2-7 あるエリート候補生の災難(4)
自室にとって返すと、ウォルターは机の端に手をついて、肩を落としてうなだれた。机の上には何も書かれていない、便箋が置いてある。ジョンに手紙を書こうと、悪戦苦闘して、煮詰まって部屋から出たところだった。
ウォルターは自分が必要以上に動転していることに戸惑った。彼は、アナベルが怪我をしたことに動転しているのではなく、彼女が自分の目の前で、怪我をした親指を、無造作に口の中に入れた仕草に、動転したのだ。一瞬、自分がそうしたような錯覚に捕らわれて、口の中に血の味がしたような気さえした。
金曜日に、綺麗に着飾った綺麗なお姉さんに手を取られた時も、ノエルに手を重ねられた時にも、感じたのは煩わしさだけだった。なのに、目の前でアナベルが怪我をしたというのに、自分は何に対して、頭に血を上らせているのだ?
いつも、どうして彼女なのだと、何度も自分に呆れ、勘違いなんじゃないかと、そう思っているのに…。感情が強く動かされるのは、常に彼女に対してだけなのだ。
ウォルターは自分の感覚いびつさに、深い自己嫌悪を覚えながら、頭を強く振ると、クローゼットの奥にしまってある救急箱を取り出した。その場で中を確認してから、絆創膏の箱を取り出すと、大きく息をついてから、キッチンへと、取って返した。
流しの前に佇んで、アナベルは自分の親指の傷口を観察していた。止まったかと思ったが、まだ血が出てきそうだ。と、ウォルターが戻ってきた。
「絆創膏…」
「あ、うん。ありがとう。ごめん…」
「いや」
言いながら、絆創膏を取り出した。
「自分でやる?」
と、一つ渡すと、アナベルは頷いて受け取った。
「結構深いのかな」
と、言いながら、傷口に器用に絆創膏を巻いた。
「血が止まらないの?」
ウォルターも覗き込むようにして傷口を観察する。
「ん、大分いいかな?驚かせて…」
と、言いながら顔を上げると、妙に近くに彼の顔があった。気のせいか普段より沈んでいるように見える。
アナベルは、肩を竦めて
「これくらい、なめときゃ治るんだけど…」
と、笑顔になる。ウォルターは、
「まあ、唾液には殺菌成分があるらしいから、野生動物なんかは、舐めて傷を治すらしいけど、口内は雑菌も多いというから、人間の場合どうなのかな…」
と、呟くと、すっと身を引いた。アナベルは仏頂面になって
「なんだよその比較…」
と、ぼやいた。ウォルターはため息をついて、流しの方を覗き込む。
「こっちこそごめん。急に話しかけて…。何を切ってたの?」
「うん?キャベツ。アルベルトに教わったんで、キャベツの酢漬けを作っておこうかなって」
「ザワークラフト?」
「うん、そう。お前、年末も新年もやけに食べてたから、好きなのかなって思って」
アナベルの言葉に、ウォルターはよけに動転してしまう。自分のためにわざわざ?
「いや、キャベツはそれほど得意じゃないのに、あれは食べられるから…」
「なら、余計にちょうどいい」
と、アナベルはにっこりして
「よし、もう大丈夫」
と、続きをやろうとするので、ウォルターは慌てて
「今日はもういいよ。僕が作るから…」
と、遮った。
「え、なんでだよ?折角…」
「そんな怪我して…」
と、悄然とした様子で言うのでアナベルは呆れて、
「親指、ちょっと切ったくらいで、大袈裟なんだよ。もうスライサーは使わない。心配しすぎだって」
「じゃあ、手伝う。君、指示してくれれば…」
「だから…。もう!なんだよ…」
「…ごめん…」
アナベルはため息をついた。
「何かあったのか?その…」
と、アナベルは言い淀む。今日のお昼に聞いた話を思い出した。
「何かって?」
「金曜日、スタンリー氏と面会だったんだろ?それで、何か…」
ふっと、ウォルターが顔を上げた。それから、目を逸らすと
「ノエル・フェイバリットが何か言ってた?」
と、唐突に普段の調子に戻って、そう言って来る。
「あ、うん…」
「なんて?」
「えーっと、あの…。お前に、その、交際を…」
「交際?」
また、妙なところから話したなと、ウォルターは嘆息した。てっきりバイト自由化運動の話でも、したのかと思ったのだが。
「ノエルがなんて言ったのか知らないけど、そんな事実はどこにもない。君は彼女の話を聞き間違えたんだろう」
