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オールドイースト  作者: よこ
第1章
44/532

1-6 カディナに帰る(7)

リパウルはいつもより早めにアルベルトの家に向かった。地下に下りると、アナベルが机に伏せて眠っていた。昨日もそうだった。その姿に、リパウルの胸が痛んだ。ずっと一人で不安を抱えていたのだろう。そう思うと、何故気がついてあげられなかったのかと、自分を責めたくなる。


「アナベル」

昨日と同じように、ゆっくりと肩をゆする。アナベルは顔をこすりながら顔を上げた。

「リパウル、ごめん。また寝てた」

「いいのよ、気にしないで。それよりごめんなさい、昨日の話なんだけど…」

「…やっぱりエナは駄目だって?」

アナベルに先に言われてしまい、リパウルはため息を押し殺す。


ここのところいつにもましてエナ・クリックは忙しそうだった。要件をメッセージで送る以外は出来ないので、朝一番でアナベルの頼みを送信してみたが、返信がきたのは終業時間を迎えてからだった。その上、内容は

【当初、打ち合わせに存在せず。検討に値せず】

という、心配のあまり憔悴しきったアナベルに、そのまま伝えるにはあまりにも過酷な内容だった。


 リパウルの心配そうな表情を目にし、アナベルはなんとか笑顔を作った。

「予想はしてたんだ。大丈夫。迷惑かけてごめんね。多分…ただの郵便トラブルだよ」

と、言った。リパウルは唇を噛み締める。ボスを当てにした自分が間違っていた。

「心配しないでアナベル、時差があるから今日は手遅れになっちゃったけど、明日、なんとかしてみるから」

「え、いいよ。本当に、話を聞いてくれただけで、助かったし…」

リパウルは首を振った。


「アナベル、こんなことで遠慮しないで。叔父さんの状況の確認くらい、私にも出来るから」

「リパウル…」

アナベルはなんと言っていいのかわからない。下手にしゃべると涙が出そうだった。

「ごめん、ありがとう…」

ようやくそれだけが言えた。


 翌日、普段よりは早めに出勤すると、リパウルは端末を立ち上げた。カディナとの時差は七時間。今、向こうは、大体午後三時から四時の間。余裕があるとはいえない。リパウルは、画像通信システムを立ち上げると、端末から、カディナの町役場のアドレスを検索した。昨日のうちに手を打っておけばよかったと、心底後悔した。


***


 昨日のダメージを、色濃く残しつつ、アナベルは学校へと向かう。今日は数学のクラスがある日だ。ビクトリアたちと遭遇することを考えると、うんざりした。あいかわらずカイルとは連絡がとれないままだし、ウォルターの、聞きたくも知りたくもなかった本音を聞かされ、満身創痍だ。今の自分に闘う力があるとはとても思えなかった。


 それは五時限目の数学の、授業開始前に起こった。入り口のドアを引くまで、室内は間違いなく嬌声に満ちていた。が、アナベルが教室に入った途端、沈黙が落ちた。悪意に満ちた沈黙の中、アナベルは、落ち込む気力すらなくしていた。このクラスには、イーサン以外には知り合いもいない。そしてイーサンはいつも始業一分前にならないとやってこないのだ。


が、何を気にしても仕方がなかった。アナベルは一番前の窓際の席を陣取ると、肘を机につけ窓の外を見る。一人でぼんやりしていると、昨日ウォルターに言われたことを思い出してしまう。今日は一日、そうだった。


静かな教室に、ビクトリアのソプラノが響いた。

「女性って、品格をなくしたら終わりだと思うの」

彼女たちは、後方の真ん中あたりに座っていた。ビクトリアの言葉に合わせるように、グループの少女たちが一斉に話し始める。


「うん、それわかる。恥じらいとか大事だよね」

「周囲の目とか、外見とかに気を使わない女子って、なんか勘違いしてるっていうか…」

「そういう子に限って、たいしたことないっての」

「元がいい人ならともかく、普通の子は自分を磨かなきゃ駄目だよね」

彼女らの声だけ、クラス中に、よく響いた。周囲は気配をうかがっている。アナベルはうるさいな、と思った。何の話をしているのかよくわからないが、授業準備をすればいいのに。


