2-13 夢のつづき(5)
助手席に乗り込むと、ミラルダは真面目な様子できちんとシートベルトを締めた。十日ぶりに見る娘の姿に、ナイトハルトは、不可解な緊張を覚えた。
「お前…アルベルトの家でちゃんとしてたのか?」
「…してたわよ。当然でしょ?」
むっつりと、しかし生意気に言い返されて、ナイトハルトは何やら安堵した。
「お仕事は?落ち着いたの?」
なんだ、この口調?生意気を通り越して、トゲトゲしてないか?前からこんなだったろうか?
「いや…どうかな…」
「もう!着替えとか結構たまってるんだから、どっちなのよ?」
「どっちって…」
「テキストとかノートとかも、アナベルの部屋に置かせてもらってて、ナイトハルトがまだ仕事忙しいんだったら、置かせてもらってた方がいいでしょ?だから中途半端なのが、一番困るの!」
「そんなの…まだ、わからん」
「だったら無理して来なくたっていいのに…」
「お前…人がわざわざ!」
「わざわざって…。別にいいもの!毎朝アルベルトが送ってくれて、結構楽しかったのに…」
ナイトハルトは絶句した。娘の頭をげんこつでグリグリと攻撃したくなってくる。
「夜だって、アナベルとセアラとみんなでおしゃべりしながら寝られるし…」
「ああ、そうかよ!わかった!」
「わかったって、何よ?」
「楽しそうで結構なことだ、だったらもうしばらく忙しくしておいてやるよ」
「忙しくしておいてって…ナイトハルトが悪いんでしょ?!」
「なんで、俺が?」
「だって、だって…結局…」
言いながら悔しそうに顔を歪めると、ミラルダは歯をくいしばって俯いた。ナイトハルトは運転しながら娘の横顔を一瞥する。先ほど、アルベルトの家の前で見たミラルダは…、アナベルに、行ってきますの、挨拶をしていた時の娘の笑顔は、とても自然で可愛かったのに。
エレーンといる時、時々見せていた笑顔のように…。
ナイトハルトは腹立たしさのあまり舌打ちしたくなったが、かろうじて堪えた。全部自分が悪いのだ。
それから二人は、車内に充満する、重苦しい沈黙に耐えながら、学校へと向かった。
ミラルダに振られたナイトハルトは、娘に宣言した通り、忙しさが続いていることにした。アルベルトに簡潔ながら連絡だけは入れておいたが、何か言いかける友人の呼びかけを無視して早々に電話を切った。
…ヴァイオレットのことが気になっていたというのも本当だった。今日は休日だと言っていたから、いるだろうと、適当に決めつけて、ナイトハルトは先週と同じように、ヴァイオレットの部屋を訪れた。先週と同じように、チェーンのかかってない状態で、さして待つこともなくドアが開いた。
オフの日仕様なのだろうか、ヴァイオレットは、彼女には珍しく、Tシャツにジーパンというラフな格好で出迎えてくれた。
「ナイトハルト…」
「ごめん、迷惑だったかな?」
ナイトハルトの気弱そうな微笑に、ヴァイオレットは目を細めて笑った。
「ううん、嬉しいけど…」
「けど?」
「何も準備してないの。それでもいい?」
夕食のことだろうか?約束もないのに勝手に来た相手に、しかも付き合っているわけでもない相手に対して、気を使い過ぎだろうと、呆れないでもない。
「気にしなくていいよ。なんだったら、外に行こうか?」
「あ、ううん…私の分は用意したんだけど…」
言いながら、部屋に招き入れてくれた。見るとテーブルの上に、テイクアウトと思しき、器に盛られたサラダがひとつ、置いてあった。先週とのギャップに、ナイトハルトは笑いそうになってしまう。
「普段、随分無理させてたんだな」
「別に無理ってことは…自分で調理した食事の方が体にもいいから…今日は色々必要なものを買いだめしたりとか、それで少し疲れて…」
「普段ご馳走になっているから、よければ今日はご馳走させてくれないかな?これは明日の朝に回して…。ダメ?」
「…食事に…誘ってくれてるのよね」
「他にどう聞こえた?」
ヴァイオレットの顔を覗き込むようにして、にこにこしながらナイトハルトが確認をとってくる。その顔がやけに可愛く見えてしまったので、ヴァイオレットは、彼の誘いに応じることにしてしまう。
