3-1 ロスアンに帰る(11)
アナベルがアルベルトの家で、セアラを招いて夕食を共にし、リースとセアラを見送って後片付けに勤しんでいるころ、ウォルターは、ロスアンのジョンの家のリビングで、例によって、電話機と睨めっこをしていた。…電話を睨む彼の脳内には、昼に久しぶりに会った中等校時代の同級生、リカルドの自慢話…が、とぐろのように渦を巻いていた。
…ようは、構え過ぎないこと…。たかが電話だ。電話でなら、何度も話しているではないか。まあ、たいていの場合、業務連絡で、一、二分で切ってしまうような内容だけど…。だけど、いつだったか、アナベル自身、ウォルターの方から電話をしてくれても構わないと…嬉しかったとまで言っていたではないか…。もっとも、その発言すら、即座に全力で謝られた上“どうかしてるんだ”と、発言そのものを否定されてしまったのだが…。
…不毛だ…。
思い出すことが全部不毛な方向に行ってしまって、ウォルターは自問自答し過ぎてすっかり飽きてしまっている…くせに、いまだに繰り返してしまうフレーズを、頭の中で再び繰り返してしまう…自分が彼女を好きだというのは、全くの気のせいで、気の迷いで、何かの勘違いで…。
…やっと、こっち向いた…。
不貞腐れて飛び出した自分を真っすぐに追いかけてくれて、振り返るとそう言って笑った。…自分にだけ向けられた、安堵したアナベルの、可愛い優しい微笑み…。
…全く…!!なんだって時々、あんな可愛いんだ?反則だろう?絶対に!
気がつくと受話器を握りしめて、心の中で彼女の可愛い微笑みに向かって、いわれのない悪態をついてしまう。彼女の全部を一人占めしたいと…そう思っているのに、そんなこと全然、かなわなくて…。
ウォルターは受話器を握りしめたまま、深々と深呼吸をした。このままここで受話器を握って電話と睨めっこしていても、益々不毛な…どころか、不穏な方向に思考が向かうばかりだ。…とにかく、電話をする…。そう、決意を固め、ウォルターは携帯電話のアドレス帳から記憶してきた、アナベルの電話番号をプッシュした。…が、待てども相手が通話に応じる気配はない…。十コール待ってから、ウォルターは静かに受話器を置いた。
…出ない…。
ウォルターは時計を見上げて時間を確認する。時差を考慮しても…常識時間の範囲内の筈だ。無論、アナベルにしたって、四六時中携帯電話を見張っている…訳ではないだろう…。通話に応じられない時だって、きっとあるのに違いない。そもそも、通話代が勿体ないから電話はしなくていいと言っていたのだ。…自分からの電話を彼女が待っててくれてるなんて…。そんな図々しいこと…少しは考えないでも、なかったけど…。
アナベルの声が聞けなくて、思いの外、がっくりとしてしまったウォルターは、そのまま悄然と自室へと引き返した。
***
ハンドルを手にしたまま、リースは運転に集中していた。夜の街中を運転するのが初めてだったことに、彼は今更のように気がついたのだ。無論、自動制動装置は作動しているので、最悪の場合でも、大きな振動に見舞われる程度で、ケガや死亡事故など起こりようもない…それはよくわかっていたのだが…。
リースの隣でセアラは、ぼんやりと車窓を流れる夜の住宅地の景色を眺めていた。誰といても…それが例えば大好きなアナベルや、ミラルダのような少女であっても、いつでも彼女は、少しばかり緊張していた。大好きなルカとも、一緒に居ると緊張した。
嫌われるのが恐くて、側にいたいと思いながら、それは側にいないと不安であるということを意味していた。そうでありながら、決して心の底からリラックスしてたわけではなかったのだ…。
…いつからこんな風に、人といると緊張するようになったのか…。多分、中等校に上がった頃からだ。最初に気がついたのは母といる時だった…。それまでは、どちらかと言えば勝ち気で、負けず嫌いだった。しょっちゅうサイラスの背中をひっぱたいていた筈が…。
それが、気がつくと、サイラスといる時が一番、緊張するようになっていた…。彼とは、ある意味、これ以上ないほど、近くにいた筈なのに…にも拘らず、ずっと自分は気を張っていたような気がした。
…ルカともサイラスとも、最悪な別れ方をしたきり、もう何か月も会っていない…。二人に…いや、せめて、サイラスにだけでも会って、謝りたかった。だが、まだ、会わない方がいいのだ…。
普段はこちらを気遣っているのか、いつでも明るいリースが、今日はやけに静かだった。夕食の席の時から、それには気がついていた。彼は珍しく、セアラを緊張させない人間だった。そんな人はカレンを除けば、今のところ彼だけだ…。
