3-13 くだけ易く繕い難い(9)
「…セアラ…」
「…近づかないで…」
かすれた声は、そのまま今の彼女の気持ちを表している。…そう、彼女の告白は過去形だったではないか?
以前のサイラスであれば、セアラが何を言おうと、どんな態度をとろうと、問答無用で近づき、抱きしめ、キスを強いていただろう。だが、今の彼にはそれが出来ない。
以前は、セアラの側にいるだけで、感じ取れていたセアラの心の湖が、まったく見えなくなっていた。目の前の相手の心が見えないという当たり前の事実が、彼の動きを鈍くした。
それに気づいて、その先にあった事実に気付く。
それは、自分がずっと、セアラに受け入れられていたのだという、バカバカしいほどシンプルな事実だ…。セアラの言う通りだ…セアラはずっと、ルカと共にサイラスのことも欲していた。そのことを、ずっと自分は知っていた。
…それを認めなかったのは自分の方だ…。ルカとセアラを共有しているような屈辱を、受け入れることが出来なかったのだ。
サイラスは顔をしかめたまま、セアラを見つめる。
「…俺だけのものにしたかった…」
過程を無視して結論だけを述べる、サイラスの話法に、…そのむき出しの本音に、セアラは再び息を飲む。強張るセアラの表情に、サイラスは眉間に皺を寄せ
「確かにお前の言う通り、俺は気づいていたんだろう…。だからこそ、お前の中からルカを追い出したかった」
と、言葉を続ける。
「…今は?」
「え?」
「今は?私のことが分かるの?」
「…なんのことだ?」
「だって、あなたは…人の考えていることが、わかっていたんでしょう?」
「……なんで…」
「だって、それは…」
サイラスは何故唐突に、セアラがそんなことを言い出したのかが分からない。わからない、ということが、サイラスを苛立たせたが、無意識にあの能力を求めた結果がどうなるか、すでに彼は学習していた。
サイラスはイライラと地面を睨む。
「…今はわからない…」
短い説明にセアラは安堵の吐息をついた。その時の彼女が案じていたのは、リースのことだった。もし、サイラスがリースのことを知り、彼に危害を加えたら…と、咄嗟に思いついて、自分の思い付きにセアラは恐怖を覚えたのだ。
「…じゃあ、この前、急に現れたのは?」
「…は?」
「…今もそう、急に現れたわ。その、前に私の部屋に…」
セアラは目を逸らし、若干狼狽えつつも、言葉を重ねる。
「…いや、急にじゃない。バスでって言っただろう?」
「だけど…」
「今日だって、タクシーで移動した。お前が来るかどうかは、賭けだった…。なんで、今になって急にそんなことを?」
賭け、という言葉にセアラは内心で首を傾げた。だが、問い詰めたところで無駄なことはわかっていた。その言葉にそれ以上の意味などない。
「…それは…」
「……」
サイラスはぼんやりとセアラの言葉の続きを待った。セアラは、深呼吸をすると
「…あなたは以前、急に現れたり消えたりしていた。その、不思議なことが出来るのは知っていたけど…けど、今はそういうことは出来ないのよね?」
と、言った。
「…誰に聞いた?」
「…オリエ…」
まあ、そうだろう。
「オリエはお前になんて言った?」
「え?…さっき言った通りよ。モノを動かすのとは別に、人の考えを読んだり、空間を移動したり、一時期そういうことが出来たけど、今は出来なくなった筈だって…」
「モノを動かすことも出来ない…」
「…そうなんだ…」
ほっとした様なセアラの呟きに、サイラスは仏頂面になった。
「…満足したか?」
「え?」
「…恐がってるじゃないか、さっきから…」
憮然と、そう言われて、セアラは目を瞠ってしまう。それから、ふっと息をついた。気づくと、強張っていた肩から、力が抜けていた。
「…それは…当たり前だわ…」
見透かされていたことが気まずくて、セアラは顔を伏せる。
「…そうか?」
「そうでしょう?だって…」
「なら…今は?」
「え…?」
セアラが顔を上げるのと、サイラスが踏み出すのがほとんど同時だった。後退する間もなく、詰め寄られる。セアラは息を止めて目の前にいるサイラスを見上げた。
「…恐く、ないか…?」
そう問いながらサイラスはおずおずと手を上げる。セアラは何故か非現実的な気分で、彼の動きを見守った。…彼の手はセアラに触れる手前で止まった…。
「触れても…いいか?」
思いつめたような強くて脆い眼差しに、かすれた声…。セアラは戸惑い、逃げるように俯いた。
「…どうして今更そんなことを訊くのよ?今まで好き勝手してたくせに!」
「それが嫌だったんじゃないのか?」
「…!」
…どうして今になって、そんな風に言うのだ?何故、そんな目で自分を見る?
