3-1 ロスアンに帰る(9)
つつがなくカフェでのバイトを終えると、アナベルは予定通り図書館へと向かう。待ち合わせより早めに到着したので、児童向けのコーナーで、高学年向けの抜粋版のバイブルの現代文の本がないか探してみる。
検索システムで見たところ、幾冊かそれらしいものが紙の書籍の形であったのだ。何冊か手に取って、該当する箇所の本手に取った。丸写しは流石によろしくないが、参照させてもらうくらいはいいだろう。
月曜日からはリパウルに手伝ってもらえるし…そう思ってアナベルは、一人で笑みを浮かべる。金曜日にオリエに呼び出されたアナベルは、月曜日から急きょ、技研の方へ出向(?)するよう、言われたのだ。リパウルに告げると、彼女もエナから聞いていたらしく、ランチを一緒にしようと誘われた。
センターでの仕事も楽しかったのだが、リパウルとランチが食べられると思うと、それはそれで嬉しかった。…もっとも技研に行って何をするのかなどの説明は、全く受けていなかったのだが…。
二冊ほど選んで、本を手にしたまま、アナベルは自習スペースに向かった。昨日の夕方のリースの話だと、セアラは日曜日…つまり今日だが…の日中はマーラーさんの所に行っているので不在だが、夕方なら予定もないので、一回カレンに確認を取ってみる…という返事だったのだ。
夕食後、セアラからリースの方へ折り返しで返答があった様で、今日の夕食の招待に応じてくれたのだ。そこでリースが調子に乗って(?)アナベルと二人でワトソンさんの家に車で迎えに行くから…と、承ったらしい。別に文句はないが事後承諾もいいところだ…。
せっかくのチャンスなのだから、知らない場所じゃなし、一人で迎えに行けばいいのに、と、アナベルは仏頂面になってしまった。別にセアラを迎えに行くのが嫌なわけではない。ただ、セアラを前にしたリースの、弛緩しまくった浮かれた態度を目の当たりにして、無駄に絡まない自信がないだけで…。
自習スペースに到着して周囲を見回すがリースはまだ来ていない様子だった。空いている椅子もなかったので、書架の付近で立ったまま、手にしてた本を読み始める。祖母がよく読んでいたものの一部…の筈だったが、アナベルにとってはさほど馴染み深い物でもない。善良な老人が一方的に苦しめられる話だ。それでも、読み始めると、続きが気になった。
「アナベル…?」
と、聞き慣れた囁き声がして、アナベルは顔を上げた。
「…ルカ?」
見ると目の前にルカがいた。こちらを見て首を傾げている。
「やあ…、偶然だね」
目が合うとルカがにっこりした。アナベルは手にしていた本を閉じると
「どうしたの?今日は…」
…ウォルターはいないよ…そう言おうとして、アナベルは口を噤んだ。ルカは
「うん、先週借りた本を返しに来たんだ」
と、笑顔で応じる。
アナベルは、ちょうどいいところで会ったのかもしれないと思って頷くと
「あの、金曜日にオリエから言われて、月曜日のセンターでのバイトは、お休みになるんだ」
と、小さな声で、早口でそう言った。するとルカは何やら沈んだ調子で俯くと
「うん…、僕もオリエに聞いたよ。……彼女を起こすんだろ?」
と、呟いた。
その言葉に、アナベルの方こそ驚いてしまう。
「え?そうなの?」
「…聞いてないの?」
「うん、月曜日は、技研に行けとしか。言って直接説明を聞けって…」
「そうなんだ。多分月曜日はオリエも技研にいると思う」
「…彼女を起こすって…」
「…君が目覚ましなんだろう?アナベル」
ルカは顔を上げると、アナベルの顔を真正面から見つめ静かな口調でそう言った。
「…うん、でも…」
「サイラスが、必要と思われるだけの距離を取ったんだ。今はミサキさんが彼についていて、彼の脳波を監視してる。それで、僕と彼との間の干渉反応が出なくなったって…」
ルカの話す内容にアナベルは目を見開いた。初めて聞く内容だった。
「…そんなこと、してたんだ…」
「そう、つまり検証実験の続き。彼女が起きた場合の反応がどうなるのか、確かめる」
…オリエが何とかしてくれる…そう、約束したの…
あれはその場任せのデタラメなんかじゃなくて、本当に何らかの目算があってのことだったんだ。それにしても…
「あの…じゃ、サイラスって今はもう、オールドイーストにいないのか?」
「…うん。少し前にミサキさんと一緒に移動したんだ」
「あの、どこに…?」
アナベルの問いにルカは首を振った。
「僕も知らない」
「そっか…」
それは、そうかもしれない。当然だ。
「ルカの…」
と、アナベルが言い掛けたところで、ルカの背景にリースの姿が出現した。アナベルの意識が自動的にリースの方へと向いてしまう。自習スペースに並ぶ机の端の方から、こちらの様子を伺っているリースに向かって、言葉の途中でアナベルは手を上げた。つられた様にルカも背後を振り返る。
初めて一人で運転する車で、自動運転装置になるべく頼らないで、図書館まで辿り着くことは難なくできたリースであったが、駐車に少し手間取ってしまい、図書館の自習スペースへと、ようやくたどり着くと、アナベルらしき人物が見知らぬ誰かと話し込んでいる…。
リースが戸惑っていると、アナベルが気づいて、こちらに向かって手を上げてくれた。ほっとして近づいていると、見知らぬ人物もリースの方を振り返る。目が合って、リースは思わず足を止めてしまった。
