2-7 あるエリート候補生の災難(8)
「…あくまでも、ジョン・リュー氏が承諾してくれたら、の話ですが、彼の息子に戻りたい…いえ、正確に言えば、正式に彼の息子になりたいと思っています。書類をそのようにしたいと」
「リュー家の人間になりたいということ?」
エナは察しよく、話題の切り替えに対応した。
「そうです。父はジョンで、母はマチルダ・リュー。出生書類をそう正したい」
ウォルターの言葉にエナは目を細めた。
「…正す。そうね、今のあなたの出生書類は、まるきりのデタラメ…」
ウォルターは口を噤んだ。エナの言葉に、なんと返せばいいのかわからなかった。エナはしばらく俯いて、自分の執務机を凝視していた。それから、顔を上げると
「何故急に、そんな事を思ったのですか?それとも、ずっと以前からそう思っていたの?」
と、ウォルターの顔を直視して、そう尋ねた。
「博士の言葉がきっかけです。博士にロブ・スタンリーの息子だと言われて…」
「事実です」
と、エナはにべもない。ウォルターはため息をついた。
「そう、言われて、嫌気がさした」
「事実に対してですか?」
「事実に対してです。遺伝子レベルで見ればそれは紛れも無い事実なのでしょう。ですが…」
と、ウォルターは言い淀む。どういえば言いいのか、逡巡する。
「僕は、物心ついたときからリュー家の人間でした。僕を育ててくれたのは祖父と父、姉やそれに伯母です。ずっと自分はその一族に連なる者なのだと、意識することも無く思っていた。事実を知ってここに来た時に、出生書類を見て、初めて自分の本名を目にした時には…」
ウォルターは一瞬、息を呑んだ。
「違和感しか覚えませんでした。今でも、そうです。事実を否定するつもりはありませんが、僕にとっての事実は、自分はリュー家の人間なのだと言うことです」
それだけ言うと、ウォルターは口を噤んだ。それだけを言うのに、相当の気力を要した。自分でも、後ろに組んだ手が、振るえているような気がした。
ウォルターの言葉を、彼の顔を凝視したまま、静かに聞いていたエナは、ふっと息をついた。
「確かに…それも、事実なのでしょう」
と、だけ言うと、今度は少し大きく息をつく。
「それで、私に頼みたいこととは何ですか?」
「書類変更の許可を得たいと。無論、最初に言いましたが、ジョン・リュー氏が、僕を許してくれたら…の話しになります」
「あなたを受け入れたら、そういうことね?」
「そうです」
「何故先に、私の許可を求めたのですか?」
「博士に却下されたら、それでお終いだからです」
ウォルターの言葉にエナは肩を竦めた。
「私より、実の父親の許可の方が重要でしょう。私は他人です」
「そうです。こういう言い方をしたら気分を害されるかもしれませんが、利害関係が薄いことが、最初に博士に話した理由です」
「そう、私はてっきり、私の名前が邪魔なのかと思ったの。ただの邪推かしら?」
「いえ…」
ウォルターは、どこまで正直に話すべきか躊躇った。が、今更エナ相手に、上っ面だけ取り繕うことは、返って印象を悪くするだけだろう。
「きっかけは、先ほども言いましたが、博士の言葉です。他人である博士が母親ということになっていて、自分はバイオロイドということになっている。それに抵抗があったのは事実です」
「ならば、すっきりと、私の名前を出生書類から外して下さいと言えば、それでいいのではなくて?」
「正直に言うとそれも考えました。ですが…」
「なんですか?」
「その、博士の名前がなくて、ロブ・スタンリーの名前だけが残っている状態より、博士の名前がある方がまだマシだなと、思いまして…」
ウォルターの言葉にエナは文字通り目を丸くした。予想外の返事だったのだろう。
「よほど嫌いなのね?」
「嫌いと言いますか、どうしても、自分と繋がりがあるように思えなくて…」
「リュー氏に対してはそうでもないの?」
「はあ…」
ジョンの話をすべきなのだろうか?エナ・クリックに…。今はまだ、それほど自分の中でこなれてはいなかった。当たり前の様にジョンを父だと思っていた頃のことも、そうではないと知った後の自分の感情も、未整理のままなのだ。
うつむきがちのウォルターの顔を見つめながら、エナがややシニカルな笑みを浮かべる。
「私はてっきり、アナベルと他人ということになりたいのかと思っていましたが、違いましたか?」
ウォルターが言おうと躊躇って、結局口に出来なかった気持ちを、エナがあっさりと、嘲るように口にした。
「いえ、その…」