と、断言した。それから
「じゃ、分担しよう。君はそのままキャベツを切って、僕は今日の夕食を作る」
「え?でも…」
「夕食はレシピ通りだろ?その代わり、ザワークラフトの漬け方、僕にも教えてくれる?」
と、言いながら、ウォルターは早速調理の準備に入った。アナベルは諦めて、流しを彼に譲ると、自分はキッチンテーブルに移動して、包丁でキャベツの千切りの続きを始める。
ウォルターが振り返って
「大丈夫?」
と、確認してきた。アナベルは呆れて
「だから、心配し過ぎだって…。どういうことだよ、さっきの…」
「ノエルの話?」
「そう…あの、確かに意味の分からない言い方してたけど…」
「逆にこっちが聞きたい。なんて言ってたの?」
「うん…」
「最初からでいいけど?」
「ああ…」
アナベルの説明下手は、折り込み済みだ。最初から聞いた方が間違いない。アナベルは宙を見上げて
「お昼に、大講義室でイーシャとランチしてたんだ、そしたらノエルが来て…、金曜日にお前に会ったって…」
「うん、で?」
「で、何か聞いてないかって…」
「ああ、そういうことか」
わざわざアナベルにまで確認にいくとは、どうやら、自分が想定しているより、ノエルにとっては、優等生であるという対外イメージは重大であるらしい。ヨンフォンもノエルから、似たような質問を受けたと、言っていた。
一方で、軽はずみに確認をとるところを見ると、単純に、バイトがばれたらまずい、という以上の意味はなく、収入が必要な深刻な背景はないものとみなしてもいいのだろう。
寮生のヨンフォンに逆に聞き返すと、ノエルは、一年の時までは、中等校生相手に家庭教師のバイトをしていたというから、何らかの事情でこれまでのバイトを続けられなくなって、固定的な収入の無い状態になり、困っているだけのことなのかもしれない。郷里からの仕送りが全くない越境生は、自分で稼がなければ、雑費の類すら捻出出来なくなるのだから。
ウォルターが一人で納得していると、アナベルが手を止めて自分の背中を凝視しているのに気がつく。振り返って
「どうしたの?」
と、尋ねると
「だって、お前…。続きはもういいのかよ…」
「続き?」
「なんか納得してるけど…こっちはまだ色々とあるんだけど…」
「色々?」
「…お前、ノエルに付き合ってって言われたんだろ?」
と、アナベルが仏頂面で言葉を続ける。ウォルターは「ああ!」と、声を上げた。彼は早くもそのことを、忘れていた。アナベルは続けて
「それに、お前、ヘンリーって奴に私のせいで、色々あてこすられてたって…」
「え?」
流石にウォルターは手を止めた。自然と険しい表情になってしまう。ノエル・フェイバリットは、何を余計な事を…。
「随分昔の話を引っ張り出してきたね?もう、覚えてないよ」
「でも、お前、なんか、結局、ゲイってことになってるって…」
「ああ、そうらしいね。嫌がらせのつもりらしいってのは、分かってる人には分かってるから。別段、気にしなきゃならない様なことでもないだろ?自分が偏見を持ってるから、周囲も同じだと思ってるらしい。ヘンリーらしいシンプルさだよ。」
「でも、イーサンと、その…」
「ああ…」
ついにウォルターは笑い出した。そんなことさえも言い難いのか。何故だかふいに、アナベルが可愛く思えた。
「そう、それで、ウバイダに苛められてるんだ。僕は」
と、ウォルターは作業を中断して、流しを背にしてアナベルの方に向き直る。
「そうなのか、やっぱり…」
「それで、嫉妬されて…」
「その…私が原因で…」
「そう、君のせいで、僕は毎週木曜日、彼の作った美味しい料理を振舞われているってわけだ」と、ウォルターは肩を竦めて「かわいそうだろ?」と、付け加える。
アナベルは、戸惑ったような表情になってから、笑い出した。
「確かに、あいつ、性格はともかく、作る料理は美味い」
「そう、毎週木曜日には、僕の料理人としてのささやかなプライドがズタボロにされて、大変なんだ」
「そんなプライド持ってたのかよ?」
と、アナベルは笑い続ける。
「せっかく君が褒めてくれる数少ない特技だ」
と、ウォルターは首を傾げる。
「少なくないだろ?もっと上げられるぞ」
と、アナベルは微笑んだ。ウォルターは意外そうに目を見開いて
