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オールドイースト  作者: よこ
第3章
319/532

3-1 ロスアンに帰る(1)

ようやく第3章に入りました(…長い…)。

今回は全11話。

玄関の方から小さな物音が聞こえて、廊下にいたイブリンは、玄関の方へ足を向けた。見ると父が外出の準備をしていた。グレイの傘を手にしている。


「お出かけになられるの?」

と、イブリンは父の背中に呼びかける。


ジョン・リューは娘の声に振り返ると

「ああ」

と、短く応答した。


「どちらへ…?」

「…マチルダのところだ」

返答にイブリンは少しだけ顔をしかめた。が、余計なことは何も言わず

「そう、お気をつけて…」

と、静かな声で父を送り出した。



 バスを降りると、普段あまり使うことのない傘を開き、そぼ降る雨の中、ジョンは通い慣れた道を一人歩く。冬に息子から手紙が…それは彼が息子から貰った初めて手紙だった…届いた時から、気がつけば亡くなった妻の墓を訪う様になっていた。それ以前には、なかった習慣だ。


長らく、若くして亡くなった妻を思い出すことは、彼にとって苦痛を伴うことだった。彼は、妻を思い出すことを意識的に避けていたのだ。だが、実際に、こうして妻の墓に通うようになると、以前ほど彼女のことを思い出すのが辛くないことに彼は気がついた。意外な発見だった…。


 静かに歩いて、妻の眠る墓所の前に立った。いつもと同じように、ただ黙って碑銘の刻まれた石を見つめる。普段と異なっているのは、雨が降っていて自分が傘をさしていること、くらいだ。


 …ジョン…


背後に妻の気配を感じる。無論、気のせいだとわかっている。これは記憶だ。すでに過ぎ去った日の…幾度となく想起した己が記憶…。


マチルダはまだ十五歳で、そこはオールドイーストで自分が一人で生活していたアパートメントの一室だ。


中等校を卒業したばかりの、十歳年下の従妹のマチルダが、夏休みを利用して一人でオールドイーストに観光旅行に来た時のことだ。高等校に上がる前にちょっとした冒険を試みたというわけだ。両親は娘の挑戦に、適切な宿を準備していたのだが、何故か親の指示に従わず、マチルダは一人暮らしのジョンの部屋を、訪ねてきたのだ。


マチルダは全身を押し付けるようにして、彼の背中にしがみついている。


 …マチルダ、どうしたんだい?


答える自分の声は笑っていた。連絡もなしに突然訪れた従妹に、空いている部屋を提供したのはいいが、従妹は夜中に眠れないと自分を起こしたのだ。幼い従妹のために、お茶を淹れようとしていた自分の動きを邪魔するマチルダの幼さに、ジョンは愛しさを覚えた。


 …心細いの?夜が明けたら、もう一度、シャオリン叔母さんに連絡をしてあげるから…


自分の背中にしがみついたまま、マチルダが首を振っているのが分かった。


 …お父様もお母様も、私が高等校を卒業したら、従兄のイアンの元へ行くのがいいだろうって…


 …結婚する…ってことかな?


マチルダが頷く。


 …そう、君はまだ幼い…嫌なのかい?


マチルダが頷く。ジョンは秘かにため息をつくと、お茶の準備をするのを諦めた。自分の腰に巻きつく、従妹の白くて細い腕に、優しく手を置いた。


 …フェンロンも、それに叔母さんも君が本当に嫌だって思っていることを、君に強いたりしない。二人にきちんと自分の気持ちを話してごらん…


だが、マチルダは納得できないのか、ジョンの腰に回した腕を離す気配もなく、ますます強くしがみついてきた。ふっと、ジョンは気がついた。自分の背中に抱き着く従妹は、すでに幼くはない…。


 …ジョン…昔、約束したこと…覚えてる?


 …昔…?


