2-12 鈍い目覚め(4)
その夜、ミラルダを先に自分の部屋で寝かせると、アナベルはリビングに取って返した。
ミラルダとナイトハルトのことが気がかりなのか、今日もシュライナー家に訪れているハインツと、リパウルの前に腰を下ろすと、アナベルは疲れたため息ついた。
ナイトハルトは、今日も迎えに来る気配がない。それはともかく、アルベルトまで帰宅が遅かった。普段は、可能な限り自分が定めた門限を守ることの多いアルベルトが、こんな時間まで戻らないのは非常に珍しかった。
ミラルダの手前あまり突っ込んだことも訊けなかったのだが、アナベルは少し疲れて、イライラしていた。
「で、アルベルトは?」
「連絡があったわよ。少し飲んで帰るみたい」
と、やや言い難そうにリパウルが教えてくれた。
「ふーん、ひょっとしてナイトハルトと?」
と、尋ねるアナベルの口調は少し険を含んでいた。リパウルは眉間に皺を寄せた。
「アナベルの言いたいことはわかるわ。だったら、ここに来ればいい、でしょ?」
リパウルに先に言われて、アナベルは俯いた。
…ひょっとしたら、あの話なのだろうか?ミラルダのママの…。アルベルトも知って…。
だとしたら、ここでは話せない。それはアナベルにもわかっていた。ふっと顔を上げるとハインツと目があった。ハインツは、何か探るような眼差しでアナベルの顔を見つめていた。
アナベルが黙って俯いてしまったので、リパウルが話題を変えた。
「それで、アナベル、ルーディアのことなんだけど…」
「あ、うん。リパウルも聞いたの?ルーディアが眠るつもりだって…」
リパウルは頷くと
「昨日は一日中、エナとムラタ博士とその打ち合わせをしていたみたい。私は今朝聞かされて…」
「どう思う?」
「どうと言われても…」
「だって、サイラスは犯罪者だ。オリエだって言ってた。本来なら刑務所行きだろ?」
「アナベル…」
「乱暴なことを言ってるってのはわかってるんだ。けど、納得がいかない!なんで、あいつを起こすためにルーディアが犠牲にならないといけないの?」
「ずっと、眠らせた状態でいさせるわけにはいかないの…」
「へえぇ、ルーディアの眠る能力は盗み出せないんだ?都合が良すぎるだろ?」
「それも、検討の対象になったみたいなの。けど、一定の時間が来れば覚醒の兆候が見られるから、その都度薬で眠らせないといけない。彼の脳にかかる負担は相当なものだし、センターのスタッフの中には、その状態にしておくこと自体にストレスを感じている人もいるみたいなの。彼が何をしたのか具体的には知らされていない人もいるし」
「けど、本当なら警察に突き出され、刑罰を受けてる筈だ」
「気持ちはわかるわ。アナベルは被害者だし…」
「私はいいんだ。ほとんど無傷だし、けど、ウォルターやミラルダ。それにセアラだってひどい目にあった。なのに、あいつには、なんのお咎めもないのか?」
「そうは言わないわ。けど、刑罰を与えるにしても、今の状態では…」
アナベルは顔をそむけた。アナベルが口を噤んだので、リパウルはため息をついた。
「アナベル、さっき言ってたけど、セアラ・アンダーソンのこと…」
「セアラ?うん、ルーディアが…」
「見つかったの?」
「うん、ルーディアが場所を教えてくれた。明日にでもそこに、行きたいんだけど」
「そう…」
アナベルが気にしているのはミラルダのことだろう。
「どうしてリパウルまでセアラのことを?」
「うん、もし、何かの手違いでサイラスが目を覚ますようなことがあったら、セアラがまた被害にあうかもしれないってムラタ博士が気にされてて…」
「そうなんだ…」
リパウルも聞かされていない、ムラタ・オリエの本音は、何の準備も出来てない状態でサイラスに覚醒された場合、セアラのところに跳ぶ可能性はゼロではない。こちらがセアラの居場所を把握していない以上、最悪のケースとして、サイラスの姿を見失う可能性があった。
オリエが恐れているのは、セアラの身の安全というよりは、むしろサイラスを見失う可能性の方だった。
…セアラが、また被害に…
その言葉にアナベルは沈痛な表情になってしまう。今現に、サイラス以外の誰かのせいで、そうなっているのかもしれないのだ。ルーディアの嫌悪と憐憫がないまぜになったような表情は、そういうことではないのか?
