2-6 聖邪の双子(7)
エナの宿舎前まで二人で戻って、ウォルターはアナベルを見送った。アナベルは手を上げて、敷地内に入った。早く部屋に戻って、問題集のタブレットに、少しでも目を通しておこうと、足を急がせる。幸い時間はまだ、八時よりずっと早かった。
部屋に戻ったアナベルは、早速タブレットに目を通し始めた。が、意外なことに玄関から、物音がしてくる。アナベルは思わず時計を見上げた。まだ、八時になっていない。アナベルは習慣で、玄関まで出迎えに出てしまう。玄関まで行くと、エナはロングブーツを脱いでいる最中だった。アナベルは
「お帰りなさい。早いですね」
と、思わず言ってしまう。
エナは顔を上げて、アナベルの顔を見ると
「只今戻りました。何か不都合でも?」
と、きいてくる。アナベルは自分の無駄な正直さに顔をしかめると、仕方なく現状を説明した。
「その、今、返して頂いた、問題集を見返している途中だったので…」
「ああ、そんなこと」
言いながら、エナは室内履きに履きかえると、リビングへ向かった。アナベルは
「コーヒー、飲まれますか?」
と、尋ねた。自分が飲みたくなったからだったが、エナは少し驚いたような表情になって
「ええ、頂きましょう」
と、応じた。
アナベルはキッチンへ向かうとコーヒーメーカーをセットして、いつもエナが朝使っているコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを注ぐ。続いて、自分の分も貰ってから、リビングに取って返す。
エナ・クリックは疲れた様子で目を閉じたまま、リビングのソファに座っている。珍しく何も読んでいない。アナベルはソファの前の小さなテーブルの上にコーヒーカップをおいた。コーヒーのよい香りが、ふっと漂った。エナは顔を上げるとコーヒーカップを手に取った。
「ありがとう、アナベル」
と、短くお礼言うと、エナはコーヒーを一口飲んだ。ほっとしたように息をつく。
「珍しいですね」
アナベルは自分のカップを手に、エナの対面のソファに腰を下ろすと、思わずそう口にした。
「何がですか?」
「疲れてるみたいだから」
と、アナベルは正直に、見たままを言ってしまう。エナはふっと目を細めて笑った。
「あなたは、私に対して、機嫌を悪くしていると思っていたのですが…」
「今朝のこと?私、博士に対して感じが悪かったかな?」
「どうかしら?あなたは良くも悪くも、赴くままという感じだから…」
エナの言葉にアナベルは顔をしかめる。
「それって、いいことなのかな、悪いことなのかな?」
「特に不都合を感じなかったから、そのままでいるのでしょう?違いますか?」
アナベルは少し考えた。
「そうかも、文句を言われることはあるけど…」
アナベルの言葉にエナは再び微笑んだ。疲れているのかと思ったが、機嫌がいいのか?
「問題集を見返していたのですか?」
「はい、博士にそれを見ればわかると言われたので、でもまだ全然途中です」
「そう…」
「あの、博士…」
「なんですか?」
「どうして、私にあの問題をやらせようと思ったの?」
「説明した筈ですが?今のあなたの学力を測りたかったからです」
「その尺度が、セントラル大学の入試問題だってことの意味は、特にないってこと?」
アナベルの質問にエナは微笑んで
「あなたは?どう思ったの?」
と、逆に聞き返してくる。ずるいな、とアナベルは顔をしかめながらも
「そう…セントラル大学に入れるつもりなのかなって…」
と、答えた。エナは微笑んだまま
「今のあなたがセントラル大学に入学できるなんて…そんなこと、思ってないわ」
と、あっさりと言った。アナベルはあからさまに安堵のため息をつく。
「そうだよね」
アナベルのほっとしたような表情を観察するような眼差しで見つめながらエナは続けて
「あなたは、あの課題をやってみて、どうでしたか?」
と、問いかける。アナベルは少し顔をしかめて
「無茶だって、思った。学校の課題だってあるのに…」
「でも、分かる範囲では、やることが出来た」
「でも、結局、全然、ダメだったんだろ?元々、博士みたいに頭がいいわけじゃないし…」
アナベルの言葉に、エナはコーヒーカップを両手で挟み込んだ。そこから暖を取ろうとでもいうように。そのカップに視線を据えたまま
「人間は生まれつきゲノムによって全て決定されている…」
「え?」
「そういう考えの人がいるの。どんなに不幸な境遇で育とうとも、善人に生まれつけば善人に育つ。逆に、どんなに恵まれた環境で育とうとも、悪人に生まれつけば悪人に育つ…」
「それは…極端じゃないかな…」
アナベルは顔をしかめながらそう言った。
「そう、思いますか?」
「だって、環境がよければ、悪人にならなくてすむ人間だっているだろ?そういうのも全然関係ないって…。努力したって、全然無駄って言ってるみたいだ…」
