2-6 聖邪の双子(1)
サイラスと彼の恋人だという、キダ・ミサキがアナベルのバイト先のカフェに現れたその日を最後に、この年のアナベルのカフェでのバイトは終了となる。
次回は年明け、二週間後の週末だ。これでアナベル自身は、サイラスと遭遇することはなくなるわけだが、冬休み中シフトが入っているセアラは、大丈夫なんだろうかと心配になってくる。
すでに随分ほだされている様子だった。元々、幼馴染で親しかったのだから、仕方がないのかもしれなかったが、アナベルは、セアラのように、簡単に無防備な気持ちには、なれなかった。とはいえ、そのセアラの素直さは、アナベルにとってもありがたいとは言えた。
ルカの好きな女…という誤解が、めでたくとけたおかげか、セアラは随分と有効的になって、ランチタイムの短い時間にすでに随分、親しげに歩み寄ってくれていた。ミサキに負けていなかったことも、高感度アップに貢献したのかもしれない。
アナベルが、次のシフトは二週間後になる、と伝えると、嘘偽りなく心細がってくれて、来年会えるのを本当に楽しみにしていると、手まで握ってくれた。好意的になってくれたのはとても嬉しいのだが、ここまでくると好意的を通り越して、懐かれていると言ってもいいのではないか?と、いう気がしてくる。アナベル自身はセアラのことが、最初から嫌いではなかったので、好意的になってくれて、少し嬉しくもあった。
***
その日のバイトを終えたアナベルは図書館へと自転車を急がせる。
図書館に到着すると、待ち合わせ場所に決めている、自習スペースへと足を向ける。
エナに渡された課題を開くと、散りそうになる気と、格闘しながら、アナベルはなんとか、問題を解くことに集中した。
どのくらいの時間、そうしていただろうか。ふっと、近くに人の気配を感じて、アナベルは顔を上げた。視線の先で、ウォルターが黙ってタブレットを読んでいた。アナベルが自分に気がついたことに気がつくと、ウォルターも目線をあげた。
「…いつから居たんだ?」
図書館なのであまり大きな声で話せない。自然と声をひそめて顔を寄せ合うようになってしまう。
「ついさっきだけど。君の近く席が空いたんで、移動してきたところ」
ウォルターも声をひそめて応じる。言われてアナベルは腕時計を見た。
「あれ、五時も、結構過ぎてたんだな…」
「うん、随分集中してたね。それ、クリック博士の課題」
「うん、そう」
「そう。…で、バイト、どうだった?」
と、言うのはセアラのことだろう。
「うーん、それが…」
「何?」
「盛りだくさん過ぎて、どこから話せばいいのか…」
アナベルは上半身をかがめたまま、ため息をついてみせた。
「…出た方がいい?」
と、ウォルターが確認してきた。
「うん、そうだな…」
と、言いながらも、アナベルはタブレット視線におとす。ウォルターはアナベルの考えを察知すると、
「じゃ、もう少し…君が切りのいいところまで進んだら、出よう」
と、言うと、返事を待たずに再び自分の手にしているタブレットに視線をおとした。アナベルも、そのまま、問題を解く方に意識を切り替えた。
集中力が続かなくなるまで、課題をやって、二人は図書館を後にした。
***
昨日とは違う場所でファストフードを買うと、そのまま人通りの多い、賑やかな場所で、自転車のサドルに縋るようにして、ハンバーガーにかじりつく。
「で、何があったの?」
と、ウォルターが前置き無しで切り出した。アナベルは、ハンバーガーを飲み込むと
「カフェにサイラスと、あとミサキって女が来た」
と、あっさりと言った。
「え?」
「女の方は名乗らなかったんだが、後でセアラがミサキがどうのって、当たり前みたく話してから、キダ・ミサキで、間違いないだろう」
「あの…」
「あの女、お前のこと、知ってたぞ」