「着替えてくるから、待っててくれる?」
「いや、そんな大層なところには連れていけない。それに、そのままで十分素敵だよ」
部屋に戻りかけるヴァイオレットの動きを封じるように、ナイトハルトは彼女の肩を抱いてそう言った。ヴァイオレットはため息をついた。
「あなた…私のこと、なんとも思ってないって…。日曜日も来てくれなくて、もう来ないつもりなんだと思ってたのに…」
…確かにそのつもりだった。が、まさか、一週間ぶりに娘を迎えに行ったら、よろこばれるどころか、ここにいた方が楽しかったのに、などと迷惑そうに文句を言われて、腹が立ったから、また君に会いに来た…とも、言えない。なので、ごまかすためにナイトハルトは、ヴァイオレットの頬に触れるくらいの軽いキスをして、
「迷惑なんだったら帰るよ…」
と、耳元で囁いた。すると、ヴァイオレットが目を伏せた。
「ううん。あの…、食事に…連れて行ってくれる?」
と、結局のところ、彼女も囁くような声でそう応じた。
ナイトハルトは、学生の頃リパウルと一緒に、よく食事に行っていたレストランにヴァイオレットを連れて行った。それほどかしこまった店でもなかったが、ヴァイオレットはやはり着替えてくればよかったと、後悔している様だった。
「気にしなくても、似たようなスタイルの子はいるだろう?」
メニューを伝えてウェイターがテーブルから離れたのを見計らって、ナイトハルトは笑いながらヴァイオレットに話しかける。
「だって…」
ヴァイオレットのこだわりが、やけに可愛く思えてナイトハルトは、笑ってしまう。
「そんなに気になるんだったら、次に来る時にはドレスアップすればいい」
「次に来るときって…」
言いながらヴァイオレットはため息をついた。
「どういうつもりなの?」
「何が?」
「…そんなことを言われたら、期待するわ…」
「次を?」
深々と息をついてから、ヴァイオレットは
「そうよ」
と、か細い声で応じる。ナイトハルトは、肩を竦めた。
「普段から、外で食べる方が多いんだ。君の手料理は美味しかったけど…」
「そういうこと?たまには連れが欲しいって程度なの?」
ナイトハルトは、悪戯をとがめられた子供のような表情になった。
「ダメかな?」
ヴァイオレットはナイトハルトを軽く睨むと、ミネラルウォーターのグラスを口に運んだ。
その夜は二人とも、お酒の注文はしなかった。
食事を終えたら、帰るつもりなのかと思ったが、ナイトハルトは当たり前のような顔をして、ヴァイオレットの部屋までついてきた。ヴァイオレットは迷いながら、結局彼を部屋に入れてしまう。ナイトハルトは少しだけ首を傾げて
「今日はベッドだけでいい、借りられないかな?」
と、妙なことを言い出した。
「どういう意味?」
「何もしないから添い寝してもいいか?とか…そういう意味かな?」
何のサービスだ?と、ヴァイオレットは訊き返したくなった。
「抱く気がないのから、どうしてついてきたの?」
「君が嫌なら、ソファでも…リビングの床でも構わないんだけど」
ヴァイオレットは笑ってしまった。
「家なき子なの?高給取りなんでしょう。うちは安宿じゃないのよ?」
「言われてみれば、確かにそうだ…」
そう言うと、ナイトハルトはヴァイオレットの体を柔らかく抱きしめた。ナイトハルトの腕の中で、ヴァイオレットは彼の顔を見上げた。珍しい緑色の双眸が、優しく自分を見つめていた。
まるで、自分に恋をしているみたいに…。最初から、彼はそんな目で自分を見ていた…。
「ホテルには君がいない…」
「抱く気はないんでしょ?」
「君が、飲んでなかったから…」
そう言う、ナイトハルトの優しい声にこそ、酔ってしまいそうになる。ヴァイオレットは顔を伏せた。これ以上この腕の中にいたら、どうにかなってしまいそうな気がした。
「シャワーを浴びるわ」
「そう…」
ナイトハルトは、ゆっくりと彼女を解放した。