それこそが、本当のきっかけだった。けれど、ウォルターはやはり口にすることが出来ない。ウォルターのその様子に、エナはくすりと笑った。
「そういう姑息な手段はとらない、ということでいいのね?」
「…そうですね」
ウォルターはかろうじてそれだけを口に出来た。彼の様子を斜めに見ながらエナは言葉を続ける。
「あなたの気持ちは確かに聞きました。ジョン・リュー氏があなたの希望を承諾したら、私の方には何の問題もありません。あなたを産んだのは間違いなくマチルダ・リューなのですから」
「そうですか」
何故エナが、こうも明確に断言できるのか、ウォルターは少し不思議な気がしたが、そこはあえて、追及しなかった。ジョンから聞いた時にも思ったが、そう聞かされても何の実感も感慨も湧かなかった。彼にとって母とは、最初から不在であることを決定付けられた存在だったからだ。
幼い頃には、母の不在を寂しく思うこともあったのだろうが、周囲の人間があまり母の話などをしなかったためか、ウォルターは母親の不在を、否定的な意味で、強く意識することが無かった。
ウォルターの態度に、エナはため息をついた。
「あなたは一人で産まれたかのような顔をしていますが、母親が九ヶ月もの間、他者をその胎内に育むというのは、それほど容易い事ではありません。出産も医療が発達する以前に比べて格段に安全になったとは言え、全くの無事故というわけでもありません。女性が子供を授かるというのは、簡単なことではないのです。人間には、決まった発情期がありませんが、だからと言って、他の哺乳類と比較して有利な繁殖条件を整えているとはいえないのですよ?人間はどちらかといえば妊娠しにくい動物なのです」
と、エナはやや饒舌に語った。
流石は技研の所長だと、ウォルターは妙な感心をしてしまった。ウォルターがぼんやりしているのをどう受け取ったのか、エナはややばつの悪そうな表情になった。
「私などがえらそうに、言える立場でもないのですが…。とにかくあなたの出生書類については私自身、居心地の悪さを感じていました。ですので、私の方から、反対する理由はありません」
「そうなのですか?」
「勿論です。ただし、最初に言いましたが、リュー氏と、ロブ・スタンリーの許可が得られれば、の話です」
「わかりました」
ウォオルターの返事にエナはため息をついた。
「あなたは、リュー氏の許可が得られるかどうかを気にしているようですが…」
「はい」
「あなたが思っているより、ロブ・スタンリーはあなたに執着しているのではない?」
「そうでしょうか?」
「自分のこととなると鈍くなるのかしら?ロブ・スタンリーをあまり軽く扱わない方がいいでしょう。一応、そうアドバイスしておきます」
エナはやや疲れたようにそう言った。ウォオルターは素直に
「ありがとうございます」
と、感謝の気持ちを簡潔に口にした。
エナの執務室から退室して、技研の外に出てマウンテンバイクに跨る。そこでようやくウォルターは大きく息を吐いた。マウンテンバイクに跨ったまま、自分の手をじっと見つめる。
別段震えてはいなかった。当初に想定していたより、随分とスムーズに話が運んだとも言える。幸先はそう悪くは無い。だが…。
エナ・クリック自身が言っていたように、結局のところ彼女は他人だ。だが、もしも、途中で彼女が質問の形で提示したように、彼女の名前だけを書類から外すことを要求していたら、恐らくこうもスムーズに話を進めることは出来なかっただろう。こちらの…それこそ“下心”も、はっきりと見抜かれていた。
気のせいでなく、エナはアナベルを娘として尊重している。
それに気がついたから、彼女の名前だけを外すことにためらいを感じた。自分の行動に制約を与える書類上のその名前は、同時にアナベルとの繋がりを保障するものにも思えた。自分でも随分錯綜しているという自覚はあった。リュー家の人間に戻れないのだったら、このまま彼女と書類の上だけでも繋がっていたいと…。
そこまで考えて、ウォルターは首を振った。それはただの言い訳だ。彼女に対して、決定的な言葉を口にすることが出来ない、臆病な自分を慰める為の…。
だが、当分は今のままでいい。
エナに言った理屈が、意外にスムーズに彼女に受け入れられたことが、少しだけウォルターの励みになった。ジョンになんと書くべきか、試行錯誤した中で、最も素直な自分の感情や感覚を口にしたわけだが、ジョンにあてて書く手紙も、同じ理屈をベースにして攻略していけそうだ。
