3-7 執着(2)
「読んだ?」
「いや?」
心外だという意図も込めてウォルターは彼にしてはやや強くルカの問いを否定する。ルカはくすっと、小さく笑った。
「…一年前とは状況が違う。アナベルとも相談して、そろそろ返してもいいだろうと思って…。まだ、受け取れない?」
ウォルターの問いに、ルカは静かに首を振った。
「…そうじゃないんだ…ただ、今これが、もう一度手渡されることの意味について、少し考えてしまっただけで…」
「…読んでおいた方がよかった?」
「え?」
「内容…」
静かに問われて、ウォルターの表情のない顔をじっと見つめてからルカは俯いた。
「うん…どうかな…。少し、弱音…なんだけど…。これは、彼女からのお別れの手紙だったから…」
ルカの言葉にウォルターは無言で息をついた。
「もし、返さない方がいいんだったら…」
「いや、大丈夫」
ルカは静かに首を振った。やや俯きがちなルカの奇麗な顔を見つめながらウォルターは
「一年前、君がこの手紙を受け取らなかった理由は、サイラスにあるの?」
と、尋ねた。ルカは「え?」と、呟きながら顔を上げる。
「彼女から吸い取っていたという彼の能力について、君は知っていたの?」
と、ウォルターは低い声で続けた。学食内は元気のあり余った学生たちの話し声で、賑やかすぎるほど賑やかだった。それでも、ルカの耳にはウォルターの問いかけがはっきりと聞こえた。
…事情を知らない第三者が聞いても、意味の通らない謎かけめいたセリフ…。
ルーディアの精神感応の能力と同じ能力を、サイラスも使っていた。それを知っていたのか?と、ウォルターは尋ねているのだ。
ルカは黙って首を振った。
「あの頃は、知らなかった…。僕が彼女の手紙を受け取れなかったのは、単純に安全な保管場所がなかったからだ。オリエに知られたら、取り上げられる…だけじゃすまないだろうなって、そう思って…」
「そう…」
と答える、ウォルターの返答も何やら沈んでいた。
一年前、ルカはまだ特別病棟の病室にいて、隠したい物を信頼して預けることが出来る友人は、セアラ以外にはいなかった。そして、セアラに…ルーディアの手紙を預かってほしいと頼むことが、ルカには出来なかったのだ…。
「ウォルター、どうしてそんなことを?」
「いや…」
…ロブは双子を知っていた…それどころか、双子の親であることを、否定もしなければ隠しもしなかった。
ウォルターが、サイラスの能力により、胃の中にガラス片を入れられて入院していた時、一度だけロブがお見舞いに来た。やけに青い彼の顔を見て、ウォルターは、事実をすべて聞いたのではないか?と、冗談交じりにそう思ったものだった。だが、冗談などではなく、恐らくロブは事実をそのまま聞いていたのだ。
…聞いて、青ざめたのだ。サイラスが、気まぐれなどではなく、ウォルターを意図的に傷つけたのだとロブにはわかったのだ。恐らくロブは、サイラスの側に、ウォルターに危害を加える動機があることを、正確に知っていたのだろう。あの事件以来、ロブから何の音沙汰も無くなってしまったのは、偶然ではなく、それが原因なのだろう。
…端的に言えばロブは、怯えていたのだ…。
ふと、そう思いついて、ウォルターは一人笑った。見慣れぬ、どこか荒んだその笑みに、ルカが訝し気に眉を寄せた。
「…ウォルター、何か…嫌なことでも…あった?」
ルカの問いに、ウォルターは顔を顰める。…アナベルといい、どうしてこう時々、敏感なんだ?ウォルターはため息をついた。
…ルカの敏感さは、アナベルのそれと似ている様で異なっている。幼いころからずっと病で、身の自由が利かなかったルカの敏感さは、生きるための必須条件だったのだろう。彼は察するという意識もなく、人の顔色を読み取っており、自分が身近な人の機嫌の良しあしを、常に探っているのだという自覚すら、もっていないのかもしれない。
「…どうして、そう思う?」
ウォルターは逆に問うてみた。ルカは困った様に考え込むと、
「うーん、表情…かな?」
と、迷いながら答える。
ルカの返答には何も答えず、ウォルターは
