2-8 チャイルド・ショック(4)
週明けから、次々と試験結果が返ってくる。アナベルは、中期に引き続き、学期末でも、数学と化学でA評価を取ることが出来た。これで、三学期はほぼ確実に、この二教科はクラスAになるだろう。他の教科も中期より下がったものはなかった。古典だけは変わらず、E評価だったが…。
ウォルターも苦手を自負する数学で、なんとか九十点以上を取ることが出来た。毎回綱渡りめくのは、勘弁して欲しいと、結果を見ながらつくづくと思った。しかし、公開されている試験結果でみると、三学期はアナベルと同じ教室で、数学の授業を受けることが出来そうだった。だからと言って、何がどうというわけでもないのだが、気を抜くと、やはり頬が緩んでしまう。これで浮ついて、三学期に成績を落としたら、眼も当てられない。まだ、二学期の成績表を貰わないうちから、ウォルターは気分を引き締めにかからなければならなかった。
***
土曜日の早朝、アナベルとリースは、アルベルトの運転する車で、セントラルシティ駅まで送ってもらっていた。昨日、見送りのために泊りに来ていたリパウルが、助手席に座って、アナベルとリースは、後部座席に陣取っている。まさか車で送ってもらえるとは夢にも思っていなかったので、二人は妙なテンションになっていた。
「まさか、アナベルと一緒に帰省する日が来るとはね…」
と、リースがしみじみと言ったので、アナベルは苦笑した。
「その言い方だと、一緒に帰るみたいなんだけど」
「まあ、駅までなんだけど、おまけにアルベルトの車で、ドクター・ヘインズにもお見送りしてもらえるなんて…」
日曜日から、検査の為、ルーディアが技研の地下に宿泊していたので、今週はリパウルの姿を見るのも久しぶりだったのだ。後部座席で、二人の下宿生は声をひそめてやり取りしながら、なんとなく、運転席と助手席に座る二人の大人の様子を窺ってしまう。
二人は穏やかな調子で言葉を交わしている。と言っても、話し役はもっぱらリパウルの方だったが。
どういう心理なのか、前の二人の様子を見ながら、リースが大きく息をついた。
「どうかしたのか?」
リースの様子にアナベルが、小さな声でそう言った。
「うーん、別に、何もないけど…」
「そういえば、大学、結局、セントラル大学は受験しないのか?」
「流石にね…。無料とはいかなくて、あまり授業料のかからない公立には願書は出したけど…」
「そっか。もし、そこが受かったら、やっぱり寮に移るのか?」
「まだ試験も受けてないからなぁ、決められないや」
言いながらリースは、前方に視線を据えたまま、再びため息をつく。アナベルは眉間にしわを寄せて
「なんだよ、さっきから」
と、少し咎めるような口調になってしまう。
「うん、仲がよくていいなぁって思ってさ…」
「ああ、そういうことか…」
と、アナベルもなんとなく納得してしまう。リパウルとアルベルトを見て、そういう感想を呟いてしまう気持ちは、アナベルにもわからなくなかった。実際に口に出して言ってしまったこともある。
「リースは、前、話してた、バイト先の女子とは、何か進展があったの?」
「…ブリジットのこと?彼女ならバイト先の別のスタッフと、年明けから付き合い始めてるけど…」
と、悄然とリースが教えてくれた。アナベルは余計な事を聞いてしまったと肩を竦める。
「それは…ごめん」
「別に、君は何も悪くないんだけどさ…」
と、言いつつも、やはり元気はない。
「結局、彼女も出来ないまま、高等校時代が終わっちゃたな。勉強とバイトに追われて…。あ~あー」
…なんだろう。なんだか自分の事を言われているみたいだ。いや、別に彼氏とか欲しいとか思っているわけではないのだが。
「大学に行けば少しは余裕が出来て、彼女も出来るんじゃないのか?お前、なんのかんの言っても、いい奴だし」
「それ、ひょっとして慰めてるつもりで言ってるの?」
