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オールドイースト  作者: よこ
第2章
179/532

2-7 あるエリート候補生の災難(7)

こんな風にノエルに会うのは、先週以来だ。数学の授業で会っても、ノエルと言葉を交わすことは全く無かったからだ。アナベルはなんとなく身構えてしまう。

イーシャがこだわり無く「ハイ」と、応じたから、というわけでもないが、アナベルも「ハイ」と、答える。


「今日もここ、一緒してもいいかしら?」

と、ノエルは快活に尋ねた。

「どうぞ、って私が言うのも変だけど、別にいいわよね、アナベル?」

と、イーシャがにこやかに応じる。アナベルは「当たり前だろ?」と、賛同した。ノエルはにっこりして、椅子に座ると、早速という感じで切り出した。


「さっき、ウォルター・リューが、イルゼ・マスターソンに話しかけられてたけど…」

「イルゼ・マスターソンって、あのイルゼ?」

と、イーシャが応じる。ノエルは驚いた様子で

「知ってるの?」

と、答えた。アナベルには全く話が見えない。


「ひょっとして、オールドイースター?」

と、ノエルが言葉を続けると、イーシャは

「そう、イルゼは中等校の頃から有名だったから…」

と、目一杯頷いた。


「あの癖、中等校の頃からなの?」

と、ノエルが嫌そうな顔をすると、

「癖って…」

と、イーシャが苦笑した。アナベルは口を挟まないように注意しながら聞き耳を立てる。


「そう、ビクトリアあたりの適当なバイオロイドより性質たちが悪いって、毛嫌いしてる子、多かった。バイオロイド並みに美人で頭よくて、その上、いかにも薄幸なバックグラウンドにあの雰囲気でしょ?馬鹿な男なんかは、すーぐに、騙されちゃって…」

と、イーシャが手を広げた。アナベルは恐る恐る

「あの、その癖って…?」

と、二人に尋ねる。二人は目を見合わせる。自然とイーシャが説明を始めた。


「イルゼはカップル壊しで有名だったの。幸せそうなカップルの男の方を誘惑して、自分に夢中にさせて、カップルが破滅したら、自分に夢中になった男の方を捨てるの」


…そんな中等校生がいるのか?アナベルはあまりのことに、二の句が継げない。


「私の兄が、彼女の兄とちょっと親しくしてて、それで、彼女の方とも多少は親しかったから、あ、私じゃなくて、兄がよ?…で、私は悪く言いにくいんだけど…」

「え?」

ウバイダが?と言いかけて、アナベルは口を噤んだ。ものすごく悪そうな女子なのに、その子もウバイダの女友達の一人というわけか…。


「で、何?イルゼがウォルターに話しかけてたって?」

と、イーシャが身を乗り出した。アナベルは、またしても仰天しそうになって、慌てて自分を抑えた。


これでは先週の二の舞になってしまう…。にしても、ウォルターは一体何をやっているのか?と、意味も無く彼に対してイライラしてしまう。


 イーシャの言葉にノエルは肩を竦めた。

「まあ、大した用事じゃなさそうだったけど、ウォルターは、普段から、決まった人以外とは、あまり関らないから、ちょっと気になったというのかしら?相手が相手だし…」

「そうなんだ?」

「ウォルターはゲイだし、流石のイルゼも何か狙いがあるっていう訳でもないとは思うけど」

と、肩を竦めるノエルに対して、イーシャは眉間にしわを寄せた。


「ウォルターはゲイって…」

噂の相手、イーサンは彼女の兄、ウバイダの恋人だ。彼らがつきあっていることはイルゼ・マスターソンだって知っているだろう。同時にウォルターがゲイではないことも知っているはずだ。


そう思いながら、妙に静かに話を聞いている友人の顔を、つい見てしまう。アナベルは、例によってどこかぼんやりとした表情をしている。話しについていけてないのだろうか?


