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オールドイースト  作者: よこ
第3章
377/532

3-5 ウェディング・ブーケ(10)

「…どうかした?」

「ううん、なんでも…。ナイトハルトは、本当はもっと女の子っぽいのを予定してたんだって。けど、普段の髪型で行くって言ったら、もうちょっとさっぱりしたのになったの」

「それでよかったの?」

「うん…」

「じゃあ、髪は今みたいに下ろしたスタイルじゃないんだ」

と、やや残念そうにアナベルが言った。


「うん…」

と、ミラルダが俯いた。


ミラルダの表情に、アナベルはいつだったかウォルターが言っていたことを思い出した。…やはり、最初に式の話を聞いた時に比べると元気がない…。ナイトハルトのせいだろうか…?


「…美容院どうだった?」

と、アナベルが尋ねたのは、ミラルダがこれまできちんとした美容院にったことがないと言っていたのを思い出したからだ。今までミラルダの髪はママがカットしてくれていたらしい。最後にママに髪を切ってもらったのは、今年の一月、病院でのことだった。


「うん…」


豊かな栗色の髪の、素敵な紫色の目をした、奇麗で優しい美容師さんにカットをしてもらった。…ワンピースを買ってもらったお店の店員さんとも、そうだったのだが、ナイトハルトはその美容師さんとも、何やらとても親し気で、あいさつのキスを交わしている時も、不思議に甘い雰囲気だった。


離れてから…ナイトハルトは気づいてなかったようだけど…その美容師さんがナイトハルトを見つめる眼差しに、ミラルダは不可解な切なさを覚えた。

 …ひょっとしたら恋人だったのかも…。


ママと会えない間、ナイトハルトがママ以外の女の人と付き合っていたことはミラルダだって知っている。ママと時々、そういう話をしていたからだ。ママがあまりやきもちを妬いてくれないと、ナイトハルトが少し拗ねていた。


ナイトハルトがママ以外の女性と挨拶のキスを交わすのを見ても、別にミラルダは嫌ではない。どんな女性とキスをしていても、そのナイトハルトが余所行きな表情をしているからだ。爽やかで親切な…、そして割り切った大人の男の人だ。…ママとキスをしている時のナイトハルトとは、全然違っている。


ママとキスをしている時のナイトハルトは、もっと甘ったるい顔をして、情けないほどママとキスをしたがって、そして全く、周囲を気にしなかった。ママとキスをしている時のパパは、いつでもママしか見えていなかったのだ。


ナイトハルトが別の女性とキスをしているのを見ると、ミラルダはママとキスをしていた時のナイトハルトを思い出す。そして、気づかされる。やっぱり、ナイトハルトにとってママは絶対に特別な存在なのだと…。


その事実が、ミラルダは嬉しくて、そして悲しい…。


最近のナイトハルトは二人だけの時はやけに優しかった。髪を下ろしていると、何時でも頭を撫でてくれる。


「お前は俺に似てるけど、髪質はあの人に似ているな…」


ふっと、そう呟かれた時、ミラルダはナイトハルトの前ではあまり髪を下ろさない方がいいのかもしれないと思った。…そういうナイトハルトの表情が、優しいくせにどこか辛そうだったからだ…。


「ミラルダ…」


ふっと、アナベルの声が聞こえた…。


「え…?」

と、顔を上げると、シーツにパタパタと水滴が落ちて、小さなシミを作った。自分でも気づかないうちに、涙が溢れていた。発作の様に突然に訪れた自分の涙に、ミラルダは慌てて頬をこすった。


「ご、ごめん…!」


アナベルは急いで立ち上がると、ミラルダの頭を抱き寄せた。そのままミラルダを落ち着かせるように、背中を軽く叩いてくれる。


「謝らなくてもいいよ…」


声は何故か優しい笑みを含んでいた。


「アナベル…?」

「…カイルが…私の叔父さんが言ってたんだ…。泣きたい時は泣いたっていいんだよって…」

「…ママも、言ってたよ…」

「うん…そうだったね…」


ミラルダが何故、突然泣き出したのか、アナベルにはその理由がわからない。恐らくミラルダ自身、説明出来るほどわかっているわけではないのだろう。自分の涙に対する少女の戸惑いが、そのことを雄弁に物語っていた。ナイトハルトが、ここ数週間、普段通りの彼でいられないことが、少女の心に見えざる負担を強いているのに違いない。アナベルは手っ取り早く、そう結論付けた。


