3-1 ロスアンに帰る(6)
時計が四時に近づくころ、伯母の一家はようやく腰を上げた。イブリンは無事に終わったことに安堵して、秘かにため息をついた。見送りのため、玄関で再び対面すると、タニアはイブリンの腕に手を添えた。
「今日は、あなたの話をゆっくり聞けませんでしたが、イブリン…」
「いえ、伯母様、そんなこと…」
イブリンの言葉を遮るようにタニアは目を瞑ると、首を振った。
「四年前、私は感情的になって、随分とひどいことをあなたに言いました」
と、言い出した。イブリンは驚いて目を見開いた。
「いえ、伯母様…そんな…」
「そう、ショックだったのです。私はね、イブリン、あなたのことを本当の娘の様に思っていたの…」
「伯母様…」
「ですが、ダメね。やっぱり、そう…信じ切ることが、出来てなかった。今では、いいえ、あの日この家を出た瞬間から、私はずっと後悔していました。今頃になってこんなことを言って、あなたに信じてもらえるとは思わないけど、あなたを傷つけるつもりなんて、私にはなかったのよ、イブリン」
「伯母様…」
伯母の言葉にイブリンの胸は一杯になった。彼女は自分の胸の前で両手を組むと
「私の方こそ、伯母様…謝らなければならないのは私の方です。私は言うべきことを一言も言えず、言うべきでないことばかりを口にしました。…許して下さいますか?」
「イブリン…」
まなじりに涙を浮かべ、タニアは姪の体を抱き寄せた。
「ええ、勿論です。私たちはお互い、少しずつ愚かでした。でも、もう昔のことは水に流しましょう」
「…伯母様、ありがとうございます」
伯母の抱擁を受けて、イブリンも伯母の背中に手を回した。彼女の頬を涙が伝った。感動的なその場面に自分も加わりたかったのか、ツァイ・リントウが二人の女性の背中を、励ますように優しく叩いた。
伯母の一家を見送ると、イブリンは自分のテリトリースペースとも言える、キッチンへと取って返し、いつも座っている椅子に腰を下ろし、深々とため息をついた。
「疲れたな…」
と、同じ様に椅子に腰を下ろしながら父が呟いた。
「今日の夕食は近くのレストランで取ろう。明日からはお前も少し休みなさい」
「お父様…」
イブリンは顔を上げた。彼女の目元はまだ少し赤かったが、表情はすっきりしており、既に感情の切り替えが出来ていることが見て取れた。ジョンは娘の顔を見ながら
「…そのうち、タニアはフレデリックに会わせろと言ってくるだろう。タニアは感情的なところはあるが、根は聡明な女性だ。どう対応するか、フレデリックとよく相談しておきなさい」
と、静かに告げた。イブリンは頷くと
「わかりました」
と、答える。
「タニアを味方につけておけば、問題ない。ヤンの一族は元からお前に同情的だ。タニアの手前、お前と距離を置く様にはしていたが、タニアが認めたとなれば、すぐに態度を変えるだろう」
「ええ…」
イブリンは少し俯きながらも、真顔で頷いた。ウォルターは黙って聞きながら、内心では少し意外な思いでいた。
「ジンの所は少しやっかいかもしれない。だが、そのうち折れるだろう」
「はい」
娘がしっかりと頷いたのを見て取ると、ジョンはウォルターの方へ視線を向けた。
「お前も、疲れただろう。だが、きちんと失礼のないように振舞えたな」
「それは…まあ、今更、タニア伯母さんに噛みついても…」
「確かに、そうだな」
と、ジョンも笑った。ウォルターは
「フレデリックのことを、他の縁者にも認めさせるんですか?」
と、尋ねた。
「そうだ」
「お父さんは…その…」
改めて聞くまでもない。昨日の様子からジョンが、フレデリックとイブリンのことを認めていることは一目瞭然だった。
「フレデリックは前の配偶者と、きちんとけじめをつけた。それに彼はイブリンの意思を尊重している。反対する理由はどこにもない」
「それは…そうですが…」
「順番は間違ったかもしれん。彼自身がそれを認めている。だが、フレデリックが誠実な人間であることくらい、私にもわかっている」
ジョンはウォルターの視線を受け止めながら、迷いなく言い切った。ウォルターの方こそまごついてしまった。
「それならば、その…」
息子の表情に、ジョンは笑うと
「お前もそれを望んでいたのだろう?」
と、言いだした。
「それ?」
「フレデリックと話すことだ。一度話せば、きっとわかると思っていたのではないか?」
ジョンの言葉にウォルターは顔をしかめた。彼は確かにそう思っていたのだ。
「お前に分かることだ、私にだってわかる」
なにやら勝ち誇った様な笑みを浮かべて断言する父に対して、ウォルターは何やら負けた様な、妙な気分になってしまった…。
***
イーサンから訳の分からない褒められ方をしたアナベルは、朝までの気鬱が少しだけ晴れていた。ウォルターから電話がかかってこないということは、ロスアンで順調に過ごせているということなんだと、思うことにして、今日は電話を待つのはやめて、ウォルターからの課題を少しでも進めようと、決意を固める。
カフェでのバイトを、普段通りテキパキとこなすと、順調に昼休憩も終えた。もうすぐ終業時間の三時を迎えるという時間に、アナベルはオープンテラスのテーブルで、注文されたドリンクをテーブルへと運んだ。確認を取りながら、目線を上げると、テラスの向こうの歩道に、白髪の初老の紳士の姿が目に入った。その紳士は夏の最中だというに、ジャケットを着こなしていた。
…暑くないのかな…と、アナベルは余計な心配をしてしまう。お客様に、確認を取り終えると、その紳士の姿が気になって店内に戻る前に目を止めてしまう。と、その紳士は胸のあたりをおさえると、唐突に視界から姿を消した。
…倒れた?
