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オールドイースト  作者: よこ
第2章
160/532

2-6 聖邪の双子(3)

そんな風にして、気がつけば、約束の木曜日の朝を迎えていた。ありがたいことに、ここのところ、ずっと晴れ続きだ。晴れている方が、自転車での移動も楽だ。アナベルはご機嫌になって、うっかり鼻歌なぞ、歌いそうになってしまって、慌てて気を引きしめた。


 その日も、トーストをトースターに入れて、エナの残りのコーヒーをカップに注ぐ。カップとトーストを手にして、席についた。アナベルが座るなり、タブレットに視線をおとしたままエナが

「アナベル」

と、声をかけてきた。エナの方から声をかけてくるのは初めてだった。アナベルはトーストに歯を立てたまま、一瞬、止まってしまった。


「…何、…なんですか?」

思わずかしこまってしまう。


「今日はあなた、ウォルター・リューの家でのバイトは、休みの日でしたね?」


…なんでそんなこと、きちんと覚えているんだ!?アナベルは心の中で、後ろめたさにおののいた。確かに木曜日はお休みの日だ。が、冬休みに入ってから、サイラスが来ているのを口実に、ウォルターの家でのバイトは、実際にはずっとさぼっているのだ。にも拘らず、お休みの日の今日だけは、彼の家に行く予定になっていた。ウォルター手製の夕食を食べる為に…。


…言えない。当たり前のことだが、絶対にエナには言えなかった。


「はい、そうですが…」

と、アナベルは答える。エナは、目線だけで、アナベルを見やった。

「では、今日の夕方は、何か予定がありますか?」

「え?」

と、アナベルは戸惑うが、エナは彼女に戸惑う余裕を与えない。


「何か予定がありますか、と訊いています」

「え、特には…」

咄嗟にそう答えて、自分でもしまった!と思うが、後の祭りだった。


「そうですか。日中のバイトの終業時間は何時ですか?」

「えっと、三時ですが…」

「そう。でしたら、五時に、私の執務室まで来られますね?」

「え、は、はい…」

「分かりました。では五時に私の執務室に来なさい」

「あの…」

ここまでずっとタブレットに向かって話しかけていたエナが、顔を上げて、戸惑うアナベルの顔を見た。


「どうかしましたか?」

「いえ、あの、どうして…」

「ルーディアがあなたに会いたがっています。今まではバイトで忙しいからと我慢させていました。食事を一緒にとりたいようです」

「え…ルーディアが?」

「やはり彼女は、技研の地下ではよく眠れないようね」

そう、エナはため息交じりで零した。


「寝てないの?ずっと」

「データを見ると通常の眠りは取れているようですが」

「通常の眠り…ですか?」

「いえ、それはいいのです。納得しましたか?あなたが嫌だと言うのなら…」

「いえ、言わないです!」

と、アナベルは急いで否定した。ずっとルーディアの事を忘れていた。自分の薄情さが、アナベルは少し後ろめたい。


「それと、課題の進捗具合はどうですか?」

「博士の出した課題のことですか?」

「両方よ」

「まあ…なんとか…」

「私の方の課題は、明日の朝、一度私に提出しなさい」

「え?」

「最初に言ったはずですが?」

「え、いや、一週間って…」

てっきり週末まで期限があるのだと思っていた。


「出来ているところまでで構いません。五年分の問題集を二年分だけにしているのですよ?」

それは、ウォルターから聞いて知っている。彼が購入した問題集は五年分のもので、アナベルの問題と比較してみると、アナベルの問題は過去最新の二年分しかなかった。


「はい、わかりました」

「では、五時に」

それだけ言い残すとエナはアナベルを置いて席を立った。

 アナベルはがっくりと肩を落としてしまった。


***


 図書館でのバイトが休みの今日、ウォルターは久しぶりで、少しだけのんびりと朝寝をしていた。目を覚まして、携帯電話手に取ると、アナベルからメッセージが届いている。


【博士からの要請で、今日の夕方用事が入りました。そっちには行けそうにない。ごめん】


メッセージを一読して、ウォルターは天井を見上げた。


 …まあ、こんなものだろう…。


 かなり落ち込んでいる自分を慰める為、ウォルターはあえてシニカルに思ってみる。


これは…よくある展開というやつだ…。何を作ろうかあれこれ考えすぎて、思いつくレシピが半ば飽和状態になっていたし、かえって良かったのかも知れない…。そう思いながら、ウォルターは携帯を手にしたまま、がっくりとうなだれた。


