2-12 鈍い目覚め(12)
アルベルトは助手席にルーディアが座ってシートベルトを締めるまで見守るとエンジンをスタートさせた。ルーディアがうん、と伸びをした。
「疲れた?」
と、アルベルトがその様子に、そう声をかけた。ルーディアは首を振った。
「ううん、楽しかったなって。疲れてるのはあなたの方じゃないの?」
「そうでもないよ。何か見える?」
と、アルベルトが尋ねるとルーディアは首を振った。
「最近は見る必要がないときは見ないようにしているの。アナベルのおかげかな?コントロールが上手くなった気がする」
「アナベルのことは見えないんじゃなかったのか?」
「ううん、あなた程度には見えたわよ。でも、見えないって思ったら、見えなく出来るようになった。それにね…」
「うん」
ルーディアは、サイラスに能力を吸い取られた時のことを思い出していた。あの時彼が言った言葉を…。
「見られたくない知られたくないことを一方的に知られるのってとても嫌だわ。私は随分ひどいことを平気でしてたんだなって芯から思ったの。それで…」
「そうなんだ」
「まったくね。長くこの世界にいるのに、いまだに子供で嫌になっちゃうわ」
と、ルーディアは愚痴をこぼした。アルベルトは笑ってしまう。
「よかったのか?」
「何が?」
「私が君を送ることだよ。リパウルたちと話さなくてもよかったのか?」
「彼女とはこれまでだって、たくさん話してたし、昨日だって、散々、泣かれたわ。けど、あなたとこんな風に話す機会は中々ないでしょ?」
「なるほど、何か話したいことがあったのか…」
「ううん、別に、そんなでもないけど?」
せっかくアルベルトが心の準備をしたというのに、ルーディアは肩を竦め、あっさりと否定した。
「なんだ…」
「何よ、ただ話したいだけじゃダメなの?」
「いや」
「前から訊きたかったんだけど、アルベルトのお父さんっておいくつなの?」
「親父?」
予想外の質問だった。何故そんなことを尋ねられたのか?
「確か、今年で六十三歳になるんだったか…」
「あら、そうなの?結構お年なのね」
「俺の上に二人いるからね。それに、結婚自体そう早くもなかった。三十歳になるか、ならないかくらいかな?まあ、あまり人のことは言えないけど…」
と、アルベルトは肩を竦める。
「わたしとあまり変わらないのね」
と、ルーディアが、首を傾げながらそう呟いたのでアルベルトは仰天した。
…確かにエナ・クリックから話を聞いた時に、自分の親くらいの世代だろうか、とは思ったのだが、まさか本当にそうだとは…。
運転中でなければルーディアの顔をまじまじと見てしまっていただろう。運転中でよかった。いくらなんでもそれは失礼な気がした。
「…親父の年齢が、何かあるのか?」
「ううん。固いわね。ただの雑談でしょ?」
雑談と言われても、相手はルーディアだ。何か意味があるのではないかと勘ぐってしまう。
「そうね…あなたがリパウルを迎えに行かなかったのは、お父さんの意思に背くことに抵抗があったからなんでしょ」
「そうだな。抵抗というか、後ろめたさはあったな。俺がオールドイーストに来たのは、亡くなった兄の代わりだったわけだし。父が期待してたことは知ってたから」
「ふぅん、そうなんだ…。ナイトハルトに対しても、後ろめたかったの?」
「え?」
思わぬ名前にアルベルトは一瞬ルーディアの方を向いてしまう。ルーディアは額を抑えた。
「ごめんなさい。さっき見ないようにしてるって言ったくせに…。“後ろめたい”って言葉と一緒に、あなたから彼が見えたから…つい…」
申し訳なさそうにそう言うルーディアの表情を、横目に見ながら、アルベルトは少しだけ肩を竦めた。
「気にしなくていいよ。そうか、“後ろめたい”か…」
「そう、どうして?」
「そこまではわからない?」
「ええ、知ってるでしょ?彼のことは、前から苦手で…」
「それは知ってるが、苦手だから見えないのか?」
「そうね…」
ルーディアは顔をしかめた。
「正直に白状すると彼のことは恐いの。見たくないと思ってるから見えないんだと思う」
「恐いのか…」
「そう、彼の怒りが…。彼が抱いている、自分自身と世界に対する怒り。恐いのはきっとそれだと思う…」
「傷つきそうだから?」
「いいえ、違うわ。シンクロしそうで恐いの。…私にも似たものがあるから…」
そういうことか…と、アルベルトはなんとなく納得してしまう。その“似たもの”なら自分のうちにも存在していた。そして、おそらく、心の奥深くにいまだ存在し続けているのだろう。