カレンと初めて会った時…、ママとサイラスから逃げて、アナベルに助けてもらって、それで、カレンと出会った。アナベルがお迎えのバイトでいない間、カレンと二人だけで少しずつ話をした。不思議なほどリラックスしていることに、気がつきもしなった。セアラはその時、へとへとに疲れ切っていて、何もかもがどうでもよいような気分でいたのに…。
改めてセアラはそのことに気がついた。そうか…リースと初めて会った時もそうだった…。ジャクソンという男に、日常的におもちゃにされて、最後には身売り寸前という目に合って、その時もアナベルが助けてくれた…。リースに会ったのはその時だ。
初対面だった彼は、あからさまに狼狽えて、触れることすら躊躇った。隠すことない素直な戸惑いの表情に、なんだか申し訳ないような気持にさせられた…。きっと、ひどいことなんて、別世界で起こる出来事で、ずっと平穏な日常を生きてきた、優しい気持ちの男の子…。嫌な現実があるっていうことを、つきつけてしまって、申し訳ない…。ずっと、そんな気持ちでいたのだ。もう、一番ひどい自分を彼には見られてしまっている。最低最悪な自分を…いまさら気取って、取り繕って、構えたところで仕方がない…。そんな露悪的な割きりで、ずっと彼とは対峙していたのかもしれない…。
ふっとセアラは息をついた。やけに真剣な表情で、ハンドルを握ってフロントガラスを凝視しているリースの横顔に
「…疲れてる?リース。運転、代わろうか?」
と、声をかけた。
「え?」
と、リースは息を弾ませる様な返事をした。
「ごめん、集中してた?夜だし、帰りも運転、するんだったら…」
前の信号が赤に変わった。リースはほっとした様子で息とつくと、車を停車した。それから、笑顔になってセアラの方を向いた。
「気を使わせて、ごめんね。その、夜に運転するの初めてだって、今更気がついて…」
リースの様子にセアラもほっとして笑顔になった。普段通りの彼だ。
「そうね、ごめんね」
「ううん、僕送るって言ったし、それに…その…」
「…どうかした?」
セアラは首を傾げた。リースは妙な表情になって、セアラの顔を見つめてしまう。
「あの、あのね…セアラ…」
「うん?」
「僕、君に言いたいことがあって…それでね…」
…なんだろう?普段通りかと思ったけど、やはり普段とは違っている様な…。しばらく二人で、無言で見つめ合っていると、信号が青に変わった。
「あの…信号、かわったけど…」
セアラはぼんやりと、リースに注意を促した。リースの様子に、緊張しない筈の彼に対して、セアラは緊張を覚えてしまった。
「あの、リース。それで…言いたいことって…何?」
すでに運転に注意を向け切っているリースの横顔に、セアラは静かに声を掛けた。が、リースは余裕なく「えっ?」と、切り返したきり、黙り込んだ。セアラは呆れて、息をつくと、再び車窓に視線を向けた。
…緊張して損をした様な…。
「ごめん!運転中はちょっと…止まったら話す」
と、リースが早口でそう言った。ちゃんと質問を聞いててくれたのか…と、セアラは驚いて、リースの方へと向き直ったが、リースはやはり、ハンドルと取っ組み合いの真っ最中だった。
…こんな調子で、実技試験に合格できたのは、運がいいのか、はたまた今の状態が特殊なのか…と、セアラは首を傾げてしまった。夏休み中に、免許を取っておきたいととリースが言っていたので、試験に落ちることも考慮して早目に実技試験の予約を入れた方がいいと助言したのはセアラだった。一回で合格したのはセアラにとってもリースにとっても予想外のことだった。
セアラは先ほど一瞬緊張してしまったことも忘れて、再び自分の考えに没頭し始めた。
…話ってなんだろう…。
リースがどうやら自分に好意を持っている…あるいは、持っていると思い込んでいる…ことはセアラも気がついていた。だが、話というのはそんなことではないだろうと、勝手に結論を出した。多分、以前言っていた、練習に付き合ってくれたお礼のことだろう。そう決めると、セアラはそれ以上、その件については考えなかった。
カレンの家の前までつくと、ようやくリースは肩の力を抜くことが出来た。初めての夜道のドライブで緊張…していたのもあったが、運転しながらリースは、何と言ってセアラに告白をしようかと、ずっと頭の中で言葉をこねくり回していたのだ。
「あの、セアラ…」
「え、ああ。うん…」
「あの、さっき言ってた、話なんだけど…」
言いながらリースがずっとハンドルの方を凝視し続けている。
「うん?」
セアラはリースの横顔を見ながら、首を傾げた。…そんなに構えないと言えないようなことなのか?
