3-3 愚者の顛末(2)
…揺れている…。
静かに自分が揺れている…。マチルダはおぼろげな意識の中で、自分が揺れているのを感じた。
…お兄様…。
…ああ、これはあの夏の時と同じ、ジョンが私を抱いてくれているのだ…。
うっすらと目を開くと、薄明りの中、目の前にロブの姿が見えた。彼はマチルダが意識を取り戻したのに気がついて、当り前の様にキスをしてきた。マチルダは、ぼんやりとキスを受けた。
「マチルダ…」
顔を離すと、耳元に顔を寄せ、うっとりとロブが囁く。彼も彼女と一緒に揺れていた。薄明りの中、よく見ると、ロブの着衣はひどく乱れていた。
…一体、自分は…、いや、彼は、何を…。
「…ああ、マチルダ。…君は…」
…最高だ…。耳元で、ロブの囁き声が聞こえた。
ロブの言葉で、唐突に覚醒したマチルダは、自分が置かれている状況にパニックに陥った。反射的に声を上げるが、即座に口元をロブの手で覆われる。
マチルダの口をふさぎ、上から抑え込むように体重をかけたまま、ロブは動きを止めない。
マチルダは自由になる手で、ロブの肩を叩いたが、ロブは一向に堪えた様子もなく、むしろ楽し気な笑い声を上げた。マチルダが諦めて力なく腕を下ろすと、ロブは彼女の手首を掴んで、そのまま彼女に深い口づけをしはじめた。
自分を抱く男がジョンではないことをわかっていながら、マチルダは行為の最中、思わず「あ、あ、お兄様…!」と、叫んでいた。仰天したロブは、無論腹を立てて、彼女を叱りつけた。
マチルダは泣きながら、何故か謝罪させられたが、謝りながら彼女は、ジョンとの初めての行為の後、苦笑と共にジョンに『出来れば“お兄さん”じゃなくて、ジョンと…名前を呼んでくれるかな』と、言われたことまで思い出してしまっていた。
そうしてロブは、最後までマチルダを抱いた。
…最後まで…半ば放心した意識の中で、呆然と涙を流しながらマチルダは、そう思っていた。
…ロブがこんなことをするなんて…
いまだに彼女は信じられなかった。二人だけで会う様になってから半年は経つが、その間一度もロブはマチルダに触れようとはしなかったし、その様なそぶりすら見せなかった。つねに紳士的で、同情的で…そして、時折、熱い眼差しで彼女を見つめる…。その、眼差しに、マチルダは秘かな悦びを感じてはいたが…けれど、それ以上のことは、お互い、決してなかったのだ。…それが…。
彼女は間違っていた。それもとことん間違っていたのだ。これが最後ではなかった。ロブはマチルダの背中に手を回し、ベッドの上で彼女の上半身を起こした。それから彼女を抱きしめると、耳元で囁いた。
「マチルダ…ドレスを、脱いで…とてもよく似合っているのに、このままじゃ皺がひどくなってしまうよ…」
マチルダの頬を伝う涙を、指で優しくぬぐいながら、ロブが命令した。マチルダは、項垂れて小さく首を振った。ロブはマチルダの耳元で囁いた。
…君も、よかったんだろう?…
耳にかかるロブの吐息に、マチルダは小さく喘いだ。マチルダの反応に、ロブは声を出さずに笑うと、言葉を続ける。
「ジョンに…知られてもいいのかい…?」
その言葉に、マチルダは顔を自分を抱く男の顔を見上げた。彼女の目の前には、ロブの優しい笑みがあった。ロブはドレスの上からマチルダの体のラインを辿ると
「脱ぐんだよ、マチルダ。自分で…」
と、言葉を続けた。
ロブから贈られた、淡いパープルのドレスは、マチルダにとっても、お気に入りの一着だ。それが…確かにひどい状態になっていた。首や耳を飾ってたアクセサリーは、丁寧に外してあった。身に着けている物全て、下着以外はロブからの贈り物ばかりだ。数時間前、自宅で、自分が美しく見える様、ロブのために…夫以外の男のために…装ったのは自分自身だ。
マチルダは、ゆっくりとロブのその命令に従い、自らドレスを脱いだ。そうしていながら、ロブが再び彼女の体をベッドに横たえた時、マチルダは泣きながら小さく首を振った。
「…もう、許して…」
マチルダの嘆願を優しい笑みで聞き流し、ロブはうっとりと彼女に触れた。それから耳元でささやいた。
「契約書にサインをしただろう?」
「…契約書?」
「そう、君は私のための卵子提供者になるんだろう…」
マチルダは首を振った。…話が、違うではないか…。
「ジョンに伝わってもいいのかい」
その言葉にマチルダは顔を引きつらせた。ロブは言葉を続けた。
「私は知られても一向に構わない…。君が決めるんだ、マチルダ…」
…すでに既成事実は作られていた。ロブのその言葉が、止めになった。彼女は、ささやかな抵抗すら放棄した。
