2-7 あるエリート候補生の災難(12)
「そういえば、古典の試験が返ってきた日に、ノエルとビクトリアが、ヘンリーって奴にケンカ売ってたって…」
「ああ、聞いたんだ、イーシャから?」
「うん、あと、ノエルからも…」
「当人じゃないか」
「そう、びっくりしたよ…」
「何に?」
と、ウォルターから怪訝そうな顔をされて、アナベルは首を傾げる。
一番驚いたのは、ノエルの次のバイト先と、その紹介者だろうか?世の中どうなっているのか、本当にわからない。これで本当にノエルがヘンリーと付き合い出したら…。
そう考えて、アナベルは一人首を振った。流石にそれはないだろう。ジョークにしても悪趣味だ。
アナベルは他人のことは置いておくことにして、ウォルターの方へと顔を向ける。
「そういえば、お前、明日、時間ある?」
「ああ、トレーニングのこと?」
「イーサンから聞いてたのか?」
「うん、ちょっと相手をしてやらないかって…」
気のせいか少し憂鬱そうにウォルターが言うので、アナベルは
「無理だったら…」
と、言いかける。が、ウォルターはその言葉を遮り。
「いや、僕で相手が務まるのかなって、だけで…」
「何言ってるんだよ」
と、アナベルが笑った。
「グローブもヘッドギアもちゃんと付けてるし、お前の分は…」
「持ってるんだ。買ったの?」
「え?何が?」
「グローブとか」
「いや、ウバイダがもう使わないからって…」
と、言いかけて、アナベルは口を噤んだ。横目で見ると、ウォルターが微妙に不快気だ。どうして、こう、敏感なんだろうか?
「あいつはもう使わないって言うから、サイズもそんな違わなかったし…」
「ふーん、そうなんだ。別に言い訳しなくても」
「言い訳って…」
言いながらアナベルは仏頂面になってしまう。
「お前が嫌そうな顔、するからだろ?」
「してないけど?」
「してるだろ?」
「君の気にしすぎだ。なんで、僕がウバイダのことでいちいちピリピリしなくちゃいけない」
「…確かにそうだな」
と、アナベルも納得する。だったら、やはり気にしすぎか。ウォルターがウバイダに苛められているとかいうのも、半分冗談みたいだし。
アナベルがすんなりと納得したので、ウォルターはかえってイライラしてしまう。彼自身は、十一月の二人の偽造デート以降、ウバイダに対しては敏感になっているという自覚はあった。ウバイダもそれに気がついて、意図的に挑発している側面がある。いちいち過剰に反応しているのが自分の方だとは分かっていたのだが、それをアナベルに察知されて、指摘されても困るのだ。
かといって、気のせいとかと、素直に納得されると、それはそれで面白くない。我ながら、どうしようもない。
「じゃ、明日はあてにしててもいいんだな?」
「うん、まあ一日だけのことだし」
と、ウォルターはため息まじりでそう応じた。
そんな次第で、土曜日の朝、ウォルターは、アナベルのトレーニングに付き合わされた。簡単なストレッチの後、イーサンの指示に従い、ウォルターが、眼鏡を外してアナベルと対峙すると、何故だかアナベルが妙にうろたえて、目が見えてない奴に殴りかかれないと、意味不明な抗議をしたので、眼鏡をかけていた方が危険だろうと、呆れて返すと、何故だかイーサンが、大笑いし始めた。
アナベルが敏感に反応して、すかさずイーサンに蹴りかかったので、端で見ていたウォルターはアナベルの無謀さに、仰天した。が、当然のことながら、イーサンは彼女の足首を掴んで、あっさりとその場に転倒させた。転がされたアナベルは、尚も忌々しげにイーサンを睨みつけていたが、イーサンは余裕の笑みを浮かべて、足首を掴んだまま、上から、せせら笑った。意外に仲のよい師弟だ。が、相手はイーサンだ、嫉妬の感情も浮かばない。
「君、つくづく無謀だね」
ウォルターは呆れて、やはり上からため息をついてしまう。ナイトハルト・ザナーに対してだけなのかと思ったら、どうやら、イーサンに対しても無謀なようだ。アナベルは情けなくも転がされたまま
「うるっさいっ!」
と、ウォルターに向かって怒鳴ると、足をバタバタさせて、イーサンの手からの開放を試みる。イーサンはにやにやしたまま、彼女を解放したので、ようやくアナベルは起き上がった。
そんな意味不明な幕開けで、芝生上でのスパーリングが開始された。
ウォルターはジムでも、ほとんど、人を相手にトレーニングをすることはない。アナベルにつき合わせるという名目で、自分に人間の相手をさせようというイーサンの魂胆なのではないかと、ウォルターは思わないでもなかった。
去年の十月に始めたにしては、アナベルの動きは様になっていた。一年以上ジムに通っている筈の自分などより、よほど形になっている。一時間付き合っただけで、ウォルターの方が息を切らす羽目になった。
「鍛え方が足りないな」
