2-9 欠けたモノ(12)
ランチタイムに二人の友人に、わけのわからないいじめられ方をしたアナベルは、少なからぬ疲労感と共に、ミラルダを伴って、ウォルターの家のインタフォンを鳴らした。今日もウォルター自身が出迎えてくれた。ミラルダは、ウォルターの顔を見るなり
「アナベル今日すごく疲れてるの…働きすぎじゃないかなぁ」
と、心配そうに報告した。
アナベルはミラルダの優しさに肩を落としてしまう。今日だけはそっとしておいてほしかったような…。
ミラルダの言葉にウォルターは顔を上げて、アナベルの顔を凝視する。ここのところ、こちらがたじろぐほど無表情を極めているウォルターの、感情の読み取れない眼差しにアナベルは「うっ!」と、短く声を上げてしまったが、ウォルターは彼女の反応には構わず、二人を招き入れた。
キッチンに入ると、ウォルターは自ら流しにむかい、何故かコーヒーメーカーをセットし始める。アナベルが戸惑っていると、作業をしながら
「何かあった?」
と、問いかける。
「え?私?」
「そう、君」
「いや…なんで…」
「見てたろ?」
「え?」
ようやくウォルターが振り返る。が、やはり無表情だ。
「化学の授業の後。話したいことがあったんじゃないの?」
…気が付いてたのか…。
だったら、何故?と、思いかけてそれがかなり一方的な、わがままだと気が付く。
アナベルは俯いた。最近気持ちの切り替えがうまくできなくなっている。自分でも自分にイライラした。
「大したことじゃない。明日か明後日…、少し遅れてもいいかなって、それだけ…」
「何かあったの?」
心配して聞いてくれているのだということはわかっていた。なのに…
「いちいち理由を報告しないといけないのかよ?」
と、言ってしまう。言ってしまってから、アナベルは奥歯をかみしめた。
…ウォルターがいつも寛大で優しいからって、なんて言い方だ。
ふと、ライチタイムにイーシャが言っていた言葉を思い出す。こんなだったら、私だってイルゼの方を応援したくなる…。
アナベルが不機嫌そうに、そう言うなり、俯いてしまったのでウォルターは目を眇める。彼女の強情な態度に、理由を言わなければ遅刻させない。そう、言ってやろうかと思ってしまう。
ミラルダは普段仲の良い二人の、妙に険悪な雰囲気に、うろたえて二人を見比べてしまう。
「あの、昨日の用事?アナベル…」
と、ミラルダなりに助け舟を出した。アナベルはミラルダのことを思い出して、自分を恥じた。自分は何を甘えて…。
「うん、そう…。心配させてごめんね、ミラルダ。ありがとう」
と、アナベルはミラルダに向かって微笑んだ。うまく笑えたので少しだけ気分を切り替えることが出来た。アナベルはウォルターの方に視線をむけないようにしたまま
「カフェのバイトの都合で、少し寄らないといけないところがあって…」
そこまで一気に言うとようやく顔を上げた。
「ダメかな?無理なんだったら、木曜日にまた行くから、いいんだけど」
と、言葉を続けた。ウォルターはしばらくアナベルの顔を観察してから、ため息をついた。
「いいよ」
「そうか、悪い」
「いや、無理をさせてるのはこっちの方だから」
と、感情の読み取りにくい平坦な口調でそう言った。アナベルはため息をついてしまう。
彼が話さなければならない春休みにあった色々なこととは、ひょっとしてイルゼのことなんだろうか?実はもう、彼女と何か約束をしていて…。そこまで考えて流石に考えすぎかと息をつく。
でも、もし、そうだったら…。そう考えて、アナベルは、ぞっとするほど、心細くなった。
ハウスキーパーは必要ないから、もう、来なくてもいいと言われたら…。
今まで彼の気持ちを試すように、辞めた方がいいのか?と、自分から言っていたくせに…。
アナベルが顔をこわばらせているのに気が付いて、ウォルターは眉間にしわを寄せた。
「どうかしたの?」
「え?何がだ?」