突然沸き上がって来た感情を制御出来ず、セアラの双眸から涙が溢れ出した。予告も前触れもなく零れたセアラの涙に、仰天したサイラスは
「お、おい…!?」
と、狼狽えた声を上げた。セアラは歯を食いしばり、両手で顔を隠した。
「なんで今になって、そんな風なのよっ!!」
「…そ、それは…。じゃあ、どうしろって言うんだ?」
「…知らないっ!!」
両手で顔を覆ったままくぐもった涙声でセアラは告げる。サイラスは身を屈め、彼女の顔を覗き込む。
「泣くなよ…」
困った様なサイラスの声に、何故かセアラは快感を覚え、顔を隠したまま、ただ、首を振る。サイラスは許可を得ようとしたことも忘れて、セアラの後頭部に手を回し、自分の胸へと抱き寄せた。
「泣くなって…」
「……バカ…」
その言葉に絶句し、サイラスは視線を落とすと、空いている方の手でセアラの手首を掴んで、彼女の顔をからゆっくりと手を外させる。何故かセアラは抗わず、掴まれていない方の手も無造作に下ろし、涙の残る顔でサイラスを見上げた。
「…セアラ…」
「…うん…」
サイラスは掴んでいた彼女の手首を離すと、両手で彼女の頬を包んだ。そのまま親指の腹で彼女の頬に残る涙を無言でぬぐう。…それから、いつもそうしていた様に、じっと彼女を見下ろした。
「セアラ…あの…」
「…サイラス…髪、随分短くなった…」
何故か子供の様な口調で、セアラが唐突にそう言った。
「…え?」
「一瞬、わからなかった…。全然、違って見えるよ。…どうして?」
セアラの問いに、サイラスは顔をしかめた。
「…切りたくて切ったわけじゃ…」
「…ルカは全然変わってなかった…けど、中身は結構変わってた…」
少しだけ目を伏せ、セアラが呟く。彼女の口から出て来た兄の名前に、サイラスは不快気に顔を歪めた。
「…奴の話は…」
「…サイラスは逆だね」
「…何がだ?」
「見た目は変わったけど中身は全然変わってない…。ううん、前に、戻ったみたい…」
サイラスの両手に、頬を包まれたまま、セアラは少しだけ笑みを浮かべた。サイラスは戸惑い、頬を赤くする。
「そうか…?」
「うん…。恐がってごめんね。今はもう、恐くない…」
「そうか…」
ほっとしたように、サイラスは息をつく。彼の安堵の吐息に、不思議な充足感をセアラは覚えた。
…初めて目にするサイラスの、自分に向けられたその安堵の表情は、セアラの胸に疼くような痛みを与える。その刹那、セアラは、その甘い疼きに、全てを預け、何も考えず、身をゆだねてしまいたかった。だが、そうするには、二人の間には色々なことがあり過ぎた…。
セアラは、やけに優しい眼差しで自分を見下ろすサイラスに向かって、背伸びをすると、自分の頬を包んだままのサイラスの腕の外側から、彼の後頭部に手を伸ばした。
「…え?」
戸惑うサイラスに、セアラは自ら彼の唇にキスをする。優しく触れるだけのキスに、仰天し、硬直したサイラスの隙をつくように、セアラは彼の腕から逃れた。サイラスの腕から抜け出したセアラは、サイラスに背を向け、先ほどまで彼が座っていたベンチに向かって顔を伏せた。サイラスは反転すると、背中から彼女の体を抱きしめ、彼女の髪に顔を埋めた。
「セアラ…」
だが、背後から抱きしめられたセアラは、何故か深々とため息を零す。
「ダメだよ、サイラス…」
「…なんで…」
「…触れてもいいかって…私の、気持ちを聞いてもらえて、嬉しかったのに…な…」
セアラの呟きに、サイラスは慌てて彼女の体から離れた。セアラはくるりと、サイラスの方へと向き直る。
「…急にキスなんてして、ごめんね。驚いた?」
「いいんだ、そんなこと…」
「…好きだったよ、サイラス。…やっと、あなたに伝えることが出来た…」
眦に涙を浮かべ、優しくセアラはそう言った。
彼女の言葉に…許してくれるのか…と、サイラスは問いたかった。だが、セアラの表情の何かが、彼のその言葉を遮った。
