3-4 ややもすれば憂鬱な…(4)
ルカの背中が、歩道より少し高い位置にあるテラスから完全に見えなくなるまで見送ってから、イーシャが頬杖をついたまま
「…あの子ビクトリアに、目をつけられたみたいね…」
と、呟いた。アナベルはイーシャの呟きに嫌そうな顔になると
「…目をつけられたって他に言い方…」
「んーじゃあ…、一目惚れされた?」
イーシャは顔をアナベルの方に向けると、面白そうな笑顔になってそう言い直した。
「ああ、うん…。そうだね…」
「へぇ、あんたでもわかるんだ?」
「そりゃ、あれだけ露骨だと、いくら私だってわかるよ…」
と、アナベルは疲れた様子でため息をついた。
「…にしても、ザナー先生の次は、さっきの子かぁ…。なんか、わかりやすいっていうのか…」
「そっかな、二人全然似てないじゃん?」
「金髪にコンプレックスでもあるのかしらねぇ…。タイプは違うけど、二人とも分かりやすく美形だし…」
「そこは否定しないけど…」
…オリエ風に言うならビクトリアは“単純に美しい男に弱い女”…ということに、なってしまうのだろう。…セアラとは絶対に気が合わなさそうだ…。
「ま、でも、話聞いて想像してたよりは、まとうもそうだったわ…。支払いのこと気付くだけ、めちゃくちゃな世間知らず…ってほどでもないんじゃない?」
「まあ、そうだね…」
ルカにしても、ウォルターにたかってばかりだという自覚はあったのだろう。…エナかオリエか…二人のどちらかに、強く言われたのかもしれない…。
「迎えに来る家の人って?…あんた、何か訊いてるの?」
イーシャの問いにアナベルはアイスのカフェラテをストローで飲みながら小さく首を振った。
「ううん、何も聞いてない。…ルカはああ見えて、言わないと決めたことは絶対に言わないんだ。結構、頑固」
「ふぅーん、そうなんだ」
…チョロそうに、見えんのにね…と、イーシャは呟いた。
「まあ、あのこの子のことはいいわ。どっちかっていうと、あんたの方こそ“目をつけられた”のかもしれないわね」
「今更だろう?」
「そっかー、ずっとザナー先生のことで誤解されてて、次はあの子かぁ…」
「別に、ルカとはただの友達だ。いくらビクトリアだって説明すれば納得するだろう…」
「ルカがただの友達っていうんなら、ザナー先生とはただの知り合いなんでしょう?で、ビクトリアはあんたの言うことを、まともに取り合わない。そう簡単にいくかなぁ…」
イーシャの、疑わし気な言葉に、アナベルはうんざりと眉をひそめた。
「まあね、確かにそうかも…」
…何を言っても聞いてもらえない…ルカに関して、そういう目に合ったのは、まさしくこのカフェでのことであった。
「あら、さっきから珍しくわかりが早いわね?」
「ルカのこと、前から知ってる友達がいるんだけど、その子が言うには、ルカって入院先の看護師さんたちにすっごい人気があったみたいで…」
「はああ、なるほど…」
「ここのバイト先にスタッフの中にも、気にしてる子がいるし…」
「へぇえ…すごいわね。ひょっとして、ザナー先生と、同じくらい、女性受けするタイプ?」
イーシャの言い方にアナベルはふと妙な興味を持った。
「イーシャは、ナイトハルトの事、カッコいいとか言ってたけど、ルカのことはどうなの?」
唐突な質問に、イーシャは行儀悪くついていた頬杖をやめると、顔を起こした。
「うん?そりゃ、さっきの子は奇麗って思うけど…やっぱり、ザナー先生の方が好みだわ」
「…なるほど…」
アナベルの返答に、何やらにんまりと楽し気に笑うと、イーシャは会話に参加する気配もなく、すまし顔でタブレットに視線を据えているウォルターを一瞥してから
「そう言うアナベルはどうなのよ?」
と、問うた。アナベルはイーシャの視線の動きに気がついた上で、仏頂面になると
「…二人とも悪い奴じゃない。…けど、ちょっと面倒…」
と、ぼやいた。
*
カフェのランチを誘ったが、お店の手伝いがあるからというイーシャと別れて、バイトまで間があるアナベルとウォルターは二人だけとり残された。カフェの近くのバス停で、イーシャを見送ると、アナベルは、ウォルターに向かって
「なあ、前、サンドイッチを買ったお店でランチを買って、セントラル公園で食べないか?」
と、提案した。アナベルの提案に、ウォルターは少し宙を見上げた。
「まあ、それが一番妥当かな?」
「うん」
と、笑顔で頷くと、アナベルはウォルターと並んで駅向こうへと自転車をこぐ。