と、リースが嫌そうな顔になった。
「いや、その…」
「まあ、いいけどね。勉強とバイト三昧って言えば君だって同じだし」
「そうだよ!」
「でも、君、あのハウスキーパーのバイト先の彼と付き合ってるんじゃないの?」
「…だから、違うって何度も…」
「でも、いずれ申し込まれるんじゃないの?」
「いや、だから、それは絶対にないって」
書類の上では姉弟で、近親相姦は犯罪なのだ(意味はよく分からないのだが…)。なので、そんなことは絶対にありえないとアナベルには断言できた。が、リースはどこまでも、疑わしげだった。
駅に着くと、付近の駐車場に車を停めて、アルベルトとリパウルが駅まで見送りについてきてくれた。いつも帰省しているリースはともかく、アナベルは、こんな風に見送られるのは、初めてのことだ。去年の五月にカディナに帰ったときにも、一人で旅立ったのだ。
いつもは自分が見送る側なのに…、そう思うと妙な気分になった。
リパウルは、いつもと同じように、アナベルを柔らかく抱きしめてくれた。それから少しだけ体を離すと、
「カディナまでは遠いけど、旅の無事を祈っているわね。カイル・ヘイワードさんによろしく伝えてくれる?」
と、言った。アナベルはリパウルに向かって微笑むと、
「うん、伝えるよ。リパウルも、帰ってきて、会えるの楽しみにしているから」
と、答える。リパウルは微笑みながら頷いて、アナベルの体から手を離す。それから、リースに向かって
「リースも気をつけてね。ご家族によろしく」
と、優しい笑みと共にそう言った。リースはやや舞い上がって
「はい、ドクター・ヘインズも、その、今日はわざわざありがとうございます。あの、気をつけて行って来ますので」
と、妙な確約まで、してしまっていた。
リパウルとアルベルトは、リースとアナベルが、元気な様子で改札の向こうに姿を消すまで、二人を見送った。
リパウルが名残惜しげに、その場に佇んでいる様子を見ながら、アルベルトは
「今日は、技研に行くの?」
と、彼女に向かって確認をとった。
「ええ、そうね…。あなたは?」
「君次第かな?」
と、アルベルトは笑みを浮かべてそう言った。
「私次第なの?」
と、リパウルは咎めるような表情になる。それから
「そう言われると…」
「ごめん。出勤するんだったら、送ろうか?」
と、アルベルトはすぐに切り替えた。リパウルはため息になってしまう。今はルーディアの様子を見る必要もない。自分の研究に集中出来ている。確認しておきたいサンプルがあった。
「一度、家に送ってもらってもいい?着替えてから、後は自分で行くわ。あなたもどうせ出勤でしょ」
「まあ、そうだね。なら、官舎の…君の部屋まで送るよ。けど、今夜はうちに来るだろ?」
と、当たり前のようにアルベルトが誘ってきたので、リパウルは頭に血が上るのを感じた。
「え?あの…いいの?」
「うん、来て欲しい…」
アルベルトは地面に視線を据えたまま、しかしはっきりとそう言った。リパウルも、俯いたまま
「なら、行くわ」
と答える。
「そう、じゃ、待ってる」
「…そんなこと言って、結局私の方が先に家に着いているってパターンじゃないでしょうね?」
と、普段の調子に戻って、リパウルが、アルベルトを軽く睨む。その表情が可愛かったので、アルベルトはこの場ではとりあえず肩を竦めて見せた。
***
早めの時間帯に、アルベルトの家を出たので、出発時間より随分早くにノースノウ空港に到着した。ダンホ空港へは、夜の便しかないのだ。アナベルは空港内を散策したり、休んで春休みの課題図書を読んだりして、出発時間を待った。
これまで、飛行機に乗っても、眠ってしまうことの多かったアナベルだったが、今回は初めて、窓際の席を取れたこともあって、機内から外の景色を楽しむことが出来た。そうはいっても狭い機内で十五時間をずっと快適に過ごしたというわけにはいかなかったが、今までより余裕をもって空の旅を満喫した。
