2-7 あるエリート候補生の災難(10)
だが、思わぬところから、土曜日の彼の個人的な予定は流れてしまった。クラスAの友人、ヨンフォンから、人数あわせの為、スポーツゲームに参加しないかと誘われたのだ。
内実をよく訊くと、ヨンフォンのガールフレンドで、オールドイースターのマギーが言い出した話で、マギーの友人で他校の女子生徒の一人に、セントラル校に引き会わせたい男子生徒がいるらしい。
大袈裟にするのも微妙なので、多人数で集まる形で、その二人を自然な形でお近づきにする、というのが、本来の趣旨だったのだが、最初に予定していたより他校の女子生徒の人数が増えたのか、男子生徒の数が合わないので、急遽お声がかかった、というところだ。所属しているだけだと、ひたすら勉強させられる学校でしかないのだが、外からみればセントラル高等校は名門なのだ。
典型的な、枯葉も山の賑わいの、枯葉の一枚か、とウォルターは珍しく断らずに承諾した。なんとなく、家にこもってばかりいることに後ろめたさを覚えていたからかもしれない。
金曜日にアナベルに、土曜日珍しく予定が出来た旨伝えると、彼女からは意味不明な激励を頂いた。趣旨を知っていても、励ましてくれただろうかと、ウォルターは首を傾げた。
***
土曜日、珍しく学生らしい一日を過ごしたウォルターだったが、彼自身は脇役だという自覚があるので、これといった収穫もなかった。気を遣われたのか、それとも、手当たり次第という心境だったのか、他校の女子生徒が、何名か、やけに熱心に話しかけてくれたのだが、とりあえず、無愛想にならない程度の愛想で、相槌を打つ以外に、対応のしようもない。
スポーツ自体は意外に楽しめたので、以前ほど体を動かすのが苦ではなくなっていることが、我ならが少し嬉しかったくらいか。もっともゲームが個人種目だったからかもしれない。団体競技だと、こうはいかなさそうだ。
学生らしく集団に混じって、夕食までは付き合った。主役の二人の仲がどうなったのか、余計なお世話ながら、気になった。月曜日にヨンフォンに訊いてみようと、枯れ葉なりの好奇心を残しつつ、夕食後に、集団から離脱した。
珍しい時間帯に、駅向こうの賑やかな通りにいるのだ。集団を離れたウォルターは、久しぶりに、馴染みの古本屋へと足を向けた。それなりの時間になっていたが、本屋はまだ開いていた。
こんな時間帯に客が来るのかと思うが、そもそもこの店で客の姿を見かけること自体がマレだったので、今更な疑問だという気もする。
立て付けの悪い古びた引き戸を引きあけると、店内から古い紙の匂いがした。ウォルターの姿を認めると、店主は、おや、という顔になった。
「珍しいね、若いの」
「ご無沙汰してます」
と、何やら意味不明な挨拶を交わすと、ウォルターはさっそく店内を見てまわる。相変わらず見事な蔵書だった。
冬休みに、図書館でのバイト中、少しだけ、大きな大陸の言語を勉強する機会に恵まれた。この本屋に、その言語に関する蔵書が多いことは、すでに周知だ。ウォルターは以前よりは、背表紙の意味が理解できる事を楽しみながら、何冊か引き出しては中を覗いた。
「少しは上達したのかね?」
気がつくと、店主が脇にいて、そう声をかけてきた。ウォルターは無表情のまま
「はい、少しですが」
と、応じる。
「何か読めそうなものは…」
店主の言葉にウォルターはため息をつく。
「お金がありません」
「安くはならんなぁ…」
それはそうだろう。ウォルターは立派な書籍に埋もれるようにしてある、薄い作りの本を、引き出した。それから
「これは?いくらになりますか」
「ああ、それなら…」
と、店主が応じる。共通言語に翻訳されたものなら、読んだことのある本だった。背表紙で判断がついたので、手に取ったのだが。
「買えそうかね」
「そうですね…」
一月は誕生月だった。これくらいの贅沢なら許されるのではないか?去年買った本は、なんとか読み上げた。
「では、これを…」
「ほお、また趣を変えたね」
「そうですか?百年くらいの差ですか?」
「百年単位であれこれ変化するもんだね」
「そうですね」
話しながら、店主はウォルターが手にした本を、彼から預かると、にんまりした。
「毎度どうも」
ウォルターは購入したばかりの本を手に、店内から外に出た。顔には自然と笑みがこぼれる。明日はこれと取っ組み合いながら、夕方を待って過ごすことになるだろう。まっすぐバス停へと向かいながら、早く中を見たくて仕方がなかった。と、背後からいきなり腕を捕まれる。あやうく買ったばかりの本を取り落とすところだった。