「それは誤解だと思うけど?」

「けど、イーサンとも親しげだわ。まあ、イーサンはイルゼとも親しそうだけど…」

と、ノエルが妙に冷やかな口調でそう言ったので、イーシャにはなんとなく彼女の事情のようなものがわかってしまった。


「イーサンがゲイっていうのは本当よ。イルゼだって、当然知っているでしょう」

「そうなの?」

「イーサンはイルゼのお兄さんと仲がよかったし。イーサンが留年してるの、知ってるでしょ?」

「…詳しいのね」

と、途端にノエルの表情が非友好的になる。イーシャは肩を竦めた。


ウバイダの事を教えてあげた方がいいのだろうか?確かに外から見ると、イーサンはただの男前だ。好きになる女がいても、全くおかしくはない。なるほど、それで、ノエルはウォルターの動向にも詳しいのか。どちらかというと一人で行動するのを好むイーサンが、普通に会話する相手、というだけでも、彼女にとっては特別なのだろう。


「私にまで、妬かないでほしいんだけど…」

と、イーシャがぼやくと

「ちょ、聞き捨てなら無いわね?誰が妬いてるって?」

と、ノエルが気色ばんだ。


…わかりやすい…。アナベルやウォルターもこれくらい素直だともっと色々と楽しいのだろうに…。


「はいはい、今はウォルターの話だったでしょ?」

と、イーシャは軽くいなした。その言葉にアナベルが顔を動かした。固まっていたのか?

「え?あいつ、ゲイじゃないと思うけど、なんか女の人は苦手みたいだから、大丈夫じゃないかな?」

と、妙な事を言い出した。イーシャは密かに嘆息する。


「ああ、そんな感じね。今までまともに話したこと、なかったし、教室での感じだと、大人しそうな、ひたすら真面目そうな感じだったけど、話してみると、結構むかつく奴よね、あいつ」

と、ノエルが忌々しげにそう言ったので、アナベルとイーシャはそれぞれで嘆息してしまう。外見だけ見ると、彼はひたすら真面目で大人しそうなのだ。


「…まあ、わからなくもないけど、意外といいところもあるんだよ」

と、アナベルが笑っているのか困っているのか微妙な表情で、そう取り成した。

「まあ、そうでもなきゃ、やってられないでしょうね?あんな、ボンボンに使われて、あなたも苦労よね」

と、ノエルに同情されて、アナベルは複雑な気持ちになった。


確かにウォルターの事をよく知る前は、自分も彼の事をそう思っていたのだが…。


けれど、アナベルは自分でも不可解なことに、ノエルの誤解を解きたくなかった。ノエルが本当のウォルターの事を知ったら…それこそ、冗談でなく、本気でウォルターに交際を申し込んだら…。自分はそれに対して、反対したり、嫌がったりする資格を持っていないのだ。彼にとって自分は、ただのハウスキーパーで、彼の姉でしかないのだから…。


「うん、まあ、そうだね。色々、難しい奴だし。だから、そのイルゼって人がアプローチとかしても、全然、大丈夫なんじゃないかな?考えてみれば、男性を褒めることはあっても、女性を褒めるのは殆ど聞いたことがない気がする」


セアラに対しても、メリッサに対しても、ボロクソに言っていた。唯一の例外はリパウル・ヘインズだ。けれど、リパウルを褒めないことの方が難しいだろう。


「えー、じゃ、やっぱりゲイなんじゃないの?」

と、ノエルがあっさりと結論を下す。


傍らで聞いていて、イーシャはため息をついた。ウォルターが気の毒になってくる。


「ちょっとアナベル、いくらなんでも、それは言い過ぎじゃない?一回くらい褒められたこと、無いの?」

と、イーシャが尋ねると、アナベルは即座に不快気な表情になった。

「…あるよ」

「あるんじゃない」

と、イーシャが応じた。ノエルも興味深そうな表情になる。


「なんて?」

「ん?無駄に力強い、だったかな?」

と、アナベルは仏頂面でそう言った。そうだ、自分はあんなに彼のことを褒めることが出来るのに、ウォルターの方から褒められたのは、それだけだ。というか、それって褒め言葉なのか?