ユーリを亡くすまで、ずっと自分は世界と自分に対して怒りを感じていたし、それをコントロールすることも出来ずにいた。ユーリを失った後で、その怒りはますます大きくなった。
兄を自分から奪った世界と、それに対して何もできなかった自分自身に対して、自分を食いつぶすほど巨大に…。だから自分はその怒りを無理やり胸の奥に押し込んだ。そうしないと、本当に自分の方こそ、それに飲まれそうだったからだ。
そうして次は母と、そしてリパウルを失った。
…いくら怒りを向けても大事な人は戻らない。その時はその虚しさで、自分が空っぽになったように感じた。虚無が怒りを凌駕したのかもしれない…。
そして、ナイトハルトが抱えている怒りの正体についても、アルベルトにはよくわかるような気がした。
「見えないってわりに、よく見えてるみたいだ」
「そうなるのかしら?けど、あなたの“後ろめたさ”がなんなのかは、全然わからないわ」
「それは…、俺がもっと、賢明だったら、あいつも、あいつの恋人も、きっと傷つかずにすんだ筈だから」
…それに、リパウルも…。
「後ろめたいことがあるとしたら、そのことくらいしか思い浮かばない」
ルーディアは、アルベルトの言葉に首を振った。
「よくわからないけど、全部正直に白状してないわね。全く、相変わらずかっこつけというのか…」
「そうなのか?」
言われてアルベルトは笑った。
「どうして、八年もリパウルを迎えに行かなかったの?」
「何故、今頃になってそんな質問を?リパウルが何か言ってたのか?」
「いいえ、私が気にしてるだけよ」
「後ろめたかったから…じゃ、ないのか?」
「また…」
ルーディアが怒ったように息をついたのでアルベルトは肩を竦めた。ルーディアは構わず
「本当はリパウルに対して腹を立ててたんじゃないの?」
「いや、どうかな?」
「もう!言いたくないの?」
あきらめの悪いルーディアに、横目で睨まれて、アルベルトはあきらめた。
「一言でいうと、怖かったからだ。君じゃないけど…。だから、色々理由をつけて先延ばしにしていた…」
「何が怖かったの?」
アルベルトは笑うと
「それは一言では言えない。さっき君が言ったように、自分が彼女に対して腹を立てているのかもしれないってことも怖かったし」
「他にもあるの?」
「ああ、そうだな。何より拒絶されたらって思うと怖かったし…」
…俺と会っても、彼女が何の感情も見せなかったら?…学生の頃、ずっと抱いていた、彼女に対する劣等感が自分の中に残っていたら?…まだ、彼女を仰ぎ見るような気持ちのままだったら?
…ナイトハルトとのことで抱いている怒りを、うまくコントロール出来なかったら?
…彼女を見ても…自分が、何も感じなかったら?
けれど…結局それらは、全部、杞憂に過ぎなかった。
今でも鮮やかに思い出す。技研の正面玄関近くの、狭い応接室でソファに座って、疲れて少しぼんやりと担当者が来るのを待っていた。そうしたら、彼女が入って来た。何が起こったのかわからなくて、思わず立ち上がった。
…間違える筈がない。彼女はリパウルだった…。
自分を見つめる彼女の眼差しは、十年前と何も変わってなかった。一瞬、時が遡った。思わず近づいて抱きしめそうになって、そんな自分に戸惑う。…かろうじて正気に戻った。
「君に会わなかったら、結局ずっと逃げていたかもしれないな」
「嘘。ナイトハルトから聞いたわよ。家を買って迎えに行く予定だったんでしょ?」
アルベルトは再び笑った。
「いつの間にそんな話を?そうだね、大きなことをしないとふんぎりがつかないくらい、切羽詰まってた。意気地なしなんだ」
「嘘ばっかり!」
「いや、かっこつけたがるのも、意気地がないからだ」
と、アルベルトは妙にあっさりとした表情で、断言した。
「好きなの?」
と、ルーディアが文脈を無視した質問をしてくる。アルベルトは首を傾げて
「リパウルのこと?」
と、間の抜けた質問を返してしまう。
「…私に愛の告白をして、どうするのよ…」
と、ルーディアは妙な表情になる。アルベルトは微笑むと
「好きだよ」
と、やはりあっさりと答えた。
見えないほど苦手というわけでもないのに、ルーディアにとってアルベルトは、いつまでたってもどこか掴みどころがなかった。少女はため息をつくと、車窓へ視線を向けた。
「この景色、懐かしいわ…」
「夜の街は初めてだったのか?」