そう問いかける表情は、普段と変わりないように思えたので、ウォルターは息をついて、自分の懸念に首を振る。
「いや、何でもないんだったらいいんだ」
それだけ言うと、コーヒーを注いで、そのカップをアナベルが立つ側のテーブル上に置いた。
次の日の土曜日、イーサンのトレーニングの後、多少の期待を込めてアナベルはカフェに向かった。メリッサに確認するが、セアラから何か連絡が入ったという話は聞いていないとのことだった。
アナベルは恐る恐る
「あの、木曜日、ちょっと時間が取れたので、隙をみてアパートメントの方に行ってみたんですが」
「うん…」
「一応姿を見せてくれはしたので…」
と、アナベルが伝えると、メリッサは目を見開いて
「あら、事故とか事件じゃなかったのね」
それはよかったわ。と呟くが、どこか突き放したような言い方だった。アナベルの方が申し訳ないような気分になってくる。
「あの、一応あいさつに来れるようなら来るように、伝えてはおいたんですが…」
「来るかしら?」
「正直、厳しそうでした」
アナベルに言い方に、メリッサはようやく関心をもった。
「いったい…何があったわけ?」
「いえ、それが、時間があまりなくて、話しを聞き出すまでのところまでいけなくて…」
「ふう~ん、そう」
「あの、今日来ないようだったら、私の方から行くって、約束はしてて」
「来ないんじゃない?」
と、メリッサはすげなく断定した。が、アナベルもおそらく来ないだろうとは思っていた。
「で、マネージャーの方には…」
「ああ、とりあえず、生きていたって伝えておくわ」
と、メリッサは肩をすくめた。
メリッサの…あるいはアナベルの予想通り、セアラは姿を見せなかった。アナベルはカフェでの業務時間を終えると、セアラの家へ向かった。
インタフォンを鳴らし来訪を告げると予想外の素早さでセアラが応答に出てきた。ドアを開いてアナベルの姿を求めた途端、セアラは嬉しそうに微笑んだ。
「アナベル…」
「セアラ、前よりは…元気そうだ」
アナベルが曖昧な笑みを浮かべながらそう応じると、セアラはにっこりとした。
「入って、今は私一人だから」
「じゃあ…」
と、言いながらアナベルは室内へと入った。今日のセアラは木曜日と違って、部屋着ではなかったし、髪の毛もきちんと整えられていた。
「適当に座ってくれる?」
と、言いながら姿を消した。おそらくキッチンへ向かったのだろう。
思いのほか元気そうだった。あれくらいの元気があれば、カフェまで来ることだって出来そうなものだ、とアナベルは嘆息してしまう。おそらく、外に出られないというのは、精神的な問題なのだろう。カフェでのバイトを始めるまで、セアラが、一時期、家に閉じこもっていたことをアナベルは知っていた。セアラが飲み物の入ったカップを持って、戻って来た。
「アナベルはカフェオレよね」
と、言いながらソファの前の小さなテーブルにカップを置いた。
「ありがとう」
アナベルの様子にセアラは嬉しそうな笑みを浮かべたまま、自分は絨毯の上に座り込んで、カップを両手で包んだ。
「あの、ごめんね…この前も、今日も…」
「いや、いいんだけど…大丈夫?」
と、アナベルが尋ねると、セアラは暗い顔になった。アナベルはどうしようかと悩むが、思い切って
「あの、メリッサが…」
「メリッサ?」
半ば予想はしていたのだが、セアラは不愉快そうに眉間にしわを寄せた。
「あの…メリッサに腹を立てて、バイトを休んでた…わけじゃないよね?」
流石にそれはないだろうと思いながら、話のとば口になればと、アナベルは言ってみる。セアラはこわばった顔のまま、無言で首を振る。それから、
「メリッサが、どうかしたの?」
と、続きを促した。
「いや、あの…セアラが来なくなって、先週…かな?一回、ルカがカフェに来たって…」
アナベルの言葉にセアラは驚いた様子で顔を上げた。
「知らなかったんだ…」
その表情にアナベルはため息をついた。セアラは茫然とした様子で首を振る。
