3-14 東海岸の海(11)
…限界だ…と、思った瞬間、視線の先、目指すドアが静かに開いた。
それなりに眩しい外の光を背景に立つのは、すらりと高いシルエット。帰宅したての家主は、姿を見せた瞬間から、不機嫌そうに眉を寄せていた。
「…ウォルター…」
気付くと勝手に、アナベルの口から名前が零れる。ウォルターは愛用のショルダーバッグを無造作に廊下に置くと、無言で入って来た。彼は床に這いつくばる自分のハウスキーパーには一瞥もくれず、アナベルの肩を掴んでいるサイラスの肩を掴むと、彼女の肩から彼の腕を引き剥がし、相手の体を引き起こすと、問答無用で殴りつけた。手加減なしの右ストレートは、完全に無防備だったサイラスの頬に、見事にヒットした。
「でっ…?で、でぇ??」
四つん這いのまま振り返って、二人の動きを見ていたアナベルはいきなりの展開に、珍妙な声を上げてしまう。ウォルターがサイラスを殴った。…それも、拳骨で…。
殴られたサイラスの体は廊下の床に叩きつけられた。それでも、納得がいかなかったのか、ウォルターは脚を振り上げた。…蹴る気かっ?!と、咄嗟に思ったアナベルは思わず、ウォルターの腰にタックルをかましてしまう。
背後からの急な攻撃に、ウォルターは無言で振り返った。余程驚いたのか、無言のまま目だけが大きく見開かれている。
「そ、そいつ…心臓!これ以上やったら、お前…」
腰にしがみつき、ウォルターを見上げながら言い募るアナベルは、ある意味普段通りだ。その時の彼女が考えていたのは、一週間前の自分の剣幕を目にした時、セアラもルーディアもこんな気持ちだったのか…という頓珍漢な回想だった。自分以上に激昂している人間がいると、側にいる人間は逆に冷静になれるというのは本当だ…。
ウォルターは、見開いていた目を細めると、自分の腰を掴む彼女の肘を無言で掴んだ。
「…え」
掴んだ肘を持ち上げるようにして無理やり立たせると、ウォルターは引きずるようにして、アナベルを家の外へと連れだした。無論、床に転がるサイラスはそのまま放置である。
外に出るなり、家の壁にアナベルの背中を押し付けると、ウォルターは彼女の前に立ち、上から下まで怒りを孕んだ眼差しで彼女の姿を観察する。それから深々と息を吐くと、顔を背けた。
「なんで来たんだ?」
唐突にウォルターがしゃべった。
「…なんでって…」
「言っとくけど、“自転車で”とか言ったら、本気で怒るけど?」
…いくらなんでもこの状況で、そんなくだらない言い逃れをする気はなかった。というか、思いつきもしなかったのだが…。アナベルは自分がそう返されたかのように、イラッとした。
「だれが、そんな…」
「ルカから聞いていた筈だ。サイラスがいるのをわかってて、一人でのこのこやってきて…」
「…のこのこってなんだよ?」
アナベルの返答に、ウォルターは苛立った様子で顔を向け、
「のこのこはのこのこだろう?なんだよ、さっきの体たらくは?僕が間に合わなきゃ、どうなっていたか…」
と、つけつけと言い返す。
「…な?!」
「だから、来るなと言ったんだ」
「だからじゃないだろう?大体私は、お前から何も聞いてない!」
「何もって…なんのことだよ?」
「そんなに言うんだったら、どうしてサイラスのことなんか引き受けたんだ?断ればよかったじゃないか?」
アナベルが歯軋りしながら睨みつけ、そう言い放つと、それまでアナベルを睨んでいたウォルターの目が、すっと逸れた。
「…そのことか…。オーランドから、聞いたんだろ?」
投げやりに同意され、アナベルは息を飲む。
「…あんな…じゃあ、本当なのか?お前、ずっと、センターの事、ハッキングしてたとか…」
アナベルの言葉にウォルターは顔を背けたまま酷薄な笑みを浮かべる。
「さあ…どうだろう?君がそう思うんだったら、そうなんじゃない?」
「私が思うんだったらって…」
「オーランドの言うことを信じたいんだったら信じればいい。サイラスを引受ける人間が他にはいないんだろう?僕ならおあつらえ向きだ…」
「…お前、何言って…」
「あれでも、兄だからね…ルカと違って、厄介者扱いだけど…」
「だからってなんでお前が…」
「だから、オーランドから聞いてるんだろう?これ以上、何の確認が必要なんだか…」
「お前、ずっと知ってて…なんで、今まで黙ってたんだよ?!」
