1-6 カディナに帰る(10)
金曜日の早朝、時間通りに出勤すると、リパウルは端末と個人用通信システムを立ち上げる。慣れた相手には、メッセージと電話で殆どの用事は済ませるので、液晶画面つきのこのシステムを使用することは殆どないのだが、初対面の相手や遠方の相手の場合、このシステムを活用している。顔が見えることで、相手に与える安心感が異なるのだ。
リパウルは、システムの黒い液晶画面にうっすらと映る自分の顔を見て、ため息をついた。アナベルをカディナに送り出したのはおととい、水曜日のことだ。ここ何日か元気のなかった彼女は、リパウルが帰省の許しを与えると、急に元気になった。電話の向こうのはずむ声、リパウルは今でも、自分の対応が正しかったのか、よくわからない。
アナベルとのやり取りはエナにメッセージにして、報告している。が、エナからは何の返信もない。そもそも技研に出てきているのかも不明である。ここのところ別の施設で、彼女が進めている研究に、かかりきりのようだった。
アナベルの叔父さんの状況を調べて、その結果次第では、彼女が帰ると言い出す可能性は高いとは思っていた。が、あんな風に慌しく送り出すつもりはなかったのだ。電話の向こうのアナベルの声が、涙をこらえているように思えて、つい、許しを与えてしまったが、本来自分にはそんな権限はない。
それに、電話での会話の中でアナベルが言った『エナが戻ることを許してくれるなら…』という一言が気にかかる。アナベルの、元気のなさは、叔父さんの容態が心配だからなのだろうと思っていたのだが、他にも何かあるのだろうか。
…ここに、戻ってきてくれるのかしら…
そんな気弱なことを考えて、一人でため息をついた。と、通信システムが静かな機械音を発して、小さな光を点滅させる。かけてきた相手を示す番号は、普段は見慣れないものだったが、先日来何度か見かけた文字列だった。カディナからだ。リパウルはすばやく通信に応じた。液晶画面にアナベルの顔が映し出される。
「リパウル!」
懐かしそうに叫ぶアナベルの表情は、リパウルにも懐かしいものだった。
「アナベル!よかった。無事にカディナに着いたのね?」
「うん、連絡が遅くなってごめんね」
「いいのよ、…それで、叔父さんの方はどう?」
「うん、元気そうだった。お医者さんに怒られていたけど」
リパウルは先日の通話で、カイル・ヘイワードの主治医に事情を話して、彼の病態を聞いている。なので、今日明日、容態が急変するような状態でないことは知っていた。もちろん、百パーセントの安心などないことはわかっていたが。
「よかったわね」
ヘイワード氏が、それほど心配のない状態であることは、アナベルの表情を見れば、聞かずともわかった。リパウルは安堵する。
「ドクター・クーパーがリパウルによろしくって言ってたよ」
と、なぜか楽しそうにアナベルが伝える。リパウルは
「そう」
とだけ答えた。
「あの…で、クリック博士、何か言ってきた?」
今度はややおずおずと、アナベルの方が訊いてくる。リパウルは首を振った。
「メッセージで知らせてはあるんだけど、何も…最近忙しいみたいで」
そのまま伝えたらアナベルが傷つくだろうかと、躊躇するが、結局正直に答えてしまう。が、リパウルの心配とは逆にアナベルは安堵の表情を見せた。
「あ、なら、いいんだ。ごめんね、迷惑かけて…」
「いいの?」
リパウルの方が戸惑ってしまう。
「うん、何か言ってきたら、教えて。アルベルトは?」
「心配してたわ。連絡があったことを伝えたら喜ぶと思う」
リパウルの言葉にアナベルも頷く。
「うん。心配かけてごめんなさいって、伝言ばかりで申し訳ないんだけど」
「いいのよ、気にしないで。他に何かあれば…」
「あ、うん。もうひとつ、すっごく申し訳ないんだけど、カフェのバイト先に連絡を入れてなくて…」