「あの、ルカは、なんで…」
「うん…メリッサの話だと、セアラの様子を見に来たようだったって、でも、セアラがいないって知って、すぐに帰ったって」
「そう…」
と、セアラはため息をついた。
「春休みに…何か…」
と、アナベルは様子を伺うが、セアラは黙りこくって、自分の持つカップの中に視線を落したままだ。アナベルはため息をつくと
「最初は、ルカに何かあったのかなって、思ってたんだ。それで、セアラはバイトを休んでたのかなって。でも、メリッサがそう言ったから、気のせいだったのかなって…」
「いつ?」
「え?」
「メリッサ…ルカ、がいつ来たって言ってたの?」
「えっと、先週の、土曜日。私が帰ってからって言ってたから、四月の第二週かな」
と、アナベルは記憶をたどってそう言った。アナベルの言葉にセアラがほっと息をつくのが見えた。
「そう…」
と、呟くと、セアラは涙ぐんだ。
「セアラ?」
アナベルの心配そうな声音に、セアラは首を振った。
「ごめんなさい、ちょっとほっとして…」
「やっぱり、何かあったの?」
アナベルがそう尋ねると、セアラは顔をゆがめて泣き始めた。
「…私が悪いの」
言いながら俯くとセアラの両目から涙が零れ落ちた。アナベルはそんな場合でもないのに、きれいだな…と、何故だかその涙の雫に見とれてしまう。セアラに泣かれるのに慣れてしまったのかもしれない。アナベルは何も聞かず、彼女の涙を見守った。
アナベルは日曜日にも、カフェのバイトの後、セアラの住居を訪ねてみた。昨日は部屋に招き入れてもらえたところまではよかったのだが、話をしているうちにセアラが泣き出してしまったので、結局何があったのか聞けずじまいだったのだ。
アナベルはセアラがバイトに来なくなり、部屋に閉じこもるようになってしまった原因をさぐることをあきらめることにした。今は彼女が、自分が行くことを拒否しないだけで満足するべきなのだろう。そう思いながら、アナベルはセアラの住居のインタフォンを鳴らした。
セアラの家で、他愛のない話をして、次の木曜日の訪問を約束してからアナベルは彼女の住居を後にした。次のバイトはウォルターの家での、ハウスキーパーだったが、遅刻予定は事前に伝えてあった。そうはいっても今日はウォルターと二人だけなのだ。
アナベル憂鬱になってきた。先日、土曜日と日曜日の遅刻のことで嫌な態度をとってしまったのは自分の方だ。それはわかっているのにも拘らず、彼女の中には、いまだに不可解なわだかまりが残っていた。そうはいっても、仕事は仕事だ。今日は何とか穏便に過ごさないと、と、アナベルは決意を固めながら自転車をこいだ。
ウォルターの家に着くと、いつもの通りにインタフォンを鳴らす。が、反応はない。細かいことを言うつもりはないが、ミラルダがいる日はいつでも、ウォルター自ら、玄関ドアを開くというのに…と、何やら恨めしい。
アナベルはため息をつくと、スペアキーを取り出して、屋内へと入る。真っすぐキッチンへと向かうが、普段閉まっている書庫のドアが開いたままなのに気が付いて、足を止めた。ゆっくりと中を覗き込むと、入り口から足先だけが目に入った。
(なんだ…?)
不審に思ってアナベルは書庫の中へと侵入してしまう。みると、入り口側の壁、本棚とドアの間の隙間の様な壁に、もたれるようにしてウォルターが眠っていた。無造作に投げ出された足と手。入り口から反対側の手のそばに、濃い茶色の表紙のついた紙の本が投げ出されていた。読みながら眠ってしまったのだろうか。
(めずらしいな…)
呆れたようなため息が思わず漏れてしまう。傍らにしゃがみこんで、寝顔を見つめる。久しぶりにウォルターの顔を、きちんと見た気がした。寝顔を見るのはこれで二度目か…。一度目は、熱を出して寝込んでした。熱のためか頬が赤らんでいたような…。今は、見ると少し顔色が悪いような気がする。疲れているのだろうか?