と、イーサンが冷静にコメントした。
「確かに…」
結局、土曜日だけのつもりが、日曜日の朝も、ウォルターは、アナベルのトレーニングに付き合わされた。
日曜日はアナベルが来るまでの間、ウォルターは疲労回復と称して書庫篭りを敢行した。実際のところ、疲れてなくても、休みの日はそんな風にして過ごすのだが…。
夕方やってきたアナベルは、疲れた様子のウォルターを心配しながら、お礼を言った。帰り際、まだ、何か言いたそうだったが、結局、挨拶だけして、帰っていった。
ウォルターはアナベルが作ってくれた夕食を、さっそくご馳走になると、書庫にこもった。が、本当はもう少し中期試験の復習をすべきなのだろうかと、多少、後ろめたい。
今回は数学がぎりぎりのラインだった。解答を見比べてみると、アナベルの方がいい出来だった。最後の、配点の高い複雑な問題に彼女は見事に正解していた。計算問題でケアレスミスがなかったら、自分より上の点数も取れていただろう。ウォルターは書庫の壁に縋って嘆息した。しかし一方で、いくばくかの期待感があった。学期末もこのペースでいければ、三学期は何教科かで、アナベルと同じクラスになれるかも知れない。そのためには自分の方こそ、落ちるわけにはいかない。
ウォルターは書庫篭りを止めて、本を閉じると、自室へと戻った。彼女が得意で自分が苦手な科目を、もっと勉強しなければ…。そう思って机について、タブレットを立ち上げた途端、携帯電話が振動し始めた。こんな時間に一体なんだと、ため息をつきながら、携帯電話を手に取ると、小さなディスプレイに、全く予想していなかった人物の名前が表示されていた。
***
「わざわざ、悪いな…」
待ち合わせ場所の、小さなカフェ・バーで、ナイトハルトはやってきたウォルターに手を上げた。
「いえ…」
と、言いながらウォルターは彼の対面に腰を下ろした。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いや、気にするな。お前、食事は…」
「いえ、もう家ですませてしまって、すみません」
と、言うとナイトハルトが笑った。やけに爽やかな表情になって
「アナベルか。お前、結構いい身分だな」
と、目を細めてウォルターを見やる。
「はあ…」
ウォルターとしては、なんと言葉を返したらいいのかわからない。ナイトハルト・ザナーの言う“いい身分”というのが、人を使って食事を作らせている…という意味でないのは確かだ。
ナイトハルトは真顔になると、横を向いて、
「ここのところ、お前の授業の方を放ったままで、申し訳ないと思ってはいるんだが…」
「いえ、お気遣いなく。元々、先生には何の義務もないことですし…」
「まあ、そう言われたらそうなんだが、ドサクサ紛れにお前には色々頼んでいるし。便利に使って…」
「ああ、喜ばれましたか?」
と、ウォルターが聞いたのは、一月の終わりに、とある紙の本を探して欲しいと頼まれた件だった。以前にも似たような頼みごとをされたことがあるので、今更謝罪を受けるような事柄でもない。
「いや、泣いてたな…」
と、横を向いたまま、やけにぼんやりとナイトハルトが答えた。
「え?泣かれたんですか?」
「いや、お前の本が原因じゃない。変な言い方して悪かった」
「いえ、別に…」
ここのところ月に一度程度しかナイトハルトには会わないが、会う度、妙な雰囲気だった。今日は今まで以上に、心ここにあらず、だ。
ナイトハルトは、
「お前、酒は…」
「まだ、十八になってません」
と、ウォルターは呆れて、思わずそう言ってしまう。
「そうか、俺も車だな。お前、バスか?」
「いえ、自転車ですが」
「なるほど。ならコーヒーでいいか?」
と、確認をとってくれたので、二人でカウンターの向こうにコーヒーを頼んだ。
わざわざ、駅向こうまで呼び出されたのだから、何か重大な用事でもあるのかと思ったが、別段そんな様子でもない。ナイトハルトはコーヒーを前にして、妙に上の空な雰囲気のまま、ただ、ウォルターと雑談を交わし続ける。コーヒーがなくなって、しばらくしてから、席をたった。
「俺は開発局の方へ、ちょっと顔を出してくるが、お前は…」
「今からですか?」
ウォルターは仰天してしまう。そもそも今日は日曜日なのだが…。
「ああ、誰かしらはいる」
「いえ、あの自転車ですので…」
「ああ、そう言ってたな。悪い」
と、言うと、先に立って支払いをすませ、そのまま店を後にする。店を出ると、
「まぁ、また何かあったら…」
と、少しだけ笑顔になって、ナイトハルトがウォルターにそう言った。ウォルターは無言で頷く。
ナイトハルトは、いつ、授業を再開するつもりだとか、内容のあることはなにも言わなかった。ただ、自分の顔が見たかった…誰でもいい、誰かと会いたかっただけなのだろうか?