…何故?…理由は簡単だ。あえて言うまでもないほど明白で…。
嫌われたくなかったからだ。…真面目な彼女があのことを知れば間違いなく軽蔑するだろう。せっかく、以前より心を開いてくれているのに…。そう思うと、恐くて何も言えなかったのだ。こんな形で知られることになるくらいなら、もっと、違う手段もあった筈なのに、まともな判断さえ出来なくなっていた…。
「だったら、なんで、あんなこと言ったんだ!?」
………
「あんなこと?」
見ると目の前のアナベルは泣きそうな顔になっていた。
「…あんなことって…」
「ずっとハウスキーパーでいて欲しいって…だから、お前が、そう言ったから…」
泣き出しそうな悲鳴のような声でそう言われて、ウォルターは返す言葉を失った。あの時、ウォルターが本当に伝えたかったのは、ずっとそばにいて欲しいという、シンプルだけど強力な言葉だ。その言葉を口にする勇気がなくて、ああいう言い方をしただけで…。
彼女が、自分の言った逃げの一言に、それほど心を預けているとは、ウォルターは思ってもみなかったのだ。
「あれは…」
「嘘だったのか?サイラスを預かるから、家には来るなって、そういう事だよな?もっと早くからわかってたのに、なんで、あんなこと言ったんだよ?」
「……」
「私やミラルダが、お前の家に行くのが、迷惑だったのか?」
「違う…」
「なら!あいつがどんな奴かわかってて、どうして、断らなかったんだよ?」
「そんな、だから…」
「さっきだってあいつ、お前の部屋に…その…あの、女性とだな…」
「…へえ…それで、君、床に這いつくばっていたってこと?」
「…ち、違う!!私は、関係なくて…!」
「彼が見知らぬ女性と何をしようと知ったことじゃないね」
「…見知らぬって…お前の部屋だぞ?お前、平気なのか?!」
「……」
平気ではなかったのだろう。何を思い出したのか、ウォルターの表情が益々強張った。
「嫌なんだったら、なんで、追い出さないんだ?」
「だから、出来ないから…」
「あいつが碌でもない人間だって、お前が一番わかってるんじゃないのか?」
「…碌でもないって…」
「だって、そうじゃないか。昨日、この家に来たばかりなんだろう?なのに、もう、女性を連れ込んで、お前の寝室であんな…」
「…何してたの?」
「え…?」
やけに冷めた表情で問われ、アナベルは混乱した。先ほど目にしたばかりの光景がフラッシュバックのようによみがえる。
女性の膨らみを弄ぶ、無造作に伸びた腕、豊かに揺れる栗色の髪とのけぞった白い背中…。
艶めかしいその光景を思い出すついでの様に、大層迷惑なことに、他にも色々、思い出したくないことまで勝手に再生されてくる。のしかかる重みに、きしむ肩の痛み。目の前にちらつく、刃物の光…。そして、先ほど見たばかりの、優し気な微笑みに、タブーを悦ぶ、悪びれない言葉…。
………息が苦しい………。
助けを求めるようにウォルターを見るが、彼はぞっとするほど冷ややかな目でアナベルを見つめていた…。思わず目を逸らし、震えながら彼女は口を開く。
「…それは、その…。つまり、さっきの、その…その人だけじゃなくて…他にも、色々。…あいつ、セントラルシティに戻るなり、セアラに…。先週だけじゃない!…あいつが、セアラに何したか、お前、知らないのか?お前、本当に、奴の事、何もわかってないんだろう?!」
次第にトーンが上がって行くアナベルの口調に、ウォルターはこれみよがしなため息を吐く。
「…分かってないって…君だって、分かってないんじゃない?…セアラ・アンダーソンはサイラスから、そうされることを望んでいたんじゃないの?」
「…は?」
「君の言う、“さっきの女性”だって、誰だか知らないけど、別に嫌がってたわけじゃないんだろ?ようは女なんて、どうせ…有耶無耶だろうが何だろうが、やってしまえば同じ……」
淡々と吐き出される蔑みの言葉に、アナベルの頭は真っ白になった。
…他の誰がわかってくれなくても…彼だけは…。
「君だって、結局…」
最後まで聞きたくなかった。アナベルは腕を振り上げると、ウォルターの頬に振り下ろした。パンと、乾いた音がして、気がつくと、彼の上半身が少し傾いでいた。
「…お前なんか、大嫌いだ…」
絞り出すようなアナベルの言葉に、ウォルターは打たれた頬を押さえ、驚愕の余り目を見開いたまま顔を上げた。目が合った途端、彼女が叫んだ。
