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オールドイースト  作者: よこ
第3章
353/532

3-3 愚者の顛末(14)

二月のある寒い夜、珍しく父の帰宅が早かった。ウォルターとイブリンは、夕食の後片付けをしていた。ありえないほど早く、玄関から物音がして、テーブルの上を拭いていたイブリンは、慌てて玄関まで出迎えに行った。ジョンはイブリンを伴いキッチンに入ると、流しの方に立つウォルターの姿に目を止めた。目が合って、ウォルターは一瞬、顔を強張らせた。


「ウォルター」

「…」


息子から返事はなかったが、ジョンは顔を上げると、壁にかかる時計を見上げた。


「今から三十分後、私の書斎に来なさい」


ウォルターは無反応だった。黙って父の顔を凝視する。が、ジョンは構わず

「イブリン、後でいい、コーヒーを持ってきてくれないか?」

と、娘に言った。イブリンは「わかりました」と、短く応じた。


 父がキッチンから出ていくと、イブリンはほっと肩を落とした。見ると弟は、壁にかかる時計を凝視していた。まるで三十分後を、今からカウントダウンしている様だった…イブリンはやけに厳しい弟の眼差しに、微かな不安を覚えた。



 三十分後、ウォルターはジョンの書斎に赴いた。進路のことでそろそろ父に呼ばれる頃だと、見当はついていた。ノックして書斎に入ると、ジョンはウォルターを一瞥した。机の上には空になったコーヒーカップが乗っていた。ジョンは静かに切り出した。


「随分と頑張ったな…」

「…何がですか」

「成績だ。おじい様が生きておられたら、喜んだだろう」

「…そうですね…」


くじけそうになるたび、思い出したのは、何故かフェンロンの顔だった。…それと、憎しみに満ちた父の…。ウォルターはゆっくりと息を吐くと、この部屋で見た、自分に向けられた父の眼差しを頭から振り払った。


…今、自分の目の前にいるジョンは穏やかに見えた。こうして向き合って話しをするのは、随分と久しぶり…それこそ最後にここで話してから一年以上は経つというのに、まるでその空白がなかったかのように、ジョンの態度は自然だった。


 成績の話が出たからには進路の話になるのだろうと、ウォルターは身構えていた。が、ジョンは全く違うことを言い出した。


「おじい様の家のことだが…」

「はい…」

「タニアはあれを売りに出したいようだ」

「え…?」


予想外だった。あの家を、手放す…?


「引っ越しするのではなかったのですか?」

「ツァイの事業が、資金繰りに困っているらしい。あの家は維持費用だけでも結構な額になる。あれを担保にして、資金を借りたりしていたようなのだが、立ちいかなくなっている様だな」

「ですが…」


…何が“ですが”なのだろうか?自分に一体何が出来る?


「問題は、書斎の本だ」

「本?」

「ああ、フェンロンはあれをお前に残している」

「え…僕に?」

「そうだ。叔父は退官してからすぐに、遺言状を作成して、年に一回は内容を確認していた。本は最初からお前に残されていた」

「フェンロンが…」

「遺言状がなければ、ツァイがとっくに売り払っていただろう。珍しい…希少価値の高いものも含まれているようだ…」


予想外の内容に混乱して咄嗟に言葉が返せない。自分が、祖父の残した書籍をまるで図書館の本であるかのように好きに扱っていても、伯母が非難してこなかった理由がようやくわかった。もっとも勉強に励むようになってから、祖父の書斎にもあまり行けてなかったのだが…。


「本はお前の物だが、お前の後見人として、監督責任は私にある。タニアに家のことで相談されていたが、だからといって、私の一存で決めるわけにはいかない」


イブリンと衝突して以来、この家を訪れることのなくなった伯母だったが、父とは外で会っていたということか…。ウォルターはなんとなく不快になった。…元を質せば、全部伯母が悪いのに…。いや、悪いのはマチルダだ…それに…。


