3-2 この手の中の小さな命(7)
ウォルターが不在中、掛からない電話と並んで、アナベルを悩ませ続けた古典の課題は、ナイトハルトの協力のお陰で、なんとか最後まで攻略することが出来た。アナベルはほっとして、思わずその場で気を失いたくなった。
「これで、堂々とあいつを迎え撃てるな」
と、ナイトハルトが何やら嬉しそうに笑った。アナベルは「まあ…」と、曖昧に頷いた。
意外なことにナイトハルトの教え方は丁寧で、わかりやすかった。ウォルターが“尊敬している”というのも、あながちお世辞でもないのだろう。ひょっとしたら、ウォルターの教示自体がナイトハルトに倣ったものなのかもしれない…。
ナイトハルトは、アナベルに内心で見直されているとも知らずに、時計を見上げると
「結構、いい時間になっているな、お前、これから予定は?」
と、尋ねてきた。アナベルは首を振ってから
「特にない…はずだが…あの、ナイトハルト…」
「なんだ?」
「いや、助かった。ありがとう…」
と、ようやくお礼の言葉を口にする。ナイトハルトは驚いて目を見開いたが、すぐに笑うと、
「見直したか?」
と、唐突にも図星をついてきた。アナベルは狼狽えてから
「え、いや…」
と、首を左右に振り向ける。さきほどからミラルダが妙におとなしい…。
「あれ?ミラルダ?」
見ると少女はソファの上で眠っていた。ナイトハルトは黙って立ち上がると、どこかに姿を消したが、軽めのブランケットを手に、すぐに戻って来ると、手にしていたブランケットを広げて、眠るミラルダの上に静かに掛けた。
それから、優しいが、どこか辛そうにも見える表情で娘の寝顔を見守った。アナベルはその表情に、戸惑いながら
「あの…」
と、切り出した。ナイトハルトは顔を上げると
「…なんで予定より早く帰ってきたのか、気になるのか?」
と、アナベルの質問を先取りした。
「うん…ホームシックって…どうかしたのか?」
ナイトハルトはミラルダのソファの側に腰を下ろすと、ため息をついた。
「別に、たいしたことじゃない。トリオールに行ってから、すぐに毎年、あちらの家族で行っている避暑地へ移動したんだ。そこでは、毎年会う向こうの友達に会ったり、向こうの家族と亡くなった大祖父の話をしたり、ずっと真面目な顔だったが、それなりに休暇を楽しんでたと思う。あの家の家族のことも、ミラルダは慕っているし…。ただ、トリオールの家に戻ってから、少し調子を崩して…。あの場所にいると、どうしても、思い出すんだろう…」
「それって…」
ママのことだ…。アナベルはミラルダが見せてくれた、写真の中のミラルダと彼女の母親の笑顔を思い出した。
「…春休みに…ここに来る前も、そうだった…。あの家ではミラルダは、ずっと泣いて暮らしてたんだ…」
「そうだったんだ…」
「ああ、セントラルのおうちに戻れば、ママに会えるって…昨日の夜、俺の部屋にやって来て、泣きながら言い出して…」
それきりナイトハルトは口を噤んだ。端正な顔には何の表情も浮かんではいない。
…ナイトハルトも、ミラルダに負けず劣らず辛いのだろうと、アナベルはため息をついた。彼が普段通りの彼でいるためには、ミラルダが元気でいることが、絶対条件なのかもしれない…。
「あの…私は帰るから、二人でゆっくりしてろよ。その、邪魔をして…」
と、言いながらアナベルが立ち上がりかけると、ナイトハルトが驚いたように顔を上げた。
それから
「お前…自分の課題が済んだら用無しってことか?」
と、咎めるような視線を向けて、とんでもない言いがかりをつけてきた。アナベルは絶句して、世にも情けない顔になってしまった…。
「違…!あのなぁ、私なりに、気を使って…」
「気の使い方が変だろうが?ミラルダが起きて、お前が帰ったって知ったら、また泣くぞ!」
「なんの脅しだ?大体“また”って、ミラルダは泣いてはいなかったぞ?」
「そりゃ、こいつは好き勝手やってるようで案外気遣いなんだ!お前に迷惑を掛けたらいけないと思って、気を使ったんだろうが?」
「…お前、お前の方こそ、ミラルダを盾にとって、好き勝手言いやがって…。大体、私は一度もミラルダが好き勝手やってるなんて、思ったこと無いぞ!」