 …“お嫁さんにしてあげる“って、そう言ってくれたわ…。


ジョンはふっと力を抜いた。つい先ほど、一瞬、感じた感覚…自分にしがみつく幼い従妹が、すでに幼くはない、という感覚…が遠のいた。


 …君が子供の頃にそんな話をしたね…


 …そう約束したわ…


ジョンは笑った。子供の頃の戯れ…幼い従妹は、何故だか彼を気に入って、何度かそう申し込んできた。“お嫁さんにして”…。同い年の従妹のタニアと一緒に、おませな従妹の微笑ましい申し込みに、ジョンは笑って応じた…。


 …マチルダ…




(振り向くな…)


 じっと、妻の墓所を見つめながら、ジョンは過去の自分に向かって、心の中でそう呼びかける。振り向くべきではなかった。あの時自分が、振り向いてしまったから、その後の彼女の人生を台無しにしてしまったのではないか?


 ジョンは、大きく息をついた。…何を言っても今更だった。そのとき彼は振り向いて、幼い彼の従妹の…幼い筈の彼女の目を、見つめてしまった。振り向いて、自分を見上げる潤んだ眼差しに吸い込まれる。不安そうな顔をしているのかと思っていたマチルダの面には、笑みが浮かんでいた。


それは、彼のよく知る無垢な従妹の笑顔ではなく、舟人を誘うセイレーンの微笑だった…。


***


 アナベルがミラルダに引っ張られるようにして、リビングに一歩足を踏み入れると、ソファの真ん中を陣取るように、固まって丸まっていた二匹の猫が、同時に顔を上げた。珍客に気がつくと、そのうちの一匹、全身が真っ黒な猫は、無言でソファから優雅に飛び降り、そのまま何処かへ姿を消した。残った一匹、白と薄い茶色のまだらの猫は、暢気にあくびをすると、観察するような眼差しを、アナベルに向けた。


ミラルダはカフェオレに、…珍客にも動じず、悠然とソファの真ん中で丸くなっている猫に、アナベルを紹介した。


「カフェオレ、アナベルだよ。確か一回会ってるよね」


言いながらミラルダが額をなでると、カフェオレは目を細め、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。


「へえ、あの時より大きくなってるね」

「カフェオレは食道楽なの。兄弟なのに、フィマオはあまり変わってないわ」

「そうなんだ」


成長した…わけではなく、安楽な生活を手に入れたカフェオレは、端的に言えば太った…のだな。と、アナベルは思った。


 八月中旬の週末、アナベルは、ミラルダとナイトハルトの招待を受けて、ウォルターとリースと共に、ナイトハルトの家に猫を見に来ていた。


ミラルダとリースはセアラも誘ったのだが、セアラは遠慮したのか、用事があるからと断った。ミラルダ以上に熱心にセアラを誘っていたリースは、がっかりした。リースの方には断れない理由はあっても断る理由はなかったので、やや悄然としつつも、二人と共に訪問客に加わっていた。


 ナイトハルトとミラルダは八月後半の十日間ほど、トリオールのミラルダの親戚を訪ねる予定になっている。その間の猫の世話を、アナベルとリースが分担することになったのだ。その為の下見の意味もあって、リースとしては来ないわけにもいかなかったのだ。もっとも迷惑なわけではなかった。