それから、何時間、二人でベッドにいただろう。その数時間、ロブとマチルダは“愛の行為”を充分に堪能した。
払暁を間近に迎える頃、彼は、彼女の長い黒髪を手に取り、口づけをしながら、仕上げの言葉を彼女に告げた。
「今日の夕方には出張からジョンが戻って来る。だから、マチルダ。今日、私と愛し合ったように、君が彼を誘うんだ。出来るよね…」
***
スクールバスを降りると、イブリンは自宅へと急いだ。バス停で待っていてくれる筈の、母の姿がなかったからだ。
初等校に入学するまで、イブリンは母と共にロスアンの祖父母の家で暮らしていた。イブリンの初等校入学をきっかけに、父のいるオールドイーストのセントラルシティにやってきたのだ。それまでは年に二回くらいしか会えなかった父と暮らせる。イブリンは父が大好きだったので、素直に嬉しかった。勿論、母や祖父母のことだって大好きだったが…。
初等校は楽しくて、イブリンはすぐに街に慣れた。しかし、母は逆にホームシックにかかってしまった。それでも、こちらにいる知り合いのお宅を訪問したり、母なりに馴染もうと努力していることは、幼いながらイブリンにも伝わってはいた。それが、ロスアンの祖母が亡くなってから、母はふさぎがちになり、以来、前以上に、家に閉じこもる様になった。
が…半年前、こちらで新しいお友達が出来たのか、ずっと明るくなり、出歩くことが多くなった。母が元気になってくれたのは嬉しかったが、時々、放っておかれているような気がして、イブリンは不安と寂しさを覚えるようになった。
昨日は自分がお友達の家に泊まりに行ったのだ。イブリンを友達の家まで送ってくれたのは、父の雇ったチャイルド・サポーターの女性だった。なので、イブリンが母の姿を見たのは、昨日の朝が最後だ。父も出張で不在だった。母は一人で寂しかったのかもしれない…。イブリンは走りながら、そう案じた。
玄関まで辿り着くと呼び鈴を鳴らした。が、母が出てくる気配はない。イブリンは合鍵を使って家の中には入ると
「お母様。どこにいるの…」
と、声を上げた。しばらく待つが母は姿を見せない。また、外出しているのだろうかと、イブリンは心細くなった。だったら、サマンサを呼んでおいてくれればいいのに…。
馴染みのチャイルド・サポーターの不在を、母の不在以上に恨めしく思いながら、イブリンは洗面室へ行くと、通学用のカバンを下ろし、手を洗ってうがいをした。イブリンがうがいをしていると、洗面所の大きな鏡に、母の姿が写った。イブリンは仰天して、急いで振り返った。
「お母様…」
まだ外は明るいのに、母はネグリジェを着ていた。顔色がひどく悪い…。
「…イブリン、ごめんなさい…」
項垂れて、ひどく辛そうな様子で母が謝罪をした。イブリンは首を振ると、母の側に近づいて、その細い腕に自分の手を添えた。
「お母様、具合が悪そう…。お医者様を…」
と、呟いた。が、母は激しく首を振った。
「いいの…少し、頭が痛いだけだから…」
「もうすぐ、エマが来てくれるわ。お父様も今日はいつもより早く戻られるって…」
気のせいか一瞬、母の体が痙攣したように、激しく震えた。イブリンは驚いて咄嗟に手を引っ込めてしまう。
「イブリン…ごめんなさい、私、もう、少し休んでもいいかしら?」
「え…ええ」
娘の返事に力なく頷くと、マチルダは、娘と自分用の寝室へと引き返した。
夕食前に、通いのハウスキーパーのエマが時間通りに訪れた。お嬢様から若い奥様の容態がよくないことを聞いて寝室に様子を伺いに向かうが、入室を断られた。エマはあっさりとあきらめた。
ここのお宅の奥様の気まぐれにはすでに彼女は慣れていた。お嬢様とおしゃべりをしながら、夕食を作り終えると、所定の時間が来たので、帰り支度を整える。と、旦那様が戻ってこられた。エマは簡潔に奥様の容態を告げると、時間を無駄にすることなく終業した。
*
ジョンは自室に戻ると支度をとき、妻と娘の寝室のドアをノックした。マチルダとイブリンが、セントラルシティに来た時から、妻は娘と共に眠り、夫婦の寝室は別々になっていた。
ノックの音とジョンの声に、ベッドの中で丸くなり身を固くしていたマチルダは、咄嗟に喘いでしまう。…どんな顔をしてジョンに会えばいいのか、彼に、どう、返事をしたらいいのかわからない…。マチルダは子供の様に眠ったふりをすることにした。
しばらく待つが返答はない。ジョンは心配でついてきていたイブリンと一緒に、寝室へ入った。ベッドには一見誰もいない。だが、掛け布団がいくばくか盛り上がっていた。
「お母様、…お休みなのかな…」