「そうか…」
「どっちかっていうと、それはお前だろう?」
アナベルの断言に、ナイトハルトは顔を背けた。…そう言われたら、確かにそんな気がしないでもない…。だが、素直に認めるのも癪に障った。
「…俺は俺なりに気を使っている…」
「何の弁明だよ?」
アナベルはあきれて、勢いよくそう切り返す。その生意気な表情に、ナイトハルトは、結構本気で、イラッとしてしまう。
「…お前…本当に寝室にご招待してやろうか?」
「いや…意味が解らないんだけど?」
アナベルもアナベルで、結構本気で怯えてしまって、言い返しながらも、可能な限り後方に身を引いた。アナベルのその表情に、ナイトハルトはため息をつく。
…どうもいけない、こういうのは本当にやめにしないと…。
目の前の女子学生に本気で見限られたら、自分にとってもダメージは結構大きいだろう。ミラルダのことで色々頼んでいるという、実際的な面を差し引いたとしても…。そう、自覚するとナイトハルトは無言で立ち上がった。
「お、おい?」
と、言いながらアナベルは仰天して、のけぞった。ナイトハルトはアナベルを見下ろすと
「いや、悪かった。今のは、冗談にしても言い過ぎた。ちょっと、冷たい物でも持ってくる。時間があるんだったら、ミラルダが起きるまで、お前にもここに居て欲しいんだが、いいか?」
と、急に真面目な調子になってそう言い出した。ナイトハルトのその様子に、アナベルは混乱しながらも
「あ、うん…」
と、応じた。
どうにも何を考えているのか今一つ掴みがたい奴だなと、リビングを出て行く、ナイトハルトの後姿を見送りながら、アナベルはほっと安堵の吐息を付いた。
ナイトハルトは、よく冷えたアイスティーのグラスを二つ持って戻って来ると、リビングテーブルの上に無言で置いた。そのまま踵を返すと、どこからか、小型のPCを持って戻って来て、先ほどと同様、ミラルダの眠るソファの側に腰を下ろすと、足を組んでその上にPCを乗せ、何やら作業をし始めた。
アナベルは、ナイトハルトの動きをなんとなく見守っていたが、作業に集中しているようにしか見えなくなってきたので、彼女は彼女で自分の課題の見返しを始めた。…妙なことになったな…と、思いながら、結局アナベルはミラルダが目を覚ますまで、ナイトハルトの家のリビングで、そんな風に時間を過ごした。
*
…よく寝てたのに、ごめんね。でも、今、寝過ぎちゃうと夜眠れなくなるから…。
…ママ…
ほっとして、ミラルダは寝返りを打った。よかった、やっぱりママは側にいてくれる…。
ふっと目を開くと、不思議な光景が目に入った。…アナベル?
視線の少し先、背中を丸めてリビングテーブルに伏せているのは、ミラルダのチャイルド・サポーターのアナベル…の様に見えた。
…そう、確か、アナベルはウォルターが置いていった古典の課題に取り組んでて、わからないところをナイトハルトが教えていた。
…ママもパパとこんな風だったのかなって、思って…。
ミラルダはソファの上で片肘をついて上半身を起こした。自分の足元から
「起きたのか?」
と、ナイトハルトの声がしたので、ミラルダはそちらの方に視線を向ける。ナイトハルトはリビングの絨毯の上に腰を下ろし、組んだ足に小型のPCを乗せている。その傍らで、寄り添う様に、フィマオが丸くなっていた。ミラルダには見慣れた光景…。
いつの間にか自分には薄手のブランケットが掛けられおり、足元の方でカフェオレが丸くなって眠っていた。どうりで足元が動かしにくいと思った。
ミラルダはゆっくりと足を引き抜くと、ソファに座り直す。それから視線をアナベルの背中に戻すと
「アナベル、寝ちゃったの?」
と、静かな声で囁いた。ナイトハルトは少し可笑しそうに笑うと
「ああ…」
と、答えた。
「課題は?」
「無事に終わった。お前が起きるのを待ってた筈だったんだが…」
ナイトハルトの優しい声を聞きながら、ミラルダはふっと息をつく。目覚める前に聞いたママの声は、ロントの町に住んでた頃の記憶だ…。キッチンテーブルでうたた寝をしていたミラルダを優しく起こしてれた…。
「ナイトハルト…ごめんね…」
「どうした?」
「うん…早く帰りたいって…」