「どうだったかしら?でも、無人タクシーに乗ったのはあの時が初めてだったの。楽しかったわ」
と、ルーディアが笑顔になった。運転しながら、アルベルトも笑うと
「俺は途方に暮れてたけど」
と、笑ったままで、そう答えた。
“雑談”を交わしながら、夜のドライブを楽しんでいた二人だったが、車はやがて目的地に到着した。技研の正面入り口に到着すると夜勤の守衛が慌ただしげな風情で、アルベルトの車を迎えてくれる。話は聞いていたのだろう。ロレンゾと並んで勤務年数の長いカルロスが、アルベルトと、助手席に座るルーディアを認めると軽く頷いた。
「やあ、夜の遠足は楽しかったかい?」
と、軽口をたたいてきたので、ルーディアは目を眇めると
「遠足って何よ?子ども扱いして!夜のデートです」
と、抗議した。アルベルトは運転席側で苦笑してしまう。カルロスは肩を竦めると、車を通した。
アルベルトは静かに建物の正面入口へ車をつけた。ここまで車を乗り入れるのは初めてだった。玄関で待っていたムラタ氏が、停車したアルベルトの車に近づいてくる。
「お疲れさまでした。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、遅くにお疲れ様です」
ムラタ氏の丁寧なあいさつにアルベルトも穏やかに言葉を返した。ルーディアはムラタ氏が助手席のドアを開くのを待ってから、威勢よく飛び降りた。アルベルトもそれに合わせて車から降りる。
ルーディアは、運転席の方へ回ると
「送ってくれてありがとう、アルベルト。久しぶりにゆっくり話せて楽しかったわ」
と、アルベルトに向かって笑顔で告げた。
「私も楽しかったよ」
「ならよかったわ」
と、頷くとルーディアは
「二年と六か月間、本当にお世話になりました。楽しかったわ」
と、にっこりとした。アルベルトは、少し寂し気な笑顔になると
「君と会えて本当によかったよ」
と、告げた。その言葉に、ルーディアは目を見開くと
「何?その、今生の別れみたいなの?そういうの、嫌なんだけど?」
と、言いながら目を眇めた。
「…ごめん」
アルベルトは少し途方に暮れたような表情になりつつも、素直に謝った。ルーディアは腰に手を当てたポーズで、肩を竦めて見せ
「まあ、いいわ。また、会いましょうね」
と、不敵な笑みを浮かべ、それだけ言うと、ムラタ氏に声をかけ、やけにあっさりと技研の中へと入った。アルベルトは一人で、二人の背中を見送った。
まだ、住む前の自分の家に、唐突にやってきた少女は、戻る時もやはり突然、古巣へ戻ってしまった。アルベルトは、鈍い喪失感を苦いため息で吐き出すと、ゆっくりと車に戻った。
***
ムラタ氏に伴われて技研に入ったルーディアは、彼と共に地下へと下りた。地下に戻ると、モニターを見ていたエナが、入ってきた二人の気配に顔を上げた。
「お帰りなさい、ルーディア」
エナの言葉にルーディアは肩を竦めた。
「まさか、あなたからそんな言葉がいただけるとは夢にも思わなかったわ」
エナは首を傾げた。
「どういう意味なのかしら?説明してもらえる」
ルーディアはげんなりしたように顔をしかめた。
「深い意味は無いわ。そこは聞き流して頂戴」
しばし、腕を組み、目を眇めるようにしてルーディアの姿を観察してから、要するに、ただの軽口というやつなのだろうと判断して、エナは聞き流すことにした。
「夜の散歩の感想は?楽しめた?」
…散歩…まあ、遠足よりはずいぶんましである。しかし、歩いていないのだ。
「せめてドライブと言ってよ…」
「あら、そうね?」
自分の言い間違いには、こだわらないらしい。ルーディアはため息をつくと
「楽しかったわよ。アルベルトのお父様は、私とほとんど変わらないくらいのお年だってことがわかったわ」
「そうなの?どっちが年上?」
「…嫌なことを訊くのね…」
絶対に答えが分かっていて質問しているだろう、とルーディアは恨めしく思った。
「そう、ありがとう」
と、エナが答える。
「何が?」
「あなたの嫌がり方で答えはわかりました」
「…もともとわかってたくせに…」
「私はあなたじゃないのよ」
と、エナは肩を竦める。
「ですが父親と母親とでは意味が違ってくるわね。あなたが彼の母親だとして、そうね、高齢出産とは言えないけど、初産と考えると…」
「わかった、わかったわ。そこまで具体的に言ってくださらなくても差し支えありません!」
「あら、そうなの?てっきり、息子のように思ってるのかと、思っていたのですが?」
「まさか…」