咄嗟にアナベルは踵を返した。店内に戻ると同じバイトスタッフのメリッサに
「外の歩道で、人が倒れたみたい。様子を見に行ってもいいですか?」
と、声を掛けた。メリッサは驚いた様子で目を見開いたが、「ええ、勿論」と、了解してくれた。
アナベルは手にしていたお盆を注文カウンターに置くと、急いで外に出た。お店と歩道を繋ぐ道には、緩やかな勾配がついている。掛けるようにして下りて見ると、テラス横の歩道で先ほど見かけた初老の紳士が胸をおさえるようにしてうずくまっていた。アナベルは急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
アナベルの掛け声に紳士は辛そうに顔を上げた。
「ああ…。申し訳ない…君は?」
「横のカフェで働いてて、見てたらいきなり見えなくなったから…。病院に…救急車を呼ぼうか?」
「いや、そこまで大袈裟には…。これは持病の様なものでして…」
やりとりの途中で、メリッサも駆けつけてくれた。
「…暑いんだ。病院へ行った方がいい。メリッサ、ちょっと、いいかな?」
突然の依頼に、メリッサは戸惑いながらも「ええ」と頷いた。
アナベルは店内へ、取って返すと、時間を確認する。三時まであと数分だ。正規のスタッフを捕まえて事情を話し、病院まで付き添っていいか、確認を取った。相談を受けたスタッフは、即座に了解してくれて、今日はそのまま上がっても構わないと言ってくれた。アナベルは渡りに船とばかりに、無人タクシーの手配もお願いした。それから、更衣室に急ぐと荷物を取ってカフェの制服のまま外に出ると、急いで紳士の元へと戻った。
「病院まで付き添うよ。今、お店の人が、無人タクシーを呼んでくれてるから…」
アナベルの言葉に老人は頷くと「…申し訳ない…」と、辛そうながらも謝罪した。アナベルは気遣わし気に紳士の顔色を確認すると、再びメリッサに
「塩の入ったお水とか、飲んだ方がいいかも…ちょっと用意して来るから…」
メリッサも心得たもので、今度は落ち着いて「わかったわ」と、引き受けてくれた。
初老の紳士に塩の入ったお水を飲んでもらっていると、無人タクシーがやってきた。アナベルはメリッサにお礼を告げるとグラスを預け、紳士と一緒にタクシーへと乗り込んだ。適度な冷気に満たされた車内に入ると、老人は安堵した様子で、大きく息をついた。
「ああ、ありがとう、お嬢さん。お陰でずいぶん楽になった…」
「いいけど、大丈夫?救急に…」
「いやいや、人当たりと、暑さですなぁ…。久しぶりにバスに乗ったが、思いのほか人が多くて…」
「そうなんだ」
「そう、普段、世話してくれる者が、事情があって今は側にいないもので…これまで、如何に人を頼っていたかが骨身にしみてわかりました…」
と、紳士は複雑な表情で、再びため息をついた。
病院に到着すると、受付までアナベルは付き添った。受付で簡単に事情を説明すると、紳士の元へと戻る。紳士は電話を掛けていた。アナベルが戻って来たことに気がつくと、一度頷いてから電話を切った。
「孫が迎えに来てくれることになりました。お嬢さん、今日は本当に世話になりました。あなたのお陰で命拾いしました」
と、笑顔になった。まだ、顔色はよくなかったが、随分復調しているようだ。アナベルがほっとしていると、病院の救急スタッフ二名が紳士の元に駆けつけてきた。
紳士は驚いた様子で、左右に視線を向ける。紳士は、自分に話しかけようとするスタッフの動きを手で制しアナベルに向かって
「私は…、もう、半分、隠居みたいな老人ですが、名はオーランド・ボールドウィンと申します。お嬢さん、差し支えなければ、貴女の名前を伺っても宜しいかな?」
と、礼儀正しく名乗りを上げた。アナベルは面はゆげに笑うと
「アナベル・ヘイワードです」
と、簡潔に答えた。オーランドは、ゆっくりと頷くと
「お嬢さん…アナベルは、あの横の店の店員さんかな?」
「うん、あのお店…あのカフェで週末はバイトしてる。よかったら、一度お茶でも飲みに来てよ」
と、アナベルはにっこりとした。オーランドも笑みを返すと
「そうですな。近いうちにまたお会い出来ると、互いに喜ばしい…ですかな?」
オールンドの言い方にアナベルは破顔すると、
「そりゃ、喜ばしいよ。じゃあ、私、そろそろ行くね」