「二度と顔も見たくないっ!!!」
そう言われて思わず見つめると、強烈な拒絶の言葉を叫んだ当人は、自分の方が傷ついた…今にも泣き出しそうな顔をしていた…。
くしゃりと、顔を歪めると、アナベルは歯を食いしばったまま、何も言わず、身動き出来なくなってしまったウォルターを置いて、わき目も振らず、自分の自転車の方へ歩いて行った。
*
打たれた頬を押さえ、道の向こう側に姿を消したアナベルの残像を家の庭先でしばらくぼんやりと見送ってから、ウォルターは緩慢な動きで家の中へ入った。玄関先に投げ出されたままの自分のバッグを拾い、自室へ入向かう。廊下にはすでにサイラスの姿はなかった。
…あんな奴、どうでもいい…苛立ちすら覚えぬまま、脳内でそう呟いてから、ウォルターはひらきっぱなしの部屋へと入る。入るなり眉間に皺が寄る。
…見ると、床には、見慣れない色の大きな紙袋が投げてあり、袋のそばには何故か、女性物の下着が放り投げられていた。母はいないウォルターではあったが、姉はいた。当然、その下着の用途は知っている。つい先ほど聞いたばかりの、アナベルの言葉を思い出し、何故だかそれに触るのも嫌で、ウォルターは空に向かって息を吐く。
過剰反応だという自覚はあった。だが、昨日サイラスに聞かされたばかりの話に、ロブの言葉、…中等校のころにジョンから聞いた話まで、一斉に脳内で再生され…うんざりと、ウォルターは机の椅子に腰を下ろした。
…シーツを…洗ってやる!それだけ、確固たる決意を固め、座ったまま彼は項垂れた。
…お前なんか、大嫌いだ…
…二度と顔も見たくないっ!!!
言われて…当然だ…。そう言われても仕方がないほどひどいことを、自分は言ったのだから…。
砕けて、粉々になりそうな心で、ウォルターは無理やり自分に言い聞かせる。
…これでよかったんだ…。もう二度と彼女はこの家には近づかないだろう…。今回は大丈夫だったが、サイラスの質の悪さは自分の想像以上だったようだ…。もし、彼女に何かあったら…だから、これで、いい…どうせ、遠からず、こうなったんだ…。
思う端から蘇るのは彼女の笑顔だ…そして、嫌いだと叫んだ悲痛な表情…知っている、あれは泣き出す寸前、手前の顔だ。…ぎりぎりまで、我慢して…。二度と傷つけないと、間違いなく誓った筈なのに、結局、こうなるのか…。
…もう…どうでもいい…。手に入れたいなんて、思ったのが間違いだったんだ。最初から全部…。
救いを求めるように視線を上げる。上げた先にあったのは、棚の上に置いてある、小さな水色の惑星だ。
この部屋で、あの星に見惚れていた…。
…きれいだ…
心からの澄んだ感嘆の声…見惚れる眼差しが奇麗で切なくて、目が離せなくなった…逃げられないと、あの時、そう、思った。…それでも、まだ、抗った。…誰かに焦がれる資格なんてないと…そう、思っていたのに…。
虚ろな眼差しで自作の惑星模型を眺めていると、開きっぱなしのドアに影が差す。見る気にもなれなかった…。
サイラスは椅子に座るウォルターを一瞥すると、断りも入れずに室内へと入って来た。何の反応も見せないウォルターの前で腰を屈めると、散らかっていた女性用の下着を無造作に紙袋の中に突っ込んだ。目の前で動かれ、見たくなくとも異母兄の端正な横顔が目に入る。
頬は赤黒く腫れ、口の中を切ったのか、唇の端も赤くはれ、少しばかり血がにじんでいた。ウォルターは少しだけ眉を寄せ、自分の所業の結果から目を逸らす。床に散らばるものを拾い終えたサイラスは、上半身を起こすと、椅子に座るウォルターを見下ろして、手にしていた紙袋を突き出した。
「…おい」
不躾な呼びかけに、ウォルターは眉を寄せながら顔を上げた。
「…さっきのバカに渡しとけ…」
「…何…」
「ブラとショーツだろ?ブラの方は使用品だ。…部屋の使用料に、貰って…」
サイラスの提案を遮るように、ウォルターは立ち上がった。
「僕が訊きたいのは、その紙袋の中身じゃない!あと、君が連れ込んだ女性の使用品もいらない!その他の使用料も無論、不要だ。それ以前に、二度とこの部屋に入るな!」
「…へえぇ…」
「外で何をしようと勝手だ。けど、家の中で問題を起こすなら、君のことは引き受けられない。オーランドにそう伝える。賃料を払っているのはロブでも、今この場で、家の主は僕だ。従ってもらう」
