2-7 あるエリート候補生の災難(9)
試験期間に入ると、何故だかウォルターの家での家事業務はお休みになって、アナベルは彼の家で、半強制的に試験勉強をさせられる。
アナベルは、ウォルターの家での勉強中に、彼から課題まで出される。試験期間中は、教科の課題はお休みになるというのに。だが、一学期の学期末試験の結果がよかったのは、間違いなく彼のおかげだった。自分だけでいくら勉強したところで、授業で習っているのより難易度の高い問題を出題されては手も足も出ない。その上、エナから与えられた冬休みの課題の成果もあって、試験対策はいつになく充実していた。
アナベルは数学のクラスで、ノエルの授業態度を見たり、ランチタイムなどで、ノエルと話す機会が増えてから、クラスAを以前より身近に感じるようになっていた。
今まで、ウォルターもイーサンも、クラスの話などしたことがなかったし、自分には関わりの無い別次元のクラスの話なのだと、ずっと思っていたのだ。が、ノエルから聞くクラスAの話や、そこでのウォルターの様子など聞く機会が増えるにつれ、アナベルは少しノエルが羨ましくなった。
もう少し頑張れば、自分もそこに行けるのではないか?試験勉強に励みながら、アナベルは頭の片隅でそんなことを、考えていた。
中期試験の範囲が発表されて、学内は試験ムードに満たされる。その静けさの中でも二年生の間では、ビクトリアとヘンリーと、彼の二股の噂は水面下で広がり続けた。無論アナベルにはなんの関係もない。かつて無いほどの手ごたえを感じながら、アナベルは三日間の試験を終えた。ただ、残念ながら、全ての教科でそうだった、というわけではない。
生徒たちが試験を受ける教室は、クラスわけとは無関係にランダムに決定される。退室する生徒たちの中に紛れて、アナベルも教室を後にした。
ロッカーから、愛用のリュックを引きずり出すと、肩がけにして、踵を返す。今日は五日ぶりで、ウォルターの家でのハウスキーパーのバイトがある日だ。ウォルターに会ったら、今回の試験の話をしようと、少し気分がよくなる。試験を終えた後はいつも、無事に終えられた開放感で、少し気分がよくなるのだ。
とりあえず、時間まで、図書館で復習をしようと思いながら、人込みを器用に分けて歩を進める、と、背後からリュックを掴まれる。何事かと振り向くと、全く想定していなかった人物が彼女のリュックの端を掴んでいた。
「ビクトリア?」
何の嫌がらせだと、咄嗟に身構えるが、ビクトリアは不機嫌そうな表情のまま
「アナベル・ヘイワード」
と、何故かフルネームでアナベルの名前を呼んだ。
「はい?」
「…ちょっと付き合いなさいよ…」
やけに渋い表情で、ビクトリアはアナベルを誘った。珍しく周囲に取り巻きもいない。ビクトリアただ一人だった。
付き合うと言ってもどこに付き合うのか、と、アナベルは首を傾げたが、ビクトリアは無言で学内の食堂に向かった。アナベルは何故ついて行っているのか、自分でも首を傾げながら、ビクトリアについて行く。セントラル高等校に入学して、一年以上経つが、アナベルは今まで一度も、この学生食堂に入ったことがない。
試験が終わって、そのまま学外に出る人間ばかりなのかと思っていたが、学食には予想より人がいた。とはいえ、普段の様子からするとすいている方なのだろう。アナベルは、躊躇いながらもここまで着いてきてしまったが、流石に逡巡する。いや、別にそこまで困窮しているというわけでもないのだが…。
アナベルが戸惑った様子なのに気がつくと、ビクトリアはイライラとした様子で
