3-7 執着(13)
「さっきまでイルゼは拘束されてたんだ。腕なんてまだ自由がきかない状態で…。そんなひどい目にあったばかりなのに、いきなり殴るとか…」
「イルゼ、腕を見せてみろ」
と、なぜか兄ではなく、イルゼに近い側に立っていたアベルが、アナベルの背後に隠れる様にして俯いているイルゼに向かってそう言った。アナベルは思わず振り返る。
…が、言われたイルゼは手錠のついた腕を隠すように、アベルに背を向ける。
「…イルゼ…?」
アナベルの戸惑いを横目に、ケインは一歩踏み出すと、アベルとは反対の側からイルゼに近づいた。抵抗する間も与えず妹の腕を掴むと、強引に引き出した。
「へぇ…悪趣味だ…」
これまでイルゼの胸の前で、隠されていた両腕の拘束があらわにされる。両頬を赤く腫らしたイルゼは、これ以上ないほど顔を歪めるとやや乱暴に、兄に掴まれていた腕を振りほどく。
ケインの言い草は、アナベルの不快感を刺激したが、言っている内容に異論はない。
「…外せないんだ。鍵がないと…」
「おもちゃの手錠だ。ヘアピンがあれば外せるだろ?」
「…え、マジで?あんた、凄いな!」
と、思わず素に戻って叫んでしまう。
アナベルの口調が意外だったのか、ケインは目を見開いて彼女の顔を直視した。
アナベルは慌てて
「あ、いや、本当に外せるんだったら…あのストーカー野郎に鍵を貰わなくてもいいし、でも、ヘアピンとか持ってないんけど…」
と、取り繕うが、ケインの表情は益々面白そうになっただけだ。
「へえ、君、ヘアピンとか、持ってないんだ…」
言いながらケインは、何故かアナベルに向かって手を伸ばす。
「…ケイン、お前、飛行機の時間は、いいのか?」
と、唐突に横から見ていたアベルがため息交じりで切り出した。ケインは手を下ろすと、アベルの方へと向き直る。
「…知ってるだろうに…。一番遅い便にしたから大丈夫。二時間もかからないんだよ?」
「空港までの移動時間があるだろうが…」
アベルは何故か渋面で言葉を続ける。ケインの方こそ仏頂面になった。
「…アベルはどうして、そんなに僕を追い返したがるの?」
「…お前が、明日の午前中の講義は、絶対外したくないって言ってたんだろう?」
「君は僕のマネージャーか、何か?」
突然始まったやり取りを、アナベルはポカンとしたまま見守ることしか出来ない。事情は分かったが、緊張感がないにもほどがないか…?
「…さっさと帰ればいいじゃない…」
ここに来てようやくイルゼが口をきいた。彼女は両腕を拘束された状態で、忌々し気に自分の頬を押さえていた。
ケインはイルゼの方へ顔を向けると、不意に無表情になった。
「…余計なお世話だよ、イルゼ。君の指示は受けない」
そう言うケインの静かな声音には、多量の冷気が含まれていた。…がらりと雰囲気を変えたケインの様子に、イルゼは顔を歪めると、そのまま横を向く。
アナベルは途方に暮れた。
…なんだ、この兄妹…。
「ケイン、もう少し言い方があるだろう?心配していた分、腹が立つのはわかるが…」
アナベルが言いたかったことを、アベルという黒髪の男性が代弁してくれた。気のせいでなく、この人はまともそうだ、と…失礼なアナベルはアベルに好感を覚える。
「僕が心配していたのは愚妹のバカげた所業が生み出す結果だけだ。後のことはどうでもいいかな…」
「そんな言い方ないだろう?付き合ってた人が別れた後になっても付きまとって…そんなの、どうしろって言うんだ?」
「もっと早くにアベルに言えばよかったんだ。もしくはそんなバカな輩とは最初から関わらない、とかね。イルゼはわかっていて付き合ったんだろうね。君のボーイフレンドに対する当てつけじゃないの?」
「…私の…ボーイフレンドぉ?」
…誰だ、それっ?いや、この人が誰を想定して言っているのか、なんか大体わかるけど…
「違うってば、そういうんじゃ…」
…イルゼの話じゃなかったのか?何故こちらにお鉢が回る?