傍らに座り込んで、ぼんやりと寝顔を見ていると、ここに来るまで確かにあった、彼に対する怒りや苛立ちが、静かに消えていった。理由はわからない。けれど、彼が何かにひどく傷ついているのだということは、わかっている…つもりでいた。けれど…。
見つめていると、ウォルターが顔をそむけた。寝返りの様なものだとわかっていても、なんとなく傷ついてしまう。ふと、彼がメガネをかけたままで眠っていることが気になってしまった。
(外した方がいいのかな…)
以前使っていたものが壊されて、今のはスペアだと言っていた。これが壊れたらかえがないのでは?
アナベルは慎重に手を伸ばすと、そっと、ウォルターの顔からメガネを引き抜いた。起きても壊す心配はなく、それなりに目につくところ…と、四方を見回すがそんな都合のいい置き場所は見つからない。あきらめて、再び彼の寝顔に視線を向ける。
以前にも思ったのだが、メガネのない彼の顔だちは、奇妙に端正で上品に見えて…見ておきながら、目のやり場に困るような気分になってしまう。それなのに、ずっと見ていたいような…。
ふっと、ウォルターが目を開いた。焦点の定まらない眼差しが、アナベルの姿をとらえる。と、「アナベル…」と、小さく呟いた。それから、ウォルターは、彼女の後頭部に手を伸ばし、そのまま、アナベルの方に、しがみつくようにして抱きついてきた。
…え?
と、思って気が付くと、アナベルはウォルターにしがみつかれたまま、ゆっくりと床に横たえられていた。ウォルターはアナベルの首に頭をうずめるようにして、顔を寄せると、首筋を強く吸った。突然のことにアナベルは、反射的に固く目を閉じてしまう。
全身にしびれのような何かが走って、一瞬で体の力がなくなってしまった。それでも、なけなしの理性を振り絞って
「ウォルター!」
と、声を上げた。
その声に反応して、ウォルターが勢いよく顔を離した。目が合って、まじまじと互いで凝視しあう。
「え、あの…」
アナベルは無意識のまま、ウォルターに吸い付かれた首の付け根のあたりに、手を置いた。自分でも、頭に血が上っているのがわかった。
アナベルの表情にウォルターは
「え、ええ!?」
と、叫ぶと、彼女から離れ、中腰のまま、後ろにのけぞるようにして後退すると、後頭部をしこたま壁にぶつけてしまい、「痛っ!」と、叫ぶとその勢いのまま頭を手で覆った。アナベルは片肘で体を起こすと、ゆっくりと後ずさった。よくわからないが、ウォルターが変だ。
見ると後頭部を押さえたまま周囲をせわしなく見回している。アナベルは恐る恐る
「探してるのはこれか?」
と、手にしたままだったメガネを差し出した。
ウォルターは、見るからに仰天して、「あ、うん」と声を上げると、アナベルの手から恐る恐るメガネを受け取った。そして、即座にメガネをかけると、再度アナベルを凝視する。
…と、今度は勢いよく立ち上がって、上から
「あの、ごめん!寝ぼけててっ…!」
と、言うと、自分が襲われたようなおびえた表情になって、踵を返すと返事も聞かずに室内から飛び出した。残されたアナベルは唖然として、開きっぱなしの出入り口の方を見つめてしまう。
と、すぐにウォルターが戻ってきて、彼女の方を見向きもせずに。床に置いたままだった、焦げ茶色の表紙の紙の本を手に取ると、再度「ごめんっ!」と、短く謝って、今度こそ本当に書庫を後にした。
アナベルは首筋を抑えたまま、しばらく茫然と書庫の床に、片肘をついた状態のままで固まっていた。
今日は、ウォルターと、気まずい感じにならないよう、険悪な雰囲気にならないよう、気を付けるつもりでいた。が、こんな展開は全くの予想外で、アナベルは最初から途方にくれてしまっていた。




