2-9 欠けたモノ(13)
作業を終えて、ウォルターの部屋に一声かける。なるべく普段と同じように…。でも、今日は出てこないかもしれない。顔をしかめながらも、アナベルはコーヒーメーカーをセットする。が、アナベルの杞憂をよそに、ウォルターはさえない表情で、のっそりとキッチンへ入って来た。
無言で入り口側の椅子を引き、無言で座ると、無言で手にしていたテキストタブレットを操作し始める。アナベルも無言で、ウォルターの前にコーヒーカップを置いた。ウォルターはメガネの位置を直すと
「ありがとう…」
と、小さくお礼を言った。
アナベルは、なんと返していいのかわからない。結果的に無視したような格好になってしまった。ウォルターはコーヒーを一口飲むと
「あの…さっきは、本当に、ごめん。その、寝ぼけてて…」
…寝ぼけててって、って…どんな夢を見ていたらあんな寝ぼけ方が出来るんだ?と、アナベルは情けなくなってしまう。
「別に…」
「怒ってる…?」
「なんで?寝ぼけてただけだろ?」
「そうなんだけど、その、痛くなかった?」
妙なことを聞かれたな…と、アナベルは首を傾げた。
「いや、別に、あの部屋、絨毯敷いてあるし…」
「でも、嫌だっただろ?」
「いや?めちゃくちゃびっくりはしたけど、嫌って程じゃ…」
と、アナベルは自分もコーヒーが飲みたくなってきて、水色のカップに、勝手にコーヒーを注いだ。
「…嫌じゃ…なかったの?」
と、しばしの間をおいて、やけに真面目な表情でコーヒーを凝視しながら、ウォルターが妙な確認をしてくる。
「え?何がだ?」
「…さっきの、書庫で…。君、嫌じゃなかった、って…」
「え…?」
言われている意味がようやくわかって、アナベルは頭に血が上ってしまう。
「違っ…!嫌だったに決まってるだろ?なんでそんなこと、いちいち確認するんだ?」
「でも、嫌じゃなかったって…」
「そ、それは、言葉のあやというか、何というか…」
「ふうーん、そうなんだ。じゃ、やっぱりごめん」
「やっぱりって…」
「…やっぱり…辞める?」
「は?」
「だって、君忙しそうだ。顔色もよくない。睡眠時間を削って勉強するくらいだったら、ここに来ない方がいいんじゃない?」
…いつも、自分が、何の前触れもなく言っていることを、自分が口にしているような唐突さで、ウォルターの方から言われると、こんなに痛いのか…。
アナベルは泣きたくなった。
「なんで…」
「だって、別に、ザナー先生の仕事があるし、時給も結構いいんだろう?それだったら、わざわざここによらない方が、君も楽かなって、さっきみたいなことがまたあってもいけないし」
「なんて言えばいいんだよ」
「…なんのこと?」
「嫌じゃなかったって言えば、満足するのか?」
「別に媚びを売れって言っているつもりはないけど…」
「だったら、どうして、そんなこと急に…」
「…自信がない」
「何がだよ?」
「また、さっきみたいなことしたらって…」
「寝ぼけていただけだろ?本当に本当は別にそれほど嫌ってわけじゃなかったんだけど…びっくりはしたけど…」
「そうなの?」
「お前、わけがわからない。どういえば納得するんだ?」
アナベルの質問にウォルターは宙を見上げて真面目な表情で考え込んだ。
「うーん、もっとして…とか?」
「…はあ?」
「いや、冗談だけど…」
「ぜんっぜん笑えない。お前本当にどうかしたのか?」
「どうかしてるかな…?」
「だいたい、私が本当にそう言ったからって、お前何をする気なんだよ?」
アナベルは呆れたように息をつくと、コーヒーを口にする。と、ふいにウォルターが、立ち上がった。そのままずかずかと、流しにもたれてコーヒーを飲んでいたアナベルの傍までやってくる。
…いつだったかもこんなことがあった。やはり流しの方に立ったままだとろくなことがない…。
アナベルは逃げようと流しの端の方に体を寄せるが、流しとキッチンテーブルとの狭い隙間で、なんとなく逃げ場がなくて、気が付くと自分のすぐ前にウォルターが立っていた。
「…ひょっとして君、挑発してる?」
「な、なにがだ?」
「さっきの…。お前に、なにが出来るんだって…」
悪意を感じるほど強烈な聞き間違いに
「そ、そ、そ、そんな、言い方はしてなかった。お前耳までおかしく…」
と、慌てふためいてアナベルは弁明を始める。が、ウォルターは全く聞いていない様子で、当たり前の様な態度で、アナベルの手からコーヒーカップを取り上げると、それをテーブルの上に置いた。そのまま、自分の両手で彼女の両頬を包み込む。そして