と、告げると、アナベルは救急スタッフに目礼して踵を返すと、その場を後にした。
***
近所のレストランで夕食を終えると、リュー家の三人は家へと戻った。ジョンはウォルターにリビングで待つように告げると、イブリンにコーヒーをリビングに持ってくるように頼んだ。そして自分は自室へと取って返す。ウォルターはなんとなく落ち着かない思いで、リビングのソファに腰を下ろした。てっきりジョンの書斎で話をするのだと思っていたのだ。イブリンがコーヒーをお盆にのせてリビングに入ると、ジョンも戻って来た。ジョンは娘の持つお盆の上に、コーヒーカップが二つしかのっていないのに目を止めると
「…お前の分は、ないのか?」
と、イブリンに向かって尋ねた。
「え…キッチンに…」
「持ってきなさい」
ジョンの言葉に、イブリンばかりかウォルターまで驚いた。
「私も…ですか?」
「お前にも関係のある話だ。一緒に聞きなさい」
「…わかりました」
イブリンはお盆の上のコーヒーカップを、リビングの小さなテーブルの上に置くと、キッチンへと取って返す。ジョンは何枚かの紙片を手に、ウォルターの対面のソファに腰を下ろした。ジョンが手にしていたのは、数枚の書類と、自分が書いた手紙だった。
イブリンが自分のコーヒーカップを手にリビングに戻って来る。彼女は一瞬ためらってから、父と弟の真ん中、テーブルの短辺に置かれている一人掛け用のソファに、腰を下ろした。ジョンは娘が腰を下ろしたのを見届けると、ウォルターからの手紙をテーブルに置いた。
「この手紙の件だが…」
「はい…」
「最初に確認しておきたいのだが…どうしてお前は、出生書類を“正したい”と思ったのだ?」
穏やかな口調で、ジョンが尋ねた。
「え?」
「十八歳になれば、個人のみ記載の個人登録票を作成できる。提出などで必要になればそちらを用いれば、ことは足りる筈だ。書類にこだわる必要は、ないのではないか?」
「確かにそうですが、その偽物の書類は残り続けます」
「それが、嫌だったのか?」
「そうです、たかが書類の事かもしれませんが…自分の根っこの部分が、ひどく歪められているような気がして…」
「歪められたままでいたくないと、思い始めたのはどうしてだ?」
「それは…その…」
ウォルターは急に歯切れ悪く俯いた。…本当のことを言うべきなのか?いや、これまでだって嘘はついてない。ただ、言う必要がないと思うことは、言わないようにしているだけで…。
「あの、それは…どうして、そんなことを?」
「…どうして?そうだな。二年前、お前はこの家を出て行った。私とお前は、友好的とは言い難い別れ方をした。…正直に言えば、お前は、もう二度と戻って来るつもりはないのだと、私は思っていたのだ。実際、一年以上お前からは何の音沙汰も無かった。それが、十七歳になっていきなり手紙を寄こしてきた。それも、出生書類を“正したい”…そう言ってきたのだ」
ジョンは静かに言葉を続けた。
「…今もお前は“歪められている”と言う。確かにお前の出生書類は不明な点ばかりだ。だが、それでも、お前がこの手紙を書くことになんの抵抗も覚えなかったとは思えない。それこそ、二年前の我々の関係も、取りようによっては、歪んでいた…」
「それは…」
「だから、思ったのだ。何がきっかけで、お前はこんな風に思ったのか…、いや、思っただけではない。すでに、書類上の母親である、ドクター・クリックには話を進めているという。…お前が入院した時に、クリック博士と話す機会があったので確認してみたら、博士も、間違いなくそうだと言われた。つまり、たんなる思い付きではなく、本気で正そうとしているのだと思った」
「エナと…クリック博士と話したのですか?」
「そうだ。疑っていたわけではない。だが、直接話す機会が得られたのだ。訊くべきでは…なかったか?」
「え…いえ…」
…ただ、意外に思っただけで…。ジョンはエナをどう思っただろうか?と、興味が湧いたが、ジョンと話した時のエナは完全に余所行き仕様だったのだろうから聞いたところで当たり障りのない感想しか返ってこないかもしれない。
「お前は、私どころかイブリンにすら相談しないで、オールドイーストに行くことに決めた。たった一人でそう決めて、実行に移した。私はお前に見限られたのだと勝手に思い込んでいた。だが、お前の真意はそんなところにはなかった…。だから、今度は間違えたくないと思ったのだ。最初にそのことを確認したいのは、それが理由だ」