「前の日曜日に、ロブ・スタンリーに会ったんだ」
と、あっさりとバラした。ルカは意外そうに眼を見開く。
「…スタンリーさんって…」
「…僕の、遺伝提供者…ってことになってる人。彼は君の……提供者だ。そのことは君も知っているんだろう?」
ウォルターの単刀直入な物言いに、ルカは静かに息をつく。
「…どうしてそんなこと僕に訊くの?その…君が会ったっていう人が、そう言ってた?」
ウォルターは身じろぎもせず目線だけでルカを見る。
「認めてた。…君はアナベルに訊かれた時に“知らない”と言ったようだけど…」
「ウォルター…さっき君は彼のことを、君の“遺伝提供者ってことになっている人”って言っていたけど…本当のところ…それは事実なの?」
ルカは静かにそう訊き返してくる。ウォルターはため息をついた。
ウォルターは、ルカと腹の探り合いをする必要性を感じていなかった。それに、ルカの質問は微妙に複雑だ。女性の胎内から生まれた自分の“父親”に対して、“遺伝提供者”という表現は通常であれば使用しない。その言葉はバイオロイドとして生まれた者の、親に対してのみ使用するものだ。
つまり、ルカの質問は書類の面だけで言えば間違いなく“応”になるが、ウォルター自身はバイオロイドでもなんでもないのだ。そういう意味では答えは“否”だ。だが、ルカが訊きたいのは、そんなことではないのだろう。
「君が知らないというのが本当だとして、サイラスは知っていた筈だ。彼は、…ロブ・スタンリー氏は、明らかにサイラスと面識があった。彼自身がそう言っていた。…普段は遠方にいる学生が、どういう理由で開発局の中堅局員と接触を?」
ウォルターの淡々とした声音にルカはあきらめてため息をつく。
「…さっき、君に…何か、嫌なことがあったのかって尋ねた時に…」
「うん?」
「何でそう思うのかって、逆に訊かれたけど…」
「うん…」
「…今、わかった。似てるんだ、スタンリーさんと会った後のサイラスに。雰囲気が少し…」
俯いたまま静かにルカが言った。ルカの言葉に、ウォルターは絶句してしまう…。ルカはふっと顔を上げ、ウォルターに向かって困った様な微笑を投げかけた。
「…そう言うと、君に失礼かもしれないけど。…そうだな、そう思って見るから、そう見えるだけかもしれない。…サイラスの方がもっとずっと…そう、荒れていた。君の方がまだ自分を保っている。もっともサイラスは…」
「ルカ…」
「ごめん…。でも、僕自身は本当にその人と会ったことがないんだ。そして、これから先も僕が彼に会うことがないのも、わかってる。流石に…名前くらいは聞いたことがあったけど、覚えていても仕方がないかなって…。だから…アナベルに、嘘をついたつもりもなくって…」
「うん…わかった…」
「ごめん…」
「いや…」
と、言い掛けてウォルターは少し迷う。ルカの方が、彼の逡巡に気がついて、「何?」と、言葉を促した。
「いや、その…さっきの、サイラスの事」
と、ウォルターが言葉を続けるとルカは「ああ」と、頷いた。
「うん…中等校の頃から、長期の休みで戻ると必ず、一度か二度…。“面会”っていうのがあって…」
「ああ、うん…」
サイラスも同じ目にあっていたのか…。
「面会から戻ると、ひどく気分が荒んでて…苦手だったみたいだ…スタンリーさん事…」
「苦手だったんだ…」
「うん、嫌っていたと言った方が近いかもしれない…」
ため息と共にこぼすように、ルカはそう言った。ウォルターもつられた様に、息をこぼす。
「…その頃からだんだん、彼と距離を感じるようになってて…僕自身にも色々あったから、彼が戻って来ても、…あまり、彼と話すことも無くなっていって…」
「…そう…」
「オリエは年齢的な物だろうって、成長の過程で自然に起こることで、でも、成長するにしたがって、それなりの距離と関係を保てるようになるものだって…今は、彼も僕もその過渡期の只中にいるから、それが永遠に続くように思ってしまうだけで…って…」
まっとうな助言だな…。と、ウォルターは思った。まっとう過ぎて、あまり役には立たないような気がしなくもないが…ルカには効いたのだろうか?