「そうですね。ですがあなたは、自分が思うように頭脳明晰でない事を、生まれつきの問題だと、そう思ってはいない?」
「え?」
意表をつかれて、アナベルは一瞬、絶句してしまう。
「それは…」
「自分は、博士のように頭がいいわけではない、その発言は、自分は生まれつき頭がいいわけではないから、出来なくても仕方がない、そういう思考をはらんでいます。違いますか?」
「それは…」
「ならば、あなたは、先ほど言った人と同じ考え方をしているということになるけど?生まれつき何もかも決まっていて、当人を取り巻く環境も、努力も、何の関係もない」
「それは…違います。その…」
アナベルは違うのだということを説明しようとして、言葉に詰まる。悪人になるのか善人になるのかということと、頭がいいか悪いは、別の次元の問題にアナベルには思えたのだ。が、上手くエナに説明することが出来ない。
アナベルの逡巡をみてとるとエナは続けて、
「あなたは随分リパウルを慕っているようだけど…」
と、言った。
「え?」
「それは何故?」
「何故って…」
そう改めて聞かれると、困ってしまう。リパウルを慕うな、という方が無理だろう。
「それは、凄く綺麗な人で、その上凄く優しくて…」
初めてオールドイーストに来たとき、エナはこちらの希望は全く無視して省みることもなかったのに、リパウルは真剣に話をきいてくれて、下宿先まで紹介してくれた。自分の上司である、エナの意向に背く形になると分かっても、アナベルの気持ちを汲んで、そうしてくれたのだ。カイルが入院した時だって、ずっと自分を気遣ってくれて…。
エナはアナベルの横顔を見つめたまま
「今の彼女の優しさは、おそらく、生まれつき備わったもの…などではないでしょう」
「え?」
「それは、彼女が自身の体験から、努力して身に付けたものです」
「そう、なんですか?」
エナは黙ってまだ少し、カップに残る、黒いコーヒーを見つめる。
ルーディアの前任者は、優秀な人間だった。けれど、カーチャは、プライドが邪魔をして、上手くルーディアを受け入れることが出来なかったのだ。ルーディアが次の担当候補としてリパウルを選んだ時、エナはまた同じことを繰り返すことになるのだろうと、推測していた。最悪の場合、自分がルーディアの担当のままでいるしかないか、と半ば覚悟もしていた。けれど、驚くほど素直に、リパウルはルーディアを受け入れた。
どうやって彼女を手なずけたのか、エナがルーディアにそうきくと、ルーディアは自分の方こそ手なずけられたのだと言った。彼女はとても傷ついていて、その傷のせいで、本当に自分を必要としている人間を、拒むことが出来ないのだと。
エナにはルーディアの言うことが殆ど理解出来なかった。しかし、ルーディアを通じて、リパウルと接触する機会が増えるにつれ、ルーディアの言葉に嘘はなかったのだとわかってくる。
非の打ち所のない、お手本のようなバイオロイド。そうでありながらリパウルは、驚くほど傲慢なところがなかった。彼女の謙虚さや控えめな気遣いを、処世のための計算だろうと見做していたエナだったが、今ではそうではないことを知っている。そしてそれは、ルーディアのいう事を信じるのならば、リパウルの傷が、生み出したものなのだ。
「…アナベル。人が一人一人違っていて、得て不得手があるということは本当です。ある人にとっては簡単に出来ることでも、ある人にとってはそうではない。そして、それら全てが学校の科目のように数値化して可視化出来るわけではありません。ある特定の分野に、異能の才を発揮する者がいる、それも事実でしょう。あなたにとって簡単に出来ること、例えば、疲れて帰ってきた人間に、コーヒーを手早く淹れる事…あなたにとっては簡単な気遣いかもしれません、けれど、そんな簡単なことでも、常に意識しなければ出来ない人間もいる。そういう人間が、優しく生まれついていないから仕方がないといって、気にすることもしなかったら、その人間はずっと傲慢なままです」
アナベルは困ったように顔をしかめる。
「いえ…コーヒーは、自分が飲みたかったからです」
「そうなの?ですがわざわざ私に断る必要はありません。私なら、自分が飲みたいからといって、あなたの分まで用意はしませんが?」
「え、そうなの?」
「そうです。今、あなたは自分が飲みたいからという理由で、私の分まで用意しました。きっと私も飲みたいと思っているだろうと気がついた。違いますか?」
「それは…」
そう言われてみれば、そうかもしれない。エナのことだ、いるかいらないか確認して、不要ならいらないと言うだろうと、そう思った。けれど、それがそんなに特別なことだとは思いも寄らなかった。
