3-14 東海岸の海(6)
二人のやり取りと、テーブルに並んだパウンドケーキやシフォンケーキ、マドレーヌなどのお菓子を見ながら、アナベルは
「あの、ありがとう…。手伝いもしなくて…」
と、客としては妙なことを言い出した。
マリアンヌはアナベルの言葉ににっこりすると
「まあ、こちらこそ、お気遣いありがとうございます。…もう少し手早くできればよいのですが、すっかりお待たせして…」
「そんなことないよ。こんなにたくさん…。それにどれも美味しそうだし…ひょっとして、手作り?」
アナベルの素朴な問いに、マリアンヌは奥ゆかしく頬を染めた。
「ええ、まあ、下手の横好きで、お恥ずかしいのですが。…お口にあえばいいのですが」
「マリアンヌの作るお菓子は、いつもどれも美味しいよ」
と、お菓子好きのルカが、朗らかに請け合った。
「へええ」
アナベルは素直に感嘆した。…掃除と、最低限の料理…しかも大味らしい…しか作ってない自分としては、何やらいろいろ見習わないといけないような…。
なごやかな雰囲気に、ユキヤは微笑み、オーランドは…
「コホン…」
と、小さく咳払いをした。マリアンヌは、はっとした様子で
「では、失礼いたします…」
と、小さく頭を下げると、そそくさと退室した。わざとらしい咳払いに、アナベルは口を尖らせ、じろりとオーランドを睨みつける。
「オーランド、あのねぇ…」
「…あれもそろそろ年でしてな…」
「…何、急に…?」
「どれ、お茶にしますかな、ユキヤ…」
じろりと目を細められて、諦めた様にユキヤはお茶を淹れる準備をし始める。
「…私、やろうか?」
見かねたアナベルがそう声をかける。
「いえ、慣れてますから…」
と、ユキヤは気弱な笑みを浮かべる。確かに手元に怪し気なところはないが、アナベルはなんとなくムラタさんに同情してしまう。
母親がオリエで、妹がミサキ、…で、父親がこのおじいさんとは…ムラタ氏も大変そうだ…。そう言えばミサキは、父親が違うって言ってたっけな…。
お茶が入ったので、アナベルは勧められるままマリアンヌ作のお菓子を頂いた。ホロリと口の中に広がる生地の甘味にドライフルーツの酸味と、ナッツが程よくアクセントになっていて、掛け値なしで美味しい。アナベルは思わず相好を崩した。
「美味しい!」
「ね?」
と、同じくお菓子を頂いていたルカもアナベルに向かって微笑みかける。アナベルも笑うと、
「お茶も美味しいよ、ムラタさん。お茶入れるの上手いんだね」
と、褒めたたえる。アナベルの褒め言葉にムラタ氏は苦笑を浮かべ「ありがとう」と、返す。
「いいなぁ、こんな美味しいお菓子、いつも食べてんのか」
「…羨ましいですか?」
と、ティーカップを手にすました調子でオーランドが尋ねる。
「そりゃ…」
「習いますかな?マリアンヌに…」
「…え、習うって?」
と、アナベルは首を傾げた。オーランドは横を向いたまま
「そう…実は今日来ていただいたのは他でもない、アナベルに頼みたいことがあったのですよ」
と、唐突に言い出した。
「…頼みたいこと?」
「…技研でのバイトが終わったのでしょう」
「うん、金曜日にね」
…それが何?と、アナベルが首を傾げると、オーランドは静かにアナベルの方へ顔を向ける。
「いつからでも構いませんが、うちに入って欲しいのです。ハウスキーパーとしてね」
「……はい?」
「ぼちぼち、マリアンヌ一人に家のことをやらせるのも気兼ねでしてな。見た通り、本来なら楽隠居でもおかしくない年齢ですからな」
「そりゃ…でも…」
「ウォルター・リューの家に、ハウスキーパーが必要ですかな?さして広くもない家だ。それに、彼は家事を苦にしてないようですが」
「さして広くもないって…どうしてそんなこと…」
「無論、給料は支払います。ロブ・スタンリーが支払っているのより多く支払えますが…」
「だから、オーランド!」
「学校帰りにうちに来て、時間があればルカと共に勉強をしてもよい。入試も近いわけですし…」
「オーランド!!!」
アナベルは声を上げて、オーランドの言葉を遮った。が、老人は堪えた風でもない。
「…なんですかな?」