「あの!君、気がついてると思うけど…」
セアラは眉を寄せた。…なんだろう、この切り出し方…。これじゃまるで…
唐突にセアラは狼狽えた。まさか、リースは本気で自分に告白するつもりなのでは…。
「え?ええっ?な…なんのこと?」
「つまりね、君が色々ひどい目にあったこととか、そういうことを簡単に考えてる気は全然ないんだけど、けど、そういうのとは別に、僕、その、君のことが…」
「ま、待って、リース!」
セアラは思わずリースの言葉を遮った。遮られるとは全く予想していなかったリースは、思わずセアラの方を見てしまう。
「え…」
「えって、あの…何を言う気なの?」
「何って…」
…なんだろう、やっぱり、迷惑なのかな…。
「つまり、僕はセアラのことが好きなんだ…」
セアラの顔を見ながら、するりとリースは言ってしまっていた。
「な、なんで?」
と、叫ぶと、セアラは弾かれた様に身を引いて、その勢いで車のサイドガラスに後頭部をぶつけてしまった。
「セアラ!」
リースが驚いて、身を乗り出すと、セアラの表情が…いや、体も固まった様に硬化してしまった。
「あの、ごめん…その、恐がらせて…」
セアラの様子に今度はリースの方が、磁石が反発するような勢いで、慌てて身を引いた。
自分を凝視したまま、運転席の窓際まで身を引いているリースを見ながら、セアラは車の開閉ノブに手を掛けた。と、リースが慌てた様子で
「あ、待って…まだ、全部言ってない…」
と、手を伸ばす。
「ええ?」
…これ以上、何を言う気なのか?
「ごめん、その、女の子にこんなこと言うの、は、初めてで…要領がよくわからなくて!」
リースの言葉にセアラの方は泣きたくなってきた。最近、全然、泣かなくなっていたというのに!
「わ、私だって、こんなこと言われたの、生まれて初めてよっ!」
「え?嘘だろ…」
「ウソ?なんで、私が、そんな嘘を言うのよ?」
「だって…そりゃ、その…。セアラは可愛いし、告白されたことぐらいあるだろうなって…」
「…ないわよ…!」
…いや、正確に言うと、少しだけ嘘だった。中等校時代、告白されそうな雰囲気になったことは何度かあった。だが、その度、察しよく先回りして、要領よく、その手の言葉からは逃げだしていたのだ。
当時のセアラは、ルカ以外の男子に、そんなことを言われたくなかったのだ。それに…あれだけ何度も体を重ねたサイラスでさえ、愛の告白めいたことは、一度たりともまともに、口にしたことがなかったのだ。
…それが…、リースだと思って、油断した。
だが、考えてみるまでもない、自分はもう…ルカにはふられて…。
ふっとセアラは息をついた。そうだ、もう聞いてしまったのだ。どうせなら最後まで聞くべきかもしれない…。
「あの、でも…その…」
「なあに?」
開き直ったからかセアラは少し落ち着いてきた。セアラが逃げる気を無くしたのが、リースにも伝わったのか、彼も少しだけ落ち着いてきた。
リースは自分が気にしているのが、今日会ったルカの双子の弟の、サイラスという奴のことだと気がついた。だが、この場面で彼の名前は出さない方が、絶対にいいに決まっている。
「ううん、なんでもないんだ。あの、つまり、僕はセアラのことが好きだから、その…そのことを伝えたかったんだ」
「…伝えたかったって…それで、いいの?」
リースは「うん」と、頷くとセアラの方へと顔を向けた。
「その、セアラが大変な目に合って、それで、今はそういうのは受け付けないって、そうかもしれないって思うんだけど、けど、知ってくれるだけ知ってくれてたら、その、元気になった時に思い出してもらえたらって…」
言いながらリースは次第に不安になってきた。
「その、無神経…かな?」
…無神経に決まっている。なんということを確認してくるのだ。だが、セアラは静かに首を振った。
「そんなことは、ないけど…でも、そんな…」
「だって、セアラは、その、まだ僕のこと、なんとも思ってないだろ?」
リースの言葉にセアラは再び首を振った。予想外の反応にリースは思わず身を乗り出した。
「え?違うの…じゃ…」
「何とも思ってないってことはないわ。リースのこと、すごくいい人だって思ってる」
「え…いい人?」
「ええ、あの…そう言ってくれて、嬉しいけど、けど、ダメだわ…」
「ダメって…何が?」
「何って、その、リース、勿体ないわ」
「勿体ない?」
「そうよ。私なんて…リースが勿体ないわよ。リースにはもっと素敵な女の子が…」
「…僕は君が好きだって言ってるんだけど?」
リースは思わず低い声になってしまった。恐がらせてはいけないと、思っているのに、どうにも腹が立ってきた。いい人だから勿体ないって?なんだ、その理屈?
