2-10 コワセ(7)
ウォルターの家を半ば追い出されるようにして後にして、アナベルは、アルベルトの家に戻った。家に着くとアルベルトの車の隣に、何故だかナイトハルトの車が駐車してある。アナベルは、げっそりとため息をついた。時間は六時半。きっと、何かあったのかと、問われるに決まっている。
挨拶と共に屋内に入ると、リビングからミラルダが顔を出した。案の定驚いた表情で
「あれ、アナベル!早くない?」
と、首を傾げた。そのまま、廊下の方まで出てくると、アナベルの傍らに立って
「…ひょっとして、何かあったの?ウォルター、アナベルのことすごく気にしていたから…」
「気にしていたって、何のこと?」
「セアラだよ。…じゃなくて、誰に会っているんだろうって、土曜日に聞かれたもの…」
ミラルダの言葉にアナベルは呆れてしまった。ミラルダにまで探りを入れるとは、大人げないにもほどがある。
「私に、直接きけばいいじゃないか…」
「だって、アナベル機嫌が悪そうだからって…。言いたくない相手なのかなって、でも会ってるのがセアラだってわかったら、安心するんじゃないかな?」
いや、そんなことはないし、実際に、安心している風でもなかったが…。
「どうして?」
「それは…つまり、浮気の心配してたんでしょ?」
と、言いにくそうにミラルダが告げた。
「浮気?え、違っ…!ミラルダこそ、誤解して…」
「だって、ずっと元気がなかったからさ…。土曜日とか、アナベル来ると、ウォルター、ちょっと嬉しそうなんだよ」
その言葉にアナベルの方こそ、慌てふためいてしまった。
「いや、そんなことはないだろ?いつも、仏頂面で…」
しかし、それが本当なのだとしたら、自分の態度の方にこそ、問題があったのか…?と、アナベルは密かに嘆息した。そして
「ごめんね、ミラルダ。変な気を使わせちゃって…」
「ううん、ほら、恋人同士ってささいなことで喧嘩別れとかしちゃうでしょ。もったいないなぁって…。少し話しあってればさ、ずっと一緒にいられるのにって…」
と、顔をしかめながらミラルダが言ったので、アナベルにも少女の懸念の根源が見えた気がした。
…恋人同士というのは、相当に盛大な勘違いとしても…。
「今日はね、私が最近少し忙しそうだからって、早めに終わらせてくれただけなんだよ。あと、会ってるのがセアラだって、ウォルターもちゃんと知っているから、大丈夫だよ」
と、アナベルは笑顔で答えた。ミラルダは、ほっとした様子で
「なら、大丈夫ね」
と、笑顔になった。
***
中央病棟でのルーディアの検診が終わってから約一週間が過ぎた。金曜日の夜、リパウルは、やや大袈裟に言うと、意を決して、アルベルトの家を訪れた。
ナイトハルトとミラルダの手助けをしたいと思っている、そう言ったアルベルトに向かって、自分も出来る限り協力するとか何とか調子のいい事を言っておきながら、いざ、ナイトハルトの…隠し子…に遭遇した途端、腹を立てて、見放すとは…もっとも、自分などいなくても、なんの問題もないだろうし、そもそも、別にナイトハルトは、子供がいる事を意図して隠していたわけでもないのだから、隠し子という言い方も妙といえば妙だった。
…などと、具にもつかない事を考えながらリパウルは、アルベルトの家を訪れた。春休み終了から数えると、すでに一か月以上、過ぎていた…が、着くなり駐車スペースに嫌な車を発見してしまう。そのまま回れ右して来た道を戻りたくなったが、ここで逃げては、今日、ここまで来た意味が無い。
もういいかげん、昔のことにこだわるのは止めるのだ。アルベルトすら、さほどこだわってはいないようだった…ではないか。それはそれで腹が立つのだが…。
リパウルは改めて意を決すると、インタフォンを鳴らす。スペアキーを持っているので、インタフォンを鳴らさずとも、中に入れるのだが、今日は仕事で来たわけではない。姑息な手は使うまい。
「はーい」
と、応答の声を上げながら、出迎えてくれたのはアナベルだった。駐輪スペースに自転車があったので、帰ってきていることは承知していた。
「こんばんは…」
「リパウル!こんばんは!」
リパウルの姿を目にすると、アナベルは喜んで声を上げた。リパウルも笑顔になった。
「その、ご無沙汰しちゃって…」
「うん、リースも寂しがってたんだ、きっとよろこぶよ」