「ああ…」
ナイトハルトはミラルダに向けていた視線を、眠るアナベルの背中に戻した。
「まあ、いいんじゃないか。カークたちも移動で、疲れていただろうし…」
「うん…」
ナイトハルトは俯くと
「あそこに行くのは嫌か?」
と、尋ねた。ミラルダは首を振った。
「湖の方へ行くのは好き。友達にも会えるし、あの場所はママも好きだった…。おばさんやおじさんにも、また会いたい…」
「そうか…」
「カークおじさんたちと話、出来た?」
「うん、大丈夫だ。必要ならまた行くかもしれないが、どの道、学校が始まってからになるから、そうなったら、お前はまた、アルベルトの家に泊まらせてもらうようにするから、何も心配するな…」
「うん…」
「手続きが済んだら、同居人から養女に昇格だな。お前も忙しいな」
何故だか、アナベルの方へ視線を向けたままで、ナイトハルトは冗談でも言う様に、そんな風に言った。ミラルダもつられた様に、眠る女子学生の背中を見てしまう。
「…ママが起こしてくれたんだよ」
ポツリと、ミラルダはそう言った。ナイトハルトは、ミラルダの足元側のソファに、背中を預け、立てた片膝に腕を置いたままの姿勢で
「そうか…」
と、やはりポツリと答えた。
ミラルダはナイトハルトが、殊更否定をしなかったので、少しだけ安心した。
「アナベル、疲れてるんだね…」
「ああ、こいつ…人の家でうたた寝するのは、これで二度目だ…。身構える割に危機意識が低い…大丈夫なのか、まったく…」
「そうなの?」
「ああ…」
…自分が原因で、アナベルが妙な噂の餌食にされたことは知っていたが、その時の数分のうたた寝がその中傷の発端だということまでは、ナイトハルトは知らなかった。
「…金曜日まではお休みだって言ってたね」
「まあなぁ、こいつは働き過ぎだし、勉強もし過ぎだし…といっても、まあ、仕方がないんだろうが…」
「そうなの?」
「これで数学と化学は評価Aっていうから、随分偏ってる。ウォルターがいなかったら、歴史も古典と同じくらい、壊滅的だった筈…らしい」
「うん…試験前はいつも…」
と、言い掛けてミラルダは口を噤んだ。ナイトハルトが娘の方に顔を向ける。
「…ん?なんだ?」
「ううん、なんでもない。ねぇ、ナイトハルト、金曜日のプール、アナベルも誘ったらダメかな?」
「金曜日のプール?ああ、お前が学校の友達と行くって約束してるあれか…」
「ナイトハルトもついて来るんでしょ?」
「ついてくるって…」
…なんだ、嫌なのか?と、ナイトハルトは不貞腐れたくなった。
彼としても、別段、行きたくて行くわけではない。ただ、週末までは休みを申請しているし、ミラルダの同級生、ジーンとトリクシィが一緒に行くのはいいとして、その付き添いがジーンの兄だという大学生だけだというのが、不安なのだ。
放課後ケアやサマーキャンプならばともかく、行楽地に娘が遊び行くのに、せいぜい、一、二度会った程度の大学生一人に、娘を預けて放りっぱなしにできるほど、心臓が丈夫でないだけで…。だがこれが、お兄さんではなくてお姉さんだったら、間違いなくもう少し喜んで付き添っていたのであろうが…。
「まあ…こんなでも、一応は女だしな…」
「え?何が?」
「いや、確かにお前の同級生のお兄さんと二人だけで引率っていうのも、外聞がよろしくないという気はしていた」
「そんな、変な心配をしていたの?」
ミラルダにはそんなつもりはまったくなかった。ただ、見たところ、アナベルは夏休み中も、遊んでいないようだったし、たまにはいいんじゃないかと思っただけで…
「ウォルターも誘えばいいんじゃないかな?明日には帰ってくるんでしょ?」
「…まあ、そうか…」
…いや、野郎はこれ以上必要ないが…。
父娘が勝手な相談をしていると、話し声が響いたのか、アナベルがむくりと頭を起こした。それから再び俯くと両手で顔を覆った。
「…ね、眠い…」
「なら、まだ、寝てろよ…」
背後から聞こえるナイトハルトの声に、アナベルは大袈裟に項垂れた。額がリビングのガラステーブルにぶつかって、ゴンッと派手な音を立てた。
「ア…アナベル?」
その音に仰天して、ミラルダが狼狽えて声を上げた。