 アナベルはミラルダをベッドに横たえると、部屋の照明をわずかな灯りに切り替える。


「アナベル、勉強は?」

「大丈夫だよ…。今週は、明日で終わりだろ?少し早めに休もうか?」


アナベルの優しい眼差しに見守られて、ミラルダはコクンと小さく頷いた。


 ミラルダが目を瞑ると、アナベルはベッドに縋ってテキストタブレットを眺めながら、時折、彼女の様子を伺った。やがて、ミラルダの寝息が穏やかなものに変わってくる。アナベルは少女の寝顔を覗き込み、少しだけ息をついた。


 …ここのところナイトハルトの帰りは遅い。仕事が忙しいという言葉に嘘はないのだろうし、休日にはミラルダのために時間を割いている。ミラルダ自身、二人だけの時のナイトハルトの態度は普通だと言っていたのだ。だが、彼が何かに傷ついていて、そのことをごまかすために自分たちに接する際、やけに攻撃的になっている…様に感じるのは、自分の意識過剰ではないだろう。無論、ミラルダの母親を亡くしたことが、ナイトハルトの中で、まだ、全く整理がついていない状態で、それがずっと彼の傷であり続けているのだということは、アナベルにだって理解出来ていた。だが、おそらく、それだけでもないのだろう。


今のミラルダは、父の気持ちを察した上で、自分達にまで気を使って…気を張っている様に感じられた。


 アナベルは再度ため息をつくと、机に座り直して、勉強の続きを始めた。結婚式が終われば、中期試験が待っている…。


 何分くらいそうしていただろうか、玄関からインタフォンの音が響いた。時刻は十一時を回っていた。誰かが訪ねてくるのに、適切な時間とは言えない。だが…。


 ナイトハルトか…。何故かアナベルはそう思った。アルベルトは出張で不在だ。リースもリパウルもすでに休んでいるだろう。正直、聞こえなかったふりをしたい…が、そういうわけにもいかない。リパウルが応対に出たら…と、思うとその方が、落ち着かない。


 アナベルは静かに部屋を出ると、玄関へと足を延ばす。インタフォンで確認を取ると、予想通りナイトハルトだった。仕方がないので玄関へ招き入れる。


「…こんな時間に、なんだ?」

「いや、アルベルトは…」

「出張だ。急に決まったらしい」

「そうか…」


ナイトハルトは横を向いて息をついた。


「…ミラルダは…」

「もう、寝てる。お前、迎えに来る気があったんなら…」

「いや…」

「じゃあ、アルベルトに用事だったのか?」

「そういうわけでも…」

「…煮え切らない奴だな。じゃあ、一体何だ?」


ナイトハルトは深々とため息をつくと

「思っていたより、早く終わったから…」

不承不承と言った口調で、そう言った。


「…寝てるんだったら別にいい」

「どこか早いんだ?全く。お前、最近、ミラルダに甘え過ぎじゃないか?」


アナベルの口調は先ほどの出来事のせいもあって、普段以上にきつめだった。ナイトハルトは眉間を寄せた。


「…ミラルダが何か言っていたのか?」

「いいや、言いやしない」


…黙って、泣くだけだ…。


「じゃあ、なんだ?」

「見ていて私がそう思っただけだ」

「へぇ…」

「お前が何を苦しんでいるのか知らないが、自分の感情にミラルダを巻き込むなよ」


アナベルの言葉にナイトハルトは横を向くと忌々し気に舌打ちした。…連日の残業で流石の彼も疲れていた。娘の顔を見たいと思ってどこが悪いのだ?