「お前、ずっと静かだったけど…」
「うん?」
「退屈してたのか?」
「いや、別に…」
そんな心配をされているとは思いもよらなかった。女子同士の会話に入る自信もなければ、気力もない。黙っていたのはその程度の理由だが、一応、関心がある箇所だけは聞いていた。どうでもいい内容の時は、耳が自然と会話の中身を聞き流す。逆も然り…である。
…にしても…
と、自転車をこぎながらウォルターは秘かに嘆息する。
どちらかというとエナよりの美貌と、ロブの中身が合わさると、ルカやサイラスの様なバイオロイドが出来上がるのか…と、エナが聞いたら嫌な顔をしそうな感想を抱いてしまう。
アナベルは終始一貫して他人事の様な言い方をしていたが、去年の今頃、間違いなくアナベルも、ルカにのぼせていたのだ。いわんや、ビクトリアごとき…である。
恋愛事に対するアナベルの手ごわさを、身をもって知っているウォルターからすると、このアナベルを一時でもおとしたというだけで、はっきり言ってルカは化け物だった。
…もっとも今では二人とも、ルカがアナベルの異父兄だと知っているので、別段どうということもない…とまでは言わないが、昨年の懊悩を思い出すと、我が事ながら、自分の健気さが骨身に染みる…と、自分で自分を茶化せる程度には、冷静になれていた。
血縁であることを知ったアナベルが、あらためてルカに恋をする…彼女の性格からして、その可能性は低いだろう。そう思うと、その事実に随分と救われている…という気がしないでもない。
サンドイッチを買うと、そのまま公園へと向かう。アナベルはずっと機嫌が良さそうだった。自転車を駐輪スペースに置くと、荷物を持って公園へと入る。外は暑かったが、空気はからりと乾燥し、公園内にはそれぞれで楽しむ人たちが、まばらに見えた。
アナベルは毎朝トレーニングをしている付近まで足を延ばすと、大きな木陰に視線を向ける。…が、何やら顔をしかめると
「…別のところ探そう…」
と、呟いた。ウォルターは逆らうことなく視線を巡らせ、緩やかに隆起した芝生の丘の上で、近くにある別の大きな木陰を発見すると、今度は自分が先にたって無言で歩き始めた。
***
夏休みが終わる直前の数日間…ウォルターは、仕事でやってくるアナベルと、作業終了後の空いた時間で情報を整理しあった。
エナの最初の双子のバイオロイドが、ルカとサイラスなのは間違いない。アナベルがカレン・ワトソン女史から聞いた話に加え、ルカも当のエナもそう言っていたというのだから。
精子提供者が誰なのか…という点に関しては、全くと言っていいほど情報がない。だが、アナベルも、そしてウォルターも、恐らくそれは、ウォルターの遺伝上の父である、ロブ・スタンリーなのだろうと結論を出していた。
根拠と呼べるものは、特にない。あるとすれば、ほかならぬウォルターの出生書類と、以前アナベルがリパウルから聞いた、エナは昔ロブと何かもめたらしくロブを嫌っているという発言だけだ。ウォルター自身、エナがロブを嫌っていることを知っている。
もうひとつ根拠を上げるとすれば、ウォルターに対するサイラスの憎悪だ…。
サイラスはアナベルの出生の経緯を正確に知っていた。技研でもある程度の年齢の人間しか知らなかったその経緯を、サイラスが知っていたのは、彼が一時期手にしていたルーディアの能力に由来する知識なのだろう。…であれば、自分自身とウォルターの出生に至る経緯を知っていてもおかしくない。
個人的なかかわりなどないに等しいウォルターに憎悪をぶつけ、目障りな邪魔者扱いする理由も、本来彼らがいるべきポジションに、ウォルターがいるためだと解釈すれば理屈が通る。
アナベルは最初、結構な勇気を出して、ルカとサイラスがエナのバイオロイドであるという事実をウォルターに告げたのだが、ウォルターの反応は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。…それもその筈で、ウォルターはウォルターで不正なルートを用いて、その事実をすでに知っていた。…が、アナベルにそのことを、そのまま伝えるわけにもいかない。一瞬だけ彼は困って、別の方面から種明かしをした。
「…マチルダの日記に、そうかなって思わせる記述があったんだ」
