3-2 この手の中の小さな命(3)
ウォルターは目を覚ますと、ベッドサイドに置いてある小型の置時計に手を伸ばして時間を確認した。普段起きている時間より軽く二時間は遅い時間帯だ。…夜中に何度も目が覚めた。イブリンの忠告に従って、意地を張らずに素直に電話を掛け直せばよかったのだ。
昨日は日曜日だった。カフェのバイトは三時まで…。ザナー先生が言っていた、ミラルダの友達のお兄さんとか、カフェで一緒にバイトしてる奴とかに、食事に誘われたりとか、してるんじゃないのか?
…無論、あり得ない。いや、それ自体はあり得るが、彼女が誘いに乗るなんてことはあり得ない…。あり得ないことはわかっている。わかっているくせに、何故、嫌な想像をして自分をイジメているのだ?…我ながら、下らない…。下らなすぎて、自分の精神的自傷癖に、すでに食傷気味だ。
…クソッ!
心の中で自分に向かって悪態をつくと、ウォルターは勢いよく上半身を起こした。今日は月曜日で、彼女はルカと一緒にセンターでバイトだ。ベビーシッターだって?楽しそうじゃないか…。
春休みも離れてたけど、こんな状態にはならなかった。一体全体どうしたというんだ?改めて自分に問いかける必要もない。…答えはわかっていた。あの時より今の方が、彼女が近い。…近いという希望が、その希望を失いたくない執着が、自分を病ませているのだ…。
…バカバカしい…。こんな状態、彼女が知ったら、ぶん殴るか蹴りを入れてくるか…。
…だったら、ぐずぐずしてないで、電話でもなんでもサッサと掛けてくればいいじゃないかっ!!
自分に向かって、そう、声を上げるアナベルの姿が見える気がした。…まったく、自分は本物のバカだ。
心の中で、自分に向かってそう宣告すると、ウォルターはベッドから抜け出した。
キッチンへ向かうと、食卓はすでに片付いていた。キッチンに入ってきたウォルターの姿に目を止めると、ジョンが微笑んだ。
「珍しいな」
「すみません。お父さんたちは…」
「先に済ませた。イブリンも出かける予定があるようだ」
父の言葉に流しの方にいたイブリンが顔を上げた。
「あなたとお父様が二人で出かけるっていうから、わたしの方は久しぶりに短大の頃のお友達とお買い物に行くことにしたのよ」
と、微笑んだ。
「こんな機会でもないと、意外と一緒の時間って作れなくて…」
と、イブリンがため息をついた。言いながら姉は手際よく、ウォルターの朝食の配膳を始めた。
「ごめん…」
流石に申し訳なくなってくる。イブリンは笑うと、「よく眠れなかったの?」と、核心をついてきた。イブリンは、サラダや卵の乗ったプレートを、テーブルの上に置きながら、顔を上げる。ウォルターと目が合うと、すっと、目を細めた。
「人の言うこと、素直に聞かないから…」
…なんで、そんな、なんでもかんでも御見通しなんだ?ウォルターは苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
ジョンが何やら面白そうな表情で自分と姉のやり取りに耳を澄ませているような気がしたが…多分、自分の自意識過剰だ…、と、ウォルターは無理やり自分を納得させると、姉が支度をしてくれた朝食を、無言で食べ始めた。
配膳を終えると、イブリンは自室に戻った。ウォルターが自分で食後のコーヒーを準備していると、戻って来て顔を覗かせた。
「待ち合わせの時間があるから、後片付けは…」
ウォルターは顔を上げた。見ると姉は何が違うのか、普段よりきれいに見えた。
「ああ、うん…」
と、ウォルターは頷いた。ジョンの用事が何なのか、聞いてないのでわからないのだが、様子を見たところ、特に急いでいる風でもない。イブリンは頷くと父に向かって
「では、お父様、行ってきます」
と、声を掛けた。ジョンは「ああ」と、短く応じた。
イブリンの姿が見えなくなると、ウォルターはなんとなく
「あの、普段フレディと会う時でも、あんな風ですか?」
と、対面に座るジョンに向かって尋ねてしまっていた。ジョンは
「なんのことだ?」
と、首を傾げた。
「いえ、なにか、おめかししてませんでした?」
言われてジョンは再び首を傾げた。
「…いや、そうなのか?」
父が気にしてないということは、自分が気にし過ぎなのか?
