2-8 チャイルド・ショック(16)
明日帰ろうという日の夜に、思わぬ混乱に見舞われてしまったアナベルは、消化不良気味なもやもやをもてあましつつも、明日の朝は早い。アナベルは早々にシャワーを使うと、キッチンに敷いたマットレスの上に腰を下ろし、手付かずのまま放置しておいた、古典の課題に向き合った。キッチンの床に敷いたマットレスの上は、意外に快適だった。
アナベルに続いてシャワーを浴びたナーディアは、濡れた髪をタオルでぬぐいながら、アナベルの座るマットレスまで近づくと
「ちょっと、いいかしら…」
と、遠慮がちに声をかけた。カイルが気遣わしげな視線をこちらに向けるのが、アナベルの視界に入ったが、叔父は特に何もいわないで、バスルームへと入って行った。アナベルは、
「あ、うん…」
と、答える。
考えてみたら、二週間、結構、顔をあわせていたわりに、ナーディアと落ち着いて話す機会もなかったことに、今更のように気がつく。ナーディアはアナベルと並ぶようにして、マットレスに腰を下ろした。
「あら、意外に快適ね」
「でしょ」
と、アナベルは思わず笑ってしまう。ナーディアも笑って、それから真顔になった。
「さっき…ごめんなさい。カイルに聞いたの…。髪留めのこと…」
「ううん、私こそ、余計なことして…」
と、アナベルが言うと、ナーディアは首を振った。それから
「あの子が、頼んだの?」
と、下を向いたまま尋ねた。アナベルは首を振った。
「そうじゃないよ。友達が欲しいアクセサリーがあって、お店に行ったんだ。ライザックにもつき合わせちゃって…。友達がレジに行ってる時、あいつが、あの髪留めを見てて…」
声をかけたら、こちらが驚くほど、驚いた。
「欲しいのかって、きいたら、似合うかなって思って…って、言うから…」
そう言うとアナベルは隣に座る、ナーディアの方に顔を向けた。
「私じゃないし、一緒にいた友達でもない。ナーディアのことを考えてるんだろうなって、そう、思って…」
「そう…」
言うと、ナーディアは両肘を太ももに乗せ、閉じた両手で、自分の口元を押さえるようにした。
「だから、ずっと大人しく付き合ってくれたし、そんな高くもなかったから、まあいいかなって。あいつは、いらないって言ったんだけど、私が勝手に…」
アナベルの言葉の途中でナーディアは両手で顔を覆った。アナベルはその様子を少しの間見守って、顔をそむけた。
「あいつ、あなたが…」
前の夫に暴力を受けていた事を知ってたよ…。そう、言おうとして、やはり言えなかった。この場で口にするには、あまりにも無神経な気がした。代わりに
「私ね、オールドイーストに行くまで、母親に会ったことがなかったんだ」
と、自分の事を口にした。
ナーディアは疲れたように顔を上げ、アナベルの方を見た。アナベルはナーディアの視線には構わず、言葉を続ける。
「それまでは、母親のことあまり好きじゃなかった。よく知りもしなかったくせにね。でも、最近は結構好きなんだ」
と、少し小さな声でそう言った。
「でも、父親の事は相変わらず嫌いなんだ。でもね、正直に言うと、そのことが少し後ろめたいんだ。親のことが嫌いって、すごく悪いことのような気がすることがあるんだ」
アナベルはナーディアの方に顔を向けた。
「ずるいと思わない?親らしいことなんて何もしていないのに。どうして罪悪感を抱かなくちゃならないんだって、自分でも腹が立つんだ。だから、まあ…、母親のことが嫌いでなくなっただけでも、少し救われてるっていうか…」
「そう…」
「ナーディアはさ、きっと、ちゃんとした家庭で育って、両親の自慢の娘だったんだろうなって、そう思う…。けど…」
そうでない子供だっている。それでも、親がどんな親でも、子供は親を愛さなければならないのか?そんな一方的なことを、どんな権利があって親は要求するのだ?子供を愛さない親だって、世の中にはたくさんいるというのに。
アナベルは大きく息をついた。
「あいつ、そんなこと全然言わないけど、あなたのこと大好きなんだ。あなただって、あいつのこと、大事に思ってるんでしょ?」
と、アナベルは前を見つめたままそう言った。余計なことだとは分かっていた。
アナベルは俯いてから、ナーディアの方へと顔を向けた。
「もし、明日、目が覚めたら、あいつが女の子になってて、真面目で賢くてあなたの理想どおりの…世間にも自慢できる娘になっていたら、あなたは満足するの?」