…これで、セアラが一緒っだったら、最高だっただけで…。


 カフェオレをなでるミラルダの背後から、ナイトハルトが覗き込む。


「フィマオはやっぱり逃げたのか?」

「うん」

「すぐにいなくなったよ」


ソファの側に座り込んで、ミラルダとカフェオレの様子を見守っていたアナベルも、ナイトハルトの言葉に顔を上げた。


「仕方がない奴だな…」


言いながらナイトハルトはその場を離れる。ナイトハルトの後ろから付いて来ていたリースが、興味深気に覗き込んだ。


「へえ、立派な猫だね」

「うちに来て立派になったの。飼い始めた時は、もう少しスマートだったのよ」

と、ミラルダが不満そうに呟いた。


「もうそろそろ、ダイエットすることを考えた方がいいかも…」


ミラルダの呟きに、アナベルが首を傾げる。


「まだ、大丈夫じゃない?」

「そうそう、猫は太ってるくらいの方が可愛いよね」

と、リースもアナベルに同意した。


「でも、ナイトハルトがイジメるんだもん」


ミラルダが不平を漏らすと、ナイトハルトがリビングの大きな窓から、戻って来た。


「あいつ、裏に行ったな…」

「ナイトハルト、カフェオレをイジメてるのか?」


アナベルは立ち上がって、声を掛けた。それから、リビングの入り口で佇んでいるウォルターの無表情に気がついた。


「お前…何、そんなとこ突っ立って…」


アナベルはウォルターの姿に、呆れた声を上げるが、ナイトハルトは構わず言葉を続ける。


「イジメてるわけじゃない。あまり太り過ぎると、体に悪いって言ってるんだ」

「まだ、そこまでひどくないだろう?」

「いや?いつだったか、高い棚に上ったはいいが、着地に失敗してたのを見たんだ」


「もう、そればっかり言うんだから!たまたまよ!」

というミラルダの抗議に、ナイトハルトは肩を竦めた。


アナベルは

「で、フィマオはいなかったのか?」

「ああ、裏に避難したみたいだ。誰に似たのか人見知りが激しい」

言いながらナイトハルトが、麗しい笑顔を浮かべた。


アナベルはため息をつくと

「名付け親に似たんじゃないのか?」

と、どこか所在無げなウォルターに視線を向けた。リースはすでにカフェオレと打ち解けている様だった。


ウォルターはアナベルの言葉に、むっつりとした表情で

「…悪かったね」

と、応じる。


「いや、いつまでもそんなところに突っ立っているから…」


ウォルターはアナベルを一瞥すると、「失礼します」と、丁寧にことわってからリビングに入って来た。


「そんな、バカ丁寧な…」


アナベルが呆れると、ナイトハルトも笑顔のままで、手を広げた。


「全くだよなぁ。知り合って二年もたってるのに、なかなか懐いてくれない…。傷心気味だ」

「懐くって…お前…」

「猫じゃありませんから…」


見事な無表情でウォルターが応じた。アナベルの意識過剰なのか、ジョークにしては険のある言い方に、思えてしまった。


「お前…まだ、何かもめてるのか?」

「もめてる?何が?」

「ナイトハルトと何か…」


ウォルターは露骨に顔をしかめた。


「当人を前にしてよくそんな質問が出来るね?僕は、別に、ザナー先生とは何もない。僕はね」


気のせいでなく嫌味な言い方に、アナベルは顔を引きつらせた。見るとナイトハルトは、楽し気な顔をしている。それが余計に癪に障った。


「僕はって、なんだよ?他に誰が、…何があるっていうんだ?」

「さあ…?」

「お前、言いたいことがあるんだったら…」


アナベルが言い掛けた言葉に、ウォルターは鋭い一瞥を向ける。


「訊いてもいいわけ?ここで」


言われて、アナベルはたじろいだ。ウォルターが何を訊きたがっているのか、わからなかったが、嫌な感じがして、咄嗟に応答出来ない。


アナベルが顔を強張らせて黙ってしまったので、ウォルターは小さく舌打ちした。


「…前から言ってるけど、君のそういうところ、何とかした方がいいと思うけど?」


アナベルが何か言い返す前に、カフェオレと親交を深めていたリースも、何故か便乗してきた。


「やっぱり!そうだよね!そう思ってたの、僕だけじゃなかったんだ!」

「おま…」


リースの言葉に、アナベルは絶句した。リースは立ち上がると勝ち誇った表情になって

「ウォルター!僕、君の気持、よーく、わかるよ!大体アナベルは、いっつも偉そうなんだよ」

「お前、よくそんなこと…」


子供かっ?と、アナベルは叫びたくなったが、ウォルターのいう“訊きたいこと”が、引っかかって、言葉が返せない。


「その…」

「お前らほどほどで勘弁してやれよ。こんなでも一応、女なんだから、男二人が寄ってたかってイジメてやるな。なぁ、アナベル」