「わかったわ。お休みのお願いをしておけばいいのね?」
「うん、ありがとう、他のところは大丈夫だから。あとルーディアの…」
「ルーディアのことは、気にしなくてもいいのよ」
アナベルの律儀さに、リパウルは微笑んだ。ふいに、ぼんやりとアナベルがこちらを見つめる。
「どうしたの?」
と、リパウルが問うと、アナベルは、何故だか慌てたように、勢いよく首を振った。
「ううん、病院のシステムを借りてて、病院の方にお金がかかっちゃうから、あまり長く話せないんだ。カイルも挨拶したがってたんだけど、ちょっと前に寝ちゃって…」
「そうなんだ。お元気なんだったら、挨拶くらいしたかったな…」
リパウルも、アナベルの大好きなカイル叔父さんと、画面越しでもいいから会ってみたかった。
「そうなんだ、じゃ、あのお昼前くらいに、もう一回通信してもいい?」
「勿論よ!じゃ、今はそろそろ、切った方がいいわね」
「うん、いつもごめんね、リパウル」
「何、言ってるのよ。じゃ、お昼の連絡、待ってるから」
「うん」
それだけ約束すると、二人はほぼ同時に通信を切った。
明るい笑顔の消えた黒い画面にぼんやりと映る自分の顔を、リパウルは再び眺める。エナから何も連絡がないと伝えた時の、アナベルの安堵の表情。やはり学校で何かあったのだろうか?が、確認するすべが、何も思いつかない。アナベルの同級生で知り合いといったら…
と、そこまで考えて、ふとあるルートを思いついた。とてつもなく、嫌だったが。
(しょうがないわ。気になるんですもの…)
リパウルは嫌がる自分に言い聞かせる。嫌々ながらでも、業務終了後、ころあいを見計らって、自分は彼に連絡をとってしまうのだろうと、リパウルは予想した。
総合病院の事務室内、通信システム用スペースで、アナベルは息をついた。三日ぶりで見るリパウルは、画面越しからでも猛烈にきれいだった。オールドイーストにいたころ、普通に話していた自分を、尊敬したくなる。
それはともかく、とりあえず、ビクトリアを殴った件については、エナにはまだばれていないようだった。あれから三日は経っている。もしかしたらこのまま、学校側にもばれずに済むかもしれない。校内で噂になったとしても、イーサンの脅しが効いて、ビクトリアが否定すれば、問題には出来ない。と、そこまで考えて、アナベルは嫌な気持ちになった。
…ありゃ、ウォルターの入れ知恵…
イーサンの言うのが本当なんだとしたら、ウォルターは最初から、ビクトリアの仕業だとわかっていたことになる。なのに、何故、自分には、あんなにひどいことを言ったのか。考え始めると、胸の中がむかむかしてくる。
だが、一方でウォルターがおそらく勢いで言ってしまったのであろう“僕まで巻き込まれて”という言葉がひっかかる。バイオロイドのグループの少女たちが噂していたのは、やはりウォルターのことだったのだろうか。それに、ウォルターの家で会った時のイーサンの様子も…。だとしたら、ウォルターが自分に腹を立てる理由もわかる。だが、彼はそのことでは、自分を責めたりしなかった。
アナベルはため息をついた。ビクトリアが何も言わず、エナにも伝わらず、処分は免れ、オールドイーストに戻れたとしても、彼が受け入れてくれなければ、ウォルターの家にはハウスキーパーとして戻れない。学校にしたところで、彼の助力でぎりぎり何とかなっていただけだ。戻ったところで、すぐに落第になるかもしれない。そうしたら、すぐに強制送還だ。
考えれば考えるほど、戻るという選択肢が遠のく。このままここに残れば、オールドイーストに戻るための飛行機代も、無駄に使わなくても済むし、オールドイーストで培ったバイトの経験を生かして、ここでもお金を稼ぐことは出来る。何よりカイルの側にいて、彼が無理をしないよう気をつけることだって出来る。
(そっちの方がよくないか?)