アナベルはウォルターのその説明をあっさり信じた。まるきりのデタラメというわけでもなかったから、それは当然だったかもしれない。ウォルターが、双子の母親がエナなのではないかと疑ったきっかけは、嘘偽りなくマチルダの日記の記述のある個所を読んだせいなのだから…。
当然のごとく詳細な内容を知りたがるアナベルに、ウォルターはマチルダの日記の文章を、頭の中で共通言語に翻訳しながら伝えた。
「…まず、“ロブに頼みごとをされた。彼の頼みを聞けば、薬がもらえるかもしれない。こんな考え方は品がないだろうか?まるで、交換条件みたい”…」
「…うん」
「…で“結局、ロブの依頼を引き受けてしまった。薬ももらえたし、これでよかったのだろう。前、ロブが見せてくれた水色の目をした金髪の女子学生…とてもきれいな女性だった…。古い写真を大切に持っているっていうことは、どういうことなんだろう?愛がないと言っていたけど、ロブはあの人のことが好きだったのかもしれない”…かな?」
記憶を辿って詳細を割愛しつつ、マチルダの日記の内容のあらましを、ある意味、適当に訳しながら暗唱し終えると、ウォルターはアナベルの方へと視線を向ける。見るとアナベルは、気恥ずかしさを堪えている様な、奇妙な表情になっていた。
「…どうかした?」
「いや…その…」
「うん?」
「…人の日記の内容なんて聞くもんじゃないな…」
そういう感想なのか…。なんとなくアナベルらしいと言えば言えるのか?
「つまり、マチルダさんが見た写真の女子学生っていうのがエナだって思ったのか?」
「そう、目の色が変わったのかなって…そう思ってみると、ルカはエナに似てる気がして…」
ルカの方が優しい顔立ちだけど…と、ウォルターは付け加えた。
「ロブとエナが高等校の頃の同級生だったっていうのは、前、ロブが言ってたからそれで…」
「その、頼み事っていうのは?」
「何かの書類にサインを頼まれたらしい。詳細は書いてない。マチルダにとっては大したことじゃなかったんじゃないかな?」
「うーん、じゃあ…愛がないっていうのは?なんのことだろう…」
「君がワトソン女史から聞いた話を、今日聞くまでは、僕も何のことなのかわからなかったんだけど…」
「うん…」
ウォルターは宙を見上げた。それから、
「これは完全に仮説なんだけど、バイオロイドを作ることなんじゃないかなって…」
「え?」
「つまり、エナとロブはバイオロイドを作った。…バイオロイドを作るのに、愛は必要ないだろう?」
「…ああ!」
「君が聞いた話だと、双子を作った後、エナは同じ相手ともう一度、バイオロイドを作ろうとしてたんだろう?けど、相手に拒絶されたって…」
「…それで代わりに私を作った…」
「まあ、そうかな」
「つまり、エナが拒絶された相手っていうのは…」
「ロブだ。…その写真の女子学生がエナだとしたら、辻褄が合う」
ウォルターの断定に、アナベルも頷く。
「…けど、そのこととマチルダさんが、どう関係してくるんだ?」
「それは、僕にもよくわからない…。単純に、その時たまたまロブと付き合ってたから、巻き込まれただけなんじゃないかって気がする」
ウォルターの淡々とした説明に、アナベルは、ナイトハルトが言っていたロブ・スタンリー像を思い出して、かなり不愉快な気分になってしまう。
「…その、薬って?」
「前、話したろ?マチルダは子供を欲しがっていて、それで、ロブから“子供が出来やすくなる薬”を貰えるって…」
「え?」
「…排卵誘引剤とか、そういうものじゃないかな?僕も詳しくないから、これはただの推測だけど…」
「それって、簡単に手に入るのか?」
「さあ、どうかなぁ…。けど、ロブはそれから…」
…マチルダをホテルに誘って、お酒を勧めて酔わせてから、マチルダを抱いたらしい…と、言い掛けて口を噤んだ。どういう言葉を選ぼうと、アナベルには聞かせられない…。
「…まあ、僕がこうしてここに居るわけだし…」
なるべく軽い口調で言ってみるが、ため息が混じるのは仕方がない。実験でつくられたアナベルと、そんな奇妙な経緯でつくられた自分との間にある差は、いったい如何ほどのものなのか…。
「…なあ、それって、…その、マチルダさんに子供を…産んでもらう為に、罠を仕掛けたってことなのか…?」
アナベルの言葉にウォルターは顔をしかめた。ウォルター自身も、その可能性を疑っていたのだ。
「それは…よくわからない。ロブが何を考えているかとか…」
…仮にそうだったとして、何のためにそんなことをする必要があったのだ?