「けど、…その時は、僕もオリエもサイラスのことを本当にわかっていたわけじゃなかった…彼には人の内面が見えていたんだ。ルーディアの様に…。スタンリーさんと会って、嫌な…見たくない感情が見えることがあったのかもしれないって…その…今頃になって、そう思うことがあるんだ…」
ルカの言葉にウォルターが思い出したのは、先日会った時にロブがサイラスについて言っていたセリフだ。
…あれは人とまともにコミュニケーションがとれるような人間ではなかったな…
露骨すぎるほどの露骨な侮蔑を込めて、ロブはサイラスを見下した。自分が感知したのは断片に過ぎない。ひょっとしたら、サイラスはもっと直截的に、ロブから愚弄され続けてきたのかもしれない。…朗らかで人当たりの良さそうな外面を保ったまま、内面で繰り返される冷淡な侮蔑に、サイラスは身を守るすべを持たないまま、晒され続けていたのかもしれない…。そして、サイラスの周囲の他者同様、ロブ自身、サイラスの能力を知らぬまま、彼を見下し続けたのだ…。
サイラスに同情しかけている自分の甘さに気がついて、ウォルターは一人ひそかに嘆息した。…自分の場合、安っぽい同情…よりもっと質の悪い、安易な同調というやつかもしれない。サイラスと自分を比較するのは愚かな行為だ。彼の立場と自分のそれを比較して、自分の方がまだましだと思うのは、単なる事実の追認なのか、それとも歪んだ優越感なのか?
…不毛だ…自分の思い付きに辟易して、ウォルターはその思考を強制終了させた。
「君の言う通りだと思う。サイラスにはロブの内面が見えていた。彼のあの精神の歪みを形成するのに、ロブは一役買っていた…そう、君が思ったとして、それは妥当な考えだと思う。…だからと言って彼がしたことを免責するつもりはないけど」
「うん…わかってる…」
沈痛な面持ちで俯くルカの表情に、ウォルターは後ろめたさを覚える。
「いや、君やサイラスを非難したい訳じゃなくて…僕自身にそう言い聞かせていたところだったから…」
…少なくと、サイラスがアナベルに加えようとした暴力を許すつもりにはなれなかった。実際、その後幾度か、宙に浮くアナベルを夢に見て、その都度ウォルターは、うなされたのだ…。
ウォルターの弁明にルカはふっと微笑んだ。
「そう…ありがとう」
ルカの笑顔にウォルターは顔を顰める。…なんで、お礼を言われたんだ?
「サイラスはともかく…ルカ、君は?…君自身はスタンリーさんと会ったことがなくて、これから先も会うことはないだろうって…どうして?」
ウォルターの問いに、ルカは肩を竦めた。
「…あの人にとって、僕は生きた人間ではないから…」
「…それは…」
「アナベルから聞いてない?人工子宮から取り出された時、僕は息をしていなかった…。それが、あの人が僕に会いたがらない理由」
「けど、今の君は健康だ。多分、サイラスよりも…」
「そうだね、でも、それは僕の母親が彼女だったからだ。彼女だったから、僕もサイラスもまだ生きている。そしてそれは、彼にとっては誤謬だった…」
「それは…」
「…そう、言われたらしい。…いや、考えてみるとあれも、直接言われたってことじゃなかったのかもしれない…」
ルカの曖昧な言葉の意味が、ウォルターにはわかった。彼は黙って続きを待った。
「…僕もサイラスもバイオロイドだ。それなのに、健康体として人工子宮から出ることが出来なかった。バイオロイドとして…僕らは失敗作なんだ…。だから、あの人は僕を…僕らを認めない。サイラスだって本当は僕と同じだ。僕の状態の方がひどかった。…病院に閉じ込もることでしか存在出来ない僕を無視することは可能だったけど、サイラスはそうはいかなかったんだ…。だから、彼だけ遠くに行かされたんだ…」
ルカの語る内容は、双子と自分の出生に関わる経緯と、それに対するロブのやり方について、ウォルターがたてた推測と大体合致していた。…が、当然のことながら、自分の推測が正解だったことを手放しでは喜べない。ウォルターは、重い溜息をつく。
「そのことを、君はいつ…誰から知ったの?…ムラタ博士?」
慰めも励ましもない、ウォルターの問いだけの言葉に、ルカは真顔で頷いた。