***


アナベルが朝出したウォルター宛のメッセージには、さして間を置かず、ウォルターから【了解】という簡潔な返信が届いた。アナベルはため息まじりで、それに【理由はまた、説明します。本当にごめん】と、返したが、特に返事は来なかった。


アナベルは、バイトの時間には、携帯電話をリュックに入れたままにしていることが多いのだが、今日はめずらしくポケットに入れたままで、頻繁に確認してしまっていた。


別段、返信が必要な内容ではない。そう思いつつも、気になって、つい見てしまう。普段は携帯電話の存在を忘れ去っているかのような、無頓着なアナベルの珍しい行動に、イーシャまで気がついて首を傾げていたが、アナベルは簡単な言葉でごまかした。結局、返信が来ないまま、気がつけばアフマディのお店でのバイトの時間が終わっていた。


バイトを終えたアナベルは、携帯をリュックに投げ込むと、返信の事は忘れることにした。四時過ぎまで図書館でエナの課題に取り組んでから、技研へと向かう。五時前にはエナの執務室についた。インタフォンを鳴らすと、エナ当人が出てくる。アナベルの挨拶を、廊下を歩きながら聞き流し、アナベルには三度目になる、地下へのルートを、エナは先にたって急ぎ足で歩く。エレベーターホールの前でようやく話しかけることが出来た。


「あの、ルーディア…元気ないんですか?」

「普段から元気といえるのかしら?そうね、地下に居ない時の彼女の様子を、私は知らないから」

と、エナは呟くと、アナベルの方に顔を向け

「あなたの知っている普段のルーディアは、元気なの?」

と、逆に質問を受けてしまう。アナベルは素直に首を傾げて

「そう…ですね…」

「夜になると、時々、あなたやリパウルと連れ立って、地下から出て行って…夕食を一緒に食べているようね」

「はあ、起きてる時は、大体…」

「何が好物なの?」

「焼き菓子とか…グラタンとかサーモンとかも好きみたいです」

「…そう」

と、呟くとエナは微笑んだ。


「あの、逆に今まではどうだったんですか?」

「普通よ。起きている時間もあまりなかった。シュライナー家に居る時の彼女の活動量には驚かされています」

「え、あれで?」

「そう」

言いながら、やはりエナは笑っている。


「でも、そうね。私も自分が担当になる以前の彼女の事は、情報としてしか知らないの。私の次に担当になった者は、彼女の口の悪さに、随分痛めつけられていたようでした」

「え…。あ、ああ…」

アナベルはなんとなく納得してしまう。リパウルの前の担当の人も、リパウルみたいに、やっつけられていたのか…。


エレベーターに乗り込むと、エナは慣れた手つきで操作する。

「担当ってどうやって決めるんですか?」

「そうね、私の場合は、上司の指示だったけど。私が所長になるにあたって、彼女の担当を新しく決めなければならなくなって、…彼女に決めさせたの」

「え?ルーディアに決めさせたの?」

「そう、技研の所員名簿の写真データから、彼女が決めたの。リパウルも彼女の前任者も」

そのタイミングで、エレベーターが地下に到着した。


エナは、真っ直ぐに外に出た。アナベルも急いで後に続く。エナはすたすたとスリープポットに近づくと、ポットの蓋を開けた。それから

「ルーディア」

と、ポットの上から声を掛ける。


ルーディアがむくりと体を起こした。微妙に髪が乱れている。ルーディアはエナを一瞥すると、視線をアナベルの方に向ける。目が合うと、柔らかく微笑んだ。

「アナベル…」

先週会ったばかりの筈なのに、ルーディアは妙に懐かしそうな表情で、アナベルの名前を呼んだ。アナベルもつられて懐かしくなってしまう。


「ルーディア、なんだか久しぶりだね」

と、笑った。

「そう…でも、本当はそうでもないんでしょ?」

「まあ、そうなのかな?一週間ぶりが久しぶりかどうか、だよね。冬休み前は二ヶ月も寝てたんだし」

と、アナベルは首を傾げた。


 エナは二人のやり取りを、腕を組んで見ていたが、何も言わずに踵を返すと、エレベーターへと姿を消した。アナベルは慌ててしまうが、ルーディアがポットから飛び降りてアナベルの袖を引っ張った。