「…辞めろっていう事?あいつの家でのバイト…」
「…両立は無理でしょう?」
「無理でしょうって…!」
アナベルは混乱した。
「なんで、いきなり…そんな…」
と、呟くと、縋るような眼差しで祖父を見た。孫娘のその表情に、オーランドはほだされるどころか、苛立ちを強くした。
「…いきなり、ではない筈です。エナから何度かそれらしいことを言われていたのではないですかな?」
「いきなりだよ!ようやく、明日から、以前の様に戻れるって…」
「…ふうむ、彼は何も言っておりませんでしたか?」
「……なんのこと?」
「月曜日から、いや、今日からですかな、サイラスが彼と同居することになっております」
「……は…?」
「え?」
呟きは同時に発せられた。アナベルはこの場で間違いなく自分と同じ混乱を抱えているらしい異父兄を、ルカを見た。ルカも戸惑った眼差しで、アナベルの顔を見る。
「おじい様…それは…」
「ルカ、お前はしばらく黙っていなさい…」
「ですが…」
一方的なオーランドの物言いに、ついにアナベルは切れた。
「黙ることないよっ!!ルカ、さっきから聞いてれば、一方的に命令ばっかりして!」
「ア、アナベル?」
と、仰天したムラタ氏が素っ頓狂な声を上げた。
「ムラタさんもだよ!頭ごなしに言われてるけど、少しは言い返しなよ!…言っておくけど、私、辞めないからね!てか、なんなの?全然、説明も無しに!サイラスがあいつと一緒に暮らすって、どういう事なんだよ?」
アナベルの口吻に、オーランドは一時、目を瞠ったが、すぐに真顔になると
「そのままの意味です。彼があの家にいる間、サイラスの住居はウォルター・リューの家になります。まあ、あの家はロブ・スタンリーが借りているのですから、サイラスにも一緒に暮らす権利はあるでしょうな」
「…そういうことを言ってるんじゃない!あいつがサイラスのせいでどんな目にあったか、オーランドだって知ってるんでしょう?」
「…今のアレに何ができますかな?あれはあくまでも、悪魔の能力があったればこそで…」
「悪魔の能力?」
「…おじい様、いい加減、そういう言い方は…」
「黙っていろと言った筈だ!サイラスばかりか、お前までがあの化け物に誑かされおって!」
「…化け物って、何?まさか、ルーディアのことじゃないよね?」
アナベルの険しい眼差しと低い声にオーランドは白々と顔を背け、紅茶を口にした。
「…まあ、あれの話は今、関係ありませんな…」
「あれ…って…」
「アナベル、君の気持ちはわからなくもない…、エナもRRFに肩入れしていた。ですから、あれの本性に関しては、今この場では何も言いますまい」
「…RRF…?」
「…ルーディアのことです。RRFは、彼女の製造ナンバーで…」
「製造ナンバー?」
ムラタ氏の控えめな説明に、アナベルは目を瞠る。…いつかも感じた胸の痛みと違和感に、アナベルは悲し気に眉を寄せる。…だが、この驚愕だって欺瞞だ。ルーディアがそういう存在だということを、アナベルは知っていた。ルーディア自身が自分でそう言っていたのだ…。
「わかった。でも、化け物って言い方はない。ルーディア自身が望んで、そんな風に生まれたわけじゃないんだから」
アナベルの真っすぐな眼差しに、オーランドは目を眇めると、深々とため息をついた。
「…わかりました。その点に関しては取り消しましょう」
「おじい様…」
「ルカ、…後で話がある」
「…え?」
祖父の譲歩に思わず漏れた呟きに、じろりと睨まれた上、そう返されて、ルカは思い切りたじろいだ。…どうやら感動するのは早すぎた様だ…。
「話を戻しますかな。…つまり、ウォルター・リューの家には今後、サイラスもいることになります。それでも、あなたは彼の下に通い続けると?」
「それは…」
「ふむ、百歩譲って、あなたはそれでいいとしましょう。ですが、あなたはあの時、あの事件に巻き込まれた少女のサポーターをしているのでは、ありませんか?」
「それは…」
「サイラスのいる彼の家に、彼女を連れて行けますか?」
「…そんなこと言うんだったら、この家に連れて来るのだって無理だろう?だって、ルカがいる。…ルカが悪いわけじゃないから、こういう言い方するのは申し訳ないけど…」