いつのまにか眠って、目覚めたら、ダンホ空港に到着していた。そこから国内線でホープシティ空港へ飛ぶ。
カディナの駅に到着したのは、翌日だ。故郷の空気に、アナベルはほっと息をつくと、バス停へ向かって迷わず足を進める。すると背後から、
「アナベル!」
と、懐かしい声が自分の名前を呼んだ。
「カイル!?」
振り返ると、間違いなくカイルだった。アナベルは急いでカイルの方へと駆け寄った。
「どうしたの、一体?」
と、アナベルは懐かしいカイルの顔を見つめながら、首を傾げる。
「うん、ナーディアが、調べてくれて、多分この時間帯の列車で到着するんじゃないかって…」
と、カイルも約一年ぶりとなる姪の顔を優しく見つめながら、そう説明した。
「ナーディアって…」
アナベルはそう訊きながら、その人が、カイルが手紙で言っていた人なのだろうと、見当がついた。カイルは優しく頷くと
「すぐに紹介するよ。それより、お帰りアナベル。移動は問題なかったかい?」
と、長旅をへて、帰ってきたばかりの姪に、ねぎらいの言葉をかける。アナベルは笑った。
「うん、今回はかなり余裕のある旅だった。飛行機から空が見えたよ」
と、応じると続けて
「ただいま、カイル。カイルも元気にしてた?」
と、アナベルもようやく、挨拶の言葉を口にする
「うん、荷物は平気?」
と、アナベルの背中の大きなリュックに視線を向ける。アナベルは
「全然、平気」
と、答えた。それから、周囲を見回すと
「その、ナーディアさんって人…」
と、言葉を濁した。
「うん、車で待ってくれてる。少し急ごうか?」
と、告げると、カイルは先に立って歩き始めた。アナベルは、カイルの様子が今までと何の変わりもなかったことに安堵を覚えながらも、完全にはぬぐいきれない不安を抱いて、カイルの後を、黙ってついて歩いた。
カイルは、並んで駐停車している車の群れの中から、目当ての一台を見つけると、アナベルの方を振り返った。すると、はっきりとした青色の車から、サングラスをかけた長身の女性が姿を見せた。その女性はサングラスを外しながら、カイルとアナベルの方へと姿勢よく歩いて近づいてくる。アナベルは無意味に緊張して、何故だか直立不動になってしまった。
手紙を読んでアナベルが、勝手に想像していた女性とは、全く異なるタイプの女性だったのだ。少なくともこんなグラマラスなモデル体系の女性は想像の埒外だ。
ナーディアは外したサングラスを、上着のポケットに突っ込むと、カイルの後ろで固まっているアナベルに笑顔で近づいた。
「初めまして、アナベル。私はナーディア。あなたの話はいつもカイルからきいているわ。アナベルって呼んでもいい?」
「え、あ…はい」
アナベルが固まってそう答えると、ナーディアは笑顔になった。
「そう。私のこともナーディアって呼んでくれる?」
「はい、あの、初めまして。その、よろしくお願いします」
言いながらアナベルはようやくナーディアに手を差し出せた。ナーディアはこだわりなくアナベルの手をとった。ナーディアの手は大きくて、とても暖かかった。
それにしても、近くで見ても、かなりのナイスバディだ。豊かな濃い栗色のロングヘアはゴージャスに波打って、ジャケットを無造作に羽織っただけのTシャツ姿は、遠目にも分かるほどグラマーだったが、近くで見ると、余計迫力がある。腰も足も、差し出された腕もすんなりと細い。肌の色はアナベルやカイルより少し濃い。目鼻立ちのはっきりとした美人だった。
病気療養中のカイルが、どこでこんな豪華な美女をとっつかまえたのだ?と、アナベルは品のない事を考えてしまう。アナベルは、穏やかなカイルのイメージから、勝手に、大人しい清楚な感じの女性を想像していたので、ナーディアと握手したまま、思わずカイルに視線を向けてしまう。