父の腕にしがみついたまま、イブリンが囁いた。ジョンは穏やかに頷くと
「そうだね。眠らせてあげようか。目が覚めた時にはよくなっているかもしれない」
父の言葉に娘は頷くと、やはり小さな声で
「今日の食事の後片付けは、私がやるわね」
と、言った。ジョンは微笑むと、イブリンの頭を二、三度なでて、二人で静かに部屋を後にした。
掛け布団の中で身を潜めて、マチルダは惨めさのあまり、一人、涙をこぼした。自分などいなくても…ジョンもイブリンも互いがいれば、満足なのではないか?ここには、自分の居場所はどこにもない。幾度となく念じた言葉を…ロブと会う様になってから、思い出さなくなっていたその言葉を…マチルダは一人、心の中で呟いた。
ロブと…彼とのことを思い出して、マチルダは、呼吸困難に襲われた。喉をおさえて喘ぐように息を継ぐ。そのまま、突然襲ってきた衝動がおさまるまで、身を固くした。
…あんな男のことを、今までずっと信じてたなんて…自分は、どこまで愚かだったのだろう…。考えているうちに、ジョンとイブリンに対する怒りが、ロブに対する怒りにすり替わる。マチルダは固く目を閉じると、布団の中でうつ伏せになり、マットレスにしがみつくようにして、あらゆるところから襲ってくる様々な感覚が行き過ぎるのを、じっと待った。
その発作が行き過ぎると、喘ぐように息を継ぎながら、マチルダは考え始めた。
…ロブが渡した薬が、偽物などではなく、本物で、本当に妊娠しやすくなる薬なのだとしたら、このまま…もし、万が一、自分が身ごもりでもしたら、すぐにジョンの子供ではないことが、わかってしまう。自分がジョンを裏切り、他の男と関係を持ったことが、明らかになってしまう…。
その時になってレイプされたのだと言って、はたして信じてもらえるだろうか?クローゼットにも、ジュエリーボックスにも、ロブからの贈り物が無数にある。…忌まわしい…あれらを、全て処分しなければ…けれど、どうやって?
十五の時…イブリンを授かることになったあの夏以来、ジョンはマチルダを抱かなくなった。母娘がセントラルシティに来てからも、その状態は変わらなかった。イブリンを授かり、婚姻関係を結んでからというもの、二人にはずっと夫婦関係がなかったのだ。
***
…十五歳…
その頃のマチルダは、どうしてもジョンが欲しくて欲しくて…、大好きな従妹のお兄様を、誰にも捕られたくなくて、思い詰めてそのあまり、かなり思い切った行動に出た。
十五歳の夏休み、あければロスアンの高等校に進学することが決まっていたその年…マチルダは、両親を騙して、オールドイーストに住んでいた、十歳年上の従兄のジョンの元を訪れた。突然現れた従妹に、ジョンは優しかった。一年以上会っていなかったのに…。昨年の夏に自分がしたことのせいで、ジョンに避けられていると思っていたマチルダは、ジョンの態度に変わりがなかったので安堵した。
夜中、どうしても寝付けないと嘘を言い、ジョンの寝室のドアをノックした。ジョンは起きていたのか、すぐに応じてくれた上、優しい彼は年下の従妹を気遣い、お茶の準備までしてくれたのだ。その、無防備な背中に、マチルダはしがみついた。
…お兄様はいつまでも私が、子供だって思ってる…。
去年の夏休みもそうだった…。ロスアンに帰省していた、大学院生だったジョンをマチルダは、相談したことがあると偽って、散歩に連れ出した。散歩の途中で、疲れたと駄々をこねる自分に付き合って、公園の芝生の上、ジョンは屈託なくマチルダの隣に腰を下ろした。
当時、十四歳だったマチルダの二人の親友は、年上の男性と積極的に交際しており、マチルダはすっかり耳年増になっていた。二人の親友はマチルダにもボーイフレンドを紹介するというが、マチルダが欲しかったのはその頃からジョンだけだった。
…お兄様…
…なに?マチルダ…
何気なくこちらを向いたその顔に、彼の頬に手を添えると、マチルダはジョンにキスをした。親友たちから聞いていた通り、恋人同士のキスをする。驚いたジョンは従妹を引き離そうとしたが、マチルダはジョンの頭に手を回し益々深く唇を求めた。何故かそのうち…気がつくと、互いに唇を求めあっていた。
離れてから最初に、ジョンの口から発せられた言葉は…どうして…?だった。
(…お兄様のことが、…私、ジョンが好きなの…)
だが、マチルダは本当のことが言えなかった。
…友達が、みんなもう経験してるって、マチルダは遅れているってバカにされるの…
マチルダの返答にジョンは小さく笑った。
…ああ、君たちぐらいの年頃って、そうだね…
…お兄様、怒ってない?