「でも、なんかナチュラル装ってる子って、勘違いした男子に妙に受けてたりするの」

「計算してるのもろわかりなのにね」


「…あの、めがねかけた子?Aにいる、のっぽの?…」


嬌声に混じって、そこだけちいさな声で、かすかに耳に届いた。アナベルの頭の中はからっぽになった。気がつくと彼女は席を立って、ビクトリアたちのところに向かっていた。何も考えていなかった。


アナベルはビクトリアの前に立つと腕を組み

「おい、言いたいことがあるんなら、まわりくどいことをせず、私にはっきり言え」

と、命じた。全く想定していなかったのだろう。ビクトリアは人形のようにきれいな顔を、引きつらせている。かろうじて

「なんのこと?」

と、尋ねる。

「ばっくれてんじゃねぇよ。てめぇらだろうが、根も葉もない噂、流してんのは?」

「噂?さあ、あなたが何を言っているのか、私にはわからないけど」


アナベルはビクトリアが座っている机の前あたりに手を乗せた。いつのまにか、取り巻き連中が彼女ら二人から距離をとっている。アナベルは顔をビクトリアの方に近づけると

「今、何の話しをしていた?」

と、低い声で尋ねる。


「今?一般論でしょ?女性がどう在るべきかについての」

ビクトリアは怯えたように体を縮めながら、か細い声で答える。

「とぼけてんじゃねぇ、いまAのクラスの奴の話をしてただろう」

「Aの…?さあ」

「てめ、ナイトハルトだけじゃ飽き足らず、まだ、妙なこと言い立てるつもりか?」


怒りを押し殺した低い声で、アナベルがそう言うと、ナイトハルトの名前に反応したのか、ビクトリアの表情がこわばった。彼女の目の中に、怒りと怯えを見て取ると、アナベルは確信した。


ナイトハルトの家に張り付いていたのは、仲間の女子でも男子でも、雇われ人でもない、目の前のこの女自身だ。ひょっとしたら、こいつ自身が、ナイトハルトの家に押しかけて、愛人まがいの好意を押し付けたのかもしれない。それがうまくいかなかったから、ずっと見張って…。


頭に血が上った。このバカ女のせいで、自分はウォルターと、あんなひどい言い争いをする羽目に陥ったのだ。あんなひどいことを言われたのも、みんなこのバカ女の、馬鹿げた恋愛とやらのせいだ…。

全く唐突に、なぜかハリー・ヘイワードを思い出した。


気がつくと、アナベルは右の手のひらで思い切り、ビクトリアの頬を打っていた。それだけではおさまらず、裏拳で反対の頬も打つ。ビクトリアは悲鳴を上げ、両頬を押さえた。その声に触発されて、再度アナベルは手を上げた。が、そこで背後から手首を掴まれた。アナベルは振りほどこうとするが、握られた腕はびくともしない。