「え、そうなの?他には?」
「なんだよ、言って欲しいのか?」
と、アナベルも意外そうな顔になる。ウォルターは宙を見上げた。
「そうなのかな、言って欲しいのかも…」
「珍しく素直だな。じゃあ…、勉強を教えてくれるし、惑星模型も作れる。怪我をしたら、すぐに絆創膏を持ってきてくれて、家事を代わってくれる。疲れてる時に、細かい事を聞かずに、コーヒーを入れてくれて、愚痴も快く聞いてくれるし、困った時には相談も…」
「ちょ、ちょっと、待って…」
まさか本当にこんなに急に、立て続けに褒められるとは、しかも、こんな真っ当な言葉で…。
「なんだよ、褒めて欲しいんだろ?まだ、言えるぞ?」
「まさか、言いすぎだ…」
自分で言っておきながら、ウォルターは途方にくれた。
ウォルターの戸惑いに気付く気配もなく、アナベルは真顔になって、壁の方を向くと
「だから、つまり、お前にはいいところがたくさんあって…だから、その、ノエルがお前に申し込んだとしても、全然おかしくないし…」
と、真面目な口調で言い出した。
「はあ?また、その話?そんな事実はどこにもないけど」
「嘘つくなよ。ちゃんと、付き合ってくれって言ったって…」
と、アナベルが俯いたので、ウォルターは真面目に慌ててしまった。
「いや、違うんだって!あれは口止めのつもりで…」
「口止め?」
「いや、それにしたって、どこまで本気で言ってたんだか…。とにかく君が思ってるようなことじゃなくて…」
言いながら、何を自分は必死に言い訳をしているのだろうかと、ウォルターは内心首を傾げてしまう。
そもそも自分とアナベルは、別段なんでもない関係…の筈だ。なんだ、この状況は?いっそのこと、僕が君以外の誰とも付き合う気なんてないってことを、君は分かっているの筈なのに、どうしてそんなに絡むんだ?と、言ってやろうか?
…当たり前のことだが、そんなことが言えるわけもない。
「じゃ、なんだよ?」
と、訊かれてウォルターは言葉に詰まった。この誤解と、あの状況をそのまま述べるのとでは、どちらが自分のダメージが低いのだろうか?
「…いや、そもそも、君、関係ないよね?」
と、ウォルターは慎重に切り出してみる。アナベルは目を細めてしばらくウォルターを見つめるが、
「まあ、そうだな…」
と、言うとキャベツの千切りに戻って、黙々とキャベツを刻み始める。
…さっきまで結構いい感じだったのに…。こうなったら全部事情を話そうか?けど、そうなると…。が、話すにしても、今更どう切り出したらいいのか、ウォルターには分からない。仕方なく、調理に戻った。しばらく、二人でむっつりと黙り込んで作業に没頭する。
当然のことだが、真面目にやっていたら、下準備まで大方終わってしまった。さてどうしたものかと、ウォルターは流しに向かって、一息ついた。と、キッチンテーブルでアナベルが突然
「どうせ、ただのハウスキーパーだよっ!!」
と、叫んだ。ウォルターは仰天して、振り返った。
「え…」
「う、うるさいな!」
と、アナベルが意味不明な切り替えしをしてくる。ウォルターは安堵のあまり噴出してしまう。それから、
「ごめん…」
と、謝った。君には関係ない、という言葉が、彼女を傷つけるということを、自分は知っていたはずだった。
「何、謝ってるんだよ…」
「いや、千切り終わったの?」
「うん」
「包丁預かるよ。指は大丈夫?」
「だから…」
アナベルから包丁を預かると、ウォルターは手早く洗ってから片付けると、流しを背もたれにして、アナベルの方に向き直る。それから
「ノエルに言わないって約束したから、言いにくかったんだけど」
「え?」
「けど、約束を破ったのは彼女の方だから、別にいっか。でも、出来れば他言はしないで欲しい。大したことじゃないんだけどね」
「いいのか?」
「うん、別段そんな、大層な話じゃない」
言えばアナベルがノエルに同情するかもしれないと思ったから、言いたくなかったというのもある。
「金曜日にロブに、お酒を飲むお店に連れて行かれたんだ。そこでノエルと会った」
「…なんで、そんなところ?」