「なっ…!」
叫びながら、自分の腕を見ると、体を押し付けるようにして腕を掴んできた人物が、顔を上げた。
「イッ…!」
「待って、このまま歩いて!お願い!」
ささやくような声量で、しかしはっきりと、イルゼ・マスターソンは依頼した。どこかで自分も誰かに似たようなお願いをしたなと思いながら、ウォルターはため息をついて、従うことにする。確か去年、イーサンに捕まったのも、あの本屋を出た辺りだったなと、奇妙な符丁に嘆息してしまう。
彼女の腕に引かれるようにして、ウォルターは黙って歩き続ける。どう考えてみても目当てのバス停からは遠ざかる一方のようだ。
「何かしゃべって」
と、イルゼが例によって小さいがはっきりとした声で命じてくる。
「何って…」
「何でもいいの、何か…」
「じゃあ、今回のテスト、どうだった?」
と、ウォルターは投げやりに問いかけた。イルゼは眼を見開いてウォルターを見上げる。
「この状況でその話題なの?正気?」
「何でもいいって言ったのは、君の方だろ?ちなみにどんな話題なら相応しいの?正解を知っているんだったら、最初から提示してくれないかな?君の方こそ、何でもいいという言葉の意味を知らないんじゃないだろうね?」
ウォルターのくどくどしい物言いに、イルゼはイライラしたように前髪をかきあげる。
「普通、こういう時は、理由とか事情とか状況説明とか…とにかく、そういうことを訊くものしょ?」
「それは悪かった。あまり関りたくなかったから、あえて訊かなかったんだ」
ウォルターの言葉にイルゼは、そのきれいな顔を険しくして睨みあげる。
「…そういえば、あなた、イーサンと結構親しかったわね?」
「まあ、そうかな?」
イルゼは急ぎ足で歩きながら、しばらくウォルターを睨みつけていたが、あきらめたように俯いた。
「バイト先の先輩に、付回されてるの。このままじゃ家まで来ちゃう」
そう言うと、腕を組んだまま、反対側の手を、ウォルターの二の腕に添える。ゆっくりと彼の顔を見上げると
「ねえ、悪いようにはしないから…」
と、艶っぽい声で付け加えた。ウォルターは目線だけで彼女の顔を見下ろした。随分、安く見られたもんだ。この時点で十分悪い扱いだという気がしないでもない。
「恨まれるような事でもしたの?で、通りすがりの僕は、巻き添えを食わされたと」
「私は、何もっ!」
「まあ、僕も、つい最近、似たような事をして人に迷惑をかけたばかりだから、君の家まで送ること自体は別に構わない。もっとも僕は人に恨まれるような事をしたから、そんな目にあったわけでもないけど、君の場合は自業自得、だったりしないだろうね?」
見ると、イルゼは、ウォルターの言葉に唇を噛み締めている。身に覚えがあるのかと、ウォルターは嘆息してしまう。そうは言っても、彼女にも借りはあるのだ。ウォルターはその事を思いだした。
「そういえば、うっかりしてた。君、僕とノエルのこと黙っててくれたんだったね。じゃあ、さっきまでの無礼は水に流してくれないかな?僕も早く帰りたくて、ちょっとイライラしてたから」
と、唐突に謝罪した。
イルゼは顔を上げると、呆気に取られたような表情になる。眼があうと、小さく笑い始めた。
「変な人ね」
「そうかな?」
意外にも、イルゼは笑うと可愛らしかった。
結局気がつくと、イルゼの住むアパートメントまで彼女を送っていた。イルゼは不安だからと、建物の中までウォルターを付き合わせた。部屋の前で鍵をだすと、イルゼは、ドアの前で振り返る。
「ねえ、ちょっと入っていかない?」
「いや、君、同居人がいるんだろ?非常識って程でもないけど、ちょっとしたクラスメイトが入るには、常識的ともいえない時間だ」
「ちょっとしたクラスメイト、なの?」
言いながらイルゼは薄く笑った。
「違うのか?」
「助けてくれたお礼に、お茶でもご馳走したかったんだけど」
言いながら、身を寄せて、腕に手を添える。
「今日は一人なの。祖母は知り合いと旅行に行ってて…」
言いながら、ウォルターを見上げた。
「なら、余計に入れないだろう」
ウォルターは呆れてため息をつく。イルゼは構わず
「嘘なの」
と、呟いた。
「え?」
