3-1 ロスアンに帰る(3)
家に戻ると、イブリンが出迎えてくれた。玄関に置きっぱなしだったウォルターのボストンバックはイブリンがウォルターの部屋に運んでくれていた。ウォルターは短くお礼を言うと、姉と共にキッチンへむかい、夕食の準備を手伝うことにした。
「下ごしらえは済んでいるから…」
作業用のテーブルには、姉の得意料理が並んでいた。が、中には見たことのない料理もあった。ウォルターは懐かしさと目新しさに表情を緩めた。
「新しいレシピ?」
「そう、フレデリックの好物。お父様も気に入って下さってるの」
と、イブリンが微笑んだ。
「点数稼ぎだ」
眉一つ動かさない無表情で、ウォルターが口にした冗談に、イブリンは小さく笑った。
「そんなんじゃないわよ」
「フレデリックは、よく夕食に?」
「ええ、シャーロットと一緒に。よくってほど、頻繁ではないけど。たまによ…」
と、イブリンは首を傾げた。
「…いつの間に…」
「さあ、どうなのかしらね?」
と、姉は謎めいた答えを返した。ウォルターはイブリンの横顔を伺ってしまうが、姉の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。ウォルターは安堵を覚え、それ以上、追及するのを諦めた。
「…お父様と、何のお話し…?」
「話って程の話はしてない。明日タニア伯母さんが来るんだろ?」
ウォルターは作業を進めながら、なんでもない風にそう言った。イブリンはやや難しい表情になって
「ええ…。ウォルター、あなた…」
「わかってる。行儀よくしてろって言うんだろ?ジョンにも言われた」
弟の返答にイブリンは安堵のため息をついた。
「そう…」
「大体、こっちにいる時だって、そんな失礼な態度をとった覚えはないけど?」
「ウォルター、あなた…」
よく言える…と、イブリンは嘆息した。
「ようは、こっちが露骨にご機嫌とらないと、気に入らないんだろ?けど、露骨にご機嫌取りをしたって、結局、嫌味を言われるだけって気がするけど?」
弟の言い草に、イブリンは顔をしかめた。
「あなた、わかってるって、言ってたけど…本当に…」
「いや…そうだね。どうしたら気に入られるのか、本気で教えて欲しいよ」
ウォルターは、深々とため息をついた。そう言われると、イブリンとしてもどう答えたらいいのかわからない。ウォルターは顔を上げると、真剣に困っている様子の姉に視線を向けた。それから、薄く笑うと
「…多分、わかりやすく機嫌を取るんじゃなくて、ひたすらへりくだって、下手に出続ければいいんだと思う」
と、言い出した。
「ウォルター…!」
「けど、そこまではしたくない」
「ウォルター、あなた…」
「イブリン、多分、大丈夫だよ。こっちはこっちで二年近く、毎月一回、強制的に修行させられたからね。エナに比べたらタニア伯母の方が、間違いなく“暖かみのある”人だし」
「あなた…」
イブリンは今度こそ本当に、次に言うべき言葉を見つけることが出来なかった。
***
育成センターの休憩場所の小さなテーブルで、アナベルは行儀悪く頬杖をついて、ウォルターから課題として押し付けられた…もとい、借してもらった子供向けの古典の本を眺めていた。すると、廊下との間仕切り代わりに、適当に設置されているパーテーションから、見慣れた顔が覗き込んできた。
「…珍しいね、帰らなくていいの?」
ルカだ。アナベルは物憂げに顔を上げた。…どうにも目の前の書籍の文字の連なりたちとは、いくら時間を重ねても、分かり合える気がしなかった。そうはいっても、夏休みに入る前に比べたら、幾分か話が通じるようになって…きているような気がしなくもなかった。恐らく、願望に基づく錯覚だろうが…。
アナベルは、頬杖をついていた腕をテーブルの上に下ろすと
「お迎えもない上…来週まで、ハウスキーパーもお休みだ」
口調が不愛想になってしまったが、別段ルカが悪いわけではない。にも拘らず、彼は申し訳なさそうに、肩を竦めた。
「そっか…そうだったね」
言いながら仕切りの中に入って来ると、テーブルの空いている席に腰を下ろした。
「オリエに、話があるからここで待つように言われてるんだ」
と、アナベルは目の前の本を閉じて、ルカに向かって説明した。
「ああ、そうなんだ!」
「うん…なんだろう…なにか、まずいことをしたかな…」
考えてみると、思い当たる節がないでもない。この前などは、首の座っていない乳幼児に、高い高いをしかけて、スタッフさんに凄い勢いで、赤ちゃんを奪い取られてしまったし。新生児に予防接種をうけさせるのに、別のことに気を取られて、よそ見をしていたこともあった…。