宣言通り、ナイトハルトは、ヴァイオレットを抱こうとはしなかった。彼用のパジャマがあるわけではないので、バスローブを着たままだったが、ヴァイオレットは妙に緊張してしまった。
やはり、お酒の力を借りないと…そう思っていると、隣で横になっているナイトハルトの視線を感じた。見ると想像通り、面白そうな表情になって、こっちを見ていた。その表情に、ヴァイオレットは、イライラしてきた。
「どういうつもりなの?」
「添い寝のこと?」
「そうよ!」
「さっき言ったろ?君が飲んでなかった。俺と寝る気はないんだって、意思表示かと思ったんだけど…」
「そんな意味は込めてなかった。言ったでしょう?もともとそんなに得意じゃないの」
「抱かれたいのか?」
少し意外そうな口調で、ナイトハルトが切り返してきた。そう直球で訊かれると、“そうよ!”とも言いにくい。
ヴァイオレットの沈黙を、どう受けとったのか、ナイトハルトは、
「先日、君が言ったことを信じるんなら、君は俺を好きになりかけているんだろう?けど、俺は君に恋はしていない。好意は持っててもね。それなのに、君を抱くのは失礼な気がしたから…かな?」
「なら先週まではどうして平気だったの?私があなたと同じように、セックスを楽しんでいるだけだって思っていたの?」
「まあ、そうかな?」
「恋もしてない相手と、そんな割り切って楽しめるような女に見えた?」
「それが、悪いことみたいな言い方されると、俺としては複雑なんだが…」
その言葉に、ヴァイオレットは、唇を噛むと、顔を伏せた。
「ならどうして…、私に、恋をしたわけじゃないのに、何故ここに来たのよ?寂しかったの?」
…寂しかった…。
一言で言ってしまえば、そういうことになる。ミラルダのいないあの家の、広さと静けさが、ナイトハルトには耐えられなかったのだ。たった一日で、その寒さに…我慢、出来なくなってしまった。
「そうだな、寂しくなったんだ。ホテルに泊まっても一人だ」
「そう…」
それ以上ヴァイオレットは、何も言わなかった。本当は、言いたいことが無数にあった。けれど、本当に言いたいことこそを、言わないで飲み込む癖が、自分でも嫌になるほど、身に沁みついてしまっていた。
が、ナイトハルトにしても、思っていること全てを、赤裸々に語っているわけでは無論ない。寂しかったのは間違いなく本当だったが、ヴァイオレットのことが気になっていたのも本当だった。
ナイトハルトには、自分のことを好きになりかけているという彼女の言葉と、土曜日の夜に見た彼女の涙の意味が、よく理解出来ないでいたのだ。失った恋人を愛したままで、他の男を愛せるものなのだろうか?隣にいる”恋人“が、失われた恋人ではないことに、怒りを覚えないでいられるコツがあるのなら、教えてもらいたいくらいだった。
ヴァイオレットは、ナイトハルトに背中を向けると、そのまま一人で丸くなった。ナイトハルトは一人、天井を見上げた。
せっかく家に戻ったのだから、着替えくらい用意しておくべきだった。自分のこととはいえ、いつものことながら、何も考えないまま行動していることに、ナイトハルト自身が、呆れないでもない。
今朝、会った時、ミラルダが飲み込んだ言葉が何なのか、ナイトハルトには、わかるような気がした。娘が欲しているのは真実だ。いや、端的に父親からの言葉…と言ってもいいのかもしれない。が、彼はいまだに娘に、何をどれだけ伝えるべきなのか、その選択が出来ていないのだ。
ギュンターが、ミラルダの存在を知れば、関心を持つことはわかっていた。その為、ミラルダを手元に置いておきたいという気持ちが強まれば強まるほど、オールドイーストに娘を連れて行くという選択が正しいのかどうか、ナイトハルトは内心で、迷い続けていた。
本当は、こんなことになる前に、自分からなにがしか対処をしておくべきだったのだ。わかっていた筈なのに、ナイトハルトがこの問題を避けていたのは、ひどく単純な心理からだった。
彼は、二度とギュンターと、関わりたくなかったのだ。…その結果がこれだ。
結果として最悪の形で、ミラルダを傷つけることになってしまった。