「バイト先の先輩に付回されてるって、本当はあの古いお店に入る、あなたの姿を見かけたから、出てくるのをずっと待ってたの…」
ウォルターは訝しげに眉をひそめる。
「じゃ、付け回してたのは君の方って事?」
ウォルターの言葉にイルゼは顔を上げた。切迫したような表情になっている。見事だな、と、ウォルターは感心してしまう。
「付回してたわけじゃないわ。バイト先から出たら、あなたがいたから…それで」
ウォルターは尚も言葉を重ねようとして、かろうじて言葉を何個か飲み込んだ。
「なら、安心だ。僕はこれで…」
「待って、帰らないで!」
言うなり、イルゼはウォルターの腕を掴んだ。流石にウォルターも仰天してしまう。
「君、あのねぇ…」
「初めてなの、相手のいない人のことが気になったのは…」
「何言って…」
「付き合っている人、いないんでしょ?」
「…いないね。残念ながら」
と、ウォルターは無表情に応じた。
「知ってるんでしょ、私が、何て噂されてるのか…」
腕を掴んだまま、イルゼは少しだけ顔を上げる。荒んだ笑みが口元に浮かんでいた。ウォルターは返事に窮してしまう。確かに伺っておりますが、とも言えない。ウォルターが黙り込んだので、イルゼは構わず言葉を続ける。
「本当のことよ。昔からそうなの。誰かを真剣に好きになってる人しか、好きになれないの。なのに、その人が手に入ると、途端に嫌になるの」
「それは…」
病気じゃないのか?と、喉まで出掛かって、かろうじてウォルターは言葉を飲み込んだ。かわりに
「いい迷惑だろうね。相手にとっても、モトの彼女にとっても」
「そう、そうね…。でも、あなたは違った。だから…」
「そう言われても、さっきの説明を聞く限り、ここで君の言いなりになって、はいそうですかと部屋に入ったら、途端に嫌われてしまうわけだろう?くどき文句にしても、露悪的にすぎないかな?」
と、ウォルターは余計な忠告までしてしまう。イルゼはウォルターの腕を掴んだまま、肩をゆすり始める。どうやら可笑しかったらしい。ウォルターもなんとなく可笑しくなってきた。
イルゼが少しだけ顔を上げた。間違いなく笑っている。
「あなたって、…こんな人だったのね」
「まあ、そうだね」
「どうしよう、本当に好きかも…」
と、全くの予想外の事を言い出したので、ウォルターは目を見開いた。
「え?あれ…」
その反応に、イルゼは益々楽しそうになった。
「ねえ、何もしないわ。本当にお茶だけ…。ダメ?」
と、イルゼは首を傾げる。長い薄い茶色の髪が、さらりと流れる。間違いなく彼女は魅力的だったし、ノエルの時とは違って、その言葉にはいくばくかの真があった。けれど
「ごめん、君の誘いに乗れるほどの器量はないんだ。僕は平和に生きたいタイプなんで」
と、ウォルターは少しふざけて肩を竦めた。イルゼの口元から可愛い微笑が消える。変わってシニカルな笑みが浮かび上がった。自然と掴んでいた腕を放す。
「そう…なら、仕方がないわ」
「そうだね」
と、ウォルターも放された腕を上着のポケットに入れる。先ほど買った小さな本もポケットに入っている。
「なら、もう、帰って」
「そうするよ」
それだけ言うとウォルターは踵を返した。
もし、今、自分の心が、他の人間のことで占められていなかったら、間違いなくイルゼの誘いに乗っただろうと、ウォルターは自分でも、分かっていた。もっともひょっとしたらそんな自分には、イルゼは全く関心を持たなかったかもしれないが。
このことを恨みに思って、イルゼが自分とノエルとの事を広めても、今だったら、さして問題はない。最近のアナベルの話をきくと、どうやら彼女は、ノエルと親しくなったようなのだ。意味不明だがこの場合はありがたい。もし、アナベルが噂を耳にしても、誤解を解くことは可能だし、他に誤解されて困る相手もいないわけだ。ノエルには若干、申し訳ないとは思うが…。
ウォルターは、アパートメントから出ると、建物の角の辺りに佇む人影に気がついた。目が合うと、その人物は反射的に目を逸らした。年の頃は自分とそう変わらない。高等校か、大学か、どちらにせよ、おそらくまだ、学生だろう。ウォルターは大きく息をついた。イルゼの言った、嘘だという言葉は、どうやら、それこそ、嘘だったようだ。ウォルターは、そのまま一度も振り返らずに、その場を後にした。
