2-6 聖邪の双子(2)
昨日と同じく、自転車で縦並びに、技研の宿舎へと向かった。先を行っていたアナベルが、宿舎の手前で自転車をおりた。後ろを向いて、ウォルターがついて来ているか、確認をする。ウォルターもマウンテンバイクをおりて、彼女の横に並んだ。
「なんか、二日も、悪いな…」
「二日もって、明日も送るつもりだけど?」
「…私の方こそ、お前を送りたいよ」
と、アナベルがため息まじりでそういうので、ウォルターもため息をついてしまう。
「また…どうかしたの?」
「いや、別に…」
「だったら、本当に、僕を送る?」
「え?」
アナベルは足を止めて、ウォルターの顔を見上げた。
「…君がそのまま僕の家に泊るって言うんなら、それでもいいけど?」
ウォルターもアナベルを見下ろしながら、変に真面目な顔で、そう言った。アナベルはうろたえた。
「いや、そんなつもりじゃ…」
「だろうね」
と、ウォルターも宙に向かって息をついた。それから彼女に顔を向けると
「君がいなければ、エナが黙っていないだろうし、…真っ先に僕が疑われそうだ」
と、呟く。
「疑うって…」
「帰りなよ、ここで見送るから」
「うん…」
なんだろう、帰りたくないのだろうか、自分は。アナベルはウォルターがどんな顔をして自分を見ているのか、見たいような見たくないような、変な葛藤に襲われた。
「お前…」
「うん?」
人が通らないのをいいことに、二人は自転車で歩道を占拠し続けた。
「その…例えば、例えばの話しだよ?」
「うん…」
「私がお前に、何か、…その、ねだったりしたら、嬉しいのか?」
と、アナベルが自転車のサドルを見ながら、妙な事を言い出した。
ウォルターは宙に向かって顔をしかめた。また何か、妙な事を吹き込まれたな…。彼女に妙な入れ知恵をした犯人が誰なのか、ウォルターには見当がついた。
「…それは、こっちを喜ばせる意図が見え見えだったら、そいうのはかえって逆効果なんじゃないの?」
「そうなのか?」
アナベルは顔を上げてウォルターを見た。見ると、見慣れた、どこか人を、馬鹿にしたような表情が浮かんでいる。アナベルはなんとなく安堵する。
「そうだよな、そりゃそうだ」
「君が本当に欲しいって思ってて、で、なおかつ、僕から渡して欲しいって思ってるものじゃなきゃ意味がない。他の人がどうなのかは知らないけど、僕にとってはそうだね」
「お前から欲しいもの…」
今はあの青い星が欲しかった。ウォルターが誕生祝にくれた、青い惑星模型は、アルベルトの家の自分の部屋に置いてきた。エナの家に来て、まだ、三日しかたってないのに、もう、あの星が恋しかった。
「え?何かあるの?」
と、ウォルターが意外そうな声音で訊いてくる。どうせ、ただの好奇心で、妙な事を聞いてきただけだろうと、たかをくくっていたのだが…。アナベルは、黙って首を振った。
「ううん、そうじゃなくて…」
と、いうと、息をつく。変に胸が一杯だった。
…やはり安くても、カロリーだけは高いファストフードを食べてるから…。これから二週間、ずっとこんな夕食か…。と、彼女は心の中で愚痴をこぼした。
「お前の作った料理が食べたいかな…」
と、呟く。ウォルターが、目を見開くのが分かった。
「いや、その…これからずっとファストフードかって思ったら、たまには手料理とか食べたいなって…。本気で言ってるわけじゃ…」
「いや、そうだね。確かに、安いけど、体にはよくないし…」
と、ウォルターまでが何やら母親みたいな事を言い出した。
「…君がいいんだったら、食べに来る?」
「え?」
「その、木曜日はお休みの日だろ?僕も図書館は休みだし、アフマディのお店が終わってからなら、そんなに暗くもなってないから…」
「え、でも、仕事は休みって、さっき…」
「だから、ただ、遊びに来る…みたいな感じで」
言いながらウォルターが俯いてしまったので、アナベルもつられて俯いてしまう。
「だって、いいのか、せっかくの休みに…」
「いや、僕もすでに食べ飽きそうだって思ってて…」
「お前まで、つき合わせて…」