「なによ、飲み物くらい付き合いなさいよ」
「え?うん…」
「仕方がないわね。私が出せばいいんでしょ?」
「え?いいのか?」
「飲み物一杯くらいで大袈裟なのよ」
そう言われると、自分が支払うべきだという気もしてくる。
「あ、そうだよね。自分で…」
「こっちから言ったんだから、別にいいわよ」
と、ビクトリアがツンケンしながらも、支払ってくれる。学食は先払いだった。
アナベルは恐縮しながら、コーヒーを奢ってもらった。トレイを持って、空いている席を探す。それほど混雑しているわけでもない。ビクトリアは窓際の席を見つけると、先に腰を下ろした。アナベルに向かって
「座りなさいよ」
と、何故か命令口調だ。
もっともアナベルにしても、普段から、褒められた口に効き方を、ビクトリアに対してしているわけでもない。そういう意味ではお互い様だったし、今更、仲良しぶるような間柄でもない。アナベルは訝りながらも、ビクトリアの対面の椅子に腰を下ろす。それから
「ありがとう…」
と、言いながら彼女がご馳走してくれた、コーヒーを手に取った。
(なんの用だろうか、一体…)
アナベル自身が言いふらしたわけでもないが、今現在、静かに広まっているヘンリーとビクトリアの噂の件について、自分は全くの無関係というわけでもない。もちろん、百パーセント、ノエルが発端だという根拠も無い。自然発生的なものかもしれない。ヘンリーの二股の噂にしたところで、どこまで本当なのか…。
けれど、それら両方が同時に流れたことは、ビクトリアにとって名誉なこととは言いがたい。
それら一切が、アナベルには微妙に後ろめたい。イーシャの様に、割り切れればいいのだが、アナベルはそれほど、ビクトリアのことが嫌いなわけではなかった。
アナベルはコーヒーを飲みながら、ビクトリアの出方を窺うが、ビクトリアは横を向いたまま窓の外を見つめている。こうして間近で見ると、やはりビクトリアは美人だった。無造作に下ろしたされた、濃い茶色の髪は、艶やかでボリュームがあって豪華だったし、青色の双眸と、肉感的な唇、はっきりとした華やかな顔立ち。
リパウルの品のよい艶っぽさには流石に及ばないが、分かりやすい、セクシャルな魅力に溢れていた。
横を向いたまま、ふいにビクトリアが口を開いた。
「アナベル・ヘイワード。あなた、最近…」
「あの、なんでフルネームなの?」
アナベルが恐る恐る尋ねると、ビクトリアは「え?」と、言いながらアナベルの方を向き直る。
「いや、普通にファーストネームで呼んでくれて構わないんだけど、というか、面倒だからそっちの方がありがたいんだけど…」
と、依頼すると、ビクトリアは目を眇めた。それから
「じゃあ、アナベル」
「ん、何?」
「あなた、最近…その」
ビクトリアはなにやら言い難そうに口ごもる。
噂の件だろうか、やはり?と、アナベルは身構えるが、何か言われたら、他人を巻き込まない形で正直に謝ろうと思っていた。が
「…とは、会ってるの?」
と、何やら、聞き取りにくい質問がビクトリアの口から発せられる。
「え?」
アナベルは素で聞きなおしてしまう。ビクトリアは、妙な表情になって、再び横を向いた。
「だから…ナイトハルト・ザナーと、会ってるのかって…」
と、やたらとか細い声でそう訊いてきた。
アナベルは呆気にとられた。今度はきちんと聞き取れたのにも関らず、再度聞き返したくなった。だが、かろうじて踏みとどまる。流石にこの質問を何度もさせるのは、申し訳が無い。