 案の定ノエルは爆笑し、イーシャは額に手をあててしまう。ウォルターは一体、何をやっているのか?仮にも好きな女の子に対する褒め言葉ではないだろう。


 アナベルは一人嘆息した。そのイルゼとかいう、女子については、仕事の時にウォルターに詳しくきいてみればいい。今日はエナとの面会日だと言っていたから、明日になるが別段それは、どうでもいい。そんなことより…


「あいつの話はどうでもいいよ。それより、ノエル、ちょっと聞きたいんだけど、ビクトリアとヘンリーのこと…」

「ああ、噂になってるみたいね」

と、ノエルがこともなげにそう言った。


「ひょっとして、言いふらしてる?」

と、アナベルは眉間にしわを寄せた。自身も根も葉もない噂で相当ひどい目にあったアナベルとしては、同じような事を他人に対してしたくは無い。あの時の事を鮮明に思い出すと、今でも胸がぎりぎりするような気がする。


 アナベルの言葉にノエルは肩を竦めて手を広げてみせた。

「言いふらしてはいないわ。友達に、こんな話し知ってる?って訊いてみただけ。その子も他の子に訊いたみたい。他にも見かけたことがあるって話しになって、で、ちょっと噂っぽくなってるみたいね」

「んじゃ、やっぱり…」

「うーん、でも、別の話も聞いたわよ。ヘンリーが派手な女と深夜に会ってたって」

「え?」

アナベルとイーシャ、二人同時に、ノエルの方を向き直る。アナベルはヘンリーという男子の顔も知らないのだが、行き掛かり上、流石に気になった。


「それは今日聞いたの。こっちの方がすごくない?」

アナベルは気遣わしげに眉間にしわを寄せたままだ。

「だとしたら、そいつ二股ってこと?ビクトリアが気の毒じゃないか?」

傍らでアナベルを見ながら話を聞いていたイーシャは、あきれきってため息をついた。


「全く、人がいいにも程があるわね、アナベル。一年の三学期のこと忘れたの?あの時、ビクトリアが流した根も葉もない噂で、ひどい目にあったのは、あなたでしょ?なに、ビクトリアに同情してるのよ?」

「でも…」


「ビクトリアとヘンリーが付き合ってるってのいうは本当なんでしょ?他にも見てる人がいるんだから。でも、あの時の噂は全くの別物。捏造というか、嫌がらせでしょ?しかも一方的で、身勝手な嫉妬でさ。二股だろうが三股だろうが自業自得よ。同情する必要なんてこれっぽっちもないわ」

「何よ、そうなの?」

と、ノエルが身を乗り出した。


「そ!お馬鹿なビクトリアが一方的にザナー先生にいかれて、ちょっとした知り合いってだけで、アナベルに目をつけて、ひどい話よ全く」

「何それ、そうなの?」

ノエルの剣幕にアナベルの方が慌ててしまう。


「あの、この話、人にはしないでくれる?もう、蒸し返したくないっていうのか…」

「だって、未だに誤解してる奴いるわよ?開発局のあの講師と、あなたが出来てたって…」

「それは、そうみたいだね…」

現に今日もその誤解を下敷きに、ビクトリアの噂の件の感想を聞かれたばかりだ。


「でも、あなたがビクトリアをひっぱたいたってのは本当なんでしょ?」

「えっと、それは…」

「それをイーサンが止めたって…」

「あ、うん、それも本当…」

「ふーん、そうなんだ…」

と、ノエルが目を眇める。流石に鈍いアナベルも、ノエルの気持ちが何となくわかった、様な気がした。


「あの、ノエルって、ひょっとしてイーサンのこと…」

が、流石に言いにくい、とノエルが半腰になって

「な、何言ってるのよ?こっちの、えっと、イーシャといい!そんなんじゃないからねっ!」

「あ、そうなんだ。ごめん。私そういうのよくわからなくて…」

「わからないんだったら中途半端なこと言わない方がいいわよ!第一イーサンは、ゲイなんでしょ?」

「まあ、そうだね。イーサンは…」

と、アナベルは言いよどむ。ノエルは眉をしかめると

「ほら、そうなんじゃない…」

と、呟くと、再び腰を下ろした。救いを求めるように、アナベルがイーシャに視線を向けると、イーシャは楽しそうににやにやしている。


「まあ、そういうことなら、特講の講師の話は、人にはしないようにするわよ」

横を向いたまま、ノエルはやや突慳貪な調子でそう言った。

「…うん。ありがとう」

何ゆえお礼を言わなければならないのかが、いまひとつ分からないまま、アナベルはお礼の言葉を口にする。毎週末、イーサンにキックボクシングを習っていることは、この場ではノエルには言わない方がいいのだろうと、アナベルは密かに嘆息した。