「落ち着け」

イーサンの耳慣れた声が聞こえた。アナベルは腕を振り解こうと暴れるのを止めた。すると、イーサンはすぐに腕を放してくれる。

 見ると、自分が殴ったビクトリアが、両頬を押さえたまま、泣きじゃくっていた。アナベルは彼女の方を見ると、奇妙なくらい冷静になった。


「ごめん、やりすぎた」

と、短く謝った。ビクトリアは頬を押さえて泣きながら

「謝ってすむと思うの…?」

と、尚もいい募る。アナベルは失笑してしまう。

「品格がないんだ。勘弁してくれ」

言いながら、これはもう、エナによる強制送還間違い無しだと、観念した。こうなると、いっそ願ったり適ったり、だ。ウォルターも、田舎に帰れといっていたではないか。


それから、イーサンの方を向くと

「イーサン、止めてくれてありがとう」

と、言った。イーサンは真顔で頷くと、ビクトリアに向かって

「おい、もうやめとけ。お前だって、ザナーがこんな山猿相手に、性欲解消させてるなんて、本気で信じてるわけじゃないだろう」

と、告げる。イーサンの言葉に、ビクトリアは顔を伏せ、アナベルはギョッとしたように、身を引いた。


「お前、今なんて…」

アナベルの反応には構わず、畳み掛けるようにイーサンは

「お前は深い考えもなくやってることなのかもしれないが、ザナーに知れたら名誉毀損で訴えられる。お前がストーカー行為を働いていた証拠も、町にある監視カメラで確認しようと思えばできる。お前は普通にしてりゃ、いい女なんだ。これ以上騒いで、ことを大きくするな」

と、淡々と告げた。ビクトリアはうなだれたまま顔を上げようとしない。それだけ言うとイーサンはアナベルの肘を取り、一旦廊下の方に出た。


「その、悪い。助かった。最初から、ナイトハルトの名前を出せば、あの馬鹿も黙ったのか」

「さっきのありゃ、ウォルターの入れ知恵だ」

「ウォルターの…?」

一瞬、アナベルの表情がこわばったのに、イーサンは気がついた。アナベルはそのままの表情で、顔をそむけた。


『なにかあったのか…』

イーサンはため息をついた。それからビクトリアに同情した。恐らく彼女は、二人のケンカのとばっちりを食ったのだ。


「それにしても、無茶しやがって…」

「だから、悪いって…」

「なんで殴った?」

「…多分、あいつが見張ってたんだって…」

「証拠は、何かあるのか?」


イーサンが聞きとれた範囲では、先ほどのやり取りで、それを確信させるような言葉を、ビクトリアは言っていなかったと思うのだが。

アナベルは首を傾げた。


「勘?」

「勘…て…」

イーサンは絶句する。と、近くで携帯の呼び出し音が鳴った。アナベルは急いで携帯を手に取ると、イーサンに向かって

「ごめん、電話に出る。本当にありがとう」

と、言いながらその場を後にした。始業のチャイムが頭上で響いた。仕方なくイーサンは教室に戻った。すると、待つほどもなく、教師が入ってくる。後方を見ると、ビクトリアたちは居なくなっていた。こちらは保健室かどこかだろう。残されたイーサンと、クラス内の生徒たちは、一連の出来事を未消化のまま、数学の授業を受け始めた。



 数コールで呼び出し音が切れた携帯を手にし、アナベルは階段の踊り場へと向かう。頭上で、授業開始のチャイムが響いた。アナベルは、リダイヤル機能で、かかってきた番号に折り返す。相手はすぐに通話に応じてくれた。


「あ、リパウル?」

「アナベル、授業は?大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。それより…」

「わかった」

リパウルは途中経過も状況確認も省いて、結論を述べた。


「アナベル、落ち着いて聞いてね。カイル・ヘイワードさんは今、カディナの一番大きな病院に大事をとって入院中です。でも、命に別状はないの、だから、あまり心配しないで」