ナイトハルトの楽し気なとりなしに、アナベルは自分をイジメているらしい、二人の学生より、むしろナイトハルトの背中を蹴りたくなった。


ウォルターは顔をしかめると

「むきになり過ぎました。頭を冷やしてきます」

と、言うなりわき目も振らずに、リビングの窓から外に出た。アナベルは、即座にウォルターの後を追って外に飛び出した。


二人の背中を見送ってから、ナイトハルトが

「頭を冷やすって、外の方が暑いだろうに…」

と、面白そうな表情ままそう呟いた。ミラルダは、ナイトハルトを睨みつけると

「ナイトハルト、何かまた余計な事、したんじゃないよね?」

と、重々しい調子で言い出した。ナイトハルトは肩を竦めると、娘の視線から顔を背けた。


***


 前を行く背中に向かってアナベルは声を上げた。


「ウォルター!」

が、ウォルターは止まらない。ナイトハルトの家の裏の方に回ると、日陰で立ち止まった。


日陰に入ると、ひんやりとしており、身にまとわりつく暑さの不快感から、少しだけ解放された。


「その…悪かった」


追いついたアナベルが、背後から謝った。ウォルターは顔をしかめると、振り返った。


「なんで君が謝る?僕が一人で不機嫌になってただけだろ?」


目が合うと、アナベルが笑った。


「やっと、こっち向いた」


その笑顔が可愛かったので、ウォルターは眉間に皺を寄せてしまう。彼は何かを言うのを諦めて、その場に座り込んだ。裏庭にも丁寧に敷き詰められた芝生は、ひんやりとしめっていて、心地よかった。意外に手入れが行き届いている。ザナー先生がやっているのだろうか?そんな埒もないことを考えていると、アナベルが隣に並んで腰を下ろした。


「その…私も自分のものの言い方が、なってないことはわかってるんだ。それに、お前が、機嫌が悪いの、無理に誘ったせいかなって…」

「別にそんなんじゃ…、と言うか、さっきのはただの言いがかりだから、謝らないでほしいんだけど…」

「そうかもしれないけど…」

「それに、無理に誘われたってわけじゃない。…ミラルダにも失礼だろ」

「そうか、ならいいんだ」


言うと、アナベルは再び笑顔を向けた。


…なんだって、こんな…可愛いんだ…。


一瞬、見惚れて、慌てて目を逸らす。七月に彼女がエナと仲直りをしてから、こんな風に素直で、可愛い笑顔を目にする回数が増えている。当人がどこまで自覚しているのか定かでないのだが…。彼女の笑顔が可愛ければ可愛いほど、ウォルターは落ち着かない気分になってくるのだ。


「その…、ここのところちょっと、神経質になってて…」

「ロスアンに戻るからか?」

「うん…」


実際に、自分がナーバスになっているという自覚はあった。さっきのことだって、ザナー先生とアナベルのことが気になっているのは本当だったけど、口にするつもりなんて全くなかったのに…。


「その、ただの言い訳だってのは、わかってるんだけど」

「そんなことはない。私にまで、強がらなくたっていいだろ?」


…私にまでって…。ウォルターは、アナベルのその言葉に、頭に血が上るのを感じた。


「いや…」

「丸二年、帰ってないんだろ?つまり、それって、お父さんに会うのが二年ぶりってことだ…」

「うん…」

「それで、難しい話をしに行くんだ。緊張するなって方が無理だ」

「そう、かな…」


アナベルは頷くと

「私もエナにカイルのこと頼む時、すごく緊張した。ここに来る前に、エナから、カイルのことはエナには関係ないって、はっきり言われてたから…」

「そうなんだ」

「うん…」


言いながらアナベルは真面目な顔をして俯いた。ウォルターは、その横顔を見つめながら、ひそかにため息をついた。


「君には、参る…」

「参る?」

「うん…そういうとこ、凄いなって…」

「そんな…」


見るとアナベルが真っ赤になっていた。目が合うと今度は彼女の方が急いで目を逸らした。


「その…お前が、話を聞いてくれたから…それで、色々整理がついたんだ。だから、お前のおかげだって、こっちは…」

「いや、そんな大したことは…」


何やらウォルターまで、照れくさくなってきて、一緒になって俯いてしまう。アナベルは立てた膝に視線を落としたまま

「その、だから、私に何か出来ることとかあったら、言ってくれれば…」

「君に?」

「うん…」


言いながら互いに顔を上げた。しばらくそのまま、黙って見つめ合ってしまう。


 ふっとウォルターが目を細めた。


「もう、十分助けてもらってるから、大丈夫…」

「そうなのか?」

「うん…」


ウォルターの返事に、アナベルは俯いた。


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