アナベルはナーディアの顔を見つめたまま、そう問うた。ナーディアは、アナベルのその言葉に、大きく目を見開いて、ゆっくりと首を振った。その表情に、アナベルはほっとしてしまう。
「なら、いいんだ。変なこと言って、ごめん…」
と、俯いて謝った。その謝罪にナーディアは力なく首を振る。
「…ライザックの父親は…」
と、ナーディアはささやくような声で切り出した。アナベルはぎくりとしてしまう。
「…うん」
「ライザックが生まれてから、変わってしまったの…」
そう言うと、ナーディアは大きく息をついた。
「もともと母親の愛情が薄い人だったみたいで、時々、感情的なることがあった。でも、私がそのことを分かっていれば大丈夫だって、ずっとそう思っていた。傷ついているだけで、本当は優しい人なんだって、ずっと…」
ゆっくりと呼吸を整えながらナーディアは言葉を続ける。
「ライザックが生まれて、多分、恐かったのね。愛情が奪われると、そう感じていたみたい。私は彼の感情に巻き込まれるようになってしまって…恐くて…」
「ナーディア…」
「当たり前の事をしている筈なのに、ダメなの。私があの子を可愛いと思うだけでも、もう…。彼はどんどん不安定になって…」
言いながら、ナーディアは顔を俯けた。それから大きく息をつく。
「気がつくと普通にあの子を可愛がることさえ出来なくなっていた。今は誰も私を責める人なんていないってわかっているのに…。どうしたらいいのか、わからなくなって…」
ナーディアは一人首を振ると、続けて
「私が、あの子に甘えてるだけだって、わかってるの。あの子ならきっと許してくれるって…。でも、やっていることはあの子の父親と同じね…。自分の痛みをあの子に押し付けて…」
と、言った。
「ナーディア…ごめん」
アナベルの言葉にナーディアは顔を上げた。
「どうして、謝るの?」
「だって、あなたの事情も知らずに勝手な事を言った」
「ううん、いいの。カイルにもよく叱られるの。でも、なかなか…」
「急にでなくて、いいんだ。あなたが思っているより、あいつはずっとあなたの事をわかっている。だから…」
「…そうね」
と、ナーディアは力なく頷いた。アナベルは下を向いたまま
「だからなんだね」
と、呟く。ナーディアは、アナベルが何に納得したのかわからずに、首を傾げる。ナーディアの不思議そうな表情に、アナベルも不思議そうになって
「え、違うの?ライザックから髪留めを渡されて、嬉しかったから、あいつを叱ったんじゃないの?」と、説明した。
ナーディアは、「ああ」と、息をついた。そして「そうね…」と、呟く。そして
「とても…嬉しかったから、喜んではいけないと思って、あんな風に言ってしまったのね…」
と、言いながら、片方の頬を手で覆った。口元には弱々しい笑みが浮かんでいたが、目じりから涙が零れ落ちた。アナベルは真顔になって
「今度から叱りたくなったらさ、叱る前にまず、抱きしめてみたら?」
と、珍妙なアドバイスをしてしまっていた。ナーディアはその言葉に小さく笑うと、
「そうね、試してみるわ」
と、涙を流しながら静かに請合った。
まだ、皆が寝静まっている中、アナベルは目覚ましの音で起こされる。起きると慌ててベルを切った。昨晩はどさくさの様に、寝る場所を決めてしまったので、アナベルの荷物は、彼女の部屋に置いたままになっていた。
荷造りを済ませていたのが、不幸中の幸いといったところだろうか。目を覚ましたアナベルは、歯磨きと洗顔をすませると、こっそりと自分の部屋に入った。自分のベッドを覗き込むと、ライザックは頭から掛け布団をかぶっていた。アナベルは眠る少年に向かって
「ちゃんとお別れの挨拶が出来なかったけど、まあ、元気でやってけよ」
と、別れの言葉を述べる。と、掛け布団から少年が顔を出しそのまま上半身を起こした。見るからに不機嫌そうだった。
「悪い、起こしたか」
と、アナベルが呟くと、ライザックはアナベルを睨むようにして見る。と、何を思ったか、いきなり彼女の腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。
アナベルは、一瞬、何が起こったかわからない。気がつくと、少年の唇が自分の唇に押し付けられていた。呆然となすがままになっていたアナベルは、自分が、やけに丹念に少年にキスをされていることに気がついて、慌てて、顔を引き離した。
「お、お前、一体、何を…」
「何って、別れの挨拶だろ?」