ナイトハルトのすらりとした後姿を、ウォルターは見るともなく見送ってしまう。最後まで口に出来なかったが、ナイトハルトの顔色は、ひどく悪かった。
時計を見ると、すでに十時を回っている。ウォルターは自転車を置いた、駅近くの駐輪スペースへと足を向ける。場所がよく分からなかったこともあって、駅の近くの駐輪スペースに自転車を置いてから、ここまで歩いてきたのだ。
来る時は、カップルを引き寄せる磁場でも発しているのではないかと、言いたくなるような、夜に密かに繁盛している公園の前を通ってきたのだが、この時間帯に、そのあたりを通りたくはない。携帯電話を取り出して、別の道を検索すべきか、迷っていると、細くて長い路地から出てきた手に、いきなり腕を掴れる。
「うわあ!」
と、ウォルターは、はからずも大声を上げてしまう。
「ウォルター!丁度よかった、助けて…」
言いながら彼の背後に許可なく回り込んできたのは、以前もこのあたりで遭遇した、イルゼ・マスターソンだった。
「また、君…!」
「助けて!今度は本当に、絡まれてるの!」
丁度いいが聞いて呆れる。なんて運が悪いんだ!ウォルターは天を見上げて慨嘆した。
「今度は本当にって…」
と、言いながら細い路地に視線を向けると、見覚えのある人物が姿を現した。
「ウォルター…。そうか、お前ら、最初からグルだったんだな」
と、呻くように意味不明な断定をしてきたのは、誰あろう、ヘンリー・スタンフォードだった。ウォルターはため息をついてしまう。
「いや、それは全くの誤解だ。単なる運の悪い偶然の重なりで…」
「黙れ!どいつもこいつも人をバカにしやがってっ…!」
叫ぶなり、ヘンリーはウォルターに殴りかかってきた。問答無用とは、まさにこのことだ。
ウォルターは思わずよけてしまう。今朝方、練習相手をしたグローブを付けたアナベルのパンチの方が、ヘンリーの拳よりも鋭いほどだった。なんなくよけると、目の前に来た腕を掴んで、ヘンリーの腕を軸にそのまま彼の体を回すと、腕を背中の方へとねじり上げる。
自分でも意外なほど、スムーズに動くことが出来た。朝のトレーニングの記憶が、まだ脳内に残っていたのだろう。ウォルターの背後から、イルゼが、「意外にやるじゃない!」と、妙に明るい声で、ピントの外れた感想を述べた。
「…っ!お前、こんなことをして…」
と、体を押さえ込まれながらも、ヘンリーが言葉を続ける。ウォルターは、自分がヘンリーを押さえ込んでいる格好になっていることに気がついて、慌てて掴んでいた彼の腕を離した。
「ああ、正当防衛だ」
両手を上げると、ウォルターは弁解した。ねじられた肩をおさえたまま、ヘンリーが忌々しげな表情で、ウォルターを睨みつけてくる。
「…お前…!無関係なんだったら、なんだってこの女を庇う」
ヘンリーの言いがかりにウォルターは肩を竦める。
「別にイルゼを庇ったわけじゃない。君が僕に殴りかかってくるから」
「だったら、さっさとその女を引き渡せっ!」
ウォルターは、自分の背後にきれいに隠れているイルゼに向かって
「こう言ってるけど、行ってくれないかな?」
と、一応は要請してみる。
イルゼは憎らしげにウォルターを睨みつけると
「本気で言ってるの?私に向かって、よくそんなことが言えるわね?」
と、ほとんど意味の分からない言葉を返してくる。どうやら素直にヘンリーに従う気はないようだ。
「…ヘンリー、イルゼはこう言ってるんだけど…」