アナベルより少し短いくらいのショートボブのプラチナブロンド、目の色は明るいグレイ。優しい端正な顔立ちのその人物は、アナベルより少し背が低く自分より少しだけ背が高い…というほどの差もない身長の、きゃしゃな…青年だった。
「えっ…と…」
何故だかよくわからないが、リースは何やらはにかんで、二人に近づく手前で足を止めたままになってしまった。
「おい、大丈夫だったのか、運転?」
と、アナベルが普段通り不躾な感じで切り出した。
少しは雰囲気を感じとって、気を回してくれればいいのにと、リースは恨めしいような気分になった。もっとも自分でも、自分が何を恥ずかしがっているのか、よくわかってなかったのだが。
アナベルの友人にしては見るからに品の良い、奇麗な青年は、リースの姿とアナベルの姿を見比べるようにして見ると
「ひょっとして、アナベル、待ち合わせ中だった?」
と、首を傾げた。
「まあ、そうだけど、別に気にしなくても…」
と、言い掛けてアナベルは、自分が、微妙な場面に遭遇していることに気づいた。が、当然のごとく、リースもルカも気がつかない。
ルカは
「ひょっとして、同級生?今から何処かに…」
と、口にした。アナベルは慌てて
「あ、うん!いや、同級生じゃなくて、そう!下宿先の先輩だ。前に話したろ?私、知人の伝手で下宿してるって…」
と、早口で説明した。
「ああ、なんだ。そうか」
ルカは、何やら安堵した様子で頷いた。彼なりに妙な気を回していたのかもしれない。
…さて、問題は…
「アナベル…あの…」
と、今度はリースが妙に控えめな調子で、切り出した。アナベルは、リースに向かって
「あの、今、一緒にバイトしてる友達…」
と、簡潔にルカを紹介した。が、ルカの方が
「初めまして、僕はルカ・アンダーソンっていいます。アナベルにはいつもお世話になってて…」
と、人懐こい笑みを浮かべ、リースに向かって自己紹介をしながら手を差し出した。
アナベルはリースが、何も気づかないといい…と思いながら、彼の表情を伺ってしまう。
リースもつられた様に手を出しながら
「あ、僕はリース・ウェルナーっていいます」
と、ルカの手をとった。が、その瞬間、何かに気がついたのか、ふいに顔が強張った。
リースはルカの手を取ったまま、目の前の青年の顔を直視した。
「…君、アンダーソンって…」
…アンダーソンというファミリーネームはセアラと同じだ。それに、ルカって…。
リースの呟きにルカも何かを思い出した。二人はゆっくりと手を離した。ルカは眉をしかめ、泣きそうな笑みを浮かべるとアナベルの方に向き直った。
「そうか…、しばらく…君の下宿先に…」
…頼むからリースの前で、セアラの名前を口に出さないでくれ…。
祈るような気持でアナベルはルカを見つめてしまう。ルカにアナベルの思いが届いたのか、そもそも最初から口にすることが出来ないのか、ルカは顔をしかめたまま、俯いた。
「ルカ…あの…」
「君…」
と、今度はリースが、顔を引きつらせたまま、何かを言い掛ける。
アナベルは仰天してリースの顔を凝視した。流石にリースも…リースにもアナベルの気持ちが届いたのか、はたまた彼女の形相に、彼の方こそ仰天したのか、そのまま目を逸らすと口を噤んだ。
ルカはしばらく泣きそうな表情のまま俯いていた。そしてゆっくり顔を上げると、アナベルに向かって
「あの…」
と、切り出した。アナベルは、「うん…」と、応じる。ルカが何を訊きたいのか、アナベルにはわかるような気がした。
「大丈夫だよ、ルカ…」
「うん…。ごめん、アナベル…」
ずっと泣きそうなままルカはそう呟くと、振り切る様に無理な笑顔になった。
「その、僕、帰るね…すぐに戻るって言って出てきたんだ」
「そうか、その…センターに戻るの、いつになるのかわからないけど…」
そう言うと、その時だけルカの面に優しい笑みが浮かんだ。
「うん…彼女に、よろしく」
「わかった」
「どっちみち学校で会えるね」
そう言うと、ルカはリースの方に向き直り、何か言い掛けて、結局俯くと
「あの…失礼しました…」
と、小さく挨拶をして、二人の前から立ち去った。リースはルカの言葉に、何の反応も返すことが出来なかった。
ルカの姿が遠く出入り口の方へ消えても、しばらく二人はその場に無言で佇んでいたが、やがてリースが強張った表情のままで
「君…」
と、切り出した。聞いたことも無いほど、重々しい口調だった。
アナベルはリースを一瞥すると、
「ちょっと借りたい本があるんだ。廊下の方で待っててもらってもいいか?」
と、彼の言葉を遮ると、返事を待たずに貸出スペースへと足を向けた。
廊下で合流すると、どちらともなく無言で歩きだす。アナベルは前を向いたまま
「今日、ここでルカに会ったこと、セアラには…」
と、切り出した。
「…いう訳がないだろう?で、やっぱりあいつなんだ!」
「あいつって…ルカは何も…」
「学校で会うってどういう意味?それに一緒にバイトって、セアラは知ってるの?」
「いいや、言ってない。セアラにはルカの話はしてないし、ルカにもセアラの話はしてない」
「してないって、…あいつ、知ってたじゃないか?」
アナベルはリースの剣幕に少し疲れてきた。
「車に乗るまで、話は少し…待ってくれないか」
それだけ言うと、アナベルは口を噤んで早足で歩き続けた。