「は?」
「それに、アルベルトとリパウルのことも知っていた。私の下宿先も…」
話しが速すぎて、全くついていけない。ウォルターはやや乱暴に、バーガーを食べ終えた。味も何もあったものではない。
「君、次から次へと…こっちは、全然、ついてけてないんだけど…」
「どの辺りから、ついていけてないんだ?」
と、何故かアナベルは、バーガーを片手に、目を眇めるようにして、ウォルターを見た。
「どのって…あの、何か怒ってる?」
「はあ?」
「いや、機嫌が変じゃないか?」
「怒ってない!お前、自分の家が知られたら困るとかって言ってたけど、結局、お前の事もばれてるんじゃないか?」
「だから、何を言って…」
「妙な客が来ても絶対に家に入れるなよ?」
「いや、アナベル…?」
ウォルターの途方にくれたような顔を見ながら、アナベルは自分でも何をカリカリしているのだろうかと、首を傾げてしまう。話さなくてはならないとは思っている。けれど、あまり話したくなかった。
「つまり、キダ・ミサキが僕の事を知っていて、家に来そうなの?」
と、ウォルターが疲れたように、そう言うと、アナベルは
「何で!?行くわけがないだろう?」
と、大きな声を上げた。ウォルターは反射的に周囲を見回してしまう。アナベルは続けて
「お前、来て欲しいのか?」
と、情けない声を出した。あまりに無体な言いがかりに、ウォルターの方こそ、情けない顔になってしまった。
「…いや、君が家に誰か来ても入れるなとかいうから…」
「当たり前だろ?」
言いながら、アナベルも、自分が何を言っているのかわからなくなってきた。
「とにかく冬休み中は、お前は絶対カフェには行くな」
「はあ…?」
「なんだよ?行きたいのか?」
「いや…別に…」
「だったら、いいだろう。お前、図書館の休みの日っていつなんだ?」
「…木曜日にしてるけど」
「そうか」
アナベルは安堵のため息をついた。それだったら、ミサキと遭遇する心配はないだろう。もっとも彼女がその気になれば、いつでもウォルターを捕捉出来そうではあった。考えていると、余計にイライラしてきた。これだったら、エナの課題に取り組んでいた方が、マシだという気分になってしまう。
ミサキは別段、綺麗な女、というわけではなかった。けれど、全体の印象がひどくアンバランスで、かえって惹きつけられた。その上、キスにも随分慣れていた。思い出すと屈辱で頭に血が上った。あんな場所であんな風に…。彼女がその気になれば、いかにも女慣れしていない男子学生など、好きに手玉に取れそうだった。
アナベルが不機嫌な表情のまま黙りこくってしまったので、ウォルターは残りの飲み物まで飲みきってしまう。
「で、結局、彼らは何をしに来たわけ?」
「そんなのこっちがききたい」
相変わらず不機嫌そうにアナベルは応じる。
ミサキという女性が自分の事を知っていた…という点について、もう少し具体的に聞きたかったのだが、きくと、彼女の機嫌がまたおかしくなりそうだったので、ウォルターは、とりあえず我慢した。
「で…何、結局君、ずっとそのミサキって人と話してたの?」
「何が?」
「だってさっきからその人の話しかしてないし…」
「ああ、サイラスは、なんかずっとルカの真似してたな」
「ああ、そうなんだ」
「で、何しに来たんだって聞いたら君に会いに来たとか言ってたけど…」
「へぇ…」
「実際はセアラに会いたかったみたいだ。ミサキもそう言ってたし」
「はあ?」
それまで、やや仏頂面で聞いていたウォルターは、またまたわけの分からない展開になったと、首を傾げた。
「あとでセアラに聞いたら、サイラスは子供の頃から遠方の学校に通っていたらしい。母親が子供の頃に亡くなったとかで、セアラの母親が、ルカとサイラスを引き取ったって。セアラの母親は看護師らしいぞ」