「アナベル…」
と、やけに静かな調子でささやいた。アナベルはこの状況に、軽いパニック状態に陥った。
「な、な、なななにをする気だ?!」
両頬を挟まれたまま、アナベルは引きつったような声を上げた。自分の鼓動と、混乱で不思議なほど体に力が入らない。
「この体勢から、他にどんなことが出来るのか、逆に教えてもらいたいくらいなんだけど…」
言いながらウォルターが顔を近づけてくるので、アナベルは彼の両手の手首を、自分の手で掴んだ。ウォルターは動じた風でもなく、アナベルの頬から手を放す。頬が自由になったことに油断したアナベルを嘲笑うように、淡々とウォルターは、手を交差させて、自分の手首から彼女の手を外すと、今度は彼女の手首をつかみ返した。
「え…何…」
ウォルターは再び、先ほどの続きをしようとする。アナベルの混乱は頂点に達した。
「お前、変!変変変―!!」
すぐ目の前のウォルターに向かって、真っ赤になりながら、果敢にアナベルは抗議した。足が上がれば蹴れるのに、何故だか腰が抜けたようになっていた。ウォルターは彼女の状態に気が付いていないのか
「うん、変なんだ」
と、ぼんやりとした調子で応じた。アナベルは、すぐ目の前にあるウォルターの、変にぼんやりとした眼差しと、自分の動悸に耐えられなくなってきて首をすくめると、固く目を閉じた。しばらく、そうしていたが、何も起こらない。と、すっと掴まれていた手首が自由になって、前からの圧力が無くなった。
(…え?)
目を開くと、ウォルターの背中が視界に入った。彼はそのまま、先ほどまで座っていた椅子に座ると、何事もなかったかのように、テキストタブレットを操作しながら、コーヒーを飲み始めた。
(なんだ?一体…)
アナベルは自分が拍子抜けしていることに気が付いて、混乱した。いや、拍子抜けしているだけではなく
…自分は、少しがっかりしてないか?
そう気が付いて、自分で自分に腹が立ってきた。
なんなんだ一体。何をされたかったというのか?
アナベルが流しの傍で立ちすくんだまま、身じろぎもせず、自分の方を睨んでいるので、ウォルターはため息をついた。
「…今日はもう時間も遅いし、帰ってもいいよ」
と、テキストタブレットに視線を向けたままそう告げるが、やはり彼女は動かない。ウォルターは
「…僕もかなり変だし…わけのわからないことばかりして悪かったよ。明日、ミラルダと来てくれれば…」
と、言うと、ようやくアナベルが息をつくのが見えた。
「わかった。今日は帰る」
「うん、いつもありがとう」
タブレットに視線を据えたまま、ウォルターははっきりとした口調でそう言った。アナベルはキッチンの奥側の椅子に置いてある、自分のリュックを手に取ると、そのまま黙ってキッチンの出入り口に向かう。立ち去り際
「じゃ、明日な」
と、だけ言い置くとそのまま玄関の方へと姿を消した。
アナベルが完全に屋内から出ていってから、ようやくウォルターは廊下の方に視線を向けた。彼女の姿が確かにないことを確認すると、そのまま、投げ出すように両肘をテーブルにつくと、両手を組んで額を乗せた。
…危なかった…。
ウォルター自身、いったい自分は何をやっているのかと、アナベルに迫りながら、心の中ではほとんどパニック状態だったのだが、箍が外れたようになって、全く制止がきかなかった。目の前でおびえた様に、固く目を閉じるアナベルの顔を見なければ、本当に止めることが出来なかったに違いない。
約一年前ウォルターは遺伝上の父親、ロブ・スタンリーに、面白半分の様な言い方で、アナベルに手を出すことを勧められたことがあった。その時は怒りと軽蔑しか感じなかったが、同時にロブの言葉にさほど深い意図はないのだろう、と思っていた。彼は単純に面白がっているだけのことで…。が、今の自分は少し違った印象を持っていた。
整理された言葉で説明できるほど、明確な根拠があるわけではない。が、ロブは、自分の遺伝子を半分持つ者、端的な言い方をすれば、自分の息子が、エナ・クリックの娘をおもちゃにするという状況を、半ば本気で期待していたのではないだろうか?…推測とも呼べないような漠然とした想念。
ウォルターは顔を上げると深呼吸をした。今の自分にはあまり余裕がない。だからといって、それを言い訳のようにして、ロブの思惑に、ピタリとはまってしまうのも、癪に障った。何より、彼女が嫌がることをする自分でいたくない。それでは、ロブと同じではないか?