「エナは食事を取りに行ってくれたの」

「え?博士が?」

「そう、多分、エナかムラタさんが持ってきてくれると思う」

「そうなんだ…」

そうだった、今日は食事を一緒にという話しだった。それにしても

「え、っとつまり、ここで食べるの?」

と、無機質な室内を見回してしまう。


「夏もここでエナとランチを食べたわ」

と、ルーディアが楽しそうに笑った。

「え?博士がここで?」

「きっと今日もここで一緒に食べてくれると思うけど?」

と、ルーディアは首を傾げるが、アナベルには、ここで自分たちと食事を取るエナの姿をどうしても想像することが出来なかった。アナベルの戸惑いには構わず

「ね、アナベル。あなた、大丈夫なの?」

と、声をひそめて訊いてくる。


「え、何が?」

「サイラスが来ているんでしょう?危ないこととか、ない?」

アナベルは驚いてルーディアの顔を見つめてしまう。ルーディアがそんな風に自分の身を案じてくれていたなんて。ふっと、アナベルは周囲を見回した。


「あの、ここ、声は?記録されてるんじゃ…」

と、アナベルが気を回すと、ルーディアは首を振った。

「アルベルトの家の地下と一緒。会話は録音されてないわ。エナが所長になってから、音の記録は止めたの。前の所長の時は会話も録音されていたけど…」

言いながら、ルーディアは眉間にしわを寄せた。唇を噛み締め、明るいパステルカラーのフレアスカートの裾を、握りしめている。


「ルーディア…」

「会話くらいはプライバシーを保っておこうって。エナは、映像記録はとっているし、色んなデータを残してるけど、それは、エナなりに考えあってのことで、私を支配しようって思っているわけじゃないの」

「ルーディアは、博士のこと、嫌いじゃないんだ」

「そうね、恐いけど嫌いではないわ」

「…恐いんだ」

「アナベルは?エナに苛められたりしてない?」

と、ルーディアは眉をひそめる。


みんなルーディアの事を心配しているというのに、当のルーディアは自分の心配をしているのか、そう思うと、アナベルは可笑しくなってくる。


「平気だよ。そうだね、恐いけど、嫌いじゃなくなってきてる…」

アナベルはルーディアの言葉を借りてそう言った。そして、本当に自分がエナを嫌いではなくなっていることに気がついた。


 オールドイーストに来る前に、カイルがエナについて言っていたように、ひょっとしたらエナは不器用なだけで、見た目ほど冷たい人間じゃないのかもしれない。一週間、少しずつ交わす言葉が増えるにつれ、アナベルはそう思うようになっていた。何より自分が大好きな、リパウルとルーディアは、間違いなくエナ・クリックという人間に信頼を寄せている。それだけでも、エナを信頼してもいいような気がしていた。


「そう、ならいいんだけど…」

と、ルーディアは気遣わしげに頷いた。

「サイラスも…大丈夫じゃないかな?あいつにはあいつの事情があるんじゃない?」

と、アナベルは適当な事を言った。


「事情?」

と、ルーディアは首を傾げた。アナベルは慌てて

「とにかく、私の方は全然、大丈夫!ルーディアこそ、眠れてないみたいだって博士が、心配していたよ?」

「そうね…」

と、ルーディアはため息をついた。


「前は平気だったのに、不思議だわ」

「リパウルと、博士に聞いたんだけど、博士ってルーディアの担当だったんでしょ?リパウルみたいに」

「そうね」

「じゃ、ずっと前から知り合いだったの?」

「そう…彼女はあまり変わらないから、よくわからないけど、今のリパウルくらいの年齢の時に、担当になったのかしら?前任者の補佐みたいな立場だったから…」

「何人くらい担当の人いたの?」

と、アナベルが首を傾げると、ルーディアは首を振った。


「そうね…子供の頃は、私はミソっかすだったから…担当らしい担当は…どうかしら。何人と訊かれると、よくわからない」

「そうなんだ…あのね、ルーディア…」

「何?」

何やらアナベルが言い難そうに、口ごもったので、ルーディアは首を傾げる。


「その、ごめんね。ルーディアがここに跳ぶ前だったか後だったか、その時に博士にルーディアの年齢を聞いちゃったの…」

「そんな、謝らなくても…。エナ、私のこと何歳って言ってた?」

「え?」

「つまり、私が生まれてから、今、何年経過しているのかなぁって…」

「ルーディア、知らないの?」

と、アナベルが目を見開くと、ルーディアはばつが悪そうな表情になって顔をそむけた。


「そう…寝てばっかりだから、よくわからなくて…」

「えと、言ってもいい?」

「私、そんなに、構えなくちゃならないほどのお婆ちゃんなの?」

と、聞く前からルーディアはおののいた。


「いや、ルーディアは知っているんだと思っていたから」

「うん、それで?」

「エナが言ってた通りに言うと、十二歳で成長をとめて、今年で五十年くらいだって」

「五十年…」

「うん…」


アナベルはルーディアの反応の意味をどう解釈すべきか、迷って、少し様子をみてしまう。

「あの、ショックなの?」

と、アナベルが恐る恐る尋ねると、ルーディアは微妙に情けない顔になった。


「ううん、以前訊いた時には、十二歳で成長をとめて、今年で四十五年くらいだって、言ってたから、それ聞いてから、もう、五年も経っているのかと思って、ちょっとへこんじゃったの…」