「フレデリックと会うのに、今更、めかし込む必要などないのだろう」
タブレットに視線を落とすと、ジョンはそう呟いた。ウォルターはコーヒーを飲みながら
「あの…いつから、二人のことを、認めてたんですか?」
と、訊いてみる。戻ってからこっち、ずっと気になっていたのだ。ジョンは顔を上げると、意外そうな表情になった。
「なんだ、お前はイブリンから何も聞いてないのか?」
と、言い出した。
「え…はい」
「今年の二月…いや、三月だったか、イブリンにフレデリックに会せるよう言ったのだ」
「…ジョンが…ですか?」
「そうだが?」
「あの…なんでまた…」
三月といえばまだ、半年くらい前の話だ。それに、自分が手紙を出した後になる。だが、そのことは、特に関係はない…ただの偶然なのだろうが…。が、ジョンの返事はウォルターの予想を簡単に覆した。
「お前の手紙を読んだからだ。お前がこの家の人間に戻るという意思を見せたから、とにかく、イブリンの恋人に会ってみようと…」
「え?僕の…。あの、何の関係が…」
ジョンはまっすぐウォルターの方へ視線を据えると
「大ありだ。さほどの実態もないが、まだ一応は、私はここでのリュー家の惣領なのだ。つまりこのままなら、次はお前が惣領ということになる。無論、惣領が男児である必要はないが、お前がロブ・スタンリーの息子のままならば、私の次はイブリンということになってしまう。そうなると、余計に、イブリンの配偶者が誰でもいいという訳にはいかないだろう」
と、言った。
ウォルターは目を見開いた。…そんなことで?ウォルターの表情を、どう読んだのかジョンは穏やかに笑うと
「…どうする?手紙に書いたことを取り下げたくなったか?」
と、言い出した。ウォルターは目を伏せると
「いえ…そんなことはない、ですが…」
と、呟いた。
「お前の考えはそこまで及んでいるべきだった…とは言わない。だが、私は立場上そのことは常に頭にあった。それにこだわっている人間がいる以上、形だけとはいえ、そう装い続けなければならないのだ」
ウォルターは混乱した表情でジョンを見つめた。
「あの…いいのですか?」
「何がだ?」
「確かに、お父さんの言う通り、僕はそこまで考えてはいませんでした。けど、僕は…」
…本当は、ジョンの息子ではないのだ。なのに、形だけとはいえ、今の惣領の男子の第一子だというだけで…。
「お前はフェンロンの孫だ。私の父が亡くなった後、実質、家の総領はフェンロンだった。彼に男子がいれば、その子が次の惣領になっていただろう」
「ですが…」
ウォルターの逡巡に、ジョンは笑顔になった。
「お前は、子供の頃はマチルダによく似ていたが、成長するにつれ、フェンロンに似てきたな」
「…そうですか?」
ジョンは頷くと
「…フェンロンも若い頃は、結構、女性を泣かせていたらしい。なかなかの美男子だったわりに、中身は完全な研究者タイプというのか、内向的な人だったようだからな」
ジョンが、こんな風に親し気に、フェンロンのことを話題にするとは思いもよらなかった。ウォルターは咄嗟に反応に困ってしまう。
「あの…そうですか…」
「まあ、そういう女性泣かせなところは似ない方がいいな」
…いや、そもそもそんな話ではなく…。
「いえ、僕がフェンロンに似ているという話ではなく…」
「先ほども言ったが、お前はフェンロンの孫だ。それに、何もずっとその役をやれというわけでもない。タニアはよくわかっているし、彼女の子供は男児だ」
「ルゥジェンが後を引き受ける、ということですか?」
「いや、そうと決ったわけではない。ただ、何もかもお前が一人で背負う必要もないということだ。私もまだまだ老け込む歳でもないし、お前がその役を引き受けなければならなくなった時、お前の裁量で好きにすればいい。ただ、今のままで…つまり、お前が他人の息子として申請されている以上、仮に…タニアが協力的であったとしても、どうしようもないということだ」
「あの、タニア伯母はそのことは…」
「流石にそこまでは知らない。知っていたら、早々にイブリンに誰か、…ツァイの血筋か、ジンの…、つまり、私の伯母の血筋をあてがっていただろう」
そこまで言うとジョンは再び、ウォルターの顔を見つめた。
「幸いお前の顔はリュー家の顔だ。お前のことを知っているのはタニアだけだし、タニアも無駄な混乱を起こそうなどとは考えないだろう。それでも、もしお前がロブの方に似ていたら、流石に私としても、お前の申し出を受け入れることは難しかっただろうな…」
…父の発言は、すでに何もかもを、完全に割り切っている様に聞こえた。以前、ジョンが、ウォルターに出生の秘密を明かした時に見せた怒りを、今の彼からは微塵も感じることは、出来なかった。
ウォルターは再び混乱した。…どうしてそこまで自分を受け入れることが出来るのだ?いや…、それが自分を受け入れる本当の理由なのだろうか?では、ジョン自身の感情はどこにあるのだろうか?家のために自分の申し出を受け入れるだけで、本当は彼に無理を強いているのではないのか?