言いながら、アナベルはリパウルを招き入れる。そして
「アルベルトは…まだ帰ってきてないんだけど…」
と、言葉を濁した。リパウルは頷くと
「ナイトハルトは?」
と、自分の方から切り出した。アナベルはほっとしたように息をつくと
「今、キッチン。ちょっと話してて…。ミラルダはリースとリビングにいるよ」
と、伝える。
どちらに向かうかと思ったが、リパウルは迷わずキッチンの方へと足を向けた。キッチンで夕食の支度をしながら、ナイトハルトと話していたアナベルも、リパウルについて行った。
どこかぼんやりとした風情で、キッチンテーブルの椅子に腰を下ろしていたナイトハルトは、来客の姿に顔を上げた。
「よう」
と、普段通り…より、やや精彩を欠く様子で手を上げる。
「その節は、どうも…」
リパウルの方は、ある意味、普段通りそっけない。アナベルはリパウルの背後をすり抜けると流しの方へと戻った。夕食作りの途中だったのだ。
ナイトハルトは椅子に座って行儀悪く、頬杖をついたまま、不景気な調子で
「ああ、悪かったな。あの時は…」
と、リパウルに向かって簡潔に謝った。リパウルはキッチンの入り口近くの壁にもたれるように立ったまま、顔をそむけると
「別に謝ってもらわなくても…」
と、言いよどむが、ナイトハルトは彼女の態度には構わずテーブルに向かって息をつくと
「初対面の人には礼儀正しくしろって、ミラルダにも言い聞かせてたんだが」
と、言葉を続ける。
娘の態度について謝っていたのかと、リパウルは拍子抜けしてしまう。てっきり、子供がいる事を隠していた件について、謝られているのかと思ったのだが…。
「別に、いいわよ。そんなこと」
「いや、いいわけがない。あの後もちゃんと言っておいたし、次にお前に会った時には、きちんと謝るように…」
聞いていて段々、リパウルは腹が立ってきた。なんなんだ、一体…
「ちょっと、あんた…、一体、なんなの?」
「何がだ?」
「その、父親面して…なんか、腹が立つんだけど?」
リパウルのわけの分からない言葉にナイトハルトは「はあ?」と、返した。
「父親面って…父親なんだから仕方がないだろうが…」
「父親だから、仕方がないって…」
その切り返しもどうなのだ?仕方がないとはなんだ、仕方がないとは…。
「仕方なく、父親をやっているんだ、へぇ…ご立派ですこと」
「…お前、こんな時間に、わざわざケンカを売りに来たのか?」
「私の方も、こんな時間に、あなたがいるとは思ってなかったのよ。知っていたら別の日にしたわ」
「…あの、ちょっと…」
と、夕食作りの仕上げに入っていたアナベルは、険悪になってきたキッチンテーブルの雰囲気に、思わず顔を上げ横槍を入れた。が、二人の美男美女が一斉に自分の方に、それも結構恐い顔を向けてきたので、アナベルは一目散で逃げ出したくなった。
「その、最初…私がミラルダに変な風にリパウルの事を伝えちゃったから…それでだと思うんだ」
と、遅ればせながらミラルダのフォローに入る。と、ナイトハルトが険しい表情になって
「お前は別に変な風には言ってないだろう?アルベルトの恋人で俺の幼馴染って言っただけだ。そのまんまだろうが?」
「いや、だから…」
多分、その二点が揃っている時点で、ミラルダとしては、リパウルを意識し過ぎる理由としては、十分だったのだろう。約一か月、ミラルダと過ごした上で、アナベルはそう思っていた。その上、実際に会ったその人物が、こんな美女なのだ。ミラルダも相当な美少女だったが、それでも、まだ、十歳の少女なのだ。リパウルを相手にやきもちを妬くな、という方が無理だろう。
ナイトハルトはアナベルから目を逸らすと
「まあ、俺の時も初対面は結構ひどかったから、お前が不愉快に思う気持ちも分からなくは無いが…」
と呟いた。そのナイトハルトのフォローに、リパウルは苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
…だから、誰がミラルダの態度の話をしているというのか?が、ナイトハルトはリパウルの気分には気づかないのか、元々どうでもいいのか
「その時は、エ…その、母親も、最近、時々生意気になるって、謝ってたけど、つまり、そういう年頃なんだ」
と、言葉を続ける。
ふと見ると、アナベルが妙に優しい眼差しで、ナイトハルトの横顔を見守っている。
…この構図もなんなのだ?