「へえ、違うの?彼も可哀想に…」
「いや、そういう話じゃないだろうって…」
「ケイン…」
完全に面白がっているだけになっている友人の様子にアベルは頭を抱えたくなる…。気のせいでなく、彼は目の前の黒髪の女子学生がお気に召したようだ…。
「おい、愉快なバカ話を楽しんでいる最中、申し訳ないが…」
と、玄関からふらりと姿を現したイーサンが、普段通りの口調で話しに割り込んだ。
「…イーサン…」
「アナベル、お前の言う通りだ。中で人が死んでいる」
そっけないとも言える淡々とした口調でイーサンが衝撃の事実を告げた。場に奇妙な沈黙が落ちた。その沈黙の重さに、イルゼはのろのろと顔を上げた。
「…誰…?」
「さあなぁ、初老の婦人みたいだったが…」
「彼が…」
イルゼの短い問いの意味を正確に汲み取るとイーサンは真顔で首を振った。
「…争った形跡はない。ベッドの上で、自然死だな」
「…おばあ様だわ…彼の…」
イルゼは一人で呟くと、再び顔を伏せた。イーサンはその様子を一瞥し
「そういう訳だ。どちらにせよ警察を呼ばないわけにはいかないだろう」
イーサンの至極もっともな言葉に舌打ちしたのはケインだった。
イーサンはケインの反応を無視して
「死後、一週間は経過してないが、昨日今日よりは以前に死んでいる。まあ、専門家じゃないから適当だがな」
「…彼が再びイルゼの前に姿を現したのは、身内の死がきっかけになったと?」
「どうかな?まあ、タイミング的には合致してるが…」
「…そんなことより、警察に…」
「イルゼ!」
と、会話を切り裂くような鋭い口調でケインが妹の名を呼んだ。イルゼはびくりと肩を震わせる。
「君、どうする。このまま警察のお世話になる?」
妙な聞き方だ。アナベルは眉を寄せた。イルゼは青い顔のままケインを睨むようにして見つめる。ふっと、目線を下げると、首を振った。
「イルゼッ!?」
アナベルは仰天して声を上げた。…今の動作は、どういう意味だ?
「警察沙汰にはしないわ。このまま帰る…」
「イルゼ、いいのか?」
問うたのはアベルだった。その表情は苦々し気だったが口調は落ち着いていた。イルゼの答えを予想していたのだろうか。
イルゼはアベルを無視して再びケインを凝視する。
「…それが、あなたのお望みなんでしょう、ケイン?」
妹の言葉にケインは冷笑を浮かべ、肩を竦めた。
「…僕に責任を負押し付けたいんだったらご自由にどうぞ。僕がそっちを選んで欲しいってのは、特に否定しないし」
「お前、何考えて…」
アナベルは思わず声に出してそう言っていた。
「言っても無駄よ、アナベル。こういう人なの…」
「イルゼ…あなただって、何を言って…」
「イルゼ、お前が受けたのは誘拐に監禁、どちらも不法行為だ。言うまでもないが、犯罪だ。…警察沙汰にせずこのまま帰るということは、彼を見逃すということだ。犯罪者を見逃すと…」
アベルの落ち着いた言葉にイルゼはようやく彼を見た。そして首を振った。
「…彼は…ダニエルは、おばあ様を嫌っていた…。でも、他に身元を引き受けてくれる人もいなくて…。どうやっておばあ様が死んだのかわからないけど、彼が正気を失ったのはきっと…」
「タガを外しただけ…とも考えられる。お前が見逃すことで、彼は別の人間に目をつけるかもしれない。それでも?」
…それでもイルゼは首を振った。アナベルは彼女の両肩を掴んで正気に戻れと揺すりたくなった。
「ダニエルは弱い人なの…本当ならこんなことしない…。バカなことして、多分目が覚めたら正気に返ってくれてる。だから…」
アベルは無言でイルゼの手を取ると、彼女の手首を凝視した。イルゼの体が、一瞬震えた。
「…こんな目にあって、それでもあの男を信じると?」
「…私が悪いの。…私が、悪かったの…」
アナベルは我慢できずに声を上げた。
「そんなわけ、ないだろう?」
アナベルが声を上げるのとほぼ同時に、道路側からガチャンという音が響いた。その音に、イルゼがびくりと肩を震わせる。
「アナベル!!」
…なんで、このタイミング?