「いや、いいよ…」
と、ルカは疲れた様子でため息をついた。オーランドは構わず言葉を続る。
「そうですね、で、あれば、週末だけでも構いません。カフェのバイトの後にマリアンヌの手伝いに来てもらえれば。給料は同じだけ出しますし」
「…それは、いくらなんでも待遇が良すぎるし…。それに、そういう問題じゃないよ…」
ミラルダのことを持ち出された途端、アナベルの剣幕はその勢いを弱めた。本音を言えば、自分だって嫌なのだ。ミラルダだって、それに、ウォルターだって、サイラスに関わらせたくないと、思っているのに…。
「あいつ、承知したの?サイラスと暮らす事…」
「まあ…そうですね」
「なんで?スタンリーさんの息子だから?」
「ペナルティです」
「ペナルティ?」
オーランドは冷めた眼差しをアナベルに向けた。
「そう、ペナルティ」
「だから、なんのこと?」
「彼は…ウォルター・リューは、本当に何も、あなたに言っていませんでしたか?」
「…それは…」
…ずっと僕のハウスキーパーでいて欲しい…
不意に想起されたのは、そう言った時の彼の声音と横顔…そして、頬を弄る冷たい風と潮の香り…帰りの列車で交わした、約束とも言えないような曖昧な言葉…。
…いつか、西側の海も見てみたいな…
…そうだね…
…どうせなら寒くない時期がいいかな…
アナベルがそう言うと、ウォルターは柔らかく笑った…。
「もう、随分前から決まっていて準備を整えてきたことですが…思い当たる節はありませんかな。…全く、気づかなかったのですかね?」
オーランドの口調はなぜか慰めるような響きを帯びていた。アナベルは力なく首を振る。首を振りながらも、アナベルは“思い当たる節”を探してしまう。そう言われて振り返れば、おかしなことはたくさんあった。
「あの、キッチン脇の物置を…」
アナベルのセリフに、オーランドは満足そうに頷いた。
「そうです、見事な蔵書で、が、残念なことに、客室がなかった。開けられそうな部屋は物置くらいで…。まあ、サイラスは罪人です。物置くらいがふさわしいでしょう」
「じゃあ、オーランド、本当に、ウォルターの家に行ったんだ…」
実際に行って見てなければ出てこない言葉の数々にアナベルは、愕然としてしまう。
「さきほどから、そう言っているでしょう?」
納得のいかないアナベルは、大きな目でオーランドを凝視する。オーランドはゆっくりと、彼女の眼差しから逃れると
「不正アクセスを働いたのです。自分のコンピュータから育成センターの出先機関のデータバンクに不法に侵入したのです。侵入して、人のデータを勝手に覗き見した」
「え?」
「センターのセキュリティスタッフが突き止め、彼も自分の行為を認めた。…彼は警察へ行くより、こちらのいう罰を受け入れると言ったのです。…サイラスと同じですな…」
「何、言ってるの?あいつが、そんなこと…」
オーランドは一息つくとアナベルの方へと向き直る。
「…しない、と、アナベル…。君にそう言い切れますかな?」
「……しない…そんな…」
アナベルの強張った表情に、だが、明確な断言に、オーランドは少し顔を顰めた。
「…一度や二度のことではないのです。ハッカー…いえ、クラッカーにも癖があって、その不法侵入は、以前から幾度となくセンターにハッキングをかけてきた人物と同一人物だろうと。つまり、彼はハッキングの常習者で、ハッカーの中でも相当に質の悪い類のクラッカーなのですぞ?」
「…嘘だ、そんなこと…」
その時のアナベルが思い出していたのは、一年の時の春休みのことだった。ウォルターはイーサンと部屋に閉じこもり、ずっとコンピュータをいじっていた…。あの時、彼は、プログラムの勉強をしていると…。
「何か…誤解だよ、きっと…あいつはそんなこと…」
「誤解など、どこにもありませんなぁ。彼は自分の正確な出自を求めたのではないですかな?嘆かわしいことですが、そういう動機でハッキングかけるバイオロイドは彼だけではない」
「だったら、そいつら全員、警察に連れて行けばいいじゃないか!」