「…思い当たる節が、ありすぎる…」
アナベルは絶望的な気分になって俯いてしまう。ルカが苦笑いを浮かべながら
「…大丈夫だよ…多分。僕の方がよっぽど…」
アナベルは顔を上げると、目を細めてルカを見た。
「いや、お前は何もしてないだろう…」
「…そうかな…」
と、ルカは再び首を竦める。
「僕はどちらかというと逃げ腰だから、あまり難しいことは言われないし…」
「そうなのか?」
アナベルにはわからない。ただ、スタッフたちがルカに気を使っている様子なのは間違いない気がした。それがルカの個性に…あるいは自分の個性に由来するものなのか、ルカがオリエのお気に入りだということをスタッフが了解しているせいなのか、その原因まではわからなかったが…。
ルカは横向きに座ると、壁の方を見たまま
「…この前の日曜日、図書館で、ウォルターに会えたんだ」
と、唐突に話題を変えた。アナベルは驚いて
「え?」
と、声を上げた。ルカは穏やかな笑みを浮かべて、アナベルの方へ顔を向けると
「…アナベル、君…、ウォルターに僕とバイトしているって話、してなかったんだね」
と、告げた。
「えっと…」
「あと、三年から僕がセントラル高等校の同級生になるってことも…」
「それは…」
アナベルは俯いて、目をしばたかせた。
「…別に、何か意図があって、言わなかったとかじゃないんだ。その、タイミングがあわなくて…」
「うん…」
呟いて、ルカは俯いた。
「凄く驚かれて…君たちには、驚かれてばかりだけど…」
“君たち”というフレーズに、アナベルはなんとなく顔をしかめてしまう。
「日曜日って、先週の?」
「うん、そう…」
ならばウォルターがロスアンに発つ前だ。ミラルダもナイトハルトと一緒にトリオールの親戚の家に行っていて、すでに不在だ。つまり、何を話すにせよ、遠慮する必要などなかったはずだ。なのに…。
アナベルはむっつりと黙り込んだ。ロスアンに発つ直前まで、ハウスキーパーの業務時間中、二人が熱中していたのは、目の前の書物を読み解くこと…だったのだ。
アナベルがルカのことをウォルターに言いそびれていたのには、いくつかの理由があった。まず、ミラルダの存在だ。ルカの双子の弟のサイラスに攫われるという恐ろしい経験をしたミラルダの前で、その兄の話題をだして、せっかく明るくなっている少女の心を無駄に傷つけたくない…、というのが第一だ。
次の逡巡はウォルター当人にある。何故だか彼はルカに対して奇妙なこだわりを持っていて、彼の話題に対しては過剰反応しがちなのだ。変な誤解をされたくないアナベルとしては、どう切り出すのか、悩ましいところだったのだ。もっとも、アナベルだって、イルゼいう同級生の存在に過剰反応しているという自覚はあったので、その件で、ウォルターの狭量さを、一概に責めることも出来ない。
それに加えて、夏休みに入るなり知ってしまった問題があった。
…ルカはアナベルの異父兄なのだ…。
だから、ウォルターの過剰反応は、本当にまったく意味のない感情で、そのことを知ってしまったアナベルは、ルカに付随してそのややこしい事実までを説明しなければならず、尚且つ、彼女自身が全てを把握しているわけでもなく…。
…つまり…ややこしいのだ。
元来単純で、ややこしいことが苦手な上、人に何かを説明することが苦手なアナベルは、正直途方にくれていた。…というのが、ウォルターにルカの話をしなかった理由なのだ。だが…。
…知ってたんだったら、こっちに確認してくれたっていいだろうに…。
そうしたら、自分の側の経緯だって、話せたのに…。
…と、アナベルは無責任にも、ウォルターに責任を転嫁した。
「…ごめん、言わない方がよかった?」
アナベルが黙りこくってしまったからだろう、顔色を伺う様な調子でルカが尋ねた。アナベルは慌てて首を振ると
「ううん、そうじゃないんだ。自分でも、言おうと思ってたんだけど、なんか言いそびれていただけで…」
「そっか」
と、ルカはほっとした様に笑顔になった。こういう素直さは、オリエ風に言うならば“箱入り育ち”だからだろうか。アナベルは何やら申し訳ないような気分になってしまう。
「結構、図書館に行ってるのか?」
「ううん、日曜日くらいかな…。土曜日はバイトがお休みだって聞いてたし。平日は僕の方こそバイトだろ?」
「ウォルターに会うために図書館に行ってたのか?」
「…まあ、そうかな…。そんなに変…かな?」
「いや…」
変というか…いや、変なのか…?