「アナベル、よかったら、明日、私がミラルダのお迎えに行きましょうか?」
「え?いいの?」
「ええ、私は大人だから、アナベルがナイトハルトから預かっている身分証さえあれば、問題ないでしょう?そういう理由なら技研を早退するのも可能そうだし。ただ、アナベル、一人で行っては…」
と、言いかけてリパウルはため息をついた。
こんな時、いつも頼りにしてしまうウォルターが入院中だったのを思い出したのだ。
「あ、うん…誰か友達と一緒に…」
と、アナベルもリパウルの考えを察して言いかけると、リビングの入り口からリースが顔を覗かせた。
「みんなそろって、何の相談?」
「なんのって…」
と、アナベルが呟くと、それまで黙って二人のやり取りを聞いていたハインツが
「リース、お前、絶妙なタイミングで顔を出したな」
と、半ばあきれたように呟いた。
***
次の日の放課後、アナベルはリースとの待ち合わせ場所に決めておいた駐輪場で、アナベルは、リパウルに新調してもらったばかりの濃紺の携帯電話を取り出した。ウォルターにあてて、メッセージを作成しようと思ったのだ。
見るとリパウルからメッセージが届いていた。確認すると、昨晩の打ち合わせで必要と思われたセアラの顔写真は、明日にならないと取得出来ないという内容だった。アナベルは読み終えると、ウォルターに当ててメッセージを作成した。
【今日は行けない、もしくは行けたとしても遅くなる。必要なものがあれば言ってくれ。】
それだけ書くと、メッセージを送信する。中期試験も終わって、私大を受験する三年生たちは、本格的に受験シーズンに入る。授業数も減ってくるし、高等校の方は欠席する生徒が多くいた。
「待った?」
やや息を切らしながらリースが現れた。アナベルは呆れて
「今日の三年の授業は、午前中までじゃなかったのか?何やってたんだ?」
「いや、図書館でちょっと…」
「勉強中だったのか、なら仕方が…」
「いや、友達と会って…」
アナベルは再び呆れた。
「お前、本当に余裕だな。羨ましいくらいだ」
「いや、だから私大しか受験しないんだろ?」
「だからって…どういう言う意味だよ、まったく…」
言いながらアナベルは自転車を引き出そうとするが、リースが困ったように
「あの、僕バスなんだけど…」
と、申告してくれた。アナベルは深々とため息をついた。
首尾よくバスに乗車出来たのはいいが、帰宅移動の学生でバスの中は快適とは言えない。
「あの、アナベル…」
「なんだ?」
二人で並んで吊り革を持ったまま、声を潜めて言葉を交わす。
「君、すごーく、イライラしてない?」
こちらの機嫌を伺うようなリースの声音にアナベルはため息をついた。
「うん…。悪い。気分悪いよな…」
と、素直に謝るとリースが笑顔になった。
「いや、心配なんだね。その子のこと」
「まあ、そうかな」
「無事に見つかるといいね」
…短気を起こして八つ当たりをしたのは自分なのに…。
リースのおおらかさにアナベルは自分の狭量さが恥ずかしくなった。本当ならば、セアラのことはリースにはなんの関係もないことなのだ。その上、今は私大の受験を控えている。勉強に少しでも時間を割きたい時期だろうに、文句も言わずにこうして付き合ってくれている。
アナベルは先ほどとは異なった種類のため息をついた。
「うん、そうだな。一刻も早く見つけてやらないと…」
「大丈夫だよ」
リースは前を向くと力強く頷いた。言葉に出せないセリフの続きが聞こえたような気がした。
…ルーディアが見つけてくれたんだから…。
「そうだな」
と、アナベルも頷いた。
ルーディアが衛星写真から見つけてくれた場所は、地図で住所を特定したところ、駅周辺の繁華街を取り囲むように広がる住宅地の端のあたりだった。
こんなことまで出来るなんてとアナベルが舌を巻いていると、ルーディアは困ったように
「以前は出来なかったのよ?オリエにやり方を聞いて…それでね」
と、なにやら弁解するような口調でそう言った。
そこは堂々と自慢してもいいのでは?と、思わなくもない。