「さあ、理由はロブに訊いてくれ。ノエルが何でそんなところにいたのか、それは僕も訊いてないんだ。何かのバイト中だったらしい。ただ、寮はバイト禁止だ。おまけに未成年者が出入りしていい場所でもない。それで、口止めに、まあ、冗談みたいな感じで、付き合わないかと、言い出したって所かな。ガールフレンドになれば秘密を守ってもらえるって、単純に考えたんだろう。彼女とは、大体同じクラスだけど、これまで、まともに話をしたこともなかったんだ」
と、ウォルターは一気に説明した。アナベルはすぐに納得した様子で
「でも、そのバイトって…」
と、予想通り、そちらの方に関心を持った。ウォルターはなんとなくため息をついてしまう。
もう少しやきもちを妬いてて欲しかったような…。
「さあ、他の寮生の話だと、ノエルは一年の時まで家庭教師のバイトをやってたらしいんだ。それだったら、寮の規則で許可されているから。その仕事がなくなったから、割のいいバイトに手を出したのかもね」
「そっか…」
「納得した?」
「うん…」
アナベルがなにやら悄然としているので、ウォルターは再びため息をつく。
「言っておくけど、必要以上に彼女に同情する必要はないと思うよ」
「え?」
「君の方が大変だ。君は自分が大変だって自覚が希薄なようだけど…」
「別に、そんな大変ってことは…」
「ノエルは仕送りが無いのかもしれない。自分の小遣いくらい自分が稼がないといけないのかもしれないけど、君は?」
「別に、だから…」
「まあ、いいけど」
と、ウォルターは横を向いた。
「自分の小遣いを稼ぐのより、誰かの為のために頑張る方が張り合いとかあって、苦痛じゃないのかもね」
「苦痛って…」
「ごめん、聞き流してくれ…」
ウォルターは、自分が何をイライラしているのか、自分でもよくわからなかった。するとアナベルが
「お前、何をイライラしてるんだ?」
と、彼の方こそ知りたいと思っていることを尋ねてくる。
「何って、別に…」
「折角彼女を作るチャンスだったのにって…?」
アナベルのとんでもない言葉にウォルターは顔を上げた。
「はあ?」
「だって、さっきまで、別にそんなに機嫌悪くなかったのに…。急に…」
「それは、君が…」
どうして最近のアナベルは、こちらを舞い上がらせるだけ舞い上がらせておいて、いきなり梯子を外すような事をするのだろう?この話になる前は、和やかで、彼女はとても可愛くて、笑って…。
「君こそ、なんでそんな顔をするんだ?」
「そんなって?」
「さっきまで、笑ってた…ザワークラフト、作るんだろ?」
ウォルターが投げやりにそう言うと、アナベルはむっつりと黙り込む。ウォルターはその表情に、余計にイライラしてしまう。どうしてもっとうまくやれないんだ?以前はもう少し、マシじゃなかったか?
「カイルから、返事が来たんだ」
と、唐突にアナベルが言い出した。
「え?」
「それで、お前に…」
いうなりアナベルは黙り込んだ。ウォルターは嘆息する。
「でも、もういい。お前が訊いてくれたから、それで…」
ウォルターは面倒になってきて、早口で
「ごめん」
と、謝った。案の定アナベルはむっとした様子で
「お前、また…。だから、さっきから何を謝ってるんだよ?」
「何って、君が怒ってるから…」
「私は怒ってない。怒ってるのはお前だろ?それに、私が怒っているからって、お前が何かしたわけじゃないんだから、謝る必要はないだろう」
「相変わらず、正論だね」
「ダメなのか?」
ウォルターは真顔で
「僕の方が君より弱い。だから、こっちが謝るのが当然だ」
と、言った。ウォルターの理屈にアナベルは呆気にとられたような顔になった。
「なんで、お前の方が弱いってことになるんだ」
「それは…」
ウォルターが黙り込んでしまったので、アナベルはため息まじりで言葉を続けた。
「やっぱり、私はいない方がいいのか?」
「…?なんでそうなるんだ?」
「だって、私がいけなれば、お前だって彼女作ったり、友達呼んだりとか、色々出来るじゃないか」
「何言って…」
「考えてたんだけど、ロブ・スタンリー氏が私を雇ってるのって、そのためなのかなって、つまり、お前に好きなようにさせにくくするためっていうのか…」
「そんなこと考えてたの?」
ウォルターは、少し驚いた。確かに彼自身、アナベルと似たような事を考えていたのだが、彼女がそんな風に考えているとは、思ってもみなかった。