「だから何だ?!」
ウォルターはため息をついた。つくづく運が悪い。いや、ザナー先生が悪いわけではないのだが…。周囲に眼を向けると立ち止まってこちらの様子を窺っている通行人が出始めている。
「悪いんだけど、どうでもいい。それより、注目を集め始めてるようなんだけど…」
と、ウォルターは嘆息した。イルゼにはきかなくとも、この台詞はヘンリーには効果があるだろう。
「そもそも、何をもめているんだ?ひょっとして痴話ゲンカ?」
ウォルターの言葉にヘンリーとイルゼはほぼ同時に
「違う!」
「誰が、こんな奴と…!」
と、それぞれで抗議の声を上げた。無論、そうでないことはウォルターにも分かっている。
「じゃあ、何?」
ウォルターは、少しイラついた口調で先を促す。ヘンリーも周囲に視線を向け始める。
…そうだ、そうそう。この中で一番評判が気になるのはお前だろう、ヘンリー?
ウォルターは心の中でうめき声を上げる。
さっさと立ち去って、この茶番劇から僕を解放してくれ。
ウォルターの心の叫びも、ヘンリーの胸には、全く届かなかったようだ。
「この女が、僕とビクトリアの仲を壊そうと、余計な事を言いふらしやがったから…」
と、それこそ、呻くようにしてヘンリーがそう言った。ヘンリーの言葉にイルゼはウォルターの背後から顔を出して、せせら笑った。
「うぬぼれもいいとこね。私が破滅させたくなるのは、本気で愛し合ってるって信じ込んでる恋人同士だけよ!あんた達にそんな価値があるとでも思ってるの?」
語るに落ちるとはまさにこのことだ。結局そうなのではないか?
「だそうだ、ヘンリー。君とビクトリアには、イルゼは壊し屋としての興味を刺激されなかったようだよ」
「なら、どうして、こいつは、僕と、カトリーヌのことをっ…!」
「彼が年上の金髪美人と歩いているのを、バイト帰りにたまたま見かけただけよ。それを友人に話しただけ?私、悪いことしてる?」
と、イルゼはウォルターの背中に隠れたまま、顔だけ覗かせてそう言った。続けて
「でも、その話をしたら、色々と面白い話が聞けたわ。ビクトリアの“お友達”の話だと、あんたの方から熱心に、ビクトリアにいいよってたらしいじゃないの、ヘンリー」
と、背後に隠れたままイルゼが嘲笑を含んだ調子で言葉を続ける。
「なのに、どうして、その“カトリーヌ”さんが必要になったのかしら?」
「…黙れ!」
「恥ずかしがることないじゃない?最初は本当に、ビクトリアの為だったんでしょ?彼女に、いろーんなこと、してあげたかった。だから、“カトリーヌ”さんに色々教わる必要があった。なのに…」
「イルゼ…」
流石に悪趣味だ。一応、ヘンリーとは同性だ。気の毒すぎる。
「人の背中から無駄に挑発するのはやめてくれないかな?今度ヘンリーが殴りかかってきたら、僕は即座に逃げ出すよ」
ウォルターは、前を向いたままそう言った。ヘンリーはそれこそ、射殺しそうな眼差しで、ウォルターの背後の、イルゼの姿を睨みつけている。
ウォルターにはヘンリーの憎しみの正体が、見えるような気がした。
「ヘンリー、気持ちは分かる…とは言えないんだけど、これ以上やると通報する人間も現われるかもしれない。本当に、ここは引いてくれないかな?」
ウォルターは疲れたようにそう付け加えた。ヘンリーはウォルターの方に、怒気のこもった眼差しを向けると、舌打ちしてから踵を返した。