ルーディアの話によると、セアラは間違いなく生きてはいるようだった。ルーディアがそう言いだした時、アナベルはその可能性…セアラがすでにこの世の人ではない、という可能性もあったのだと、唐突に思いついてしまい、ぞっとしてしまった。
リースと連れだってバスを降りると、アナベルは地図を見ながら目的の建物を探した。探すほどもなく、その建物は見つかったが、外観から類推するに、中規模のアパートメントのようだった。
「これは…」
「部屋番号まではわからないんだよね?」
「流石にそこまでは…」
「写真は?昨日の話だと、ドクター・ヘインズがえらい人に訊いてみるって言ってけど、それ貰ってからの方がよくないかな?」
「まあ、確かに…」
と、言いながらアナベルは建物を見上げた。
写真がないからと言って、回れ右して帰るというのもどうかという気がする。見たところそう大きな建物ではない。セアラが母親と住んでいたアパートメントに比べれば小さいくらいだ。
「下から、いや、上からでもいいけど、一軒一軒訊いてみよう」
「ええ!本気?」
「時間帯が時間帯だし、いるとも限らないだろう。あたるだけあたっておけば、やるべきことが少しは減るし」
アナベルの言葉にリースは肩を落とした。
「わかった、そうだよね」
「なら、手分けして…」
と、言いかけるアナベルにリースはむっとした様子で
「二手に分かれてどうするんだ?それじゃ二人で来た意味がないだろう?第一僕はその子の特徴も何も全然知らないんだけど…」
「そ、そうか。悪かった。だったら二人で下から訊いて行ってみよう」
と、アナベルもリースの意見に同意した。
全部の部屋をあたるのに三十分も要しなかった。ほとんどの部屋で応答がなかったからだ。本当に不在なのか、居留守をつかわれているのかは定かでない。リースとアナベルは二人並んで肩を落としたまま、バス停へと向かって歩いた。
「違う場所なのかなぁ…」
「そんなこと言うなよ…」
見つけた方法が方法だ。アナベルにだって自信はない。
「単身者向けっぽいアパートメントだし、夕方のこの時間帯だ。いない方が普通なのかもしれない」
「けど、君が探してる子はいてもいいんじゃないの?その子まで働きに出てるってこと?」
「そうでなければ…」
戻ることを拒絶しているか…。その可能性もないわけではない。アナベルはため息をついた。時計を見ると、まだ、さほど遅い時間帯ではない。
「これだったら、ミラルダのお迎えに間に合ったかもしれないな…」
「行ってみる?」
「でも、身分証がない」
リースはアナベルの冴えない表情を横目で見ながら、
「ミラルダのことは僕とドクター・ヘインズに任せてさ、君、ウォルターの顔でも見に行ったら?」
と、言いだした。
「はあ?なんだってあいつの顔…」
「まあ、いいからさ。入院中って寂しいものなんじゃないの?入院したことがないからわからないけど」
「だから、毎日行ってるってば。昨日だって無理して毎日来なくても大丈夫だからとか、言われたばかりだし」
「それで、へそを曲げてるの?」
「曲げてない!もう、わかったよ。行ってくればいいんだろ?」
確かにここからならば、病院も近い。
「うん、僕はバスで帰るよ。ウォルターによろしくね」
「うん、ありがとう」
と、やや不貞腐れたようになりながら、それでもアナベルはリースにお礼を言った。
リースと別れて歩きながら、アナベルは携帯電話を取り出した。見ると先ほど自分が送ったメッセージに対して、ウォルターから返信が届いている。【了解】と、短く一言。
…なにが、“入院中って寂しいもの”か。全然、平気そうではないか?
アナベルは、リースの言葉を思い出して一人で顔をしかめた。返事は返さずに、携帯電話をポケットに突っ込むと、そのまま病院に向かって歩き続ける。歩きながら、確かにこのあたりは病院と近いのだと腑に落ちる。
セアラはやはり、あのアパートメントにいるのだろう…。そう思いながら気が付くとセントラル病院に到着していた。