「…また、随分聞き出したね…」
「うん、訊いたら素直に話してくれた」
「そうなんだ。君、絡まれてたけど…」
「そう…」
言いながら、アナベルは宙を見る。
「なんか…あれだな…」
「何?」
「いや、お前…」
と、言うなり、アナベルは俯いた。
「どうかした?」
「うん…ルカのこと、気にしてただろ?私が、えーっと…」
すでにそこから言い難いのか…と、ウォルターは慨嘆してしまう。
「うん、で…」
「あまり実感はないんだが、多分お前の言うことは、少しは当たってたのかなって…」
「あ、そう…」
「でも、やっぱり…セアラを見てると、なんか違うなって…」
「違うって、何が?」
「つまり…サイラスが、なんか適当な嘘をついてだな」
「うん」
「誤解がとけたんだ、ルカがその…」
「ああ、わかった」
「で、そしたら、セアラが、豹変しちゃって…」
なるほど…。ウォルターは納得した。ようやく話が繋がった。
「つまり、君が言いたいのは、君は僕が言う通り、ルカに気があったんだけど、セアラを見ていたら、違うような気がしてきた。彼女は、サイラスのついた嘘を…どんな嘘かは知らないけど…真に受けて、君に好意的になり、サイラスの情報を、君が求めるままに話したと」
ウォルターが、自分が言いたくて言いにくかった事を、やけに淡々と、あっさりと、まとめてしまったのを聞いて、アナベルは、なにやら自分が情けなくなってしまった。
「お前、もう少し言い方が…」
「信用出来ないから…」
「は?」
「君、アナダーソンのアパートメントを訪ねる前にも、ルカの事は吹っ切ったとか言ってたけど」
「言ってたか?」
「いや、そんな風な威勢のいいこと言ってたけど」
「威勢がいいって…」
「けど、ルカに会えなくて…」
泣きそうな顔をして、道を歩いてた…。
ウォルターは不機嫌な表情で黙り込んだ。
「だから、あの後…」
「あの後?」
「お前がプラネタリムを見たいって言って…」
思い出すと恥ずかしくなってくるのだが…。
あの時、アナベルは闇に乗じて、泣きたいだけ泣いてしまったのだ。よく考えて見なくても、きっとウォルターには筒抜けで…。
…それどころか、ひょっとして、自分が泣きやすいように、プラネタリムに入りたいとか、言いだしたのではないか?この男は…。
ふいにその可能性に思い至り、アナベルは勢いよく顔を上げた。
「お前、ひょっとして…」
「何?」
ウォルターは目を眇めるようにして、アナベルを見やる。アナベルは何というべきか、思いつかない。あの時は、気がつかないふりをしてくれているウォルターを、いい奴だとか思ってしまったが、最初から全部…ようは、確信犯だったのでは…。
「…とにかく、あの後から、本当に平気になったの!そうでなくても、セアラにかなう気がしないし」
「かなう気がしないって、君…結局、全然吹っ切れてないんじゃない?」
「違う。かなう気がしないってのは、私がどうとかって意味じゃない!セアラを見てると、自分のはただの、その…一過性の風邪みたいなもんだなって、思ったって意味で。それ以前にルカは、その…べた惚れぽいじゃないか。そっちでもかなう気がしないし…」
「…君、つまりそれ、どっちの応援をしているの?」
「どっちって…」
どっちだろう?気分的にはルーディアを応援したいような気がしているのだが、ルーディアは、ルカに対しては、不思議なほど後ろ向きなのだ。ルカはたじろぐほど積極的な様子なのに…。
アナベルは頭を振った。こんなこと、いくら自分が考えたって仕方がない。
「とにかく!もう、ルカのことは平気になったから。それだけは言っておくからな!」
「…なんで?」
「なんで?」
「なんで、そんなこと、わざわざ僕に、宣言するの?」
「わざわざって…」
…そんなこと、なんでって…なんでだろう?