…怒っては、いないけど…誰かれ構わず試さない方がいい、君は女の子なんだから…。
…うん…。
誰でもいいからキスがしてみたかっただけ…。そう、思われているのだと分かった…。
(お兄様とだから、キスがしたかったの…)
けれど、その時のマチルダはその言葉を口にすることが出来なかったのだ…。
夏と冬、そして春にも帰省していたジョンは、その夏休み以来、戻って来なくなった。ジョンの両親はすでにいない。母親は彼が幼い頃に家を出ており、父親も彼が大学生の頃に亡くなっているのだ。だから、ジョンはいつでもマチルダの住む、叔父の家に戻っていたのだ。
…それが…。
ジョンにはセントラルシティに恋人がいるのかもしれない…
それまで、マチルダがライバルとして意識していたのは異母姉のタニアだけだった。けれど、十四歳の時にジョンと交わしたキスをきっかけに、マチルダは彼に恋人がいるのかもしれないと疑う様になった。ジョンが欲しくて自分から仕掛けたキスで、マチルダは暗い猜疑の穴にはまり込んだ。
ジョンには恋人がいて、自分は避けられている…そう思い込んだマチルダは、友人たちに勧められるまま、大学生と付き合ってみた。しかし、初めての交際相手からされたキスは、マチルダに強い嫌悪感しか与えなかった。彼女はキスを強いられた…ことを理由にその大学生に別れを告げた。…自分はやはりジョンでないとダメなのだ。
…絶対にお兄様の恋人になる…。
彼女は固い決意と共に、辛抱強く夏休みを待って、オールドイーストのセントラルシティを訪れたのだ。
夜中、自分が子供ではないことを、なんとか従兄に理解させようと、ジョンの背中にしがみつき、マチルダは熱っぽい声で嘘をつき続けた。優しい従兄は彼女の悩みに耳を傾け、優しい助言をくれた。けれど、彼女が欲しかったのはそんなものではなかったのだ…。
背中にしがみつく自分の方に、ジョンが振り返ってくれた時、マチルダの口から思わず笑みがこぼれた。
…抱いて、お兄様…お兄様のものに、なりたいの…。
愕いたジョンは、自分の腰に回されたマチルダの腕を振りほどく。
…マチルダ、何を言って…。
…私は本気…
ジョンから引き離されマチルダは、その場で自ら衣服をはぎ取った。寝るための衣類は簡単に脱ぐことが出来た。狼狽えたジョンは慌てて、手を出すが、彼女は既に下着だけの姿になっていた。
…抱いてくれないって言うんだったら、このまま外に出るわ。
…マチルダ、何を言ってるんだ?そんなことをしたら…
…だったら抱いて、抱いてったら抱いて!
マチルダは、半ば地団太を踏みながら声を上げた。自覚のないまま彼女の頬を涙が伝い落ちた。
…マチルダ…。
そう呟くとジョンは顔をしかめ、次の瞬間何故か吹き出した。
…ジョン…!