考えれば考えるほど、その選択肢の方が正解に思えてくる。アナベルは黒くなった液晶画面をじっと見つめた。
病室に戻って、眠っているカイルの様子を覗き込むと、待っていたかのように、カイルが目を開いた。アナベルは驚いて身を引いた。アナベルの姿を認めると、カイルはリモコンを操作して、ベッドの上半分を斜めに起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや…ドクター・ヘインズに連絡を入れに行くんだろ?」
と、答える。
「…ごめん、よく寝てたから、一人で行ってきちゃった」
「あ…そうなんだ…」
落胆した様子で、カイルが首を傾げた。アナベルは
「でも、カイルが話したがってるって伝えたら、又お昼に通信受けてくれるって」
「いいのかな?迷惑かけてばかりだけど…」
「お互い、今更だよ」
と、アナベルは笑った。姪の笑顔を見つめながらカイルはしみじみと
「アナベルは、ドクター・ヘインズが本当に好きなんだな」
と、呟いた。アナベルはなんとなく照れくさい。
「だって、手紙にも書いただろ?本当にきれいで優しいんだ。あんな人がいるとは思いもよらないよ」
「じゃ、早く戻って安心させてあげないと。中期試験も近いんだろう?」
途端、アナベルは元気がなくなった。カイルは気づかれないように、ため息をついた。
「何があったんだい、アナベル…」
「え?」
「君が私を心配して、駆けつけてきてくれたのはわかる。けど、それだけじゃないだろう」
「…うん」
アナベルは嘘がつけない。カイルが心配だったというのは本当だ。リパウルからの電話を受けたあの時は、本当に不安で耐えられなかった。でも、帰らないと…とまで、思いつめたのは、あのタイミングだったからだ。間違いなく自分はあの時あの場から、逃げ出したかったのだ。
「カイル…私、このまま、ここにいちゃ、駄目かな…」
「アナベル…」
カイルは、急に影が細くなったような、姪の悄然とした姿に、戸惑いを隠せなかった。
***
妙に長かった一週間もようやく終わりの一日を迎えた。ウォルターは休憩時間を迎えると天井に向かってため息をついた。
一日がやけに長く感じられる。
アナベルとのいい争いから三日が経つ。あの日以来、彼女には全く会っていない。もっとも木曜日はいつも休みの日だったので、本来なら来るべき日に、会えなかったのは実質的には水曜日だけの筈なのだが。にも拘らず、彼女が今日も来ないだろうことが、やけに味気なく感じられた。現金なものだ。ここ何日、いいや、何週間かは彼女が家にいること自体が、厭わしかったくせに。ウォルターは、自分のご都合主義に自分であきれてしまう。
古典が終って、次の時間は地理のAだった。教室移動の必要はない。ウォルターは前の授業から座っていた席を動かず、机に伏せて少し眠ることにする。と、そのタイミングで、ヘンリーたちが後方から入ってきた。彼らは前列の窓際に座っていたウォルターの姿を目ざとく見つけたようだった。さっそく声高に何事か言い始める。ウォルターはそのまま机に顔を伏せ、眠ったふりをした。
彼らが本当に目障りに思っているのはイーサンだ。彼らからすると自分は、イーサンにいい様に利用されている、田舎者の秀才にしか過ぎず、自分たちの気が紛れないから、イーサンの子分である自分に、あてこすりめいたことを言って、刹那的な優越感に浸り、イーサンに対する屈辱を紛らわせているだけだ、ということはウォルターにもわかっていた。
さらに言えば、自分たちのアイドルだったビクトリアが、アナベルに返り討ちにあった挙句、恐らくはイーサンの脅しにより、すっかり怖気づいてしまったことに対する腹いせも、加わっているのだろう。以前より嫌味が、露骨になってきていた。ウォルターは眠ったふりをしながら次第に面倒になってきた。いつだったかアナベルが言っていたことを思い出す。
…意地悪な奴は飽きたりしない、黙ってたらひどくなるばかりだ。
それは自分でも知っている。が、元々人と関わること自体が苦手なのだ。ましてや人と表立って対立するなど、考えただけで精神的な負荷がハンパではない。自分にはアナベルやイーサンのような芸当は出来ない。が、このまま彼らの言動が増長していけば、中期試験が終ったところで状況は変化せず、アナベルの仕事の再開が、遠のくばかりだ。
彼女に謝罪して、きちんと事情を説明する。彼女の事情もちゃんと聞く。ほとぼりがさめたらそうするつもりだったのに、この状態が続けば、それすらもままならない。
「…カラードどもが、すました顔しやがって」
「ハウスキーパーといっても、何のお世話をしてもらってるんだか」
「ナニだろ…」
「セントラル校のレベルも落ちたもんだな」