アナベルはげんなりと声の方へと顔を向けた。
「…お前…」
自転車を住宅前の歩道にとめて、小走りで庭に侵入してきたのはひょろりと長いシルエット。…見間違えようもない、ウォルターだ。
ウォルターは、まるで周囲に人がいないかのような態度で、真っすぐアナベルの前に立った。呼吸が荒い。
「君…なんだって、また…」
アナベルは名状し難き表情でウォルターを見上げる。が、言葉は出てこない。ウォルターはイーサンに視線を向けると
「…どうなってるんだ?」
と、問うた。イーサンは余裕のないその口調に、ふっと肩を竦めた。
イーサンから手短に事情を聞いたウォルターは眉間に皺を寄せた。
「…それで、その男は、今…」
「ああ、こいつの見事な仕事のお陰で、今も屋根裏で拘束中。手慣れたもんだ」
「…何を褒めてるの…?」
アナベルは奇妙な表情のままそう呟いた。
「君はどうしたい?」
「そりゃ、犯罪者野郎を警察に突き出す。決まっているだろう?」
「君が言うとなるとイルゼも…ということになるけど…」
「被害にあったのはイルゼだ!当たり前だろう?」
「イルゼが言いたくないのは、その大学生を犯罪者にしたくないからだ。つまり、情だね」
「情って…」
ウォルターの意外な言葉に、アナベルは思い切り顔を歪めた。
言っている内容はイルゼの意を汲んでいるのだが、イルゼを見るウォルターの視線は傍で見ていてもぞっとするほど冷ややかだ。
「…これはただの意見だけど、イルゼと君はとりあえずこの場を去る。去ってから、僕なりイーサンなりが警察に連絡を入れる。家の中の状態には手を出さない。ダニエルという大学生の今の状態はどう考えても不自然だ。警察だってバカじゃない。何かあったと気がつくだろう。そうでなくても、身内の死亡を報告もせず放置していたんだ。彼は何らかの取り調べを受けるだろう。その時、彼がイルゼの言う通りの人間なら、自分の犯罪行為を自白するだろうし、口を噤んでごまかすようなら、アナベル、その時は君が警察に事実を伝えればいい」
「…そんなのわかるのか?」
「イルゼは彼を見逃そうとしてるんだ。ダニエルの人間性を信じているから…。一見優しいようで、実は無責任な発言だ。無責任で言ってるわけじゃないというなら、…それが、面倒ごとや厄介ごとを避けたいだけじゃないって証明したいんなら、最後まで事態の推移を見届けるべきだと思うけど?」
「…わかった」
ウォルターの意見に答えたのは、何故かアベルだった。ケインが呆れた様に
「アベル…君ねぇ…」
と、呟いた。アベルはシニカルな眼差しをケインに向けると
「無責任に、面倒ごとや厄介ごとを避けたいだけのお前は黙っていろ。…イルゼ、それでいいか?」
アベルの言葉にイルゼは素直に頷いた。
…さっきから見ていて…どうにもこっちのアベルって人の方が、イルゼの兄っぽくないか?と、アナベルは複雑な気分になってしまう。そんなことを考えていたら、アベルの視線がこちらに向けられる。
「ヘイワードさんも…それでいいか?」
…ヘイワードさん…?呼び慣れない呼ばれ方に、アナベルの妙な表情は絶賛継続中だ。
「あ…はあ、まあ…」
「よし、決まったね!じゃあ、僕はイルゼを送って行くよ。彼女ならヘアピンくらい持ってるだろうから、その趣味のいい手錠も外してあげられるし、外したらそのまま駅に向かえば時間的にも丁度いいくらいだ」
ケインの状況を無視した明朗な口調に、イルゼは彼の横顔を睨みつけ、アベルはうんざりとため息をついた。アベルは真顔でイルゼを見つめると
「…イルゼ、ケインと一緒に帰れるか?…大丈夫か?」
と、かなり真面目に問いかける。イルゼは顔を引きつらせたまま、無言で頷いた。
「なら、もう行った方がいい。ヘイワードさん、君は…」
…と、アベルは顔をウォルターの方へ向けると
「ウォルター、彼女を送ってもらってもいいか?」
と、言葉を続けた。
ウォルターは少し驚いた様子で
「いえ、僕は残ろうかと…」
「何故君が?」
「一応、意見を出した立場上…」
「ここは俺とイーサンが残って対応する。イーサン」
イーサンはアベルの呼びかけに、にやりと笑うと「ああ、わかった」と、答える。
「ですが…」
「イルゼを除けば、次にこの件に関わっているのは、多分俺だ。ダニエルとも一応だが面識はある。…それとも、俺に警察の対応させるのは不安か?」
ふっと、アベルがウォルターに向かって笑いかけた。
ここまでずっと、硬い表情を崩さなかったアベルの笑顔を、横で見ていたアナベルは、不覚にも、カッコいいなと、と思ってしまった…。
