3-4 ややもすれば憂鬱な…(3)
まだ暑さの残る九月の第一月曜日、セントラル高等校は新学期を迎える。
人いきれに酔ったルカは、自分の身を守るように、天井の高い大講義室の白い壁に背中をつけた。左胸を押さえてしまうのは物心ついた時からの彼の癖だ。…妙な痛みは感じない。しかし、気のせいでなくめまいに似た感覚に見舞われている。これは心臓とは関係ない、自律神経の異変だろう。
ふっとその場で、深呼吸をして、人の波から視線を外し、じっと自分の足元を見る。この人の群れの中から、知った顔を見つけるのは、間違いなく至難の業だ。と、俯く彼の肩に、横から誰かがぶつかってきた。
「あん…!」
すぐ耳元で響いた、女性の高い声にルカは反射的に顔を上げた。すると目の前に、豊かな栗色の髪の毛が広がっていた。ルカは一瞬、息をのむ…。
「もう!こんなところに突っ立って!邪魔でしょう!!?」
と、その女性はルカの混乱も知らず、勢いよく顔を上げると、彼の方を睨みつけてくる。
「…ご、ごめん…」
咄嗟にルカは謝罪した。目の前の女性は髪の色以外、彼がよく知る少女に似たところはどこにもない…が、それなりに美人ではあった。謝られた女子学生の方も、ルカの顔を見るなり、表情が変わった。
あからさまに睨みつけていたきつい眼差しが、ルカと目が合った途端、大きく見開かれる。ふいにその眼差しに、媚びた色がよぎる。…が、ルカはその変化には気づかず
「ちょっと、慣れてなくて…大丈夫?どこか痛めなかった?」
少し身を屈め、目の前の女子学生の腕に手を添えた。
自分のせいで女性に怪我などさせてはならない…。女性学生はルカの問いに、何やら頬を赤らめて首を振った。豊かな癖のある栗色の髪が左右に揺れた。
「ううん…こっちこそ、ちょっと焦ってて…。その、乱暴なこと言ってごめんなさいね…」
先ほどとは打って変わって、やけに優しい可愛い声で栗色の髪の女子学生はルカの気遣いに応える。ルカはほっとして笑顔になった。
「…どこも痛くないんだったら、いいんだ。知っている人がいないか…探してたんだけど…」
「…見ない顔だけど…新入生?」
女子学生が今度は反対側に首を傾げる。彼女の問いにルカは小さく笑った。
「ううん、三年。編入してきたばかりで…」
そう告げつつ、心の中で…そして、多分君より年上なんだけど…と、付け加えた。どうにも自分は幼く見えるようだ…。心のどこかで、幼く見えるままでいたいと、思っているからかもしれない…。
「三年…だったら、私とは同級生だわ…」
何やらはにかみながら、その女子学生が教えてくれた。それから
「あの、私、三年の、ビクトリア・アビーっていうの…。よかったらその、あなたの名前…」
言われてルカは「ああ」と、頷くと
「僕は、ルカ…アンダーソン。同じ学年だったんだ…」
と、優しい笑みを浮かべた。
何故だかよくわからないが、ビクトリアはすっかり舞い上がって、思わず胸の前で両手を合わせ強く握ってしまう。
「あの…知り合いって…」
と、ビクトリアが言い掛けると、目の前のルカが不意に背伸びをして、彼女の背後を伺う格好になった。そのタイミングで
「ルカ…っ!!」
と、どこかで聞いたような声がして、ビクトリアは硬直した。
見ると目の前の見慣れぬ奇麗な編入生が、これまでで一番明るい笑顔になって、自分の名を呼ぶ声の主と思しき人物の名を呼んだ。
「アナベル…!」
アナベル・ヘイワードは、ルカの前に立つビクトリアの存在には全く気付かず、真っすぐにルカの前にたどり着くと
「まったく、探してたんだぞ!」
と、叱りつけるような調子でそう言った。
ルカははにかんだ笑みを浮かべ
「…ごめん、心配かけて」
と、応じる。ビクトリアは自分の横に立つアナベルの横顔に視線を向けた。
見ると彼女は目を眇め、深々とため息をついている。
「じゃあ、行こう」
と、彼女は言うなり、ルカの腕を無造作につかんだ。ビクトリアは思わず声を上げた。
「アナベル…ヘイワード!」
突然自分のフルネームを呼ばれ、驚いてアナベルは足を止めた。そのまま自分のすぐ横を見る。
「あれ…?ビクトリア…?」
何でこんなところに?とでもいいたげな、キョトンとしたその表情が…何故だか無性に、腹立たしい…を、通り越して、もういっそ憎たらしいと言っても過言ではない!