続いて、下品な笑い声。ウォルターは顔を伏せたまま、ため息をついた。確かにヘンリーの言う通り、セントラル校のレベルは落ちたのだろう…。もっとも、セントラル校のレベルが如何ほどのものであったのか、ウォルターはよく知らないのだが。
…ヘンリーはロブと気が合いそうだ。彼がロブの息子だったらよかったのに。
ウォルターは立ち上がった。自分のことはいい。が、彼女をこれ以上すきに侮辱させておくのか?彼女は自分のためにビクトリアをぶん殴ったというのに。それでは男として…というフレーズはあまり好きではないので、人として…、あまりにも情けないし、恥ずかしい。
立ち上がるとウォルターは壁に掛かる時計を確認した。そのままヘンリーたちのところに向かうと彼らを見下ろした。ヘンリーたちはアナベルとビクトリアの一件を、当然のことながら知っている。それの再現か?と一瞬ひるんだようだった。が、自分にアナベルのような芸当が出来るわけがない。
「なんだよ?!」
と、つっかかってくるヘンリーの耳元まで、腰を曲げると、ウォルターは低い声でささやいた。
「いつだったか、町で君を見かけたんだけど、きれいな金髪の少女と一緒だった。リーゼといったかな?初等校の子にしか見えなかったけど、君の趣味?」
ヘンリーにしか聞こえないボリュームでそうささやく。無論、大嘘だ。そんな光景は見ていない。姿勢を戻すと、ヘンリーが表情をなくした白い顔で、こちらを凝視している。
…リーゼ?…俺が一緒に?そんなバカな?一体どこで見られたんだ?…という叫び声が、聞こえてきそうな気がした。何があったのか理解できない取り巻き連中は、苛立ちと不信感をあらわにした表情でウォルターを見上げていた。予想通り、施設を出て家にいるヘンリーは、自分の家庭での話を、取り巻きたちにはしていない。一緒にいるのを見かけたと嘘をついた少女は、ヘンリーが憎んでやまない彼の妹の姿だ。
ウォルターはヘンリーに笑顔を向ける。自分の笑顔が、笑顔にはあまり見えないという自覚はあった。ヘンリーは引きつった表情でウォルターの笑顔を凝視した。
ウォルターは周囲に聞こえるボリュームで
「お互い痛くもない腹を探られるのは、嫌なもんだね」
と、気さくな調子でヘンリーに言った。ヘンリーは一瞬、戸惑いと安堵の入り混じった表情を浮かべる。
ウォルターはやや声をあげ
「僕の家のハウスキーパーさんのことで、君たちに無用な心配をかけて申し訳なく思っている。彼女は苦学生で何かと忙しい。が、君たちが心配するような人間じゃない。よければ、直接会えるよう、段取りしてもいい。会えば彼女がどういう人間かよくわかってもらえると思う」
と、言った。それから、ヘンリーに向かって
「どうする、ヘンリー。いつにしようか?」
と、問いかけた。ヘンリーは
「い、いや…」
と、要領を得ない。ビクトリアの顔の腫れは、相当ひどいのかもしれない。
「そうか、残念だ。じゃ、余計な心配は払拭されたということでいいかな?わかってもらえたんなら、以降、余計な心配はいらないから」
そのまま立ち去るのかと思いきや、周縁にいるボルヘスに向かって、声を上げた。
「ああ、ボルヘス。そんなところにいたんだ?イーサンが君の成績を心配していたよ?君たちが仲がいいなんて知らなかったよ。どういう知り合いなんだい?」
ウォルターは首を傾げる。ボルヘスは何も答えない。
「最近物騒だから、うちの周囲にも防犯カメラでも設置しようかと思ってる。興味があるなら見に来るかい?なんだったら、イーサンにも声をかけておくけど?」
「なんで、やつと…」
ボルヘスは唸るように応じる。
「仲がいいんだろ?違うのかい?」
ボルヘスは答えない。彼とイーサンのつながりなど、クラスAの常連なら皆知っていた。
ボルヘスが答えないのを見て取ると、ウォルターは先ほどまで座っていた席に戻った。座った途端、どっと疲れが襲う。二匹のトラの威を借りた格好だ。情けないが、これで、彼らが少しでも大人しくなってくれればそれでいい。
これでも大人しくならなかったら、恐らく自分はもっと卑劣でえげつない手段を使うだろう。ヘンリーの妹と彼に何かあるようなデタラメを、出所がわからないやり方で、彼らにも気づかれないようにして流す。春休みのイーサンからの宿題のおかげで、コンピュータ関連の知識が少しはついた。情報の拡散をやるとなれば、イーサンの助力もえられるかもしれない。…むしろ嬉々として参加しそうだ…。そうなれば、自分がやるより、狡猾で洗練された、もっと、効率のいいやり方も可能かもしれない。近親相姦はオールドイーストでは法律違反だ。こちらに構っている余裕などなくなるくらいの、陰惨な状況を作り出してみようか…。
そこまで考えてため息をついた。出来もしないことを考えるのは時間の無駄だ。自分には、そんな技量も器量もないし、度胸もない。
このままヘンリーたちが自分たちに構わないでくれたら、それでいいのだ。