「お前の承諾が得られれば、叔父の蔵書はしかるべき方法で処分しようと思っている」

「処分…?!」


ウォルターの言葉にジョンは顔をしかめた。


「いや…言葉が悪かった…どこかに寄贈して…」

「いやだ!!」

「…ウォルター…」


まさか話を聞きもせず、感情的に反発されるとは思ってもいなかった。ジョンは気難しい表情になると

「まだ、寄贈先は定まってないが…」

「嫌だって言ってる!なんだってタニア伯母の都合で、あの家を手放さなくちゃならない?」

「お前の家ではない!」

「僕の家だ!ずっと住んでた!」

「…ウォルター…」


ジョンにとっても、タニアにとっても、そしてイブリンにとっても叔父の家は大事な場所だった。なのに、この息子は、まるで自分だけが傷ついているかの様な顔をして…


 子供だ…だから一方的に被害者の立場に立って大人を非難できる。子供にしか持ちえない特権…。


「本のせいで家を売れないっていうんだったら、絶対にあの本は手放さない!僕の本なんだろう?」

「後見人は私だ。いくらお前が非現実的なわがままを言おうと、家の権利はタニアが持っている。最悪、本を投げ出して家を売ることなど…、方法はいくらでもある!」


ウォルターは歯ぎしりした。


「…何が後見だ!親でもないくせに!!」

「…ウォルター!!」

「そうだろ?あんたが言ったんだ!!僕は自分の子供じゃないって!」

「あの時は、お前に…」

「…言えばいいじゃないか、実の子でもないのに、責任だけは押し付けられて、本当はうんざりしてるんだろ?責任感だけで…」

「ウォルター、私は、そんなことは考えてない」

「なら、タニアの言う通りだ!ジョンはマチルダに騙されて…」


いや、そうではない。ジョンは最初から知って…。知っていたのに、どうしてずっと自分のことを引き受けてくれてたんだ。それほどマチルダを愛していたのか?マチルダはジョンを裏切っていたのに…。


 ウォルターには理解できなかった。ジョンは厳しい表情になると

「騙されていたわけではない…いや、ある意味騙されていたのかもしれないが…」

と、言ったが、言いながらその顔に冷笑が浮かび上がった。


彼はロブ・スタンリーに事実を告げられるまで、マチルダを微塵も疑わなかった自分自身の愚かさを、今更のように嘲笑った。


 ジョンのその笑みを目にして、ウォルターは顔を強張らせた。


 …まただ、さっきまで穏やかなジョンだったのに…自分のせいで、ジョンもイブリンも、みんな傷ついて…。


 ウォルターは歯を食いしばったまま俯いた。俯いて

「本は僕が何とかする。だから、手放さないで欲しい…です…」

と、かすれた声でそう告げた。ジョンはため息をつくと

「何とかするというのは?」

と、切り返す。


「どこか、保管してもらって…」

「貸倉庫か何処かに?紙の書籍は繊細だ。適当な方法で保管など…台無しにするだけだ。お前の方がわかっているだろう」

「…わかってます…」

「ならば…」

「少し、時間を…」


ウォルターは顔を上げた。


「家を…今すぐ売るっていうんじゃないんでしょ?」


ウォルターの表情にジョンはため息をついた。子供の頃からこの息子は、本を読んでいない時は、大抵、どこかぼんやりとしていて、何を考えているのかよくわからない子供だった。


タニアは情緒が欠如しているのではないかという疑念を口にしたが、ジョンは真逆の印象を持っていた。むしろこの子は、情緒が豊かで、そして感情過多気味だと…。意識的にか、あるいは無意識のわざなのか、自分の感情を制御するために、表情を殺しているのだろうと…。


今、目の前の少年は表情を殺すことも忘れて、無防備に傷ついた表情を見せていた。取り繕うことが出来ないほど、傷ついて…。


「…タニアに確認してみよう…」

「…すみません…」

「謝ることはない。もう少し早くお前に相談しておくべきだった」


俯いて、ジョンは謝罪した。以前、イブリンに言われた様に、やはり自分は逃げてしまうのだ。自分が傷つけてしまった愛しい者から…。


 ジョンの謝罪にウォルターは目を見開いた。ジョンは息子の眼差しに気がついて、黙って顔を上げた。


「どうした?」

「…いえ…」


短く言うと、ウォルターは顔を背けた。ジョンは

「話はそれだけだ。時間を取らせて悪かった」

と、言うと、息子に退室を促した。



 次の日からウォルターは学校帰りに、フェンロンの書斎の書籍を、秘かに持ち出して、自室に保管するようになった。毎日少しづつ、だが、確実に、ウォルターのさして広くもない勉強部屋は、書籍に埋まっていった。彼はなけなしの小遣いをはたいて、保管用のボックスを何個か購入したが、それもすぐに一杯になった。イブリンが、弟の部屋の様子に気がついた時には、ベッドと勉強机の周囲以外の床は、保管ボックスで埋め尽くされていた。その光景にイブリンは絶句した。