毎度毎度、私の邪魔ばかりしやがって…と、ビクトリアは混乱した恨みを込めて、自分より背の高い彼女の顔を下から睨みつけた。
ルカがとりなすように
「知り合いだったんだ…?」
と、曖昧な笑みを浮かべて呟いた。アナベルが
「うん、そう。ルカは?」
と、短くルカに問いかける。ルカは肩を竦めると
「うん…さっきちょっと…」
「あ、そうなんだ?」
目の前でなされる気心の知れたやり取りに、ビクトリアの苛立ちは頂点に達した。彼女は顔を上げるといきなり指をアナベルの額に突きつけ
「アナベル・ヘイワード!!…あんたばっかり…なんで、いっつも…」
と、声を上げた…が、何と言うべきか…それ以上言葉が続かない。
アナベルは脱力しきった表情を浮かべると
「いや、だから…なんで、フルネームなの?」
と、妙なことを訊いてきた。
「へ…?」
「前も言ったけど、ファーストネームで呼んでくれれば…」
「だ、だれが、あんたなんかの…馴合うと思ったら、大間違いよっ!」
言われてアナベルも仏頂面になった。
「あ、そう。…別に私も、馴合うつもりは全くないけど?」
「あの…ひょっとして、仲が悪いの?」
と、ルカが恐る恐ると言った風情で、口を挟んだ。アナベルが答えるより先にビクトリアが首を振った。
「ううん、今のは違うの!ちょっと行き違いがあって!ねぇ、アナベル?」
ビクトリアの豹変ぶりに呆気にとられて、アナベルは咄嗟に返事も出来ない。ビクトリアは声を潜めると
「…ザナー先生とのこと、言うわよ?」
と、妙なことまで囁いてきた。
アナベルは何もかもが一気にバカらしくなった。…と、ルカが二人の背後に視線を向ける。
「あの…君たち、一体…」
疲れた様な声は、上から振ってきた。ルカは破顔すると「ウォルター!」と、声を上げ、緊張を孕み続ける二人の女子学生を置いて、はぐれていた大好きな主人と再会した子犬のごとき勢いで、不愛想な長身メガネの元へとはせ参じた…。
*
アナベルの週末のバイト先、学校近くのカフェで何とかスペースを確保した四名は、オープンテラスの丸テーブルで何とか腰を落ちたつかせた。
「…そりゃ…ぜひとも私も、見学したかったわぁ~~」
と、イーシャが楽し気な口調で暢気なことを言い出した。アナベルは仏頂面になると
「…何がだよ?まったく、意味が分かんないよ」
と、憤然と言葉を返す。
イーシャは頬杖をつくとにやにやとした笑みを浮かべて、苦々し気なアナベルの表情を観察した。…イーシャの態度を見ながら、ウォルターは内心で、イーサンに似てないか?と、イーシャが聞けば、大怒りしそうな感想を抱いていた。
一人、申し訳なさそうに、ルカが肩を竦める。
「その、僕が慣れなくて…」
…そもそも、セントラルの学生で賑わう、このカフェにわざわざ赴いたのも、彼の希望だった。家の人とここで待ち合わせをしているのだそうな。ちなみにイーシャとは、すでに自己紹介済だ。
「…さっきの子…」
「ああ、ビクトリア?」
「その、…実際のところ、仲、いいの?」
と、妙におずおずとした口調で確認を取ってくる。ルカの質問に何故かイーシャが破顔した。
「…ビクトリアは、同じ学年のバイオロイドで…」
と、アナベルが言い掛けると
「彼女の方が、アナベルのこと、誤解してて、変な風に絡んでくるのよねっ!アナベル」
と、イーシャが後を引き取った。
友人の適切な説明に、アナベルは苦虫を噛みつぶしたような表情になってしまう。
…まったく、平日のバイトはなってないな!いつになったら、オーダーを取りに来るんだ?