ゆっくりと落ち着いた声でリパウルは述べた。が、言いながらリパウルも、心配するなといっても無理だろうと、思っていた。


「入院って…」


案の定、アナベルは落ち着くことが出来なかった。

「三日前、自宅で倒れたそうです。自分で救急車を呼んで、現在は入院中。もう一度、言うわね、念のため入院しているけど、危篤状態などではないの」

倒れたって…アナベルは頭の中が真っ白になった。


「リパウル…」

リパウルの言葉は聞こえていた。心配しなくてもいいと、だが…

「リパウル…。私、帰りたい」

「アナベル…」

リパウルは、アナベルがこう言い出すことを予想していないわけではなかった。だからこそ、一刻も早く伝えようと思ったのだが…。


「帰りたい、カイルに会いたい…駄目かな、帰っちゃ…」

「アナベル、わかるけど…」

「帰るって言っても、ちゃんと戻ってくるよ。その、エナが戻ることを許してくれるんなら、だけど。けど、今は帰りたい。ちゃんと無事なの、見たいんだ。カイルが…」

これ以上、何か言うと、泣きそうだった。アナベルは固く目を閉じた。


「アナベル…」

携帯電話の向こうから、ため息混じりのリパウルの声が聞こえた。

「わかったわ。エナとアルベルトには私から言っておきます」

「リパウル!」

「ただし、一日一回は状況を連絡して。時差は七時間、オールドイーストの方が遅れてます」

「うん、わかった」

「連絡先はあとでメッセージで送るわ。空港まで送ってあげたいんだけど…」

「ううん、いいよ。ノースノウ空港までの道のりなら頭に入ってる」

俄然、元気になって、アナベルは、はきはきと答える。


「夜の便は八時だから、今からだったら、アルベルトの家に帰って、荷物を取りに帰ることも出来る。お金もたまってるし、大丈夫!」

頭の中で、何度も帰ることを、シミュレーションしてきたのだ。そらんじることさえ出来る。リパウルにもそれは通じたのだろう、彼女は再度ため息をつきながら

「わかった。でも、ちゃんと連絡は入れてね」

と、同じ言葉を繰り返した。アナベルに変わって今度は、リパウルの方が不安の虫に取り付かれたようだ。

「大丈夫、ありがとう、リパウル。いつも迷惑ばかりかけて、ごめんね。じゃ、切るね」

言うなりアナベルは通話を切った。あまりのんびりもしていられなかった。


 学校で、欠席願いの事務手続きをし、宅配のバイトには事情を話してお休みを貰い、ミニバイクも返却した。土日のカフェのバイトの件はまた、その時に考えることにする。そのままバスで、アルベルトの家へ取って返すと、荷物をすばやく詰めて、そのまま家を出る。

(ルーディアに…)

と、考えて首を振る。そんなことを言い出したらきりがない。


ここにはすでに十ヶ月分の関わりの蓄積がある。ずっと、カディナに帰りたかった。カイルに会いたかった。それは本当だ。でも、それは、オールドイーストで出会った人たちとの関わりを、否定することには直結しない。


(戻ってこられるかな…)

そんなことを考えて不安になる。今日の学校での出来事が知られたら、退学まではいかなくても、停学処分は免れまい。そんな不祥事をエナが見過ごすだろうか?そう考えて、戻って来たい気持ちがあることを、自分で自覚してしまう。いつのまにかここでの生活にも愛着がわいていたのだ。


 宅配便のバイト担当マネージャーには簡単に事情を説明した。彼は親身になって心配してくれ、戻ったらまた来てくれるよう言ってくれた。ハウスキーパーの方は、先日ウォルターから休みを言い渡されたばかりだ。こちらの方は、かりにここに戻って来られたとしても、復帰できるかどうかわからない。アナベルは再度、首を振った。


(もう、どうでもいい…)


そう思う端から、今日の出来事で、また、ウォルターに迷惑がかからないか不安になってくる。

アナベルはため息をついた。そして、もし戻れたら、もう一度、ちゃんと話をしたいと思った。


ウォルターは何の理由もなく、あんなひどいことをいう奴じゃない、きっと何かあったんだ。今度こそきちんと話を聞こう…。そう思い返すと、少しだけ気持ちが楽になった。


 カディナに行ける飛行機の便は夜の八時発、国際線のあるダンホの空港に到着するのは翌日の午後五時だ。明日へ向かって跳ぶ方向だが、感覚としては、そうはいかない。ダンホに着いたら次は国内線でホープシティ空港まで飛ばなければならない。ホープシティに着いたら、列車かバスか、夜行便を探して、カディナに到着できるのは翌日だ。カイルに会えるのはそれからだ。まだまだ先は長い。


アナベルは、バスに乗る。まずは、セントラル駅から、ノースノウ空港直通バスの便がある駅へ行くため、列車に乗車しなければならない。セントラル駅付近の銀行で、お金を使用できるよう、電子マネーを設定しておく。十分とはいえなくても預金はある。最悪、これさえあればなんとでもなる。


アナベルは、大きなリュックを、弾みをつけて背負った。今から、十ヶ月ぶりの故郷を目指すのだ…。

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