「そうか…」
その呟きを最後に、二人の間に重い沈黙が下りた。どちらともなくため息をつく。その沈黙を破ったのはアナベルの方だった。
「…なあ、マチルダさんってさ…」
「うん?」
「スタンリーさんの事、好きだったのかな?」
「そりゃ、付き合ってたんだから、好きは好きだったんじゃないのかな?」
ウォルターがあっさりとそう言ったので、アナベルは絶句してしまう。
「…お前さっきから“付き合ってる付き合ってる”って、簡単に言うけど…」
「マチルダはロブから、高価なドレスやアクセサリーをプレゼントされて、高級レストランでディナーを“ご一緒”したりしてたんだ。付き合ってるって言ってもいいんじゃないの?」
「そんな理由か?」
…アナベルの感想とは別に、その件に関しては、ウォルターは彼なりに複雑な感想を抱いていたのだが、アナベルに言ったら激怒されるのはわかっていたので、賢明にも彼は、ノーコメントを貫いた。
「…じゃあ、スタンリーさんとエナって…」
ウォルターが黙ってしまったので、アナベルが、妙に遠慮がちな口調で、そう切り出した。
…アナベルの本音は、最初からこちらの方にあるのだろうと、ウォルターはため息をつくが、アナベルはそれには気づかず
「…お前、以前、二人は恋人同士だったんじゃないかって、そんなこと言ってたけど…」
と、言葉を続ける。
「いや、最初はそう思ってたんだけど、けど、今はドクター・ヘインズの言う通り、エナはロブを嫌ってるんじゃないかって思ってる」
「けど、それって、今はって話だろう?昔、何かもめてて…つまり、バイオロイドをもう一回作る作らないで…それで喧嘩別れして、スタンリーさんはマチルダさんの方を好きになって…」
アナベルの想像にウォルターは目を細めた。…自分ならともかく、彼女にしてはいやに具体的な妄想だ…。が、ウォルターは、やはり首を傾げた。
「…いや、エナのことを知れば知るほど、ないなって気がしてくる…」
「ないなって…?」
「エナとロブが恋人同士ってこと。仮定の話、君の言う通りだとしたら、それ別人だよ」
「…そんな、エナだって、若いころからあんなだったとは…」
と、言い掛けて、エナ自身が自分は成長しないと言い、ルーディアもエナは昔からああだったと言っていたことを思い出す。
それにロブ・スタンリー氏がナイトハルトの言う通り立派なエロ親父…なのであれば、エナがそんな人に恋をするとも考えにくい。…であれば、自分の想像より、ウォルターの推測の方が正しいのかもしれない。
そう思いながらアナベルは、自分はどっちであって欲しいのだろうかと、混乱しないでもない。エナがスタンリーさんを好きで、その思いが叶わなくて、それでハリーを選んだのだと、そう思った方が気楽なのか、それとも、スタンリーさんもハリーもエナにとっては大差のない存在で、単純にバイオロイドを作りたかっただけなのだと思った方が、救われるのか…。が、改めて考えてみると、どちらであろうと大差ないような気がしないでもない。
「…エナに、訊いてみようか…」
「え?」
アナベルが呟いた、とんでもない独り言をウォルターは、短く訊き返してしまう。
「…なんて…?」
「つまり…」
「ロブとどういう関係だったのかって?」
「…うん、まあ…」
「訊いても無駄だと思う。“嫌いですが、それが何か?”…で終わりだよ」
…確かに、エナならそんな風に言いそうだ…。
ウォルターの見事な返答に、アナベルは天井を見上げてため息をついた…。