「…足の踏み場もないじゃないの!」

「まだ、上に置ける」


イブリンはこの光景を背景に弟から初めて事情を聞かされた。


「だって…だからって、おじい様の書斎の本を全部なんて…到底無理だわ…」

「うん、本棚の収容能力の高さを実感するよ。使用空間の体積量は同じの筈なのに。けど、箱のおかげで、こいつらの誘惑を絶つのはずいぶん楽になったけど…」


弟の感想は微妙に…いや、かなりズレていた。わざとやっているのだろうか?


「どうするつもりなの?」

「やれるだけはやってみる。タニアのことだ、嫌がらせに路上に捨てるかもしれない」

「まさか…!伯母さまだって、おじい様が大事になさってた本に、そんなひどいことはしないわよ」

「どうかな、僕に残したってんで、腹いせに、何をするやら…」

「ウォルター…」


イブリンには、ウォルターの方こそ、むきになって、タニア伯母に腹いせをしているように見えた。


「お父様には…」

「待ってくれって言った。伯母がいつあの家を手放すつもりなのか、そのうち言ってくるだろう。それまでに一冊でも多くここに持ち出してやる」

「ウォルター…」


イブリンは自分の部屋にも少し置くようウォルターに進めたが、当面はいいと弟に断られた。その代わりに、保管用のボックスの出資者になってくれと依頼された。イブリンは嘆息と共に、弟の願いを一応は引き受けた。


 三月に入って間もない頃、ジョンはウォルターの通う中等校から、メッセージによる連絡を受けた。非常時の連絡先として、勤務先の電話番号と、端末のアドレスを記載して学校側に提出していたのだ。


学校からの連絡は、来週のいずれの日にか、進路の件でお時間が取れないかという内容だった。文面を仔細に読み進む内、ジョンの眉間に皺がよった。


彼は、来週のスケジュールを確認すると、業務を調整して半日分の休暇をスケジュールの中から捻出すると、学校側に返信メッセージを送信した。その日、ジョンは、適当な時間に仕事を切り上げると、真っすぐに帰宅した。