「けど、今までは全然会えなくて、あきらめようかと思ってたんだけど、ようやく会えたから…」
「ああ、あいつ基本、中の仕事だから」
「うん。僕が見た時は書架に本を戻してたけど、その日はボランティアスタッフの人が足りなかったから手伝ってるけど、普段は事務所の方にいるって言ってた」
と、ルカはにっこりとした。
「ちょうどお昼時で…僕、持ち合わせが少なくて…なんやかやでランチをご馳走になっちゃって…」
「え?そうなの?」
…初対面の時といい…どうやらウォルターは、ルカに何かを提供せねばならない運命にあるようだ。
「なんで、そんなに会いたかったんだ?用事でもあったの?」
「うん…いや、そういうわけでもないけど、ほら九月からセントラル高等校に通うことが決まっただろう、それで、少しでも話を聞いておけたらなって…」
「ああ、なるほど」
「アナベルも色々教えてくれるけど…」
「まあ、そうだな。いろんな人から聞いた方がいいもんな」
「うん」
アナベルの返答に、ルカはほっとしたような笑みを浮かべた。
一年前、初めて会った時に比べると、ルカは随分と大人びていた。水色の双眸はいまではほとんど灰色に近い色になっている。…それでも、ルカの笑顔が奇麗で優しいことには変わりなかった。アナベルは何となく複雑な気分になった。
一年生の春休み、病院のバイトで出会って、ルカと親しく話をしていた頃、会話の流れで “ルカがお兄さんだったら…”と、彼女は口にしたことがあった。その時のルカは、弟との関係で悩んでいて自信を喪失していたので、励ますために彼女はそう言ったに過ぎない。だが、本当に本物の兄だったのだ。
そうはいっても、これまでの経緯のせいか、はたまた、一度、弟だと信じ切っていた無表情な同級生が、実は“赤の他人”であった…という経験をしたせいか、どうにも実感がわかない。だが、そう思ってみると、確かにルカは博士に…彼と自分の遺伝上の母親、エナ・クリックに似ている様にも見えた。
…だが、よくよく考えてみると、カレンの話を聞いて、ルカとサイラスがエナのつくった最初のバイオロイドなのだと思っただけで、実際のところはどうなのか、実は知らないのだ。
それに、セアラに聞いた時、セアラは、ルカとサイラスの母親は彼らを産んですぐに亡くなったと言っていたではないか?それが本当なのだとすると、よく似た状況に置かれた、別人の双子…という可能性だって、全くなくはないのだ。
「ルカのお母さんってさ…亡くなってるんだよね…」
ぐるぐる考えているうち、唐突にアナベルは切り出していた。
「え?」
「えっと…」
口に出してしまってから、アナベルは慌ててしまった。だが、今更慌てても遅いというものだ。ルカは少し首を傾げると
「いや、生きてるけど?」
と、応じた。
「え?生きてるの?」
…いや、生きていることは知っている。知っているのだが…ということはやはりエナなのか?
「え…違うのかな…。多分、生きてると…。あの、アナベル…、僕の母が亡くなったって、誰から聞いたの」
ルカの返答も、変に曖昧だ。
「誰って…前にセアラから…」
アナベルがそう答えると、ルカは二、三度頷いた。
「うん…そういうことになってるらしい。けど、本当は生きてるんだ」
「あ、そうなんだ」
アナベルの返答もなにやら中途半端だ。ルカは宙を見上げると
「…実は、このバイトに入る前に、オリエから、おりを見てアナベルには話をしておくようにって、言われてたんだけど…」
と、言いだした。
「え?何の話?」
「うん…あの、実はね、僕の…僕らの母親は…実は、クリック博士なんだ…」
「…あ、そう…」
アナベルも、軽く頷いた。アナベルの反応に、ルカは訝しげな視線を彼女に向けた。
「あの…ひょっとして、知ってた…?」
アナベルは思わず頷いてしまう。ルカは額に手をやると、天井を見上げた。
「なんだ、もう…。言うの、結構、緊張したのに…」
「あ、ごめん…。違うんだ、その…ある人からたまたま話を聞いて、それで、ひょっとしたらって思ってただけで、確信があったわけじゃないんだ」
と、アナベルは慌ててフォローする。
「…じゃあ、博士から直接聞いた…とかじゃないんだ?」
「まさか…!そんな大事なこと、エナが私に直接説明してくれるわけがないだろう?」
苦々し気なアナベルの言葉に、ルカは名状しがたき表情になった。が、アナベルの方に向き直ると
「…じゃあ、僕らがバイオロイドだってことも…」
と、言葉を続ける。
「あ、うん…。エナが最初に作った、バイオロイドだって、聞いたけど…」
「そっか…」
「ルカは、最初から博士が自分の母親だって知ってたの?」
「うん…そうだね…。おかしな話だけど、誰に聞いたってわけじゃないんだ。けど、物心がつく頃には、博士が自分のお母さんなんだろうなって…」