「…じじぃに脅されてるんじゃないのか?」
「知ったことか!」
吐き捨てるようにそう言うと、ウォルターは再び椅子に腰を下ろした。正面から対峙していると、手が出やすくなるという自覚があった。ウォルターの苛立った表情に、サイラスは楽し気に目を細める。
「へえ、そうなんだ?」
「…その紙袋の中身はわかった。…で、何をしたんだ?」
「何って…」
サイラスの楽しげな表情に、ウォルターは訊き方を誤ったことに気がついて、急いで言い直す。
「君が女性に何をしたのかはどうでもいい。…バカに渡せってのは、ひょっとしなくてもアナベルのこと?彼女に何をしたんだ?」
「…気になるのか…」
勿体ぶった言い方に、ウォルターはサイラスを睨むと、あからさまに舌を打つ。ウォルターの反応にサイラスは楽し気に肩を揺らす。
「…さあ、何かな?当ててみろよ?」
「…大方、連れ込んだ女性とベッドでよろしくやっているところをアナベルがのこのこやってきた…で、その女性と遭遇したとか、そんなところだろう?ひょっとして、セントラル校の生徒だった…とか?」
さも嫌そうな早口で、ウォルターは己が推論を並べ立てた。サイラスは、幾ばくか目を瞠った。
「見てたのか?」
「じゃあ、そうなんだ?…アナベルは相手を知っていた?違う?」
「見てたのかっ?!」
…なかなか新鮮な反応だ…。ウォルターは状況も忘れてしばし、呆気にとられる。妙なところでサイラスは素直だった。…ひょっとしなくても、実はルカの方が、可愛げがないかもしれない。
「ああ!あのバカから聞いたのか?」
サイラスの返答に、ウォルターは再び舌打ちした。
「…君が自分で言ったんだろう?アナベルに渡しておけって。言っておくけど彼女は何も言ってない。その相手の名誉にかかわることだと思ったんじゃない?」
「…へぇ、意味の解らない理屈だ…」
「君にはそうだろうね。まあ、そういうことなら預かるよ。勝手に捨てるわけにもいかないし。…それで…」
「ああ、あのバカのことな」
…“バカ”ではない、と言いたかったが、サイラスに彼女の名前を呼ばせるのも嫌だった。結局訂正しないで、続けさせる。
不快気なウォルターの顔を楽しげに眺めながら
「バカには今回、何もしていない。しようと思ったら、滅茶苦茶びびって、その挙句、しゃがみ込んで這いつくばって逃げ出しやがった」
薄い笑みを浮かべ、ぬけぬけとサイラスはそう言った。
「…そしたら、お前が登場した」
「…“今回”…?」
抜け目なく聞き咎めると、ウォルターは眦をひくつかせる。もともとさしてよくない目つきが益々悪くなってしまう。サイラスは楽し気に片目を細める。
「…なんだ、お前…聞いてないのか?」
「……“前回”…何をした?」
サイラスは記憶をめぐらせるように、視線を彷徨わせる。ウォルターは相手に掴みかからないように、自制心を総動員した。
…自ら握った拳で、苛立つ自分の太ももを押さえつける。その様に、満足そうにサイラスは口角を上げる。
「さあ…バカに、訊いてみなよ…」
「……」
「まあ、言わないと思うけど。死ぬほど恥ずかしがって……」
その言葉の途中で、ウォルターの堪忍袋の緒が切れた。彼は再び、勢いよく立ち上がると、サイラスの胸倉を掴み、その背中を部屋の壁に押し付けた。そのまま、息を吸い、口を開くが結局何も言えず、歯を食いしばったまま、至近距離で異母兄を睨みつける。
メガネの向こう側の、こちらを射殺しそうな眼差しに、サイラスは柔らかく微笑んだ。胸倉を掴まれたまま、何を思ったか、サイラスはウォルターの後頭部に手を回し、顔を屈める。
「こう…」
と、囁くと、サイラスは胸倉を掴まれたままの体勢で、ウォルターの首筋にキスを落した…。
一瞬、硬直してから、ウォルターは大慌てで手を離す。二、三歩後退すると、彼は離した手をキスされた首筋に押し当てた。表情はなく、無言であったが、顔色だけが青くなっている。
わかりにくくも激しく動転している弟の様子に、サイラスは言葉を続けた。
「…てなことを、したんだろう?お前が…」
「………は…?…え、は…?」
…麗しの兄上は…母親違いのこの人は、一体何を言っておられるのか…?
ウォルターの呆然とした表情に、満足そうな笑みを浮かべると、サイラスはそのまま部屋から出て行った。