「覚えてなかったってこと?」

「というより、殆ど寝ているから、よくわからなくなるのよ…」

と、何がショックなのかルーディアはがっくりとうなだれて、床に手をついてしまう。

「ル、ルーディア?」

「ああ、ごめんなさい」


…あれからもう、五年も経つのか…。


五年前、あの忌まわしい病棟で、薄い金色の髪の少年が、『これから一緒に大人になれるんだね』と、自分に期待と信頼の眼差しを向けた。


自分は彼の言う通りに、彼と一緒に大人になれるのだろうか?そもそも今、自分は何歳なのだ?気になって、その時の担当者だったエナに、そう訊いたのだ。


けれど、自分は少しも成長しなかった…。


少年は一人で大人になって、そうして自分は彼を忘れるようになった。会うたび忘れて、会ってから少しずつ思い出す。思い出した少年は、自分の記憶にある、守らなければならない子供ではなくなっていた。


いつ頃からだったのだろう?ただ、ひたすら無邪気に、自分に、信頼と愛情と好奇心の入り混じった感情だけを向けていた彼の心に、別の感情が混じり始めたのは?その眼差しに、次第に失望が混じってくるようになったのは?それを見たくなくて、自分は、彼の事を思い出しても、すぐに忘れるようになっていったのだ…。



うなだれた姿勢のまま、固まってしまったルーディアの傍らに、戸惑いながらアナベルも腰を下ろした。

「ルーディア…大丈夫?」

と、声をかけてみる。心配そうなアナベルの声音に反応して、ルーディアは顔を上げた。


「ああ、ごめんなさい。ちょっと色々と思い出してきて…」

と、相変わらず情けない表情のままそう言った。

「ごめんね。私、やっぱり嫌な事を言ってしまったかな?」

ルーディアは首を振った。

「ううん、大丈夫」


そんなやり取りをしていると、エレベーターからエナが静かに下りてきた。彼女は真っ直ぐ、うなだれている、ルーディアの側に近づくと

「一体…何をやっているの?」

と、上から容赦のない言葉を掛けた。


 エナ・クリックは片手に、食事用とおぼしきプレートを三枚重ねるように持ち、腕にはなにやら、薄い藤色の布を掛けていた。エナは無造作に、プレートをアナベルに渡すと、腕に掛けていた布を床の上に敷いた。そのまま、アナベルに渡したプレートを一枚ずつ手にとって、布の上に置いていく。


「本当にここで食べるんだ…」

アナベルは呆れたような、感心したような口調で呟いた。こんな地下で、まるでピクニックのようだった。エナはアナベルの言葉には答えず、両手を床につけたまま、それでも顔を上げたルーディアに向かって

「折角わざわざアナベルに来てもらったのですから、いい加減で情けない姿をさらすのは止めなさい。みっともないわ」

と、すげなく言った。


アナベルは先ほどルーディアの言った、エナに対する自分の感想を取り下げたくなってきた。


 地下で、ピクニックもどきの食事会をするのはいいのだが、この奇妙な状況に、どう対応していいのかアナベルにはわからない。アナベルの困惑をよそに、ルーディアが

「そういえば、去年は、アナベルとリパウルの三人で、夜にお茶会をしたわね」

と、嬉しそうに切り出した。アナベルも思い出して

「うん、ルーディアが久しぶりで起きて来て…」

と、言葉を続ける。


思い出して、奇妙な感慨を覚えた。去年の今頃、まだ、リパウルはアルベルトと少しぎこちなくて、アナベルはルーディアと二人で、リパウルの応援をしていたのだ。そして、自分はウォルターとは、まともに話しさえしていなくて…。


 一年で結構いろんなことが変わっている。けれど、ルーディアだけは、一年前と同じだ…。そう思いながらアナベルは、無意識にルーディアを見つめてしまう。ルーディアは、寂しくないのかな…?アナベルはそう思って、何故だか自分の方が、少しだけ寂しい気持ちになってしまった。

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