***
外出の予定も何もない、普段通りの平和な日曜日、ウォルターはのんびりとした時間に起きて、予定通り、昨日買った本を書庫にこもって読み始めた。ジョン宛の手紙はイブリンへの手紙と一緒にしてすでに投函済みだ。ウォルターは時間の経過を忘れて、辞書を片手に、慣れない文字で書かれた書物に没頭した。今日は何もしないと決めていたので、昼食も簡易系の栄養補給だ。アナベルが来たら夕食を作ってもらえる。このときばかりは自分の、無駄に恵まれた環境に心の底から感謝してしまう。
薄い本をほぼ一日がかりで読み終えて、気がつくと、時計は五時を回って、すでに六時近い。書庫から出ると、アナベルはキッチンで作業中だった。ウォルターに気がついて、振り返った。目があうと、笑顔になる。意識の一部がまだ、ぼんやりしていたせいだろうか。気がつくと、ウォルターも微笑んでいた。
「インタフォン鳴らしたんだぞ。随分集中してたんだな」
「え?そうなの?」
「すごいな、本当に気がついてなかったのか?」
言いながら、アナベルが笑った。昨日色々な女の子を見たせいだろうか?今日はアナベルが、一段と可愛く見えた。ウォルターの意識も、次第に通常モードに移行してくる。彼女の笑顔に、無表情で少し頷くと、目を逸らす。
「昨日の面会はどうだった?」
キッチンの椅子に座りながら、そう問いかける。アナベルは、振り返ると
「聞いて驚けよ。なんと、数学がクラスAだ!」
と、言うなりにんまりとした。ウォルターは真面目に驚いた、が、同時にいつかはそうなるだろうとも思っていた。
「すごいね!」
「うん、まだ評価結果しかわからないんで、詳細は不明だ。これで学期末も頑張れば、クラスAに上がれるかな」
流しの方に向き直ると作業を続けながら、アナベルはそう言った。
「君、クラスAに上がりたかったのか…」
なんとなく意外な気がして、ウォルターは首を傾げる。アナベルは不意に真顔になって
「うーん」
と、唸った。ウォルターはなんとなく返事を待ってしまう。
「うん…ノエルを見てたら、ちょっと…。その、随分頑張ってるんだなって、思って…」
「ああ、彼女はそうだね」
「一年の時まで、中等校四年生の家庭教師をやってたんだって。オールドイースターの家庭で、親はセントラルに進学させたかったらしくて、その子がセントラルに合格できたら、引き続き家庭教師を頼みたいって言われていたらしくて…」
「なるほど」
ノエルが一年の時には家庭教師をしていたというあたりは、ヨンフォンに聞いた通りだった。
「けど、結局その子は合格しなくて…。その家の、今は大学行ってるお姉さんと、家庭教師をしている間に親しくなったらしんだけど、そのお姉さんの話しだと、その勉強をみてあげてた弟の方には、ガールフレンドがいて、彼女と同じ学校に通いたかったらしくて、セントラル高等校への進学は、あまり乗り気じゃなかったらしいんだ。親だけが乗り気だったっていうオチで…」
「そうなんだ」
そのあたりは初耳だった。
「それで、ガールフレンドと同じ、それなりにいいレベルの私学には合格できたらしいんだけど、親の方が私学だと学費がかかるからって、ノエルの方が家庭教師をクビになったんだって」
…それであんなにオールドイーストーに対して手厳しかったのか…。
「二年になってから、小遣いもない状態になって、家庭教師の仕事がないかって、人材派遣に登録したんだけど、単発の仕事ばかりらしくて、寮にばれないように、気を遣わなくちゃいけないし、一学期は勉強の方に集中できなくなったらしくて、数学は元々得意じゃなかったからって、大変だったんだなって…。お前と会ったのも、その仕事の時だって、条件に会う人間が自分以外にいなくって、単価もいいし、なにかのパーティーのパートナーとか何とか、本当は大人向けの仕事だったらしいんだけど、ノエルは頭もいいし、大人っぽいから、それで…」
「君、具体的に訊いたの?」
「うん、まあ、話の流れで…」
「そうなんだ」
「本当なら私も、寮に入ってる筈だったから。リパウルが助けてくれなかったら…。だから他人事じゃないなって」
と、アナベルが少し首を傾げたので、結局こうなるのかとウォルターは慨嘆した。
「前も言ったけど…君が…」
「わかってる。同情したからって何も出来ない。けど、別に、話をきくくらい、いいだろ?」
「まあ、それならいいけど」
「なにかいい家庭教師のバイト先でも、あればいいんだけど…」
と、アナベルはため息をつく。ウォルターも一緒にため息をつきたくなった。と、アナベルが、振り返った。