「あなたにとっては、バカバカしいほど当たり前のことです。けれど、アナベル、そんな簡単な気遣いさえ、努力しなければ出来ない人間もいるのです」
「…そうなんだ…」
アナベルは他になんと言っていいのかわからない。エナの言う通り、アナベルにとっては当たり前すぎるほど当たり前の事を、特別な気遣いのように言われているのだ。
「その差を生むのが遺伝なのか育った環境なのか、私自身は両方だろうと思っています。けれど、生まれつきで全てが決定されるのなら、あなたのその才能は、生まれつきそなわっていた…そういうことになりますね?」
「それは…」
違うだろう、とアナベルは思った。もし、自分にエナの言うような“才能”とやらがあるのだとしたら、それは恐らくカイルとの生活から身についたものだ。それは彼女にとっても、最初から備わっていたもの、というわけではない。
「ウォルター・リューは…」
「え?」
思わぬ名前に、考え込んでいたアナベルは、反射的に顔を上げてしまう。
「常にすばらしい成績を維持しています。文系の科目は特に見事です」
「はあぁ…。そうですね…」
「…ですが、理数系は苦戦している」
エナの言葉に、アナベルは彼女の顔を凝視してしまう。
「それでもAクラスを維持し続けています。彼なりに理由があって、努力しているのでしょう」
「それは…そうだと思います」
「あなたは、彼は最初から頭がいいのだから、自分とは違う、そう思っていませんか?」
図星をつかれて、アナベルは思わず顔をそむけた。
「それは、そう思ってました…」
ウォルターがいつも数学には苦労していると口にしていたのに、自分はまともに聞いたことがなかった。生まれつき頭のいい奴が、何を言っているのだと…。
「あなたは彼ほどの努力をしている、そうした上で、そのように考えているの?」
「それは…」
フェアではない、と言いいたかった。それこそ、環境が違うではないかと…けれど、今それを言ってもただのいい訳にしかならない。
「努力で全てが解決するなどと、言うつもりはありません。ですが、自分の限界を自分で設定していては、最初からそれ以上、上に行くことなど、到底無理です」
「…はい」
「勿論、無謀であれと言っているわけではありません。私は今、四十歳を越えていますが、最近になって少しだけ、自分に出来ることと出来ないことがあるのだということの区別が、出来るようになって来ました」
「え?どういう意味?」
「出来ることは何でもすべきだ。昔からそう思って、なんでも引き受けてしまうの。人には出来る、簡単な計算が私には出来ないの」
「…そうなんだ」
「だから、いつも時間が足りなくて困っています」
「博士にも、そういうところがあるんだね」
アナベルはいいのかなと、思いながらも笑ってしまう。エナは
「ルーディアに言わせると、私は初めて彼女と会った十代の頃から、中身は全く変わっていないようです。…つまり経験から何かを学ぶということが…成長するということが、ないのね」
と、肩を竦める。
「ですが、アナベル。与えられた課題をこなすだけでは、決して得られない楽しみ、というものが、この世にあるのは本当です」
「楽しみ…ですか?」
「そう」
と、エナは楽しそうに微笑んだ。
「なんですか?」
「挑戦を受けること」
「挑戦?」
「そうです。どこからともなくやってくる難問に、挑戦し続ける。世の中、不可解で不可能なことだらけです。けれど、克服できる問題も中にはあります。限界を自分で設定していては、その難問に打ち勝った時の達成感は得られないわ」
勝気な眼差しでそういうエナは、子供のようにも見えた。アナベルは不思議なものを見る目でエナの顔に見とれてしまう。博士がこんな表情をするとはアナベルには思いも寄らなかった。
エナは、ふいに普段の微笑に戻って
「今朝返した問題集は、やり直しても、来週、提出する必要はありません」
と、いきなり話をかえた。
「え、あの…」
「あれをどのように活用するのか、それとも全く活用しないのか、あなた自身で決めなさい」
「それは…」
アナベルの戸惑いには構わず、エナは言葉を続ける。
「もし、もう少し挑戦してみようという気になったのなら、シュライナー家に戻る前に、私に伝えてくれるかしら?」
「あ、はい…」
「まだ、学校の課題は終わっていないのでしょう?」
「はい、レポートが、まだ…」
アナベルの言葉にエナは頷いた。
「ならば残りはそちらに集中すべきでしょうね。随分、長話しをしてしまいました。先にシャワーを使ってもいいかしら」
「はい!それは、勿論」
「そう、では。コーヒーをご馳走様でした」
言いながらエナは自分の飲んだコーヒーカップを手に、キッチンの向こうへと姿を消した。一人リビングに残されたアナベルは、少し名残惜しいような気持ちで、その後姿を見送った。




