブランケットの上に静かに手を置いてから、彼の顔を見つめた。彼の寝顔は落ち着いていて、健やかだった。そのことに安堵しながら、アナベルは空いている方の手を彼の額へ伸ばした。
…熱があるか、ないか…それを知りたいだけだ…。
誰に向かってか心の中でそう、言い訳し、アナベルはゆっくりと手を伸ばす。自分の心臓の音がやけにうるさく耳に響いて、息をするのがひどく難しいことに思え、思わず息を詰める。伸ばしかけた自分の指は宙で動きを止め、何故か彼女は、その指を握り込んだ。
…おかしい…こんな風に熱を測るのは何も初めてではない…何に緊張して…。
自分の状態に困惑し、ややぼんやりとしていたら、不意にその指が掴まれた。条件反射の様に目を見開くと、すぐ目の前、眠っている筈のウォルターの冷ややかな眼差しと視線がぶつかった。
…二週間前のあの日、あの衝突以来、度々目にするようになった、アナベルの苦手な、冷ややかな眼差し…。
アナベルは仰天して身を起こし、止めていた呼吸を再開する。思いもかけず、大きな深呼吸になった。咎める様な探るような…傷ついた様な、ウォルターの眼差しから逃れようと、彼女は勢いよく顔を背けたが、それでも、掴まれた指を引き離そうとはしなかった。
「あ…あの…」
指を掴まれつつ顔を背けた、妙な姿勢で、アナベルは切り出した。いまや動悸は最高潮に盛り上がっており、呼吸困難気味な上、耳鳴りまで起き始め、呟きを口にするのすら一苦労だ。
アナベル懸命の一言に、ウォルター側の空気は凝固したままだ。アナベルは、ゆっくりと顔を彼の方へと向ける…と、指が離れた。
…えっ…と、思う間もなく、上半身を起こしたウォルターに、ベッドの上に置いていた腕を取られ、アナベルの上半身はやや強引に引き寄せられた。唐突なその動きに、バランスを崩しかけたアナベルは、咄嗟に片膝をベッドに乗せた。
背中はがっちりとホールドされ、顎で肩を抑え込まれる。彼の髪の毛が首筋に当たり、それだけで、ぞくりと、アナベルの官能が刺激された。もっとも、アナベルにはそれが何なのかわからない。呼吸困難も手伝って、軽いパニック状態だ。
「…えっと、…ううぁ…」
「……なんで君、ここに…?」
「……は…?」
「来るなって、言ったよね…」
彼が話す、その振動すら敏感に捕らえてしまうほど、アナベルの感覚は鋭敏になっていた。背中に回されたウォルターの腕が、熱を持っているように感じられるのは、多分、アナベルの意識過剰によるものだ。にも拘らず、その熱で、アナベルの精神は少しだけパニックから解放される。
「…具合悪くして、休んだって聞いて…。大丈夫か…?」
言いながら、アナベルは彼の背中に、片腕を回した。無意識にその手で、彼の背を撫でてしまう。肩にあるウォルターの口から、重い吐息が漏れた。
「…今更…何を言ってるの?」
「…心配…だったから…」
「顔も見たくないって…」
「だから、あれは…」
不意に双方の動きが止まる。やけに長い沈黙に感じられたが、実際にはほんの数秒のことだったかもしれない、硬直した事態を先に動かしたのは、アナベルだった。
「……嫌になったのはお前の方じゃないのか?」
「…え?」
何が意外だったのか、ウォルターは彼女の肩から顔を離した。まじまじとアナベルの顔を見つめるが、メガネをかけていないためか、普段より距離が近い。
至近で、知っているけど見慣れない端正な顔に見つめられ、あまりの居たたまれなさにアナベルは咄嗟に顔を背けてしまう。
「…諦めるんだろう?全力で。そう、言ってたって…」
ざわりと、空気が荒んだ。アナベルは、はからずも自ら地雷を踏んでしまったことに気がついたが、気づいた時には手遅れだった。
ウォルターから顔を背けていたため、アナベルの耳は、丁度ウォルターの顔の真正面にあった。彼は目の前の耳に向かって小さな声で囁いた。
「……誰が言ってた…それ」
「え?」
耳元にかかる吐息に、彼女はぎくりと肩を震わせる。囁きから身をかわす様に、アナベルは首を竦めてしまう。
首を竦ませたまま、頬を赤くして、眉間に皺を寄せ、双眸を微かに潤ませて、自分を見つめるアナベルを目にした途端、ウォルターの中でくすぶっていた衝動が、静かにはじけた…。
自身の体を覆う邪魔なブランケットをはぎ取ると、ウォルターは中腰になり、アナベルの腰と脚裏に腕を回すと、彼女の体を一瞬抱き上げた。予想外の動きにバランスを崩したアナベルの体は持ち主の意思とはかかわりなく、ベッドに倒れ込んだ。
…咄嗟に閉じた目を開くと、自分の上に、ウォルターがいて、彼の背後に部屋の天井が見えた。
…あれ…なんで?と、アナベルは思った。