アナベルはコーヒーカップをテーブルに置くと
「最近、なんか忙しいみたいで、そういえば、まともに会ってないな」
と、息をつきながら答えた。ビクトリアは横を向いたまま「そう」と答える。アナベルはその様子を見ながら
「あの、誤解があるみたいいだけど、私、ナイトハルトとはただの知り合いで…なんでもないんだよ」
と、なるべく平静な調子でそう言った。が、ビクトリアは、その言葉にうつむいただけでなんとも答えない。
アナベルは、ビクトリアの意外な一途さに、胸を打たれてしまった。
(こいつ、結構本気だったんだな…)
全く、ナイトハルトも仕方がない。アナベルはため息をついた。
「あの、ビクトリア、私が言うのも変だけど…」
「何よ?」
「ただの知り合いの私が言うのも、どうかと思うんだけど、ナイトハルトが悪い奴じゃないってのは、その、私にもわかるんだ。けど、上手くいえなんだけど、あいつ、外目には軽薄そうに見せてるけど、中身は結構そうでもないっていうのか、実は意外にややこしいって言えばいいのか…」
アナベルの言葉にビクトリアは向き直り、不敵な笑みを浮かべた。
「そう、彼のことなら、よく知っている…、そう言いたいのね?」
と、首を傾げながらそう返す。アナベルは途端に閉口してしまう。
ダメだ。やっぱりこいつとは、まともに話にならない…。
「いや、そういうんじゃなくて…」
「あなたはもう平気って、そういうこと?」
「そうでもない。そもそも最初からなんでも…」
「あなたも、ザナー先生と、…したの…?」
ビクトリアが俯いて、妙な口調でそう言ったので、アナベルは訝しげな表情になってしまう。
「え?何を?」
ビクトリアは顔を上げて、アナベルの表情を窺うような眼差しで見つめた。それから目を逸らすと
「なんでもないわ。違うんならいいの」
と、呟いた。気のせいでなく、絶対に妙な雰囲気だった。アナベルは勘よくひらめいて、げっそりしてしまう。
(ナイトハルト…ビクトリアに一体、何をしたんだーー?!)
もう一押し訊けば、それほど頑張らなくても自分から話してくれそうな雰囲気だった。けれど、アナベルの野性の勘は、これ以上突っ込まない方がいいと、伝えてくれていた。
アナベルはげっそりしながら
「あの、ビクトリア…。今は別に、付き合っている人がいるんだよね?」
と、自ら言い出してしまう。ビクトリアはアナベルの言葉に不快気に眉を寄せる。
「あなたの耳にもあの噂が入ってるの?ヘンリーのことなら、あんまりしつこいから、何回かデートしただけで、調子に乗って…」
と、忌々しげに、語尾を切った。
「え?そうなの?」
こんなにあっさり認めるとは思いも寄らなかった。しかも、どうやらビクトリアは、彼に気があるというわけでもなさそうだ。
「そうよ、いつも見えすいたお世辞ばっかり言って…。何?他の女とも会ってたって?」
「あ、うん。どうなんだろうね?」
と、首を傾げる。それから
「その話、訊いてないの?そのヘンリーとやらに…」
「試験中よ!訊かないわ。てか、当分顔も見たくないの。なのに、古典や言語は同じクラスで…」
「あ、Aだっけ?」
「そうよっ!」
とりあえず、その二つのクラスに関して言えば、自分がビクトリアやヘンリーなる男子生徒と同じクラスになる心配はなさそうだった。
ビクトリア自身は未だ、ナイトハルトに未練タラタラの様子で、ヘンリーなる男子生徒とは、なりゆきで付き合っている様子なのにも関らず、浮気をされたとなると腹に据えかねるらしい。女心は複雑だというところか?