ウォルターはこの日、エナ・クリックとの面会日だ。金曜日にアナベルにエナとの面会の様子を聞くと、随分と和やかだったようだ。アナベルが真面目な顔をして、古典という科目が、何故カリキュラムに組み込まれているのか、考えたことがあるか?と尋ねてきたので、少し考えをまとめてみると返事をした。エナからの課題らしい。


冬休み前に比べると、アナベルのエナに対する感情は随分軟化していた。自分の感情の変化に素直に対応する、彼女の柔軟性には、いつも驚かされる。彼女から受ける印象は真逆なのにも拘らず、彼女は自分の思い込みや最初の印象に固執するという面が希薄なようだった。頭が固い頑固者のように見えて、実際はそうでもない。今の彼女は去年までの自分の印象を払拭して、素直にエナ・クリックを尊敬している様子なのが窺えた。


 そうなると、自分も多少は見習わなければならない。夏以降、エナに対する自分の印象も変化してきている。実際にエナが何か変わったわけではない。変わったのは自分の方なのだろう。


 時間通りにエナの執務室に到着すると、普段以上に緊張して、インタフォンで、来訪を告げる。「入りなさい」と、短く応じる声がして、ウォルターは入室した。


「お疲れ様です」

「ご無沙汰しております」

「そうね、昨年の十二月は結局会えずじまいでした。正確に言うと、十一月と十二月が一緒になってしまった、というところ?」

「そうですね。博士がお忙しいのは承知しておりますので」

「アナベルから、何か訊いたの?」

妙ににこやかにそう問われて、ウォルターは居心地が悪くなった。


「いえ、冬休み中は博士のところにいるということと、課題を与えられたということを、聞いたくらいです」

「理由は?」

「お世話になっているシュライナーさんが帰省なさるからと…」

「そうね、リパウルも一緒に。でも、夏は一人で平気だったのに、って思わなかった?」

「いえ、特には…」


こっちは詳細な事情を知っている。が、自分が事情を知っていることは、エナには知られてはならない。エナはこだわらずに、言葉を続ける。


「中期試験の範囲が発表されましたが…」

「はい」

「二年になっても、相変わらず見事な成績です。言うべき事は何もありません。…と言いたいところですが」

と、言うと、エナは顔を上げた。


「数学が大分厳しくなってきてるのではなくて?」

「はい、言われるとおりです」

「複雑な問題は最初から投げている。違う?」

テストの中まで覗いているのか?ウォルターは嘆息してしまう。

「それも、言われるとおりです」

「クラスAを保持出来ればそれでいい。そんなところね?」


そこまで見抜かれていては、返事をする気もうせる。去年まで、いや、一年の時の自分だったら、そろそろ返事をするのを止めているところだが…。


「そうです。数学はセンスがないのはわかっています。九十点を取ること以上は目指していません」

ウォルターの言葉にエナは目を細めた。


「正直ね」

「すみません」

「いえ、謝る必要はありません。自分で考えてやっているのであれば、別にいいのよ。ただ、これからもそう上手くいくとは限らない。それだけは言っておきます」

「…そうですね」

「アナベルの課題には…」

「冬休みの…博士からの課題のことですか?」

「そうです。ノータッチだった」

「はい。アナベルから、そう言われたので」

エナはにっこりとする。


「言いつけは真面目に守った。よければ共通語の読みを、もう少し注意してみてあげて欲しいのだけど。あなたの得意分野ね」

「そうですね。わかりました」

ウォルターの返事に、エナは笑顔で目を眇める。


「今日はいつになく素直ですこと。好青年ごっこにはまっているのかしら?」

と、シニカルな調子で首をかしげた。


…好青年ごっことは、上手いことを言ったな…。


 エナはやっぱりエナと言ったところか…。ウォルターは、逆らわずにエナの言葉に乗っかることにした。


「そうです。下心があります」

「下心ですか?」

「はい、博士にお願いしたことがあります」

「取引はしません」

「取引をするつもりはありません」

「なら、何?」


エナは厳しい表情になって、真顔で問うて来る。ウォルターは後ろで手を組んで、少しの間、目を閉じた。

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