「…いつも思うけど、君、どうして抵抗しないの?」
苛立った様なウォルターの呟きは、アナベルの立場からすると、理不尽極まりない言いがかりだ。
現在アナベルはウォルターのベッドに横たわっていたが、別段具合が悪いわけでもなんでもない。そして、体調不良で学校を欠席していた筈のウォルターは、アナベルの脚を挟む様にベッドの上で膝をつき、彼女の手首を掴んで張り付ける様に、彼女の顔のすぐ横に置き、上から彼女を見下ろしていた。
…こんな体勢にした当人が何を言っているのか?そう、思うのに、ウォルターの変に据わった眼差しを直視できず、顔を背けて
「そう、思うんだったら、ど…どければいいだろう?」
と、言い返すが、我ながら腹立たしいほど弱々しい。アナベルの声の震えに気付いたのか、ウォルターはうっすらと笑う。
「なんで?」
「な、なんでって…」
「嫌だっていったら…どうする?」
「どう…って…」
え?どうなるの…?と、アナベルの方こそ訊き返したくなった。ポカンとした彼女の表情に、ウォルターは一瞬、淫靡な笑みを浮かべた。そのまま、ゆっくりとアナベルの手首から手を離すと、彼女の髪を撫で始める。
「…おおお、おい?」
「……うちには来るなって…君にはきちんと伝えていた筈だ…」
「いや、サイラスはいないって、聞いたから…」
「サイラス…?」
アナベルのセリフにウォルターは何故かくすりと笑った。そのままふんわりと、首筋に顔が下りて来る。やわらかく首筋を食まれ、アナベルは「ひゃん!」と、妙な声を上げてしまう。
自分が出した声が自分で信じられず、慌てて自由になった片手で口をふさぐが、ウォルターは顔を上げ、目を見開き、驚いたような表情でアナベルを凝視した。
「…今の…」
「わあああーー!だ、黙れっ!誰のせいだと…」
と、アナベルは思わず声を上げてしまう。ウォルターは
「ふうん…」
と呟くと、ふっと笑い、あいている方の手で、アナベルの手首を再び掴むと、それを持ち上げた。
……次は、何だーーーー?!
アナベルの混乱など知ったことではないのか、はたまたそれを把握した上で楽しんでいるのか、ウォルターは目を閉じて、彼女の手の平にキスをおとした。
…たった、それだけのことで、アナベルの全身にびりびりとした震えが走る。
…やばいやばいやばいやばい…
何が“やばい”といって、いつもであれば、どんなに過酷な状況であろうと、相手の方が圧倒的に強かろうと、自分の身を守るためなら敵わないなりに反撃を諦めなかった彼女の闘争心が、闘う気力をそがれて、みっともなくとも、逃げることを躊躇わなかった、彼女の遁走本能が、今、この場では、可笑しくなるほど、発動しないというこの事態だろう。
ウォルターのゆっくりとした、静かな仕草の一つ一つに過剰に反応し、一々目を瞑り、顔を赤くして、声を殺して殺しきれず、小さな声を上げてしまう、このていたらく。
…抗うどころか、自分は…このまま彼の熱に、のまれてしまいたいと…。
アナベルが泣きそうになりながら、目を開くと、ウォルターはうっすらと微笑み、見せつける様にアナベルの人差指の爪を軽く口に含むと、指の腹を舌先で舐った。
指先に感じる湿った感覚と、意味不明にも淫靡なその光景に、アナベルは思わず喘ぎ声を上げてしまう。
…ななな、なんで、爪…?
目にした光景が理解出来ず、それを拒否したくて、彼女は再び固く目を閉じる。ウォルターは遠慮なく、彼女の指を一本ずつ口に含んでいく。それに対してアナベルは、荒くなる呼気を抑えるのに必死になって、手を振りほどくことも出来ない。彼女がそんな風だったので、ウォルターは、人差指から小指までゆっくりと丹念に味わってから、彼女の手を離した。それから、アナベルの頬から髪を撫ではじめる。
「本気で抵抗しない気?」
ウォルターは、アナベルの頬と共に髪を撫でながら、冷ややかにも聞こえる声音で妙な確認をとってきた。アナベルはぶんぶんと首を振った。その様子に、ウォルターが再びクスリと笑う。
「抵抗しないんだったら、好きにさせてもらうけど…」
アナベルはようやく目を開く。
「好きにって…何…」
「……本気で訊いてる?」
離れていた顔が再び近づく。思わず顔を背けると、耳たぶをはまれた。驚愕のあまり再び声を上げそうになって、アナベルは唇を噛みしめた。が、そのまま、湿った熱が耳の中をまさぐり始める。
…な、何してるんだーーーっ?!!!
「…ふあっ!ぁん、んん?…ちょ…、まじで、やめ…」
アナベルの声にウォルターが耳元でくすくす笑う。
「くすぐったいだけ?それとも…」
「…へ?」
「もしかして、感じてる?」
……カンジテル…って、なんですか?