ウォルターは再度深呼吸をすると、今度こそテキストの内容に、集中することに努めた。
***
いくつかあるプライベート仕様の携帯が、メッセージの着信を告げる。待ち望んでいた連絡だ。業務時間中であるにも拘らず、ミサキは、周囲の目を特に気にする様子も見せず、無造作に私用の携帯電話を、操作し始める。届いたメッセージに目を通すと、目を細めて笑みを浮かべた。
(なるほど、そうきたか…)
そのまま携帯を操作して、彼にあててメッセージを作成しかけるが、途中で気が変わった。
今日は早めに仕事を終えて、彼に会いに、久しぶりにあの街へ足を伸ばしてみようか…。
あの街で初めて彼に会って、約三年半が過ぎた。初めて会った時は、病院で何度か目にした、母のお気に入りの“王子様”そっくりだ、という程度の印象しか持たなかった。
少し話して、ふと悪戯心が湧いた。王子以上に、シャイでどこか夢見るような彼を、誘惑して、その行為に、夢中になるようにさせたら、…どうだろう?
我ながら悪趣味だとは思った。自分の宿泊するホテルに誘ってはみたが、おそらく乗ってこないだろうと思った。王子と同じで、潔癖そうな十四歳…。が、本物の世間知らずだったのか、彼はミサキの誘いをあっさりと承諾した。内気そうな表情で、純真無垢な声音で…。
夜半に年頃の女性からホテルの一室に来るように誘いを受けたのだ。お茶を飲みながら進路相談というわけにはいかない。ミサキは自分の思い付きを実行に移した。
予想通り、彼は女性を知らなかった。にも拘らず、誘ったミサキの方が戸惑うほど、彼はその行為にすんなりと慣れた。多少なりとも可愛げがあったのは、最初の一回だけで、彼はほとんど我流で、女性を悦ばせるすべを身に付けていった。気がつけば、自分の方が翻弄されている。が、それも悪くはないと思った。
彼が長い間、片思いをしていることも、そのうちに知った。好きな子を夢中にさせてやればいい。ミサキは純粋な好意から、そう勧めた。彼の好きな女の子は、ミサキの好みにもあった。元々性別にこだわる癖は無い。いいと思えば、異性だろうが同性だろうが、構わず手を出すことにしている。受け入れてくれるかどうかは、相手によるのだが…。
そして、彼が自分の能力ちからを、ミサキに披露してみせるようになるまで…、そちらの方も、さほど時間はかからなかった。
きっと…母も知らない。そして、王子の能力ちからより彼の能力の方が、上だ。そう思ってミサキはほくそ笑む。
ほんの数時、昔のこと思い出して、ミサキは携帯にロックをかけてから、引き出しにしまった。今晩の予定は決まった。仕事が終わったら直接彼に連絡をとろう。
そうと決まれば、目の前の仕事をサクサクと片付けなければ…。
サイラスに会いに、ルイスシティまで行く為、ミサキははりきって仕事を再開した。
***
…今日は一体、何日なのかしら…。
アルベルトの家から、技研の地下に移されて、そのままそこにいることになってしまったルーディアは、ポットの中で目覚めて、重い頭を上げた。起き上がるとポットの中は窮屈だ。
ルーディアはそのままポットの外に跳んだ。このまま、出た先がアルベルトのおうちだったらいいのに…。でも、自分がそこには跳ばないことは分かっている。今は跳んではならない。
ポットの外に出ると、時間帯はどうやら、日中のようだった。ぼんやりとした視界に、見慣れた、リパウルの美しい姿が目に入る。気のせいでなく、沈んでいる。
「リパウル…」
「ルーディア…」
リパウルもルーディアに気がついて、笑みを浮かべた。微笑みに不自然なところは無かったが、ルーディアが戸惑うほど、リパウルの内面が両極端な色で溢れていた。どうやら自分がここにいる間…リパウルと会わないでいる間に、彼女には色々なことがあったらしい。リパウルはルーディアのポットの側に腰を下ろした。
「気分はどう?」
「まあまあね。ここに移ってどれくらい?」
「そうね…もう、一ヶ月は過ぎてるわね…」
と、リパウルは労わるような口調でそう言った。それから首を傾げながら
「…起きてくれてよかったわ」
と、ためらいがちな口調で呟いた。
ルーディアはリパウルを一瞥すると
「健診の日程が決まったのね」
と、呟いた。リパウルが「ええ」と、短く応じた。ルーディアは、それには深くふれず
「色々…あったみたいね」
と、呟いた。ルーディアの言葉にリパウルも真顔になって、顔を伏せた。
「そうね…」
「前半は快調。後半はどろどろ…ってところ?」
ルーディアの言葉にリパウルは自嘲の笑みを浮かべる。
「絶妙な例えだわ…」
「リパウル…あなた、本当にアルベルトが好きなのね…」
今更といえば今更な事を、ルーディアはため息まじりでしみじみと呟いた。
何が見えたのだろう?リパウルは自分でも頬が赤くなるのが分かった。