「違う、そういう意味じゃなくて…」
ウォルターは一度息をついた。うちに食事に来ない?普段から来てもらっているし、別段、妙な下心があるわけでもない。ならば、それほど難しいことではない筈だ。なのに、こんな台詞でさえ、彼女にすんなり受け入れてもらうのは難しい。
「君がいいんだったら、何か作るよ。夏に作ったような料理は作れないから、普段食べてるものとあまり変わりないけど…」
「いや、あの、先週、アルベルトの家でみんなで食べた時…あの時の、ターキーのサンド、作ったのって、お前だろ?」
「え、よくわかったね」
「うん…あれ、美味しかった…」
と、アナベルが俯いた。
「あれは、材料がそろってたから、ただ、はさんだだけで…。君の好物だって思って」
「うん…」
なんとなく二人で黙り込んで、俯いてしまった。アナベルはウォルターが自分の好物を覚えていてくれて、作ってくれたのが嬉しかったし、ウォルターはこの話の展開自体が嬉しくて、はしゃぎだしたいほどだった。
「あの、じゃあ…」
「うん、そうだな。バイト、終わったらお前んちに行けばいいのか?」
「そうだね。食材も買って…、何か用意しておくから」
「そんなに張り切らなくても、一緒に作ってもいいんだし…」
アナベルは、おかしそうに笑った。ウォルターの好きな、素直で可愛い笑顔だった。街灯の明かりがもっと明るかったらいいのに…。
彼女が妙な事を言い出した時には、また、ウバイダに妙な事を吹き込まれたなと、うんざりしたが、結局まんまと喜ばされている。とはいえ、悪い気分ではなかった。それどころか、彼に感謝したいくらいだ。
「そうだね、じゃ、木曜日まではファストフードで…」
「木曜日に、お前の料理が食べられるんだったら、それを励みに頑張れそうだ」
と、アナベルがニコニコしている。ウォルターは、横を向いた。
「じゃ、そういうことで」
「うん、わかった」
アナベルは頷くと、自転車を押して、宿舎に向かって歩き始めた。途中一度振り返って、笑顔で手を上げた。ウォルターは彼女が警備の人と言葉を交わして、宿舎の敷地内に姿を消すまで、その後姿を見送った。
***
月曜日からはアフマディのお店でのバイトである。アフマディのお店でのバイトはカフェの時より朝が早い。週末、トレーニングに出ているのと殆ど同じ時間帯だったので、必然的に朝食の時間も、エナと一緒になってしまう。なので、エナ・クリックと朝食を食べるのも三回目だ。流石に、少しは慣れてきた。
エナは朝食をとりながらいつも、資料に目を通していて、自分から話しかけてくることは、まったくなかったが、アナベルが話しかけると、大抵の場合は普通に答えてくれた。ハリーとは別の意味で、同じくらい嫌な親だと思っていたエナだったが、少なくとも意思の疎通ははかれる。それだけでも随分マシだと、アナベルは思うようになっていた。アナベルは金曜日の夜からここに寄宿しているが、エナ・クリックは毎日のように技研に出勤してた。
「博士って、いつ休んでるの?」
と、すぐにおなかがすいてしまう、薄いトーストをかじりながら、アナベルは尋ねた。
「適当に休んでます」
「でも、週末もずっと技研に行ってるみたいだけど、一日お休みの日とか、なくてもいいの?」
と、アナベルは首を傾げる。現に今だって、朝食をとりながら、何かに目を通している。まさか、ウォルターのように寸暇を惜しんで、彼が言うところの、娯楽小説を読んでいるわけではないだろう。
アナベルの言葉にエナはシニカルな笑みを浮かべる。
「あなたも休んでいないように見えますが、アナベル?」
「そりゃ…」
長期休みは帰省費用を貯める為の大事な休みだ。これでも勉強に使う時間のため、去年より控えめに働いているのだが…。いくら少しは慣れてきたとはいえ、エナに向かって、帰省費用を貯める為に仕方なく働いています、とはいえない。
「なんですか?」
「博士は別にお金のために働いているわけじゃないんだろ?」
「お金のためですけど、それだけではありません」
と、言うと、エナはコーヒーを口にした。それから