と、ルーディは苦い表情になる。エナは腕を組み薄い笑みを浮かべたまま
「けれどもリパウルのことは娘のように思っている…。違って?」
と、言葉を続ける。ルーディアはため息をついて、懐かしい地下の部屋を見回した。
…懐かしい…。初めて二人だけで、彼女と話したのはこの場所だった…。
「エナ、私ね…、白状するとカーチャのこともリパウルのことも、少し見下していたの…」
「そうだったの」
「ええ、二人とも美人で優秀。なのに、男なんかに振り回されて、本当に愚かだって…」
「そうね…」
「あなたが私に好きに担当を選べって言った時、あの二人を選んだのは偶然なんかじゃないの。きっと、どこかでそういう女を意図的に選んでいたんだと思うわ」
ルーディアの言葉にエナは返事をしなかった。データだけで、無意識にそういう人間を選択していたというのが本当なら、凄い洞察力だ。オリエが聞いたらますます彼女を眠らせることに反対しそうだと、エナは疲れた思考で考えた。
「だから、彼女たちの内面を暴いて、取りすました顔に動揺が走るのを見ても、なんの呵責も感じなかった。むしろ、いいことをしているつもりでいたのよ。本当、我ながら、呆れるわ…」
「そうね」
エナは否定しなかった。それが本当なら悪趣味もいいところだ。
「子供だったって思うわ。こんなだから、いつまでたっても成長できないのよって」
「成長したいの?」
「そうね…。どうかしら?ねぇ、エナ、私サイラスに一つだけ感謝してることがあるの」
ルーディが口にした名前にエナは目を細めた。
「それは…」
「私だって、同じだって気づかせてくれた。私だって彼女たちと同じ、愚かで弱い。そして、自分を騙している。他人に、一方的に知られたくないこと、見られたくないことは私にだってあるわ。私だって自分の本心をごまかしながら生きてる。なのに、なんで彼女たちのことを一方的に見下すことが出来たんだろうって…自分が恥ずかしくなった。自分の能力が使い方次第でいかに醜悪になるのか、彼が教えてくれなければ、多分ずっと自覚できなかったと思う」
「そう…」
「ここで…初めてリパウルと話した時、彼女にとって一番人に知られたくない深い想いを、暴いて晒して、挑発したの。こんな美人が、見たところさして特徴もないような男を、ずっと一途に思い続けている。それがなんなのか、本気で理解できなかったの。だから、忘れてしまえばいいのにって、そう思ってた…」
ルーディアの独白にエナは相槌を打たなかった。ルーディアは言葉を続ける。
「最初、彼女は怒ってた。当たり前よね。けど、すぐに泣き始めて…。それで、私はちょっとだけ反省して優しくしたの、そうしたら、彼女、なんて思ったと思う?」
「どう、思ったの?」
「私のこと、おばあちゃんみたいって…」
言いながらルーディアが笑った。
「いくらなんでもひどすぎるわ。せめてお母さんとか…。がっくりして可笑しくなったの」
見るとエナも笑っていた。おばあちゃんか…無理ではないが、十二歳で成長を止めてしまっているルーディアにとっては、確かにショックな感想だろう。
「まあ、彼女には自分の卵子提供者っていう確たる母親がいるから、そうなると、会ったこともない祖母ってことになったんだとはわかってたんだけど」
と、ルーディアは笑いながら肩を竦める。
「でも、それで普通に生まれて普通に成長していたら、彼女くらいの娘がいたのかなって、ふっとそう思ったの。逆立ちしたってリアルに想像できなかったんだけど…」
「それは、そうね…」
「…そんな風に受け入れてくれたのは彼女が初めてだった。だから、彼女の恋が叶うといいなって思ったの。恋が叶った彼女がどんな風なのか、見てみたいなって…、そう思ったの」
「あなたの望みは叶ったのね」
エナが静かにそう尋ねた。ルーディアは一人で頷いた。
「ええ、けどね、人の望み…ううん、欲には際限がないのね…」
「そうね。一つの望みが叶ったら今度は次の望みを叶えたくなる」
「そう、けど、わかってるの。私は彼女じゃないわ…」
そう呟くと、ルーディアは真正面からエナを見た。エナは、自分が考えていることがルーディアにも伝わっていることに気が付いた。
「そう、あなたは彼女ではないわ。ルーディア…」
「そうね」
「いくら愛しくとも、彼女の痛みも幸福も、彼女だけのものです。疑似体験は出来ても、それはあなたのものではないわ」
「ええ、わかってる」
ルーディアは強い眼差しでエナを見つめると、はっきりと頷いた。