「な、なんで?私がひどい目に合って、だから誰でもいいだろうって、そういうこと?」
「…君、僕のこといい人って、全然嘘じゃないか?そんなひどいこと考える奴だって思ってた?」
「違うわ、そうじゃないけど…けど、つまり、だから…」
車のサイドガラスに、ぴったりと背中をつけて、全身で近寄らないで!と、主張しているかのようなセアラの態度と言葉に、リースは次第にとげとげしいような気持になってきた。
「そもそも、“いい人”って、実は全然、褒め言葉じゃないよね。大体女の子って、いい人より、ちょっと悪い奴の方が、好きだったりするんだろ?やってられないっていうか…」
「そ、そんな意地の悪い言い方…しなくたっていいでしょう?」
「そんなこと言って、セアラだってそうなんだろ?」
「私は、そんなことない!私は、私が好きなのは…、真面目で、誠実で、優しくて思いやりがあって、いい加減なこととか、嘘とかが嫌いで、自分が辛くても弱音なんか吐かなくて、でも、時々ちょっと、甘えてくれたり、それで、私が不安な時は励ましてくれて…それに…」
…やけに具体的だ。そんな奴がこの世にいるのかっ?と、突っ込みたくなるが、おそらくいるのだろう…。つまり、それは、今日の夕方図書館で会った、あの王子様みたいな、ルカって奴のことなのだ。セアラにとって彼はそういう人間なのだろう…。
アナベルからの情報に寄れば、セアラはあのルカという王子様には振られているらしいのに…全然吹っ切れてないようだ。むしろまだまだ気持ちが残ってるようではないか?
セアラの“好きなタイプ”を、聞けばきくほど、リースの腹立ちは弥増すばかりであった…。
「ふうーん、つまり、やっぱりただの“いい人”なんて、お呼びじゃないってわけだ…」
「だから!どうしてそんな意地の悪い言い方をするの?そんなの、私の知ってるリースじゃないわ!」
言われてリースは口を噤んだ。確かにこんな意地の悪い言い方をするつもりはなかった。ただ、少し、いや、かなり悔しくなってしまって…。
「セアラが思う僕って、…どんなの?」
リースは意地悪を言ってしまったことを反省して、少し控えめな気持ちになって、そう尋ねた。
リースの声音にセアラはほっとして
「…それは、その、初めて会った時、私は、あんな風だったのに、すごく気遣ってくれて…。私はそれで、安心出来たの…。いい人って、そういう意味よ。リースは、リースも優しい人だって…そう思ったの。その、ル…と、とにかく、意味は違うけど、でも…」
と、たどたどしい口調でそう言った。
リースはセアラの困った様な表情を目にして、意地の悪い言い方で、彼女を困らせてしまった自分を、真摯に反省した。
「うん…僕、あの時、君のこと守らなきゃって思ったんだ…全然柄じゃないし、そもそも弱いし、僕は何もしてないくせに、けど、そう思ったんだ。だから、つまり…」
「え…うん…」
「勿体ないとか、他に誰かいるとか、その…迷惑でないんだったら、そんな風に言わないで欲しいんだ」
「リース…」
「今すぐ付き合って欲しいとか彼女になって欲しいとかそう言うんじゃなくて、ただ、僕がセアラのこと大事だって、そう思ってるって、君に伝えないとって思って、つまり、話しってそういうことで…」
「うん…」
「そりゃ、いずれ、僕のことを好きになってくれたら、嬉しいけど…」
リースの言葉にセアラは笑みを浮かべた。
セアラは今まで、リースが自分に見せる好意の表現を、状況が生み出した安っぽヒロイズムに毒された結果だろうと、どこか斜に構えて捉えていた。男の欲望で酷い目にあったセアラは、無意識のうちに男性全般に対して、敵意と侮蔑を抱いていたのだろう。
それは、リースのように、自分に好意を寄せてくれる相手であっても、変わらない…いや、そうであったからこそ、余計に秘めた敵意を抱いていたのだとも言えた。
それが…リース当人が自分の内に生じたヒロイズムを認めた上で、なおも、セアラのことを大事だと言い、それを伝えたいと口にしてくれたのだ。
…単純な人だ…と、セアラは内心でリースを嘲笑したが、その彼の言葉を間違いなく自分が喜んでいることを、認めないわけにはいかなかった。結局、リースに劣らず、自分も単純なのだ…。
「あの…やっぱり、迷惑かな…」
リースはセアラの微笑を横目で見ながら、ひどくおずおずとした口調で確認を取った。セアラは微笑んだまま首を振ると
「ううん、そんなこと、ないわ」
と、答える。
リースはほっとして、今はその返事だけで満足することにして
「そっか…」
と、だけ答えた。
【ロスアンに帰る;完】