静かにそう決意すると、ウォルターは再度深く息をつく。それから、ペダルを踏んで帰路へと急いだ。
エナとの面接を終えた日の夜、ウォルターは長く書きあぐねていたジョンへの手紙を書き上げた。そのまま、封をせず、一旦引き出しにしまう。中期試験が終わったら、もう一度読み返して、それで問題ないと思えたら、イブリンへの手紙と一緒に、送るつもりだった。
次の日の夕方、五時になると、インタフォンが室内に響いて、アナベルが来訪を告げる。ウォオルターは、書庫にいて、立ったまま紙の本を読んでいた。アナベルは預かっているスペアキーで家へ入ってくた。キッチンへと向かう廊下の途中で、書庫のドアが開いているのに気がついて、彼女は足を止めた。ウォルターは無言で顔を上げる。
アナベルは、ウォルターと目があうと、柔らかい笑みを浮かべた。最近、時々、こういうことがある。ウォルターは彼女の優しい微笑みに、いつも上手く笑い返すことが出来ない。不自然にならないようにゆっくりと、視線を本の方に戻した。
「なんだ、珍しいな。開けっ放しで…」
「うん、ちょっと探し物…」
と、ウォルターはその場から動かない。視線を本に据えたまま、アナベルに
「入ったら?」
と、声をかけた。アナベルは少し躊躇いながらも、ゆっくりと、室内に足を踏み入れた。ウォルターの傍らに立つと、彼の持つ本の背表紙を覗き込む。
「何読んでるんだ?」
「うん、子供の頃に読んだ本」
「試験前に余裕だな」
と、言うアナベルの言葉にウォルターは肩を竦め、本を閉じた。それから
「君の言ってた、エナの課題…」
「古典の?」
…というのは前回の面接のとき、エナに奇妙な課題を出された件だ。
“教科を決める担当者達はどうして、すでに誰も使用していない言語を、カリキュラムに入れるのか…。”
古典が苦手なアナベルに対して意識の変化を狙ったのか、それとも全く意味などないのか、エナの考えはわからないのだが…。
「そう、フェンロンが、専門でもないのに古典に関する薄い本を書いてたなって思い出して…、ないかと思って探してたんだけど…」
言いながら、奥の方へと視線を向ける。
「あれはやっぱりジョンが寄贈した方に入ってたみたいだ。みつからない」
「本って…」
「うん、専門書って言うより、趣味で調べていた古典に関する雑学を、好きに書き散らかしたみたいな内容だったし、共通言語で書いてたから、エナからの課題の参考に、丁度いいかなって思ったんだけど…。今度イブリンに頼んで、家にないか手紙で訊いてみるよ」
ウォルターの言葉の意味が、アナベルには半分くらいしか分からなかった。
「あの、フェンロンってお前のおじいさんだよな…。本とか書いてたのか?」
「うん、専門は東洋史というか東洋の政治思想だったんだけど、多趣味で、古典にも関心があったみたいで、だからここにも古典の本が何冊かある。君の読めるものがあれば…」
「バ、バカ、無茶言うなよ!」
「まあ、そうかな」
と、ウォルターは肩を竦める。
「…お前、それで古典とか得意なのか?」
「そうだね、学校で習うより前に、何故だかフェンロンに無理やり読み方を教えられてたから…。こっちの方は、押し付けられなくても、勝手に読んでたんだけど…」
と、言いながら、アナベルには文字には見えない複雑な記号の書かれた背表紙の本を、指で引き出す。
アナベルはウォルターの落ち着いた表情を横目で見ながら、恐る恐る
「あの、お前のおじいちゃんって、何してた人?」
と、改めて確認してしまう。以前聞いた時には、確か何かを教えているとか何とか…。ウォルターは宙を見上げた。
「ああ、そうか。フェンロンはロスアン大学で、東洋の政治史だかなんだかを、数学だか経済学だったかの理論を用いて、解析し直したとかなんとか…そういう研究をしてたらしい。…今じゃどうってこともないけど、当時は結構画期的だったみたいで、それで、ロスアン大学に採用されて、そういうの教えてたって…」
と、あっさりとそう言った。
ふっとアナベルの方を見ると、なにやら呆気にとられたような顔になっている。ウォルターは肩を竦めると
「ごめん…意味わかんないよね…。僕もよくわかってなくて…」
「え…いや…」
アナベルはその妙な表情のまま首を振った。
「お前のおじいちゃんって、大学の先生だったのか?」
「そうみたいだね」
アナベルは絶句した。どうりでこいつは…。と思いかけて、その考えを押し殺す。
「いや、でも、お前、努力してるもんな」
アナベルの言葉にウォルターは首を傾げる。確かに今まさに、リュー家の人間になりたくて努力しているわけだが、彼女がその事を知っているはずが無いし…。