と、少年は当たり前のようにそう言ってから、掴んでいたアナベルの腕を離した。
「別れの挨拶って…」
別れの時どころか、いかなる場合であろうとも、挨拶に丁寧なキスを交わす習慣のないアナベルは、口元を手の甲でぬぐいたくなったが、それは流石に失礼だろうと、やめておく。
アナベルの困惑した表情を馬鹿にしたように見つめると、ライザックは「けっ!」と、言って、再び掛け布団を頭からかぶった。
結局のところ、最後まで、この少年の考えていることは、よく分からないままだった…、と、アナベルは嘆息してしまった。
混乱した頭を抱えたまま、アナベルは自分のリュックと、昨晩ナーディアから貰った腕時計を持って、少年を刺激しないよう、静かに自分の部屋をでた。今日の着替えをリュックから引き出すと、手早く着替える。寝巻き代わりのタンプトックは下着代わりでもある。外出着を上から着れば着替えは終わりだ。
本当はカイルと、もう少し話したいことがあったのだが…そう思いながら息をつくと気持ちを切り替えた。それは手紙で書けばいい。そう思って、アナベルがリュックを肩に担ぐと、そのタイミングを待っていたかのように、カイルが部屋から普段と変わらぬ様子で姿を見せた。出かける準備の整った様子の姪の姿に、カイルは優しい笑顔を向けると
「バス停まで送るよ」
と、静かに告げた。
二人で連れ立って、バス停へと向かいながら、アナベルは十五歳の頃のことを思い出していた。カイルは空港まで見送りに行けないことを謝ってくれて…。
バス停に着くと、二人で並んでバスを待つ。
「カイル…」
「なんだい?」
「あの、私ね、無理かも知れないんだけど、大学に…」
「うん」
「セントラル大学…挑戦してみようかって思ってるんだ」
地面に向かってアナベルは、一息にそう言った。
「うん…」
カイルは、ただ、そう頷いた。アナベルは、何故自分が大学を目指そうと思ったかは、言わなかった。続けて
「その、勿論、受かるとは思えないし…でも、可能性があるんだったらって、ちょっと思ってて」
「うん、そうだね」
「…ダメだったら、帰ってきても、いいかな…」
アナベルが俯いたままそう言うので、カイルは笑顔になった。
「いいよ」
アナベルは顔を上げると、カイルの方へと顔を向けた。それから、言い訳するように
「ちゃんと就職するし…」
姪の言葉に、カイルは笑った。
「君なら大丈夫だよ」
「カイル、あのね」
「うん?」
「クリック博士の専門は、再生医療なんだ」
アナベルの言葉にカイルは、表情を消した。
「カイルの病気、移植で治せないかなって」
「アナベル、それは…」
「博士はさ、身内だからって、ひいきしたりとかしない人だと思うんだ。けど、ちゃんとルールにのっとれば、助けてくれると思う。すごく公平な人だから…」
アナベルは、カイルの顔を見つめながら
「もしさ、博士が診てくれるっていったら、カイルは、治療を受けるために、オールドイーストに来ることが出来そうかな?」
と、尋ねた。カイルは厳しい表情になって
「君が大学を目指すというのはそのためかい?」
と、確認をとってきた。アナベルは目を逸らすと
「セントラル大学なら一流だ。もしそこを卒業できるんなら、その中で一番稼げるところへ就職して…そういう保障というか、手形になると思うんだ。それだったら博士も、認めてくれるんじゃないかって」
「…アナベル。君が進学したいっていうのが、そんな理由なんだったら…」
アナベルは俯いたまま首を振る。
「別にそれだけってわけじゃない。きっかけはそうだけど、もう少し自分の力を試してみたいって」
顔を上げると
「まるきりダメかもしれない。けど、やってみたいんだ」
と、真摯な表情になって、そう言った。
「アナベル…」
「ダメって言わないで欲しいんだ。カイルに応援して欲しい。カイルは私の…」
「うん…」
「私にとっても、カイルはメアリなんだ…」
「アナベル」
「いや、メアリはメアリなんだけど」
と、混乱した様子でアナベルは付け加えた。カイルはふっと緊張を緩めた。
「わかった」
「うん…」
「その代わり、やるからには、ダメで元々とかじゃなく、合格するつもりで勉強していかないと」
「うん」
と、頷いてアナベルも笑顔になった。
そのまま叔父と姪は、二人並んで、静かにバスが来るのを待った。やがて、バスがやってくる。アナベルがカイルに向かって
「無理しないでね。手紙、書くよ」
と、言うとカイルも
「うん、君も」と、返した。