考え込む自分を、観察するウォルターの視線を、アナベルは痛いほど感じて、うろたえてしまう。
「そりゃ、お前が気にしてくれてたみたいだったから…」
「ああ、そうなんだ。お気使いありがとう」
と、ウォルターが憎らしいほど平坦な調子で切り返してきたので、アナベルは、やってはいけないと、わかってはいるのだが、ウォルターのわき腹に蹴りを入れたくなった。こういう憎らしい言動を見ると、彼が自分に気があるというのは、ハインツやイーサン、それにウバイダの、ただの妄想なのではないかという気がしてくる。
少なくとも、リパウルにこんな態度をとるアルベルトなんて想像も出来ない。もっとも、自分とリパウル・ヘインズを同列に並べるというのもおこがましいのだろう。リパルが相手だったら、流石のウォルターも、こんな態度は取らないだろうし。
「…とにかく、サイラスは確かに来たが、お前が心配するようなことは何も起こらなかった。どっちかというと、お前の方が心配なくらいだ」
「さっきから、なんなの?」
「え…いや…」
「ミサキって人、僕のことで何を言ったの?」
「…彼女は、お前と私の書類上の関係の事を知っていた」
と、アナベルは短く一気にそう言った。
「そう…」
「当然、私とエナのことも、エナとは仕事上の関わりがあるって」
「どんな関わりなんだか、定かでないね。技研のデータをハッキングしているのかもしれない」
「そうなのか?」
「そのデータをサイラスも見ているんだろう。今回大人しくしているのは、何か別に理由があるのかもしれない」
「理由って?」
「さあ、そもそも彼らの目的が、分からないままだから…」
「彼ら…ねぇ…」
「何?」
「ん?いや、どっちが主導権握ってんのかなって思ってさ。ミサキの話しだと、あの女はただサイラスに付き合っているだけってことになるんだろうけど、セアラの話しだと、ミサキがいるからサイラスは悪い事をするんだって、言ってたから」
「セアラとサイラスって、どうなってるの?」
「さあ、さっきも言ったけど、サイラスは私そっちのけでセアラとテラスで話しこんでたんだ。セアラもバイト中だっていうのに…」
「…相変わらず、真面目だね」
「いや、私もその間、半分くらいは店内でミサキと話してたから、あまり言えないんだが」
「ひょっとして、サイラスって…」
「そう、ミサキが言ってる感じだと、セアラに気があるんじゃないかな…。の割には、殴ったり、怒鳴ったりしている風だし。さっぱりわからない」
「それは、セアラはルカにのぼせ上がってる。サイラスとしたら面白くないんじゃないの?」
「そういうものなのか?」
「そうだね…。いや、どうだろう…」
と、言うなりウォルターは顔をそむけた。分かりたくはなかったが、もしアナベルの言う通りなのならば、サイラスの気持ちは分からなくもなかった。もっとも、自分がアナベルを殴れるのかと、問われれば、殴れないと答えるが。それにしたって単純に、アナベルが恐いだけかもしれない…などと、と、恋する男としてはいかがなものかと首を傾げたくなるような結論を、ウォルターは出してしまう。
「まあ、どのみち、私の方は、明日から当分カフェには行かない。サイラスがセアラに会いに、毎日カフェに通うんだったら、こっちはかえって安全なくらいだ」
「毎日って、そんな話しになってるの?」
「さあ、断片的にしか聞いてないから…」
と、アナベルも首を傾げる。
「そうなんだ…結構、ややこしい関係だね」
「そうだよなぁ…。なんか、大変そうだ」
と、言いながらアナベルは残りのバーガーを食べきった。完全に人事である。実際に人事ではあったのだが。ウォルターは、彼女の様子に少しだけ安堵した。彼女がルカを吹っ切ったというのは、本当なのかもしれない。
アナベルの食事が終わった様子なのを見て取ると、ウォルターは腕時計を見た。結構、いい時間になっている。
「他には、何かあった?」
「うん…いや…」
他にも色々あったのだが、話せないし、話したくないものだけが、残った感じだ。
「うん、まあ、今、思い出せるのはそのくらいかな…」
アナベルは、不承不承、嘘をついた。ウォルターは気がついたかもしれなかったが、特に追求はしてこなかった。
「じゃ、帰ろうか」
「そうだな」
二人は自転車を押して、人通りの多い路地を、ゆっくりと抜け出した。