「…なるほど、“どうして彼だけが?他の人間だってやっている”という意味ですかな?典型的な…子供の言い訳ですな」
白々と言い返されて、アナベルは言葉に詰まった。確かにオーランドの言う通りだったからだ。
「クラッキングは犯罪です。それに、彼自身が自分の不正行為を認めているのです。警察に通報されたくなかったから、彼はサイラスを受け入れざるを得なかった。後ろめたいことがないのであれば、自分を殺そうとした人間など受け入れる必要はなかったし、あなたにだって、事情を話していた筈でしょう?」
「それは…」
「先ほども言いましたが、昨日今日決まった話ではないのです。私が彼の家を訪ねたのは一月の話だ。彼は今まで、一言もあなたに言わなかった。それは何故ですかな?」
「…それ、は…」
「私が嘘をついていると思うのであれば、自分の目で見て確かめればいいでしょう?結局、彼はサイラスと、あれと同質の人間なのです。…いくら誤魔化そうと、スタンリーの息子だ。嘘つきで傲慢で、心がない。目的のものを手に入れるためにはどんな手段を取ろうと構わないと…法を侵そうとも人を損なおうとも構わないと、心の底では思っている。自分さえ満足できればそれでいいとね。…治らないのですよ、決してね。そう生まれついた人間は、いくら取り繕おうとも芯から善良になることはないのです」
「もういいよっ!!!」
堪えきれず立ち上がると、アナベルは叫んだ。そうしないと本気で泣いてしまいそうだった。だが、こんな高圧的で偏見に満ちたじじぃの前で、決して泣きたくなかった。
「そんなに言うなら、今から行って、あいつに問いただす!もし、オーランドの言う通りなら、来週の週末、仕事をしにここに来てもいいよ!」
「…アナベル?」
孫娘の剣幕に一瞬オーランドは怯んだ。だが、今、孫娘は、どさくさ紛れにハウスキーパーの仕事を引き受けなかったか?と、すぐさま相好を崩した。
「…それは…週末だけとはいえ、給料は…」
…欲しいだけ支払いますと…舞い上がって雇用契約としては、ありえないことまで口にしようとしたオーランドであったが
「無料で働いてやるよっ!!!」
と、叩きつけるように言い返される。
「…そんなわけには…」
「これは賭けだ!自信がないのか?」
「……」
孫娘の、反抗的な眼差しに…この年齢までずっと、人を下につけてきたオーランドにとっては、むしろ新鮮にも見える強い視線に、…彼は思わず目を細めた。
オーランドからするとアナベルの賭けは賭けとして成立していない。アナベルがこちらに訪れるより前に、彼は報告を受けている。…サイラスとウォルターの同居はすでに事実なのだ。ようするに、始まる前から勝ちの見えている勝負なのだ。だが、彼は孫娘の心意気を挫くつもりはなかった。彼女自らが今後、この家を訪うと言ってくれているのだ。断る理由はどこにもない。そう考えれば、彼は、己の望みのほとんどを達成しているといえた。
そう、…ウォルター・リューに対する、アナベルの信頼が深ければ深いほど、裏切られたと感じた時の反動は大きい。そう遠からず、彼女は彼から離れるだろう。スタンリーの息子から孫を完全に引き離し、時間を掛けて自分の家に迎え入れる…。
オーランドは一人で悦に入る。が、胸の奥にぬぐえない不快感が残る。…アナベルのウォルターに対する信頼の深さを目にした分だけ、苛立たしさが募っていた。
「…いいでしょう、アナベル…」
思惑はさておき、オーランドは余裕のある態度で頷いた。
オーランドを睨みつけたまま、アナベルもその返事に無言で頷く。
「お茶もお菓子も、すごく美味かった。マリアンヌさんにお礼を言っておいてくれよ」
と、祖父にそうことづけると、躊躇う様子など微塵も見せず、アナベルは踵を返すと真っすぐリビングから出て行った。
残されたルカは呆然と、アナベルが出て行ったドアと祖父の顔を見比べる。
「おじい様…さっきの話…」
「…気になるのならお前も行って、見てくるといい」
オーランドはルカの方を見ることもせず、冷然と言い放った。ルカは一瞬顔を顰めると、無言で立ち上がり、アナベルの後を追った。