ウォルターは肩の力を抜くと「わかりました」と、素直に自分の立場を翻した。
*
イルゼのショルダーバッグはダニエルの車の助手席に投げ出されていた。それを回収すると、よく似た、だが、仲の悪い兄妹は、無人タクシーに乗って先に帰路につく。アナベルは去りゆく車をなんとなく見送ってしまう。
振り返ると、残った三人の男子学生たちは何やら打ち合わせ中だ。ウォルターがアナベルの視線に気がついて、彼女に向かって頷いた。アナベルが近づくとイーサンが短く
「手短にでいい。俺と最後に電話で話してから、あったことを話せ」
と、命じた。
簡潔すぎる説明は彼女の得意とするところだ。アナベルはダニエルの車を発見したところから、彼を拘束して庭に出るまでの自分の活躍を、可能な限り端折って話した。イーサンは終始一貫して無表情だったが、アベルは何度か、目を瞠ったり、ため息をついたり、顔を顰めたりしていた。
…呆れていたのかもしれない…と、アナベルは思った。
…ウォルターは、基本的には無表情だったが、アナベルが足の拘束を、携帯していた折り畳みナイフで切断したというくだりで、少し顔だけ顔をしかめた。
「大体、わかった。お前ももう帰れ。ウォルター」
と、イーサンが言うと
「ああ。行こう、アナベル」
と、ウォルターは普段通りの調子でアナベルにそう言った。彼女は不自然なほど素直に、頷いてしまった…。
歩道を照らす頼りない街灯の下、二人で並んで自転車を押して歩いた。アナベルは、ウォルターは何故、自転車に乗らないのだろうかと、ぼんやりと、そんなことを考えていた。考えながら無言で歩く。ふと、既視感に襲われる。
…去年の冬休みも、こんな風に二人で自転車を押して歩いてたっけ…。
「お前、今日、エナと面会…」
そう口に出してしまったのは、冬休みからの連想だった。
アナベルの言葉にウォルターはため息をついた。
「午後には終わってる…。君、そのこと気にして、僕じゃなくてイーサンに連絡を?」
「え…いや、まあ…」
そう問われると、あの時はそうだった。アナベルが返事に詰まっていると
「まあ、イーサンに連絡するのが正解だって思うから、別にいいんだけど…」
と、投げやりに答える。
「違う!お前をあてにしてないとかそういうんじゃなくて…!」
「…僕、そこまでは言ってないけど?」
藪蛇かっ?!アナベルは勢いで
「最初、咄嗟にお前に連絡しようと思ったんだ。けど、エナとの面会があるからって、邪魔したらダメだろうって…!」
と、言葉を続ける。
「邪魔って…」
「お前、何かあったのか?なんか、話は分かってる風なこと、言ってたけど…」
アナベルの突っ込みにウォルターは足を止め、歩道に向かって深々と息を吐いた。
「…僕の話はどうでもいいだろう…。君、わかってるの?」
「え…」
ウォルターは顔を上げると、ほとんど、睨むような強い眼差しで、アナベルを見つめた。
「な、なに…?」
たじろぐアナベルに構わず、ウォルターは片手を伸ばし、アナベルの手を取った。アナベルの全身がぎくりと震えた。
「え…いや…」
ウォルターはアナベルの指先を軽く握ったまま彼女の赤い傷痕のついた手首を睨みつける。
「…こんな傷をまた作って…。足の方だって、まだ、痛むんだろう?」
アナベルは項垂れて首を振る。
「靴下履いてるから…そんなに…」
「君…いつからナイフを持ち歩いてるの…?」
そう呟きながら、ウォルターはゆっくりとアナベルの手を離した。アナベルは何も答えられずに奥歯を噛んで俯いた…。ウォルターは片肘をハンドルに掛け、口元を覆った。アナベルは、じっとウォルターの動きを見守ってしまう。
まっすぐ前を見ていたウォルターは、がくりと頭を下げると
「ちょっとだけ…いいかな…」
と、地面に向かってそう尋ねた。
…何が?と、思いながらアナベルは「あ…うん…」と、頷いた。
アナベルの返事を受けてウォルターは、その場に自転車を止めると彼女の横まで回り込む。アナベルは両手を自転車のハンドルに置いたまま、自分を見下ろすウォルターを見上げた。
…何…
と、尋ねる間もなく、アナベルの体はウォルターの腕に包まれる。柔らかく抱き寄せられていることに気がついた途端、彼女の体は緊張で一気に硬化した。
「え…何…」
あからさまに動揺しているアナベルの呟きを無視して、ウォルターは彼女の頭に頬を寄せ、髪の中に手を入れてそっと撫でる。アナベルの動悸が益々激しくなった。
…なにこれ?え、なにが、どうなってるの??