姪の眼差しから、何を読み取ったのか、カイルはこだわりなく微笑むと、
「もう一人紹介したい人物がいたんだけど、彼は車から降りてこない?」
と、ナーディアに向かって首を傾げた。ナーディアはアナベルに向かって一度微笑みかけると、彼女の手を離した。それから、肩を竦める。
「車内で待っているわ。私の言うことなんか全くきかない」
と、手を広げてみせる。アナベルは、二人の話す人物というのが手紙にあったナーディアの息子だろうと見当をつける。確か十三歳になると書いてあったが…。
「あの、なら車で挨拶します。私の事はそんなに気にしなくても、迎えに来てもらっただけでもかなり嬉しいというのか…」
と、アナベルは妙な言葉になりながらも、そう言ってみた。ナーディアはアナベルに向かって少し顔をしかめてから
「そう、ごめんなさい。そうね…もしあの子が、無礼なことをしたり、言ったりしたら、遠慮なく、蹴ってやってくれていいからね」
と、ナーディアは、なにやら物騒なことを口にした。アナベルは戸惑って
「は、はぁ…」
と、思わず頷いてしまった。アナベルの返事にナーディアは満面の笑顔を浮かべると
「じゃ、まず、荷物を後ろに積むわね」
と、言いながら、アナベルが大きなリュックをおろすのをナーディアは要領よく手伝った。それから
「さ、乗って!」
と、何故か助手席のドアを開いた。
てっきり後部シートに座るのだと思っていたアナベルは、一瞬躊躇った。ナーディアは
「あの子はカイルと一緒の方が、多少はましになるの。ね、ライザック!」
と、今度は車内の後方に向かってナーディアは声をかけるが、車内からは何の応答もない。
これは相当手ごわそうな子供だなと、アナベルは密かに嘆息した。
遠慮しながらも、アナベルは結局、ナーディアの勧め通り、助手席に腰を下ろした。続いて同じ側からカイルが後部座席へ入り込んだ。アナベルは、シートベルトをしながら、ナーディアが運転席に座るのを待つ。彼女が運転席に座ってから、アナベルは背後へ顔を向けた。
斜め後ろに座る少年は、ナーディアよりまだ濃い色の肌に、大きな目をしており、頑固そうに、口を固く引き結んでいた。彼は、アナベルが振り返るまで彼女の方を凝視していた様だったのだが、目が合うと、仏頂面のまま窓の方へ顔をそむけた。
アナベルは構わず
「初めまして、私はアナベル・ヘイワード。今日は迎えに来てくれてありがとう」
と、声をかける。ナーディアに“ライザック”と呼ばれていた少年は、顔をそむけたまま、なんとも答えない。アナベルは肩を竦めると、前へと向き直る。すると運転席に座るナーディアが
「ライザックー。挨拶くらい出来ないの?もう、七年生でしょ?」
と、車を発進させながら声を上げる。が、ライザックは答えない。
「あ、わかった!アナベルがあんまり可愛いから、緊張してるんでしょ?」
と、ナーディアがわかりやすくからかうと、ライザックは、窓の方を向くのを止めて、後ろから運転席を睨むようにして見た。横に座るカイルが
「ライザック、アナベルは二週間弱しか、ここにはいられないんだけど、仲良くしてくれるかな?」
と、穏やかに尋ねた。すると、ライザックは
「…わかった」
と、短く応じた。ナーディアが、ハンドルを回しながら肩を竦める。アナベルは再度後ろを向くと
「私の事はアナベルでいいよ」
と、きさくな調子で言ってみたが、もらえたのは「けっ!」という言葉と、不愉快そうな眼差しだけだった。カイルが「ライザック…」と、嗜めると、少し殊勝な表情になって、アナベルに向かって小さく頭を下げたが、すぐに目を逸らして車外を眺めはじめる。
車に乗る前にナーディアが言った通り、どういうわけだか、ライザックはカイルの言うことには、多少は素直に反応するらしい。アナベルは彼と、まともにコミュニケーションをとろうとする努力を早々と棚上げにした。