ルカにどう説明すべきかと頭を悩ませ、その挙句、彼女は内心でカフェのスタッフに八つ当たりをした。
「そういう点もあるけど…別に、仲がいいとか悪いとかって程、親しくもないというのか…」
「そうなんだ?」
「人とは無駄に、争いたくないだろう?」
「うん!」
と、応じるとルカは笑顔になった。
「美人だったね」
と、悪びれず言葉を続ける。アナベル…だけでなく、ルカを除くその場にいた全員が、そのセリフに脱力してしまった。
ようやく注文をきいてもらって、四名はテーブルに運ばれたミネラルウォーターで、喉を潤した。
「新学期説明会では、毎年同じことを説明してるんだ」
「そうそう、出席する必要があるのかって話よね」
「そういえば、イーサン…見なかったけど…」
「来るわけないじゃん。どうせ、家でよろしくやってんのよ」
「このくそ暑いのに?」
「そーそー、父さんもわざわざ同棲させたりしてさぁ」
「…で、ウバイダは結局…」
「うん、父さんの希望通り、専門学校に進んだわよ。イーサンと暮らしだして、前より素直よ。気味が悪いくらい」
と、イーシャは肩を竦めた。
「なら、あいつだって学校…」
「さあ…どうかしら…?」
言いつつイーシャは面白そうに、にやりと笑った。
「…あいつらって、そんななの?」
アナベルは嫌な顔になった。
「そんなんで、イーサン…大丈夫なのか?」
「まあ、残り一年だし?今年こそは卒業できるんじゃない?」
言いながらイーシャはウォルターに視線を向けると、にっこりとする。
「今年は心強い、ブレインもいることだし…」
イーシャの言葉をウォルターは聞き流した。彼は普段通り、タブレットに視線を落としていた。…ルカに学校の説明している筈が、気がつけばただのおしゃべりになっているな…と、心の中でため息をついた。が、聞いているだけの当のルカは、何やらずっと楽しそうだった。
…慣れない編入生に学校の説明を施す…と、称して、結局のところ他愛のないおしゃべりに興じていた二名とプラス二名のテーブルに、オーダーした飲み物が運ばれる。ルカが大好きなリンゴのジュースを飲んでいると、テーブル上の携帯電話が発信音を鳴らした。ルカは携帯を手に取ると、画面を操作し始める。
届いたばかりのメッセージに目を通すと
「…待ち合わせ場所の変更って…」
「え?そうなのか?」
「うん…、なんだろう。学校前のバス停で、待ってるって…」
「家の人?じゃ、そこまで…」
と、アナベルが腰を浮かしかけるのを、ルカは慌てて制した。
「…せっかくだから、アナベルは…みんなはここでゆっくりしててよ…。せっかく並んで席を取ったんだし…」
言いながら、ルカはやや慌ただしく残りのリンゴのジュースを飲んだ。そのまま急いで席を立つと、改めて中腰のままのアナベルに向かって
「…本当に大丈夫だから…。ここまで付き合ってくれて、ありがとう」
と、笑顔でお礼を述べた。
「…いいのか?」
「うん…」
優しい…だが、どこか有無を言わせぬ笑顔で、ルカははアナベルに向かって短く頷く。アナベルはため息をついた。
「じゃあ、うちの人によろしく…」
「うん、じゃあ、また明日」
と、言うとルカは踵を返した。残された三名が見送っていると、テラスと店を繋ぐ出入り口で急に向きを変え、三名の方に戻って来た。
「…ルカ?」
首を傾げるアナベルの前に立つとルカは
「あの…支払い…」
と、律儀にも言い出した。言いながら何故か視線を上げて、ウォルターの方を見つめた。
ウォルターはため息をつくと
「…ここは払っておくから、また、いつか別の機会に返してくれれば…」
…おそらく、ウォルターがそう言うだろうと期待していたのか、ルカは悪びれず笑顔になると
「うん、わかった。今度何かご馳走するね」
と、何やら嬉しそうに頷くと、今度こそ踵を返した。