自分の出自を知ってから、その事実を受け入れられなくて、今まで、ひたすらそれから逃げているだけだった。その事実から逃げ切れなくなったのは、間違いなく、エナに言われた言葉きっかけだった。
彼女に、ロブ・スタンリーの息子だと言われて、それが、自分でも意外なほど嫌だったから…。単純にロブが苦手だという以上に、自分が本来属している筈の場所から、無理やり引き剥がされたような、強烈な違和感に、ウォルターはたじろいだのだ。
けれども、遺伝子のことだけでいえば、エナのいうことは、紛れもない事実なのだ。
一方でエナはこれまで、面接日のたびに、ウォルターがマチルダの子供であるという事実を突きつけてきた。本来なら、自分は…エナ・クリックは、ウォルターとは関わる筈も無い他者なのだと、ことあるごとに口にしてきたのだ。
エナの態度はいつもひどく傲慢で、無神経に思えて、これまでウォルターはエナとの面会日が憂鬱で仕方がなかった。それは、自分がジョンを裏切った結果生まれた子供なのだということを、否応なしに押し付けてくる行為に思われて、ウォルターにはエナの言葉が、ただの嫌がらせにしか聞こえなかったのだ。
…けれど、ロブの息子だと言われた時ほどの、強烈な違和感は無かった。
その言葉は、ウォルターの自己意識を、不安定にさせた。けれども、紛れも無くそうなのだ。出生書類だけみれば、自分はリュー家とは何の関係もない存在で…。
それでも、アナベルと今のように関ることがなければ、自分はそれに対して何か抗ってみようとは思わなかっただろう。ただひたすら、その事実から逃げるだけで、その事実と向き合わないまま、ロブの言いなりになって、心の中をどす黒い怒りで充満させて、それをどうしようともせず、ずっとそのまま、流され続けていたのだろう。
今のままでいても、どこにも進めないのだと、強烈に実感したのも、やはりエナの言葉だ。あたなたちは…アナベルと自分は、書類の上では二人とも、私の子供だと言われて、その事実に、単純に言えば腹が立ったのだ。違うだろうと…。
ウォルターは手にしていた本を書棚にしまった。アナベルは隣で、興味深そうに書棚に並ぶ本の背表紙を見つめている。
「何か読みたいもの、ある?」
と、声をかけた。アナベルは本の背中を見つめながら
「うん、エナにもう少し共通語を読めるようになった方がいいって言われてるんだけど…」
と、言うと顔を上げて
「まあ、前から言われてるんだけどさ」
と、肩を竦める。
「何か簡単なものとか、もっと意識的に読んだ方がいいのかなって思って…」
「うーん、でも、それだと、課題図書を読む時間がなくならないかな?」
「そうなんだよなあ」
「僕も最近、あまり本が読めてないな…」
「そうなのか?」
「課題図書を読むだろ?で…」
言いかけて、言葉の途中で宙を見上げる。でも、一応はジョンに手紙も書けたし…。
「お前、何か片付いたのか?」
と、アナベルがウォルターの横顔を見ながら、唐突にそう尋ねた。
「え?何が?」
「うん?さっきからなんか、そういう顔をしてるから、なんて言うのか、一仕事終えたーって」
と、言いながら、アナベルは宙を見る。
「ここのところ、ずっと、何か気がかりがある風だったから…」
と、言うと、ウォルターに向かって、にっこりとした。ウォルターはあっけにとられた。どうやら最近の自分の感情は、全て表に出てしまっているらしい…。いや、というより…
ウォルターは改めてアナベルの顔を凝視する。すると、彼女は柔らかい笑みを返してくる。なんだ?とでも言いたげに、少し首を傾げた。
時々思うのだが、アナベルは意外に勘がいい。彼女は自分を鈍感だと言い、周囲もそう思っているようだが、彼女が鈍感なのは、ある一部分だけで、恐らくそれは意図的…無意識の計算によるものなのだろう。
彼女は自分が気づきたくないと思っている事を、気づかないようにしているだけで、本来の彼女は無神経でも鈍感でもない。むしろ、人の感情の動きに敏感だ。
ウォルターは嘆息した。
であれば、自分の気持ちになど、本当はとっくに気がついているのだろう。
最近、時々、目があうと微笑をくれる…。少しは脈があると期待してもいいのだろうか?
ウォルターは、自分が彼女に見とれていることに気がついて、不意に目をそらした。
アナベルは傷ついた風でもなく
「そういえば、お前の方は、昨日のエナとの面会、どうだったんだ?」
と、屈託なく尋ねてきた。