真っすぐに自分を見つめるジョンの眼差し耐えられず、助けを求めるように、ウォルターはイブリンに視線を向けた。だが、イブリンはひどく青ざめたこわばった表情で、二人のやり取りに耳を傾けていた。おそらく、初めて聞く話なのだろう。ウォルターは俯くと、決意を固めた…。
「その、それほど大した理由ではないのです。お父さんをがっかりさせるかもしれない…」
「そうなのか?」
ウォルターの言葉に、ジョンは柔らかい笑みを浮かべた。
「あの、お父さんが言う通り、僕はオールドイーストに着いた頃は、ひどく投げやりな気分で…それこそ、何もかもどうでもいいと、そう思ってたんです。それが…」
ウォルターは言葉を切ったが、ジョンは黙って聞いている。
「…その…色々、偶然が重なって、ある人と知り合いになったのです…」
ウォルターはイブリンの方を見ることが出来なくなった。
「それで、その人は、ひどく、…なんといいますか、ひたむきと言えばいいのか…その人を見ているうちに、不貞腐れている自分が恥ずかしくなってきて…」
「そうか…」
「けど、今のまま、自分の根の部分が曖昧なままでは、その人と、うまく向き合えない気がして…それで、その…」
「そうか。オールドイーストで、出会った人物がきっかけで、お前は自分と向き合った…そういうことだな」
「そう…なりますか…」
ずっと俯いたまま、ひどく言い難そうに言葉を繋ぐ息子の姿に、ジョンは不思議な安堵を覚えた。
「そうか、わかった…」
「え、いいんですか」
「ああ、ありがとう、ウォルター。納得できた」
…あんな中途半端な説明でよかったのか…と、ウォルターは拍子抜けした。息子の気分には構わず、ジョンは言葉を続ける。
「手紙の件に話を戻すと…出生書類の両親の欄を、リュー家の人間…つまり、私と亡くなったマチルダ、ということだと思うが…にしたいのだというお前の希望に対して、私の方には何の異論もない。ただ、いくつか、確認したいことはある」
…意外なほどあっさりと、ジョンが承諾してくれたので、ウォルターはまたしても、拍子抜けしてしまう。
「あの…」
「なんだ?」
「…いいんですか?」
「無論だ。私はずっとお前を自分の息子だと思って接してきたつもりだ。ただ…そうだな、確かに、数年前、私はお前自身には責任のないことで、お前を責めた。タニアではないが、謝る機会を…」
言いながら、ジョンは深々とため息をついた。
「いや、お前がこうして、その機会を与えてくれなければ、結局のところ私は自分からは何もしようとはしなかっただろう。すまなかった、ウォルター」
ジョンの謝罪に、ウォルターは仰天した。
「いえ、…あの、お父さんが謝らなければならないようなことは…」
「いや、私は、あの事をお前に告げるつもりはなかった…。今更、何を言ったところで、言い訳にしかならないが…」
ウォルターは思わず、どうしてそこまで…と、尋ねそうになった。妻が自分を裏切って産んだ、他人の男の子供を、どうすれば実子として育てよう、などと思えるのだ?が、彼はその言葉を飲み込んだ。
「いえ、いずれわかることでしたから…」
ジョンはそれには答えず、俯くウォルターの顔を見つめると
「…お前は、自分の出生書類を、見てみたのか?」
と、尋ねた。ウォルターは顔を上げると
「はい、学生証を受け取ってから、すぐに…」
と、答えた。
「そうか、どう思った…」
…どう…と、言われても…。
「驚きました、一体、何がどうなっているのかと…」
「そうだ、私もロブからお前の書類を受け取った時、ひどく驚いた。だが、あの頃の私は、もう彼と、関わりたくなかったのだ。だから、理由も聞かなかった…」
「お父さんも、知らないのですか?」
「そうだ。言い訳めくが、お前を産んでからしばらく、マチルダは調子を崩してしまって、目が離せないような状態になった。それで、提出期日の直前まで、出生証明書の提出に行くことが出来なかったのだ。だが、提出期限の日に役所に持っていくと、すでに登録は済んでいると言われたのだ。無論、その登録されているという書類は見せてもらえなかった。応対してくれた役所の人間は書類の不備だろうと、言っていたが…」