「去年、退院してからオリエに聞いたんだ。もっとも、彼が僕たちに近づこうとしない理由まで、彼女から聞いたわけじゃない。…ただ、まあ、切れ切れに入ってくる情報から、そう考えるのが妥当かなって…」
「そうか…」
なら、ルカと自分は違う立場から似た結論を出した…ということになる。つまり、どこまでいっても推測でしかないのだ。
「彼女が…オリエが言うには、遺伝提供者だってことを明かしたがらない適性者は結構いるって。だから、実は大した意味は無いのかもしれない…」
「まあ…それは、そうだね…」
ルカは肩を竦める。
「去年退院して、君とアナベルの話を聞いた時、オリエから、アナベルには折を見て本当のことを話しておくようにって言われたんだけど…」
「うん…」
「君に関しては…あまりかかわりを持たないようにって、そういう雰囲気だったな…」
言いながらルカはクスリと笑った。
「けど、結局、僕ばかりが君に迷惑をかける形でかかわってしまっているし、知ってることも話してしまったな…」
と、微笑みながら上目づかいでウォルターを見つめる。ウォルターの視線は一瞬、宙を彷徨った。質問責めで、ルカの“知っていること”を尋ねまくったのは自分だ。
「…謝った方が、いいのかな?」
と、ウォルターは呟いた。
「いや、大丈夫だよ」
小さくルカは笑う。
「アナベルには伝えておけって、それは…」
「ああ、異性だからね。間違いがあってからじゃ遅い。実際、僕は彼女に惹かれていたし…」
悪びれず発せられたルカの言葉に、ウォルターはぎょっとして、思わず目を瞠ってしまう。その様子に、ルカは楽し気に声をひそめて笑うと
「…といっても、人としてってことで、君やオリエが心配するようなことじゃ、全然ないけどね」
と、言った。そのセリフにウォルターはかえって複雑な気分になってしまう。
…なら、最初から紛らわしい言い方をしないでほしいのだが…。
こちらをたじろがせるため、ルカは意図的に曖昧な物言いをしているのだろうと、ウォルターは卑屈にも確信を持ってしまう。そのまま再び表情を消した。
ウォルターの無表情過ぎてかえって雄弁な顔色に、優しい笑みを浮かべたルカは
「…オリエに君たち二人の話を聞いた時に、突拍子もない話の筈なのに何故かすぐに納得出来た。…初めて会った時から、君ともアナベルとも…何か、懐かしいような気持になったから…」
と、優しく言った後、笑ったまま眉を寄せ、肩を竦める。
「…まあ、その感じ方自体が、後付けかもしれないんだけどね。サイラスとはいい関係とは言えなかったし。でも、…だからこそ、君たち二人が僕の妹弟だって知って、嬉しかった…」
…“君たち二人が僕の妹弟”…間違いではない…間違いではまったくないのだが…そう繋げられると…。
ウォルターは無言で肩を落とし、深々とため気をついた。異母弟の複雑そうな態度に楽し気にルカは声を潜めて笑う。ウォルターはふっと顔を上げ
「…だったら…っていうのも変だけど…ルカにひとつ、お願いしたいことがあるんだけど聞いてもらえるかな?」
と、異母兄に向かって真顔で切り出した。
***
六時限目の歴史の授業を終えアナベルは、見るともなしに、出入り口側に視線を向ける。すると、そのあたりに座っていたルカと目が合った。ルカがふっと笑みを浮かべて、やや慌ただしくこちらに向かってきた。アナベルもルカも前列に近い席に座ることが多い。アナベルは窓際でルカは廊下側、という違いはあるが。
ルカが近づいていることに気がついたので、アナベルは彼を待つ態勢になった。
アナベルもルカも歴史のクラスはBクラスだ。気のせいでなく、ルカとは、同じクラスが多い。ウォルターと同じクラスになりたくて頑張っていた筈が、目当ての人ではなく、ルカと同じクラスが多いというのも、なんとなく複雑な心境だ…。そして、ウォルターと違って、ルカは教室内だろうが廊下だろうが、別段構えずに話しかけてくる。学校では接触を避けているウォルターとは大違いだ。
「アナベル」
「ルカ、何かあった?」
「うん…。今からちょっとだけ付き合ってもらえないかな?」
「はい?」
何故だかはにかんだ様子でそう告げるルカの言葉に、アナベルは間の抜けた反応を返してしまった。