…やっぱり君はまだ子供だ…
そう言いながらジョンはマチルダの頬に手を添えると、優しく彼女の涙を拭った。
…ジョン…
…おいでマチルダ、一緒に寝よう…。
優しくそう告げると、ジョンは下着姿のままのマチルダを、自分の寝室へ伴った。ジョンは言葉通りマチルダと同じベッドで眠ったが、待てど暮らせど手を出してきてくれない。じれたマチルダの方がジョンに襲い掛かった。…無論、ジョンは仰天して、ベッドから転がり落ちそうになった。二人で暴れ回るうち、結局はジョンの方が降参した。
長らく女性を腕の中にしていなかったジョンにとって、マチルダの破天荒なアプローチは、抗い続けるにはあまりにも柔らかく、甘い誘いであり過ぎた。
初めてだったマチルダにジョンは優しかった。彼女は話に聞いていたほど苦痛を覚えることも無く、その最初の一回から、その行為が与えてくれる愉悦に心から浸りきっていた。
…きっと相手がお兄様だからだ…。
その夜から毎晩のようにマチルダはジョンの寝室を訪れた。ジョンは困惑を隠さなかったが、最後にはマチルダを自分の寝室に入れてくれた。次の日になるとジョンの方も開き直ったのか、男性用の避妊具を用意していた。だが、それを付けた上での行為にマチルダは不快感を覚えた。
彼女はジョンがつけるそれをはっきりと拒絶して、避妊薬を持っているとぬけぬけと嘘をついた。ジョンは…おそらく彼女の嘘に気がついていたのだろう。それでも、結局は彼女の要求に従って、出来る範囲で避妊をしつつ、彼女を抱き続けた。
もう最後になるその夜、ジョンは冬の帰省を…叔父にマチルダとのことをきちんと話すことを、約束した。それから不安そうに
…君をロスアンに返すのが心配だよ…
と、呟いた。
…どうして?
マチルダはベッドの上で首を傾げた。ジョンは困った様に言い淀んだ。
…どうも、君は性的な感受性が強いんじゃないかって気がする…
ジョンの言葉にマチルダは不愉快そうに口を尖らせた。
…それ、どういう意味?私がインランってこと?
…いや、まあ…
…もう、ジョンが相手だからなのに、どうしてわかってくれないの?何回も言ってるのに!
…うん…
…浮気なんか絶対にしない!もし浮気したら、私を捨ててもいいわ!
何も知らない十五歳のマチルダは、ジョンに向かってそう、宣言した。ロスアンに戻って自分の身に訪れる出来事と、それに続く日々のことなど、その時の彼女には想像することも出来なかったのだ。
***
マチルダは、ただ、ジョンが欲しいというだけで、彼を誘惑し、半ば脅すようにして、抱いてもらうことに成功した。その結果、イブリンを授かったのだ。品のない言い方をすれば、これ以上ないほどの上出来ぶりだとも言えた。
しかし、本質は幼かったマチルダは、この時点で、自分が母になるという覚悟など、全く出来ていなかったのだ。異母妹の軽率な振舞に、従兄に好意を寄せていた姉のタニアは、露骨に、マチルダを非難…いや、はっきりと罵倒した。マチルダはすっかり、打ちのめされ、自分の恥知らずな行いが、どれだけジョンの障害になったか思い知らされた。
妻子を養うため、大学院での学業の継続を断念したジョンは、セントラルシティにある開発局に就職した。だが、イブリンを生んだマチルダは、親元を離れ、知らない場所で娘を育てることに、強い不安を抱いた。ジョンは幼い妻を思いやり、また、自分の軽率な行いを反省し、若い妻に無理を強いることはなかった。だが、いつまでも二人が離れ離れでいることをよしとしなかったマチルダの父、フェンロンが、孫の初等校入学に合わせて、半ば強引に、娘を夫の元へと送り出したのだ。
だが、これまでの経緯が二人の態度を頑なにしていた。一見平穏な夫婦の間には、終始一貫して見えざる緊張感があった。夫は以前以上に仕事に時間をつぎ込むようになり、妻は益々自分の殻に閉じこもるようになった。
十五歳の時の、自分がしたように、再びジョンを誘惑するのだ…。ロブが言っていたように、それしか方法はない…。もし、妊娠していなかったとしても、それならばそれで、ジョンの子を授かるはずだ。むしろ、その確率の方が高いのではないだろうか?マチルダはあてのない可能性にすがった。
だが、出来るだろうか、今の自分に…。そう思ってからマチルダは目を閉じた。…かつての自分に出来たことが、何故か今は出来ないと感じる。だが、やらなければならない…。でなければ自分は、間違いなくジョンに捨てられるだろう。それだけは絶対に避けなければ…。
この時のマチルダの脳裏には、やるかやらないか、出来るか出来ないかしかなく、ジョンにすべてを告白するという選択肢は、ついぞ思い浮かばなかった。