だが、戻ってから自分と接するジョンの様子に、無理をしているような不自然さは感じない。…今のジョンは、ウォルターのよく知る、穏やかな父だった。まだ祖父の家で暮らしていた頃、月に数日会うくらいだった頃の…自分に事実を告げる前のジョンに戻っているように思われた。
ジョンが口にしたことは、親族に対する印象のことだったが、彼自身の本音でもあった。ウォルターがまだ乳児だったころ、ジョンは彼を自分の息子として育てる決意をしたが、それでも、息子がロブ・スタンリーに似ていたら、息子として受け入れるのに、多大な努力を要しただろう。幸い、息子は妻のマチルダに、あるいは、彼の祖父フェンロンに…ジョンが敬愛する叔父に似ていたので、ウォルターを息子として受け入れるのには、それほどの努力を必要としなかった。それでも、一度、彼は、息子にいわれのない怒りを、ぶつけてしまったのだが…。
ウォルターは混乱したまま顔を伏せ、手にしていたコーヒーカップに視線を落とした。
「…だから、マチルダは男の子を生むことに、こだわったんでしょうか…」
思いついたままポツリと口にしてから、視線を感じて、顔を上げた。見ると、ジョンが厳しい眼差しでウォルターを見ていた。
「お前はどうしてそのことを知っている?」
「…え、それは…」
「ロブがお前に何か、話したのか?」
「え?」
予想外の質問に、ウォルターの方こそ戸惑った。ジョンはウォルターの表情から、自分の質問が見当違いであることを悟ると
「いや、違うのならいい…」
と、短く答えた。それから
「お前はロブとは、一月に一度は会っているそうだが、彼からは何の話もない…。そうなのか?」
「話…ですか?」
「そうだ」
…話と言われても、そもそもロブとまともに話をしたことすらないのだ。彼は大抵の場合女性を伴っており、話すことと言えば、その女性にお世辞を言うか、食事をしているレストランの評判についてか、さもなくば着る物の事か、人の噂くらいのものだ。
「…バイオロイドというのは、月に一度、遺伝提供者に会わなければならないものらしくて、僕はバイオロイドでもなんでもないんですが、この権利だか、義務だがよくわからない決まりには、従わないといけないようなのです。それで、月に一度会っているだけで…つまり、何か具体的な目的があって、会っているわけではないのです。それに、その面会も、ここ数か月行われていないので、最近、スタンリーさんと会うことすらありません」
ウォルターの説明にジョンは顔をしかめた。
ジョンに説明をしながら、ウォルターも改めて気がついた。そういえば、ここ数か月…つまり退院してから、一度もロブとは会っていない。思い出すと、一番、最近ロブに会ったのは入院中だ。…お見舞いに来たロブは、やけにあおい顔をしていた。
ジョンは一度、頷くと、壁にかかる時計を見上げた。そして
「ああ、結構な時間だな。そろそろ私たちも出かけようか」
と、言い出した。ウォルターはすっかり冷めてしまったコーヒーを慌てて飲み干すと、急いで食事の後片付けをすませた。
外出の準備を整えると、ウォルターはジョンと一緒に家を出た。ジョンはバス停に向かって黙って歩いている。
「あの、お父さん…」
「なんだ?」
「今日は、どこへ…」
ウォルターの質問に、ジョンは、今、気がついたという顔をして、少し歩調を緩めた。
「ロスアン大学だ」
「ロスアン大学?」
「そう、フェンロンの本だ。お前に見せようと思ってる」
歩きながらジョンが微笑んだ。
「お前がオールドイーストに持っていった本は、ちゃんと保管している様だな」
「…イブリンが何か言ってましたか?」
「ああ、客室はないが書斎はちゃんとあった、そう言っていたな」
というジョンの顔は、何やら楽し気だった。ウォルターはなんとなくバツが悪い。バス停についたのでジョンは足を止めた。
「だが、お前が私の息子に戻るというのであれば、ロブの援助は期待できない。当然、今借りている家も手放さなければならない。その時に本の行き場に困ったら、私に言いなさい」
「ロスアンの大学に、預けるのですか?」
「ああ、元々そのつもりだった…」
バスが来たので二人でバスに乗り込んだ。ウォルターは益々いたたまれないような気持にさせられた。二人で吊り革を持って並んで立つ。
「あの…すみませんでした…」
「いや、私の言い方が…やり方がまずかったのだ。まあ、驚きはしたが…」
ジョンはバスの車窓を流れる景色に視線を据えたまま、そう呟いた。
「…今のお前は他の編入生に比べると格段に恵まれた環境にいる。お前には自覚があるようだが…」
「はい…」
「寮生活であれば、出来ないわがままが通っている」
「わかっています。ですが…」
「入寮手続きを取り下げたのは、私ではない」
ジョンの言葉に、ウォルターは思わず父の横顔を凝視してしまう。
「あの、では誰が…」
「ロブ以外の誰に、そんなことが出来る?」
「…ですが、何故?」
「さあ、何故かな…」
ジョンは車窓を見ながら、そう呟いた。