「ああ…また、お前の家で、寝てしまったのか…」
ナイトハルトは笑いながら
「気にするな、なんだったら、俺の…」
が、最後まで言えなかった。アナベルが凄い目で睨んできたからだ。
「お前…まだ、言うか…」
「いや…」
無論、最初から全くの冗談だ。寝室に女性を入れたことなど一度もない。去年の秋にエレーンと再会してから、机の引き出しにしまい込んでいた彼女の写真を引っ張り出して、寝室のベッドに置いてあるし、ミラルダが持っていた写真のデータも全部貰って幾枚か飾ってあったし…。ミラルダはともかく、他の誰かに、彼女の写真を…今の寝室を、見せるつもりは全くなかった。
「今度の金曜日、ミラルダと同級生でプールに行くんだが、お前も付き合うか?」
ナイトハルトは手っ取り早く話題を逸らした。アナベルは顔を上げると、座ったまま、父娘の方に体を向けた。
「プール?ひょっとしてジーンとトリクシィ?」
アナベルの言葉にミラルダが笑顔になった。
「うん、そう。ナイトハルトと…エドウィンも、付き添いで来るよ。一人じゃ暇だから友達も連れて来るって。アナベルも一緒に行かない?今週はカフェのバイト以外は、お休みになったんでしょ?」
アナベルは少し首を傾げた。
「…でも、明日にはあいつが帰ってくるから、多分、ハウスキーパーの仕事が…」
アナベルの返答に、何故かナイトハルトの方が冷ややかな表情になって
「…そんなに奴の家で二人だけで掃除とか洗濯がしたいんだったら、お前だけ一人で早目に帰ればいいだろう」
と、言い出した。あまりの言い草に、アナベルは絶句し、ミラルダは眉をひそめた。
「…ナイトハルト、なんでそんなひどいこと言うの?」
「いや、ひどくはないだろう…」
「ひどいよ!もう、信じられないんだけど?」
…そんなにひどいことを言っただろうか?せっかく、たまには息抜きでもと思ったのに、仕事仕事とうるさいから…。
ミラルダが抗議してくれたので、アナベルはため息をついて聞き流すことにした。
「私はさて置き…リースを誘ってあげたら?あいつの方こそ、ずっとここに猫たちの様子を見に来てたんだ。今日はたまたま用事があったから、私が来ただけで。それに、ちょっと元気ないんだ、だから…」
と、言い掛けて思いつく。そうだ、セアラを誘ってみたらどうだろうか?セアラは夏休み中ずっと忙しそうで、遊んでいる風でもなかったし…。
「ナイトハルトがいいんだったら、セアラを誘ってもいいかな?夏休み中忙しそうでさ、全然、遊んでなかったみたいだし、たまには息抜きでも…」
アナベルの言い草に、今度はナイトハルトがげんなりした。
「…誰の話だ?」
「え?何が?」
「それはお前も同じだろう?たまには息抜きでもって…。ああ、面倒だな!ついでに、ウォルターも誘えばいいだろう?」
「…ウォルターもついでにって…?ええ…でも、なんで?」
途端にアナベルが狼狽えだしたので、ナイトハルトは余計にイライラしてしまう。
「なんでって…、あいつだって遊んでないんだろう?もう夏休みは終わるんだぞ?」
「なんの脅しだ?」
「ナイトハルトのことは放っておいて、ダメかな、アナベル…。さっきまでウォルターも一緒にって話してたの。エドウィンが車を出してくれるし、ナイトハルトもいるから、リースとセアラも一緒に行けるよ?」
と、ミラルダが真面目な口調で誘ってくれた。
…確かに、ウォルターを誘うかどうかはともかく、金曜日から仕事を始めればいいのかどうかとか…とにかく何の連絡もないので、さっぱりわからないのだ。なのに、なんだって自分は律儀にあいつに義理立てをしているのだ?せっかくミラルダが誘ってくれているのに…。
「そうだね…。じゃあ、リースとセアラにも訊いてみるよ」
「ウォルターには?」
と、ミラルダが首を傾げる。アナベルは仏頂面になって
「まあ…なんか連絡があったら、訊いてみるけど、人見知りだし、プールとか行かなさそうだし、訊いても無駄な気はするけど…」
アナベルの返答に、ミラルダは悲しげな顔になり、ナイトハルトは呆れた様に、息をついた。
「お前…何を拗ねているんだ?」
「べ…別に、拗ねてはいない…」
と、やや憮然とした表情で、アナベルは答えた。