…お母さん…、なんだろう、エナにはすごく似つかわしくない言葉なのに、ルカが言うと、なんだか…
「八歳の時に、一回退院してたことがあったんだ。けど、半年もたたないうちに病院に戻ることになっちゃって…。病院に戻って、目が覚めたら博士がいて、その時間違って『お母さん』って呼んじゃったんだけど…別に、言い直されたりもしなかったから、ああ、やっぱりお母さんなんだなって…。でも、その時ぐらいかな?なんとなく、そう呼んだらいけない様な雰囲気があって…」
「そうなんだ…」
…“お母さん”…エナは、どんな気持ちでその言葉を聞いたのだろう?カレンから聞いた話からの推測でしかないが、エナにとって一番関りの深い子供は、間違いなくルカだろう。文字通り、彼を救うためにエナはその身を削ってきたのだ。二年前に突然現れた自分などとは比べ物にならないほどの深い思い入れが、ルカに対してはあるに違いない。アナベルは、その事実をさしたる抵抗もなく受け入れることが出来た。
…だが、サイラスにとってはそう簡単な話ではなかったのかもしれない…。そう、思って、相手に同情しかけている自分の人の好さに、アナベルは一人顔をしかめた。
「あの…さ…」
「うん?」
「…サイラス、あいつ…そのこと知ってたって思う?」
アナベルの言葉にルカも顔をしかめた。
「そう、知ってたと思うけど」
「そうなんだ」
…多分そうだろう。サイラスはルカが知らないようなことまで…アナベルが生まれた経緯まで知っていたのだ。当然、自分自身がエナに作られたバイオロイドであることも、知っていたのだろう。
…ならば、あいつは知っていて、自分にあんな妙なことをしようとしていたのか?アナベルはそう、考えて、嫌悪感に顔を歪めてしまう…結果的に、未遂に終わったからよかったようなものの…いや、未遂ったといっても、随分気色の悪いことをされたのだ。アナベルは思い出して、歯ぎしりをしてしまう。だが、あの時にサイラスが言っていた言葉の意味も分かるような気がした。
“君をボロボロにする方が面白い“というのは、エナに対する二重の報復だったのかもしれない。エナが最初に作ったバイオロイドが、二番目に作ったバイオロイドを、ぼろぼろにするのだ…。
陰湿な発想に、アナベルはため息をついた。その暗く湿った考えを振り払うかのように、アナベルは小さく頭を振る。それに…
…彼女には他に気になっていることがあった。
「あの、ルカはさ、父親の…もう一人の遺伝提供者のことを知ってるの?」
ルカのウォルターに対する、不自然なほどの執着と、これまであちらこちらで聞いた話から、アナベルは双子の精子提供者が、ウォルターの遺伝上の父親である。ロブ・スタンリー氏なのではないかと、考えていたのだ。
アナベルの質問に、ルカは顔を伏せた。
「…僕は、父親に会ったことが一度もないんだ。だから、どんな人なのか、僕自身は知らないんだ…」
「僕自身ってことは、他に知ってる奴がいるの?」
アナベルは冷静に、…とりようによっては冷ややかな調子で言葉を重ねた。ルカは再び顔を上げて、アナベルの顔を見つめる。
「サイラスは何度か会ってた…」
「そうなんだ」
「うん、でも、苦手だったみたいだ。苦手って言うか…」
「嫌ってたのか?」
「うん、まあ、そうだね。父さんと会った後は、荒れてることが多かった…」
ルカはやや悄然とそう呟く。アナベルはルカの横顔を見つめてしまう。
「…その頃はわからなかったけど、サイラスは人の心が見えていた。ルーディアと同じように。嫌なことがあったのかもしれない…」
「そうか…」
アナベルはため息をつくと
「ルカは、その人のこと…名前とか…知ってる?」
ルカは顔を上げると、弱々しく微笑んだ。
「名前は…聞いたことがないんだ。多分、これから先も、僕が会うことはないんだろうな…」
「そう…」
アナベルがため息をついて、しばらくその場を沈黙が覆った。
「…ひょっとして、今日、オリエに言われて、それでルカはここに来たの?」
「え?」
「あ、いや、ルカと話をさせるためにオリエは私を待たせてるのかなって…」
アナベルの疑問の意味が分かったのか、ルカは「ああ」と、声を上げた。
「違うよ、そういうわけじゃない。これはただの偶然。ほら、アナベル昨日まではすぐにいなくなってたじゃないか。僕はいつも、少し休んでから帰ってるんだ」
「そうなんだ…」
「まあ、来週からはそうもいかなくなるかもしれないけど」
と言いながら、何故かルカが微かに微笑んだ。
「何かあるのか?」
「うん、ちょっとね」
と、真顔に戻って、ルカが応じた。
そんなやりとりをしていると、ようやくオリエが訪れた。アナベルはルカに別れを告げると、オリエに従って別室に向かった。