ビクトリアはビクトリアでアナベルの表情を観察する。
どうやら、ナイトハルト・ザナーとアナベルが、ただの知り会いだというのは本当のことらしい。自分で言いふらしておきながら、ザナーと、目の前のあか抜けない野暮ったい女子生徒が関係しているなどと…、どう考えても無理がある。
こうして直接対面してみて、その確信が深まった。目の前の女と、ザナーとの間に、男女間の関わりなど、微塵もなかったのだろう。
ビクトリアの中では一年の三学期に、アナベルとザナーのことで、根も葉もない噂を言いふらしたという過去は、不問に処すこととして、結論を出していた。自分はアナベル・ヘイワードに両頬を、腫れあがるほど殴られたのだ。こちらの方こそ被害者だった。
ビクトリア自身、すでにナイトハルト・ザナーの事は忘れたつもりでいた。それが、ヘンリーの雰囲気だけにまかせたような、へたくそなキスのせいで、忘れたつもりのザナーのことを思い出してしまっただけだ。それ以来、ヘンリーからの誘いも、断ってしまっている。
そうこうしている間に、自分がヘンリーと付き合っているという噂と同時に、彼の第二の女の噂が流れ始めたのだ。やっていられない、とはまさにこのことだ。なんだって自分がこんな目に合わなくてはならない?
これで、アナベル・ヘイワードと、ナイトハルト・ザナーの関係がまだ続いていたら…そう思うと惨めさに耐え切れなくなって、確認せずにはいられなかったのだ。が、とんだ無駄足だった。
そう思いながらも密かに安堵している自分がいて、自分の未練がましさに…もとい、一途な想いに、ビクトリアはなんとなく、酔いしれてしまいそうになる。
…アナベルがビクトリアの心中を知ったら、自分の一瞬の同情を返せと、抗議することは間違いなかった。
***
中期試験も終えて、アナベルは二月の面会日を迎える。一月の下旬に会ったばかりだ。とはいえ、試験がある月は大抵試験が終わって、すぐ後くらいに面接が設定される。そういう意味では、いつものこととも言えた。今回は試験が終了した週の土曜日だった。
試験終了日の午後、図書館でムラタさんから連絡を受けたアナベルは、その日の夕方、申し訳なさそうに、ウォルターに面会日の日程を伝えた。ウォルターはこともなげに
「ああ、こっちにもムラタさんから連絡がきてるよ。こっちの方はさほど、気にしなくても、別段大丈夫だから…」
と、応じる。彼の方こそアナベルがエナから出されたという課題の方を気にしたが、アナベルは
「あれなら期限もないし、エナも答えを知らないって言ってから、そんな急ぐこともないんじゃないかな?」
と、慌てた風でもない。
アナベルは自分の事はさておき
「土曜日といえば、ナイトハルトの授業は、最近、どうなんだ?」
と、尋ねてきた。彼女がこう聞いたのは、ビクトリアと話したことで、ナイトハルトのことを思い出した、という程度の事に過ぎないのだが、ウォルターにその話をするつもりは勿論ない。
ウォルターは、
「いや、二学期に入ってから連絡があって、今年は一度も授業はない」
と、答えた。ジョンに書く手紙のことで頭が一杯だったので、ウォルター自身も、ザナーの授業が休み続きである事を、気にする余裕がなかった。が、
「何かあったのかな?」
と、やや訝しげに眉を寄せた。
「そうなのか?」
「アルベルトさんのお宅には…」
「うーん、アルベルトとは時々、外とかで会ってるみたいだけど…。週末に来たりとかは全然ない。次の日、何かの拍子にアルベルトが言わないと、アルベルトと会ってることも知らないくらいだ」
「そうなんだ…」
「じゃ、お前、土曜日まるまる、空いているってことか?」
「そうなるね」
別段珍しいことでもない。アナベルの方はカフェのバイトに夕方はエナとの面会だ。
「遊びに行ったりしないのか?」
と、アナベルは、なにやら残念そうに、そう尋ねる。珍しい問いかけに、ウォルターの方が首を傾げてしまう。ウォルターは、久しぶりで書庫篭りが出来そうだと、内心密かにわくわくしていたのだが。
「遊びに行きたいの?」
「そりゃ…」
と、言うなりため息をついた。試験開けの開放感に思い切り浸りたいと言ったところか。ウォルターはここでも、自分の無駄に恵まれた境遇に、後ろめたさを覚えた。