余裕なく自分の顔を覗き込むサイラスの頬に、セアラは手を伸ばす。彼女の頬に、涙が零れ落ちた。サイラスは自分の頬に触れるセアラの指先を掴んだ。
「…今でも大好き…。あなたのこともルカのことも、これから先もずっと好き…」
その笑顔と言葉にサイラスは嫌な予感を覚える。
「…だったら…」
声を出すのも辛かった。引き絞られた様に、心臓が痛む。
サイラスの内心など知らず、セアラは笑顔で首を振る。
「でもダメなの…。私とあなたは一緒に居ない方がいいの…」
「どうして、好きだって…」
サイラスの言葉にセアラは目を閉じて首を振る。
「…一人占めしたかったって言ってくれて、嬉しかった…。もう、ずっと…二人だけでいる時も、ずっとお互い向き合ってなかったね…」
「セアラ…」
「あなたはルカを追い出したかったって…そう、思っているのかもしれないけど、それは嘘なの…」
「ウソなんかじゃ…」
「ルカだと思えって、私に言っていたのはあなたよ、サイラス…」
「あれは…!ああ、言わないと、お前に拒絶されるって…」
だが、セアラは黙って首を振った。
「あなたが好きだったのは、ルカを好きな私なの…ずっと、ルカを介していたのはあなたなの…」
泣きながら笑みを浮かべ、静かにセアラはそう言った。
「違う!お前が、ずっと…」
「あなたがいつか私に言ったこと、覚えているかな…」
「…何?」
性急な問いに、セアラは歪んだ微笑みを返す。
「…私の中に湖があるって…」
セアラの言葉にサイラスは目を瞠る。そのまま固まって身動きが取れない…。
「…それはね、ルカを想って出来た湖なの…。彼が死んじゃうんじゃないかって、恐くて不安で、苦しくて…ずっと泣いていた私の心よ…」
「…セアラ…」
「それをあなたは知っている…」
「セアラ…」
「何故だか、わかる?」
セアラの問いに、サイラスは首を振った。
「…あなたも同じなの、サイラス…。あなたはずっと、ルカを愛してた…」
「…違う!なんで、あんな奴のこと…!」
だが、セアラはサイラスの言葉を聞かず、柔らかく微笑んだ。その笑みに、サイラスは苛立ったように、一回、足を揺すると
「違う!俺が欲しかったのは…!…セアラ…」
そう言いながら、セアラを抱き寄せた。セアラは人形の様に無造作に彼の腕の中に納まってしまう。そのまま強く抱きしめられ、セアラはサイラスの背中に手を回し、ゆっくりと彼の背中を撫でた。
「…本当は、ずっと、そう言って欲しかったのかな…」
「…言わなくたって、わかってたんだろう?」
「…きっと、私の方こそ、あなたを独り占めしたかったの…」
「だったら、いいじゃないか!もう、何も考えるな!」
だが、セアラは抱きしめられたまま首を振る。彼と離れ、会わなかった九か月の間、彼女は考えることを止めることはなかったし、彼女に“考えるな”と、言う人間もいなかった。セアラは彼女なりに、色々な人に会い、彼女なりに真摯に、その人たちと関わって来たのだ。
セアラはサイラスの背中に回していた腕を、彼の胸に滑り込ませると、静かにその腕に力を込めた。小さく動くたびに、セアラは、感じる筈のない刺激を、ハート形のペンダントから感じ取ってしまう。
「…考えることを止めることは出来ない…。あなたがいない間、私は自分がどうすべきだったのか、ずっと考えていたの…」
自分の胸を押し返す、セアラの緩やかな拒絶に、サイラスはセアラの体を抱く腕に力を籠める。
「…嫌だ…」
「…私とあなたは、たくさんの人を傷つけた…。まだ、初等校生だった優しい女の子のことも傷つけた…。彼女だけじゃない、他にもたくさんの人に迷惑をかけたわ…」
「やめろ…!」
「…あなたのことが好きよ。今でも大好き…。一緒に居たら、きっと私はまたあなたに夢中になる…」
「それの、どこか悪い?」
腕の中でセアラは首を振る。
「私にはあなたを止められない…。きっと、またあなたに溺れる…」