リパウルの気分に気がついた、というわけでもないのだろうが、アナベルがリパウルの方に顔を向けた。
「そうだ、ナイトハルト。さっきの話、リパウルに相談してみたら?私より、リパウルの方が、そういうのわかってそうな気がする」
「ええ?こいつに?」
二人の会話の内容が分からないながら、ここで不毛な睨みあいをし続けるよりはマシな気がしたので、リパウルは
「何の話?」
と、アナベルの方に話を振った。アナベルは
「うん、今日、ナイトハルトがミラルダの学校の先生と会ったんだけど…」
「…形式的な面談だ。通常なら一学期の最初のうちにやるのを、ミラルダは転校生だから。それで、今日の放課後、担任の先生に会ってきたんだ」
…聞けば聞くほど父親みたいだ。リパウルは胸のうちに湧き上がる違和感を、何とか押し殺して、言葉の続きを待った。
「まあ、学習の進み具合に関しては問題ないと太鼓判を押されたんだが、どうにも、馴染めてないらしくて…」
「だって、まだ一か月たったばかりでしょ?」
「俺もそう思ったんだけど、先生が気にしているのは、女子のグループに仲間外れにされているんじゃないかって事らしくて…」
「…その、担任の先生って、ひょっとして女?」
と、リパウルは妙に醒めた口調で確認した。ナイトハルトは
「ああ、そうだが?」と、首を傾げる。
「もしかして、そこそこ若い先生だったりする?」
「俺らよりは若かったな」
リパウルはため息をついた。
それは…たんに、自分の話を聞いて欲しくて針小棒大に、その女性教師が報告しているだけなのではないだろうか。一か月もあれば馴染める転校生もいるだろうが、馴染めない転校生だっているだろう。
「男子の方は普通に…というか、まあ、結構仲良くやってくれているようなんだが…女子が、どうも…」
と、ナイトハルトは言葉を濁す。が、リパウルの目には、ナイトハルトがそれほど悩んでいる様にも見えない。それは、自分の心根に原因があるのだろうか?
「ふーん、つまり、男の子には人気があると、こう言いたいのね」
と、リパウルはつまらなそうに応じた。途端、ナイトハルトの表情が険しくなった。
「お前…やっぱり、ケンカを…」
と、アナベルが慌てて割ってはいる。
「五年生くらいって、そうだよね。私の幼馴染も、可愛くて女の子っぽかったから、男子に人気が出ちゃって、クラスの女子の一部にいじめられてた時期があった」
「…まあ、そうね」
「ミラルダは、誰が見ても美人だし、頭もいんだろ?それに、年齢の割りに大人っぽいっていうか、ちょっと雰囲気があるっていうのか…そういうのが原因で、女子にはちょっと近寄り難いとかなんじゃないかな?」
「大人っぽいか?」
「ナイトハルトの前では年相応かもしれないけど、私とかの前では、いつも静かな感じだよ」
「…そうなのか…」
「うん」
二人の会話を聞きながら、リパウルは自分がその年頃だった頃の事を思い出していた。
「問題は、ミラルダが、どう思っているか、じゃないかしら?」
「ミラルダが?」
「うん…私とかは、多少合わせてでも女子の友達が欲しかった方だけど…まあ、努力しても報われないことの方が圧倒的に多かったんだけど、…中には、無理して合わせるより、一人でも平気って子もいるし…」
「ああ、ミラルダはそっちだな」
「うん、そんな気がした…」
アナベルは首を傾げて
「ナイトハルト、ミラルダにきいたの?」
と、きいてみる。
「まあ、一応は。お前女子と上手くいってないのかって」
単刀直入にも程があるだろうと、アナベルとリパウルはそろって絶句した。まあ、この手の話題で、ナイトハルトにデリカシーを期待する方が無茶なのかもしれない。
「…それで、ミラルダは、なんて?」
「転校する前の前の学校では仲のいい子がいたけど、別に友達なんて無理やり作るもんじゃないってさ。トリオールの学校でも、女子からは仲間外れにされてたけど、別に嫌がらせしてくるわけでもなかったから、平気だって言ってたが」
ナイトハルトの…いや、ナイトハルト経由のミラルダの言葉にリパウルはため息をついた。
「…マーラーみたいね」
「マーラー?あの、毒舌女?」
ナイトハルトの言い草に、リパウルは露骨に嫌な顔をした。
「もう少し言い様ってものがあるでしょう?」
「何がだ?あっちがこっちを、頭空っぽ男扱いしてるのは、承知してるんだ。礼には礼でもって、返さないとな。だろ?」
説得させられたわけでもないが、リパウルは聞き流すことにした。
「マーラーも似たような事を言ってた。私は回りを気にし過ぎだって。でも、マーラー自身が言ってたんだけど、自分が強くしていられたのは、母がいてくれたからだって…」
少し、挑むような眼差しになって、リパウルはそう言った。ナイトハルトは「ああ」と、呟くと、ため息をついた。
「その理屈は、わかる」
「わかるの?」
まさか、ナイトハルトにそうこられるとは予想していなかったので、リパウルは声を上げてしまう。
「ああ、エ…いや、ミラルダの母親が、そうだった。母一人子一人で…」
「そうだったの…」
そうきくと余計に、ミラルダと亡くなった母親との関係の濃さのようなものが、うかがわれる気がした。ミラルダの母親は、…エレーンという女性は、自分と母親の関係を、意識しないまま、自分と娘の関係に、投影したのだろう。
リパウルはため息をつく、自分でも意外なほど重いため息になった。
「つまり、ミラルダのその気持ちは、お母さんが一緒にいてくれてた時のまま、変わってないのよ。彼女はまだ十歳で、マーラーのように自分を客観視出来てるわけじゃない」
「ああ、お前が何を言いたいのか、よく分かったよ」
と、ナイトハルトもため息をつく。母親を、ダイアナを亡くした後、他ならぬエレーン自身が言っていたのだ。自分も、友達が欲しかったと。
ナイトハルトの相槌は、リパウルの耳にはどこか投げやりに響いた。本当にわかっているのだろうか?