ミラルダが退院したその日の夜、ナイトハルトはアルベルトに会いにシュライナー家を訪れた。その日、必要だったミラルダの退院の手続きは、リパウルに頼んだ。
本来であれば自分が行くべきだということはわかっていたが、その時は本当に仕事が立て込んでいて、病院の事務が対応できる時間内に、業務を終えられそうになかったのだ。が、それ以上に、ナイトハルトはミラルダと、どんなふうに顔を合わせたらいいのかが、わからなかったのだ。
アルベルトが言ったように、ナイトハルトはミラルダから逃げたのだ。
すでに、ミラルダが寝入ってしまった時間になって、ナイトハルトはアルベルトを訪ねた。部屋に入るなり、ギュンターの執務室であったことと、アナベルとハインツから聞いた話をアルベルトに告げた。アルベルトは、ナイトハルトの話を聞く間、終始一貫して厳しい表情を崩さなかった。
彼は、ギュンター・ザナーが、本来部外者に伝えるべきでない情報…眠り姫が健診のために入院する期間…を伝えたことが、今回の件の発端だと、すでに知っていた。彼はその情報の見返りとして、ミラルダと会うことを要求したのだ。
ナイトハルトに、その件を伝えると、彼はどうでもよさそうに首を振った。自分の精子提供者の話を聞きたくなかったのか、それともこれ以上忌まわしい情報を受け入れるだけの心理的余地がなかったのか…。ナイトハルトの頭は、ミラルダにどう話すべきかという問題で、一杯になっていたのだ。
アルベルトは厳しい表情のまま
「無理かもしれないが…少し頭を冷やせ」
「…そんなに煮立ってないつもりだが?」
「“つもり”というあたり、俺が思ってたよりは冷静か…。ミラルダは気丈に振舞ってはいるが、内心どれくらい傷ついているのか、俺たちにはわからない。リパウルがカウンセリングを勧めたが、断ったそうだ。お前の話を聞いて、ミラルダが何故断ったのか、わかったような気がしたよ」
「何故だ?」
答えはわかっているような気がしたが、ナイトハルトはアルベルトの考えが聞きたかった。アルベルトはため息をついた。
「自分の傷が人に明かせない類のもので、そうである以上、カウンセラーと会って何かを話すことに意味が見いだせなかったんだろう」
「…意味のない会話に時間を取られるだけになるから、それだけの余力もなかった…」
ナイトハルトの露骨な言い方にアルベルトは少し顔をしかめたが、
「つまり、今のミラルダに必要なのは、お前の説明だということだ」
と言うと、アルベルトは口を噤んだ。
彼はしばらく腕を組んで壁を凝視していたが
「…ハインツじゃないが…」
「ああ」
「全部を正直に話す必要は、俺もないと思う」
「…そうか」
ナイトハルトの返答がどこか上の空といった風情なのを敏感に感じ取って、アルベルトは険しい表情になった。
「お前にとってはどうでもいいことなのかもしれないが…」
「いや、そうでもない。お前が思っているよりはわかっているつもりだ、けど…」
「けどなんだ?」
「いや…」
そう呟くと、ナイトハルトはどこかぼんやりとした顔のまま、彼もやはり壁を見つめていた。
「もう少し、考えてもいいか?それまで、ミラルダのことを…」
アルベルトは、再度、ため息をついたが
「わかった。お前が納得いくまで考えろ」
と、友人の口に出せない依頼を引き受けた。
天井を見つめたまま、ぼんやりと考え事をしているうちに気が付けば浅い眠りの中を、漂っていた。ふいに、隣に眠る人が、うなされているような、そんな声が聞こえた。
…エレーン…。
夜中、一度だけ、彼女がうなされているのに気が付いたことがある。気が付いたのはその時一度だけだったが、本当は自分が知らなかっただけで、彼女は何度も夢にうなされていたのかもしれない。
…その時、不安で、たまらなくなって、ナイトハルトは跳び起きると、彼女を揺り起こした。…エレーン!と。
条件反射のようにナイトハルトは上半身を起こした。傍らで丸くなって眠る人の肩を揺り起こすと、咄嗟に“エレーン”と、声を上げそうになった。が…辛うじてその名前を飲み込んだ。