「な、何を言って…」
「気持ちは判る…とは言わないけど…あんまりこだわって、二の舞を演じてはダメよ」
と、静かな口調でルーディアが忠告した。リパウルはふっと息をついた。
「…ありがとう。それだけは、自分でも…分かっているつもりでいたんだけど…」
「そうね…」
「でも、言ってもらえて助かった。本当は、自分でもよくわからなくなってたから…」
…自分のアルベルトに対する感情が、愛情なのか、それとも、ただのプライドでしかないのか…。
ルーディアは首を振った。
「あなたはただひたすら恐れている。また、彼を失ったらどうしようって…彼無しで生きていけない自分の弱さを、ひたすら恐れているの」
「…うん」
「後ろめたい…ううん、悔しくて悲しかったのね…」
「え?」
「ナイトハルトに対して…彼を救えなかったから…」
「そんな…」
「アルベルトもきっと同じよ…」
やけに静かな調子で、ルーディアはそう断言した。リパウルはアルベルトの気持ちを、そんな風に理解したことが無かったことに、改めて気がついた。アルベルトは、自分と別れてからも、ずっとナイトハルトの側にいて、彼を支えていたのだ…。
ふいに、涙が溢れた。
「リパウル…」
「ごめんなさい」
リパウルは慌てて涙をぬぐった。
…アルベルトが、好きだ…
リパウルは、自分でも驚くほどはっきりと、そう思った。
***********
サイラスは跳ねるような足取りで無人タクシーから降りた。首には大きなヘッドフォン。しばらく使っていなかったが、今日は念のために持ってきている。
雑音に悩まされる彼に、ヘッドフォンで音楽を聴くことを勧めてくれたのはミサキだった。
それまでは、自分の意志とはかかわりなく流れ込んでくる雑音に、ブランケットにもぐりこんで、ベッドで丸くなって、耳をふさぐ以外、それから逃れるすべを思いつかないでいたのだが。おかげでずいぶん楽になった。気が付けば、少しずつ雑音の選別や選択ができるようになっていた。
そう思いながら懐かしく、闇の中に浮かび上がる病院の姿に目を眇める。不意に彼は、他にも、もうひとつ、もっと効果的な救いがあったことを思い出す。
…セアラを欲しいと思い始めたのは、たぶん彼女の膝がいつでも暖かったからだ。
サイラスは軽々と、セントラル病院と特別病棟を隔てる壁を飛び越えた。ものを浮かせる要領で、自分の体を浮かせれば、壁を超えることなど造作もないし、警報装置も作動しない。
その侵入はきわめて静かに、決行された。監視カメラには映っているだろうが、別段気にする必要もない。自分はここにはいない筈の人間だ。
特別病棟への侵入はさらにスマートに実行に移せた。優秀なブレインが彼のために用意してくれたカードキーは、持ち主の資格になんの疑問も抱かず、素直にそのドアを開いてくれた。サイラスは鼻歌でも口ずさみたいような気楽な調子で侵入を果たした。
迷わず、すでに知っている病室へと向かう。そこには、長らく憎み、そして求めていた眠れる美女ならぬ、美少女が、平和に眠っている筈だった。
自分はすでに十一歳の子供ではない。自分の行為の意味を十二分に把握している。サイラスは言語化されない思考で、そんな風なことを考えた。
求める病室に到着すると、サイラスはさしたる感慨もなくドアを引いて、病室に入った。
広い個室の窓際寄り、足の長いベッドに、少女は眠っていた、壁際の簡易ベッドに、付き添いと思しき女性が眠っている。サイラスはそちらに一瞬、視線を奪われてしまう。見とれるほど美しい女性が無防備な寝顔をさらしている。今度は起きている時に、お目にかかりたいものだ、とサイラスは、リパウルの寝顔にしばし見とれた。が、無駄な時間を使っている場合でもない。今の彼の獲物は、名前もよく知らない技研の美人所員ではない。
気を取り直して、眠り姫の眠るベッドに向き直ると、改めて少女の寝顔を眺めやる。薄明りの中、七年ぶりとなるその少女の寝顔を不思議な感慨と共にサイラスは観察した。記憶にある姿と、まるきり同じだった。その事実にサイラスは慄然とする。
ルカに、会わせたい人がいるんだと言われ、大人たちに内緒で、特別病棟に隠れるようにして泊まった夜。ルカと一緒に、冒険を楽しんでいるだけのつもりだった。ルカの紹介してくれた、栗色の髪の少女は、驚くほど愛らしく、そして不思議に大人びていた。
サイラスもルカと同様、一瞬でルーディアに魅了されてしまったのだ。ただ、自分にはその時には、もっと好きな女の子がいた。それが自分とルカの反応を、隔てたのかもしれない。サイラスがルーディアに魅了されたのは、会ったその夜、その邂逅の一時だけのことだった。
思い出にふけりながら、サイラスはそっとルーディアの頬に手を添える。七年前に生じた不思議な感電は発生しない。姫が眠っていたら、ダメなのだろうか?