「つまり、あなたはお金のために働いている…ということね」
「バイトする理由なんて、他にはないでしょ?」
と、アナベルがやや挑戦的ないい方をすると、エナは
「ご苦労なことね」
と、にっこりとした。本気でねぎらっているのか、ただの皮肉なのか…この笑顔は後者だな、とあたりをつけて、アナベルは少しげんなりしてしまった。
エナと殆ど同じ時間に宿舎を出ると、アナベルはアフマディのお店にむかって自転車をこぐ。駅の向こうにあるので、アルベルトの家から行くより、少しだけ遠い。もっともアルベルトの家も便利なところにあるとはいえなかったので、この程度の距離ならば、今のアナベルにはそれほど苦にはならなかった。
去年と同様、テイクアウト用の窓口で、イーシャが快活に迎えてくれた。先週末にも学校で会っているのだが、イーシャの元気なのりが、やけに懐かしく感じられる。週末の出来事が、意外に身にこたえているのだろうか。去年と同じ段取りで、さっそく、配達を始めた。
厨房の中で調理にいそしむウバイダは、いたって紳士的だった。イーサンが半ばバカにしたように教えてくれた通り、ただ、アナベルをからかっていただけのようだ。本当に厨房での調理で忙しくて、こちらに構う余裕はなさそうだった。
お昼のランチ休憩の時間に、イーシャに、当たり障りのない範囲で、ウバイダの言葉を伝えると、イーシャは面白そうな笑顔になって声をひそめて
「ウバイダは父さんと母さんの前じゃ、猫をかぶっているから」
と、教えてくれた。
「今ってまだ、イーサンと一緒に暮らしてるんでしょ?どうなの」
「そうねー。かぶってる猫が、より高級な猫になってきてるかも。私まで騙されそうになるわ」
「え、そんなに…?」
「ほら、元々、優しそうな顔してるじゃない、顔だけなんだけど。中身は結構、根性曲がりなんだけどねー」
「まあ、そうだね…」
もっとも、ウバイダ自身は、自分の根性が曲がっている…などとは、思っていないのかもしれないが…。
「ウバイダだって、顔が普通だったら、そんなに騙された感はないのかもしれないんだけどさ、どんな人だって多少は猫をかぶってるもんでしょ?」
「まあ、そうだね」
「あれでも一応、一人前って認めてもらって、イーサンとのことも、母さんや父さんに認めてもらおうという、けなげな努力なんだと思うのよね」
「そうなのか」
そう聞くと、裏表のある奴だとむげに批難も出来なくなってくる。それにアナベル自身は、猫の有無に関らず、ウバイダが嫌いなわけではない。
「まだ、反対されてるの?」
「ううん、父さんは元々反対してなかったからさ。母さんは…どうかなぁ…」
「イーシャだって、お母さんは未だに難色を示してるんでしょ?」
イーシャの母、マミヤムはイーシャの今の彼氏、ドミトリィの誠実な人柄を評価はしたが、それと交際とは別の問題だというスタンスをとり続けているらしい。恋人は出来るだけ似た環境で育った、似た価値観の人間を選ぶべきだというのが、マミヤムの変わることのないポリシーのようなのだ。学校のランチタイムにその話をしながら、イーシャは「先のことまで考えて気を回しすぎだっていうのよ!」と、毒づいていたものだったが…。
「まあねー。でも、結局、折れてくれるって、わかってるんだよね、私もウバイダも」
「そうなんだ?」
「そ、ぎりぎりまで反対はすると思うけど、最後には母さんは父さんに従うし、私たちの事を諦めてくれるのよね」
と、イーシャは肩を竦めた。
あきらめる…という言い方は、イーシャの照れなのだろうと、アナベルにはわかった。母親が最後には、自分たちの望みと幸福を受け入れてくれるだろうという、信頼の言葉を、イーシャは素直に口にすることが出来ないのだ。アナベルは思わず微笑んだ。
「いいお母さんだね」
「そうお?」
と、イーシャは照れ隠しににやりと笑い、首を傾げてみせた。
アフマディのお店でのバイトを三時に終えると、アナベルは図書館に向かう。そしてウォルターのバイトの時間が終わるまで、一人で勉強に取り組んだ。