「…いつも思うが…」

「なんだ?」

「お前は本当に俺の神経を逆なでするのが上手いな。ひょっとして気を引こうとしてるのか?」


バカにしたような冷笑を浮かべた美貌に、少し上から見下されて、アナベルは思い切り

「はああ?」

と、問い返した。その口吻からしてすでにとてつもなく憎たらしい。


「手を出して欲しいんなら…」


言いながらナイトハルトはアナベルの肩に手を掛けると、玄関先の壁際に彼女の背中を押し付けた。彼女は冷ややかな眼差しを浮かべてはいたが、別段抵抗はしなかった。


「…何のつもりだ」

と、アナベルは目を眇める。彼女の目の前に立つナイトハルトは、片腕を壁に当て、自分の体を支えた。


「…疲れてるんだ…。この際お前でも構わない…」


…何を言い出すのやら、毎度毎度、こっちの都合はお構いなしらしい…。


「この間から何をそんなに疲れているんだ?」

「…見てわからないか?仕事だ…」

「ミラルダのお迎えに来たんじゃないのか?」

「お前が会わせないんだろう?」

「当り前だ、何時だと…」


アナベルが言っているうちに、ナイトハルトの唇が彼女のこみかめに触れた。アナベルは即座に彼の頬を平手で打った。


「…お前はっ!!酔っ払ってるのか?…それとも、本当に、女だったら、なんだっていいのか?!」


殴られた頬を押さえながらナイトハルトは、にやりと笑った。


「一応、自分の性別は自覚してるんだな。そりゃ、よかった」

「何を言って…」

「にしても無防備だ、誘っているとしか思えない」

「バカか!お前、本気で、何を考えて…」

「…俺がなにを考えているか、お前に分かるわけがない…」

「あまり前だ!」

「…言い切るんだな…」


素早い切り返しに、ナイトハルトは少し呆れた。少しくらい理解しようという姿勢を見せて欲しいような気がしないでもない。


「お前が何を考えているかなんて、私が分かっている必要はないんだ。お前が分かっているんだったらな!」

「…何を言って…」

「お前の考えてることはわからなくても、ここのところミラルダがお前にずっと気を使っていることくらいはわかってる!!」

「ミラルダが?」

「立場が逆だろうが!お前がミラルダに守られてて、どうするんだ!」


その言葉で、ナイトハルトの記憶が突然、喚起された…。優しい優しい声…


…私の方こそあの子に守ってもらってばかりなの。母親失格だわ…


優しい口調で、そう言っていた。けれど、本当はそうではない。彼女はこれ以上ないほどあの子のことを…ミラルダを守っていた。そして、それは、今だってそうなのだ。本当に辛い時、ミラルダが助けを求めるのは、今だってあの人なのだ…。


…パパなんていなくても、ママのことなら、私一人で十分守れるんだから…


初めて会った日に、自分に向かってそう宣告した、自分によく似た母親想いの少女…。か細い体で、一人で不安に耐えていた…。


…一年だ。まだ、たったの…。ミラルダと出会って…あの人と再会して…。

…再会したあの人は、別れた頃と何も変わってなくて…。


…あなたやっぱり、私の言うことなんて、ちっともきいてくれないのね…


 優しい笑顔を思い出し、もう二度と、彼女の声を聞くことがないのだという絶望的な自覚に、ぐらりと地面が傾いだ気がした。耐えられなくて、俯き、再び壁に腕をつく。


「おい…?」


突然訪れた強い耳鳴りの向こう…アナベルの声が、遠くの方から聞こえた…。


 …あの子のこと、お願いしてもいい?

 …ナイトハルトは寂しがりやだから、出来れば側についててあげてって…


俺にはそう、言ってくれた…けど、本当は、ミラルダに言ったことの方こそ、あの人の本心だったのだろう…。あの人がいなくなって、俺の方こそずっとあの子に守られていた。あの子が側にいてくれたから、彼女に会えない日々を、何とかやり過ごすことが出来たのだ…。

目の前の生意気な学生に言われるまでもない…。不甲斐ない…俺の方こそ父親失格ではないか…。


 久しぶりに彼の身を襲った、眩暈の発作に、ナイトハルトは荒い息をつく…。ここで倒れそうになっても、誰も自分を支えてはくれない。今まで、黙って、無条件で自分を支えてくれていた友人の手に、これからは縋ってはならないのだ…。


 …今の、いやこれから先もずっと、彼には他に、守るべきものが出来たのだから…。


 いや、本当は最初から、彼には守りたいものがあったのだ。それをずっと横取りしていたのは、障壁になっていたのは、他ならぬ自分だ。今更何を…。


 …アルベルトの支えを失えないと、この期に及んで、尚も、俺はあいつに縋ろうとしているのか…。


「しっかりしろよっ!」


低い声は、こちらを思いやる調子を微塵も含んではいなかった。むしろ、叱りつける様なその口調に、ナイトハルトの内に暗い怒りが湧いた。


 …何もわかってないくせに!