サイラスは体をかがめると、ゆっくりとルーディアの唇に自分の唇を重ねる。起きない姫を起こすのは、キスと相場が決まっている。サイラスがルーディアにそうした理由は、そんな程度のことだった。が、ルーディアにとって、その行為はそんな程度のことではなかったらしい。サイラスのキスに、ルーディアは唐突に覚醒した。目を見開くと、ものすごい勢いで上半身を起こした。あやうく額同士を派手にぶつけるところだった。
突然目覚めたルーディアにサイラスは目ざめのキスなるものの魔力に脱帽する思いだった。童話も意外に馬鹿には出来ない。ルーディアの必死の形相にサイラスは目を眇め、笑った。
「お目覚めですか?眠り姫。王子が僕でいいのかな?」
と、サイラスはふざけて手を広げた。
「…あんた…サイラスね」
「ご名答。覚えててくれたんだ?」
「…夏に会ったわ…」
ルーディアの言葉にサイラスは目を細めた。
「…それ以前のことは?」
ルーディア訝し気に眉をひそめる。やはり…覚えていないのか。
自分にとって都合の悪いことはすべて忘れる。忘れられた方は、たまったものではないのだが。
「覚えてないんだ?ルーディア。僕は…僕の方こそ、ずっと君に会いたかったのに?」
「何を言っているの?」
「本当だよ。きっとルカよりずっと、僕の方が君を必要としている」
ルーディアの表情が一瞬緩んだ。ルカのことは覚えているのか…。奇妙に冷めた気分で、サイラスは、そんな風に考えた。
「…ルカにはもう、私は必要ない」
「そうなんだ?でも、僕にはまだ君が必要だ」
「どうして…」
不思議そうな、けれどもどこか警戒をにじませた表情で自分を見上げる少女の気丈な顔に、サイラスは優しく手を添えた。まるで彼女を愛おしんでいるかのように…。
「君の辛さを本当の意味で理解できるのは、きっと僕だけだ」
サイラスは優しくそう呟くと、素早くルーディアにキスをした。先ほど交わした眠れる少女を起こすためのキスより、それはもっと深く、容赦がなかった。気のせいでもなんでもなく、二人の間に電気が走った。
ルーディアは苦しさのあまりもがいた。
不快な記憶と甘い記憶が、同時に同じ質と量でルーディアの脳内に浸透してくる。
思い出したくなくて忘れたくない記憶の両方が…。
ルーディアは自分の肩をつかむ、サイラスの胸板を、ありったけの力で押し返す。サイラスはルーディアの言葉ではない行動で示された、あからさまな拒絶に、素直に掴んでいた彼女の肩から手を離した。彼はすでに自分が目的を達成していることを、知っていた。止めなかったのは、ただの余興…。時間差で観客に披露されるであろう、これは余興だ。
その思い付きにサイラスは一人笑った。
「なんのつもりで…」
「もう欲しいものはもらったよ。でも、君のいらない記憶はもらえない」
「何を言って…?」
「ルディのこと…。完全に、忘れたかった?」
サイラスは優しくそう呟くと、すっとそのまま姿を消した。
去り際に彼が残した名前に、ルーディアは茫然とサイラスが消えたあたりを凝視してしまう。
当たり前のことだが、いくら眺めていても、サイラスの姿は戻ってこなかった。
【欠けたモノ;完】