「俺だって、同じだ。…それでいいじゃないか?」
「…私は嫌なの!そんな自分でいたくないのよ…!」
「セアラ…」
静かな、だが、これまでにないはっきりとした拒絶の言葉に、サイラスは彼女の拘束を解き、腕の中の彼女の顔を見下ろした。やはりと言うべきか…セアラの頬は涙で濡れていた。目が合うと、セアラの双眸から再び涙が零れ落ちた。
セアラの涙を目にしたサイラスは、再び強い不安に襲われてしまう。
「…だからっ、泣くなって言っているのだろう…!どうしてすぐに泣くんだ?」
苛立って、サイラスはそう呟く。セアラは顔を伏せると
「あ、あなたといると、泣いてばかりよ!」
と、強がった声を上げた。サイラスは再び彼女を抱きしめたくなったが、寸でのところで自分の衝動を押し殺した。
「どうすればいいんだ?」
「…知らないわ…」
どうしても伝わらない思いと、強くい続けられない自分に失望して、セアラの方こそ投げやりにそう切り返す。
「セアラ…俺を困らせるな…」
「じ、自分で、考えればいいのよ!人には考えるなって…。どうしたら、泣かないかなんて、あなたが悪いのに…」
言いながらセアラは頬に残る涙をぬぐった。
「なんで、俺が…」
「きちんとあなたと、ルカに、向き合いたかったから…だから、強くなろうって、そう思って、ずっと頑張っていたのに、どうして、勝手なことばかり言うのよ?」
「…また、ルカか…」
「だって…」
「セアラ…」
サイラスはそう呟くと、彼女の顔を覗き込むように、身を屈める。
「…どうしたら、お前は俺を許すんだ?何を言っても拒否しやがって…」
「あなたが許しを請うべきは私じゃないわ…。どうして、わかってくれないの?」
「じゃあ、そいつらがいいって言えば、お前は俺を受け入れるのか?」
「…そう言う問題じゃないでしょう?」
「どういう問題なんだ?」
「それは…」
俯くセアラは無意識に胸元を押さえてしまう。ぐらつく自分を今ここで支えて欲しいのに、助けが必要なら呼んでくれと言った彼は、肝心な時には側にいない…。まあ、我ながら、無茶な望みだとはわかっている。それに、サイラスとのことはセアラ一人で解決しなければならないのだろう。
「お前は俺が好きなんだろ?だったら、何も問題はない」
サイラスは、先ほどから嫌な具合い騒ぐ胸の鼓動を無理やり無視して、強引に結論付けようとする。
…あまりの言い草にセアラは呆気にとられ、腹がたって来た。
「何が問題ないのよ?」
「どこが問題だ?」
「好きだけど、一緒にはいられないって、言ってるでしょう?」
「…それでお前はルカのものになるのか?」
「……!」
不快気なサイラスの言いがかりに、セアラは絶句した。
セアラが言いたいのは、二人のせいで、傷つけてしまった人たちのことなのだ。それなのに、サイラスはそのことを気に掛けてもいないのだ。彼が全く気にしていないことに、セアラは不安を覚えた。…九か月どこでどう過ごしていたのか詳しくは知らないが、彼が自分のしたことを反省していないことは確かだ。以前と同様、彼がこだわっているのは、自分と、ルカのことだけだ。
「…ルカ、ルカって…ルカにこだわってるのは、結局あなたじゃない?他に…もっと…」
「…お前の方がルカ、ルカ言ってる!」
「…ルカのものにならなければどうでもいいわけ?」
自分達以外の第三者の存在など、サイラスには思いもよらないようだ。
…リースのことをサイラスに知られたくはなかったが、全く思いつかれないというのも、それはそれで、何やら侮辱されている様で、セアラとしては面白くない。
「…言っておくがルカは、化け物女にお熱だ。お前のつけ入る隙なんか…」
が、他者の存在など、はなから考えてもいないのか、サイラスはしつこく絡み続ける。
「…化け物女?」
「お前…知ってるんじゃないのか?」
「…ルカの好きな人のことなら、ルカから話を聞いたわ。化け物女ってなんのこと?」
「…え?」