怒りで一瞬、眩暈を忘れた。ナイトハルトは、目の前にあるアナベルの顎を掴んだ。…が、その瞬間、腹部に重い衝撃が走った。視線を落とすと自分の腹に、アナベルの拳が食い込んでいた。…ナイトハルトは殴られた腹を押さえ、体を折り曲げると、そのままその場に膝をつく。


「…ざまぁないな」


上からの声には情けも容赦もなかった。


「お前…」

「そう、何度も好きなようにさせるかよ。急所は外したし手加減もしてやった」


言われるほどアナベルに、好きにさせてもらってないような気がするナイトハルトは、

「…ウ、ソだろ…」

と、呟いた。


…それが本当なら、急所を手加減なしで殴られたら、どれほど痛いのだ?!


「そこで寝転がってろよ」


そう言い捨てるとアナベルは、玄関先でうずくまったままのナイトハルトを置き去りにして、一人で自室に戻った。


***


 部屋に戻ったアナベルは、勉強の続きを再開した。集中力が続くまで彼女は問題に取り組み続ける。ふっと、顔を上げると、ウォルターがくれた青い惑星が目に入ってきて、アナベルは、一人で笑顔になった。それからベッドに横になるミラルダの様子を伺った。


ミラルダは規則正しい寝息をたてて、よく眠っている様だった。そういえば…と、ミラルダの父親のことを思い出す。玄関先に置き去りにしたままだ。回復して、一人で勝手に帰ったのだろうか?仮にそうだとしても、この部屋からは車の音は聞こえない。


アナベルは静かに部屋を出た。廊下に出ると、リビングからほのかな灯りが見えたので、アナベルは静かにリビングへと足を向ける。見るとリビングのソファから足が生えていた。近くまで寄ると、思ったとおり、ナイトハルトがソファに横になっていた。おさまりきらない足が、ソファからはみ出している。


…疲れているのは間違いないのだろう。今の照明の強さではよくわからないが、玄関で対峙した時に見た感じだと、顔色がいいとは言えなかった。


アナベルはナイトハルトの寝顔にため息をつくと、自室に取って返す。そのまま、自分が掛けるつもりだったブランケットを手にリビングへと引き返す。エアコンが効いていたので、ブランケットがあろうとなかろうと、体調を崩す心配はないのだろうが、今の時期は明け方、気温が変化する。それに、流石に先ほどはやり過ぎたという反省はあった。


…彼が何を苦しんでいるのか…具体的なことは、自分にはわからない。けれど、ミラルダに甘えているナイトハルトに、腹を立てている自分の心理は、わかっているつもりだった。


 アナベルはミラルダの存在と、その母親のことを知ってからずっと、彼女なりにナイトハルト父娘のことを気に掛けていた。ナイトハルトがミラルダの母親、エレーンという女性を間違いなく愛していて、その娘であるミラルダのことも、娘として愛してるのだと、そう思えることが嬉しかったのだ。これまで、どこか軽薄な印象しかもてなかったナイトハルトが、娘のために良い父親であろうと努力している姿を見るのが、彼女は好きだったのだ。


アナベルは、自分勝手にも、ナイトハルトに父親の理想像を見ていたのだ。だからこそ、彼の不甲斐ない姿に腹が立つのだ。ミラルダのためだけじゃない。自分の勝手な理想に、彼が当てはまらないということに自分は腹を立てているのだ。


…逆転したファザーコンプレックス。いびつな…歪んだ形のコンプレックス。それが、アナベルの怒りの正体だ。自分が欲しく得られなかったものを…そしてこれから先も決して得られないであろう物…父親からの愛情を…アナベルはミラルダを通して、憧れの眼差しで見ているのだ…。


であればこそ、今のナイトハルトに同情する気持ちは、アナベルの中には全く生じなかった。娘に甘えて一人で泣かせる様な父親に、同情する優しさなど、彼女の中にはどこを探してもありはしない。ナイトハルトが言う様に、ある意味で彼女は誘っていたのだ。意図的に隙を作り…ようは何でもいいからナイトハルトを一発、殴りたかったのだ。


…初夏以降ナイトハルトに対して溜まっていた鬱憤を晴らしたい…という気持ちがあったことも否めないのだが…。


(まあ、そうは言っても…やり過ぎたよな…)


ナイトハルトはハリー・ヘイワードではないのだ。…さっきのはかなり立派な八つ当たりだ…。


アナベルは幾ばくかの反省を込めて、ナイトハルトの体に丁寧にブランケットをかけた。


 自室に戻ったアナベルは床敷きのマットの上に横になった。ナイトハルトにブランケットを提供してしまったので、彼女には何も掛けるものがない。


…こういう時に、寝袋があるといいのか…。


ふと、そんなことを思いついて、アナベルはマットの上で丸くなって、笑ってしまった。


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