「つまり、母親のかわりに、彼女の精神的な支えになれるような人間が必要なのよ。あなた、なれるの?」
「はあ?なんで俺が?」
ナイトハルトの返事にリパウルは声を上げたくなった。が、かろうじて飲み込んだ。
「他に誰がいるのよ?」
「誰って…、誰にしたって、エ…ミラルダの母親の代わりになれるわけが無いだろうが?いや、はっきり言って、誰かが彼女の代わりになる必要なんて、全くないね」
リパウルは益々イライラした。もう、途中で言いかけるのを止めて、はっきり名前を呼べ!と、叫びたくなってくる。
…誰も、彼女の代わりになんてなれない…そんなこと、こっちはもう、とうの昔に分かっているのだ。
「誰の話をしてるのよ?」
リパウルの突慳貪な言葉に
「なんのことだ?」
と、ナイトハルトも表情を険しくする。リパウルは目をそらした。
「別に…。悪かったわ。そんな簡単に、母親の代わりになんて、なれるわけが無いわよね」
リパウルが横を向いたまま、それでも素直に認めたので、ナイトハルトもばつが悪そうな表情になった。
「いや、俺も無駄にむきになって…」
「今更だわ。それで…話を戻すけど。今は微妙な時期だから、ミラルダの言う通り、無理して友達を作ろうとか、しない方がいいのかもしれない」
「そうなのか?」
ナイトハルトが眉を寄せたので、リパウルも肩を竦める。
「…五年生の三学期でしょ?微妙なところよね。女の子同士だとグループが出来ちゃっているだろうし、六年生になればクラス替えでしょ?クラスメイト全員から、仲間外れにされているっていうんならまだしも、…そう考えると今のクラスで女の子たちの仲間に入れない…入れてもらえないからって、女の子とうまくいかないって、決めつけるのは早いと思うけど」
「まあ、そうだな」
「女の子って計算高くて現金なの。ミラルダが男子受けするってのが本当なんだったら、そのうち、仲良くしておいた方が得だって、計算した上で近づいてくる子が、現われるかもしれないし」
「…そんなの友達とは言わないだろう」
「まあ、そうね。でも、そんなのでも、付き合い方みたいなものくらい学べるし、運がよければ本当に気の合う子と出会えるかもしれない」
「そんなもんか…」
ナイトハルトが横を向いたままため息交じりで応じるので、リパウルは眉間にしわを寄せた。
「何?そんなに真面目に心配されたの?」
「まあ、沈痛な面持ちと言うのか…」
その言葉にリパウルはため息をついた。
「それは…ただ単に、担任の女性教師が、あなたの気を引きたくて、大袈裟に心配している風を、装っただけって可能性もあるかもよ?」
リパウルの言葉にナイトハルトは嫌な顔になった。が、すぐに改まった。
「いや、まあ、そうだな。どうせ、夏までの付き合いだ。せいぜいご機嫌をとっておくか」
と、開き直った。その言葉にリパウルはげんなりしてしまう。
「あなた、いい加減、その手の発想からは卒業しなさいよ…」
「最大のとりえだ。うまく使うさ」
「どうだか…」
キッチンテーブルの雰囲気が、そう悪くもなくなってきたので、アナベルは
「夕食の支度が大体出来たから…ちょっと、リビングの方、覗いてきてもいい?」
と、二人に確認をとった。二人は、そろってアナベルの方に顔を向けると、どちらともなく「ああ、うん…」
と、呟いた。アナベルは、軽い足取りで、キッチンを後にした。