 イブリンは、折りたたまれた保管ボックスを前にしてため息をついた。


「…いくら、まだ上に置けるといっても、…無理じゃないかしら?」

「まあ、そうだね…」


言いながら、ウォルターは今日の分の収穫を丁寧に箱詰めにしている。問題は、これを上に持ち上げる…という力技の方だった。


「無理しないで…」


イブリンは、はらはらと弟の姿を見守った。


 帰宅したジョンは、普段はキッチンから自分を迎えに出て来る娘の姿がないことに訝りながら、二階へと上がった。階段の途中で、娘と息子の、声が聞こえてきた。


「…やっぱり無理なんじゃ…」

「いや、今部屋にある奴を、先に移動させて…」

「…何をしている?」


背後から急に父の声がして、飛び上がらんばかりに驚いたイブリンは

「きゃあ!」

と、悲鳴を上げてしまった。


廊下に跪いて、保管ボックスと格闘していたウォルターは、父を見上げると

「お父さん…」

と、やや呆然としたような声を上げた。


 ジョンは廊下の様子に目を留めたが、それに関しては何も言わずに、自分を見上げる息子に向かって

「ウォルター、今すぐ私の書斎に来なさい」

と、言い捨てると、返事も待たずに踵を返した。


 父の様子に、不穏なものを感じて、イブリンは気遣わし気な眼差しを、その背中に向けてしまう。そのまま、弟の方へと向き直る。


「ウォルター…」

が、ウォルターは姉の見慣れた無表情だ。書籍の詰まった箱のことは一旦諦めて、立がると、無言で父の後を追った。


 …フェンロンの家のことだろうか?売りに出す時期が決まって…。


 迂闊にもその時のウォルターは、祖父が自分に残してくれた書籍を、いかにして守るべきかということにしか、頭が回っていなかった。


 父の書斎のドアは開かれていた。室内に入ってドアを閉める。ジョンはまだ、コートを脱いでもいなかった。


「あの…」

「学校の方から、今日、私の業務用のメッセージアドレスに通知が届いた」


ジョンは真顔で、なんの前置きもなしにそう切り出した。ウォルターは咄嗟に反応できない。


「…通知によると、これまで私は仕事が忙しく、三者面談をことごとく欠席してたそうだが、私はお前から一度も三者面談の予定について、聞かれたことがない」

「…それは…」

「確かにイブリンの時にも、私はタニアに任せきりだった。今も、意識しないままイブリンにお前のことを任せているのだろう。これまでわたしの方からお前に進路のことを確認したことも無いのだから偉そうに言う資格がないことはわかっている」


…ジョンに、進路のことで何か言われたら、反論に使おう思っていた理屈を、先にジョンの方から言われてしまった…ウォルターは、反撃のために用意していた武器を、戦いが始まった時点で、失ってしまっていた。


「だが、お前が私に、あるいはイブリンに対しても、自分の進路を意図的に隠していたのも事実だ。前にイブリンに確認を取った時、あれは、お前がこう言っていたと言っていた。“近い場所で適当に決めている”とな。お前はイブリンに、自分が希望している進路について、正しいことを伝えていたのか?」


…イブリンとジョンが自分の進路について話をしていた…というのも初耳だ。だが、そんなことは些末事だろう。


 ウォルターが内心、どう反論しようかとうろたえていると畳みかけるようにジョンが

「オールドイーストに行きたいのか?」

と、やけに重々しい口調で言い出した。ウォルターは、横向きに俯くと

「いえ…」

と、答える。が、ジョンは息子の微かな返事を聞き流し

「…三年になってお前が、急にやる気を出して、勉強を頑張り始めた時には、…そう、私は誇らしかった。お前がやれば伸びることの出来る子だということはわかっていた。ただ、お目のやる気が勉強の方へ向いていないだけで…無論、それであっても構わないとも思っていた。だが…」


やけに饒舌に、一息にそういうと、ジョンは一旦言葉を切った。


「…越境編入枠に、入りたい…そういう目的があったのだとは、夢にも思わなかった…」


父の言葉に、ウォルターは奥歯を噛みしめた。父の言う通りだった。だが、オールドイーストに行きたいから、勉強に励んでいたわけではない。ウォルターの望みをかなえる…この家を出るという目的に一番適していたのが、その越境編枠に入ることだった…ただ、それだけだった。


「父親に会いたいのか?」


ウォルターの葛藤には気づかず、ジョンは勝手に話を進めた。ウォルターは父の…ジョン・リューの言葉に弾かれた様に顔を上げた。


「…いえ…」

「…実の父親に会いたいから、セントラル高等校を志望して、ロスアンの高等校に願書を提出することを拒んでいるのか?」

「違います…」


…自分はただここを、家を離れたいのだ…いや、そうではない、離れた方が…自分がこの家にいない方が、父とイブリンのためになると、そう、思っているだけで…。


「イブリンは知っているのか?」

「いえ、知りません」

「誰にも相談せずに一人で決めたと?」

「…はい…」

「そうか、そうまでして…」

「あの…お父さん…」


ウォルターの呟きを、だが、ジョンは聞かなかった。


「わかった。話は終わりだ」

「お父さん…」

「学校には来週の水曜日に時間があると返信した。お前の行きたいと思う気持ちを、邪魔立てする気はない!」


ウォルターは父の剣幕に…静かに、だが確かに怒っている彼の言葉に、そうではないと、叫びたくなって、激しい混乱に襲われた。…そうではない?ならば、一体、父に…。


 …自分は父に、なんて言って欲しかったのだ?


 その時、初めて、自分の本心に気がついて、ウォルターは己の幼稚さに息をのんだ。


 …行くなと、言って欲しかったのだ。お前は、私の息子だと…。


 ウォルターは何も言わずに踵を返すと、そのまま黙って退室した。残されたジョンは、苛立たし気にコートを脱ぐと、怒りに任せてコートを床に叩きつけた。


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