1-3 新年の出来事(1)
アナベルは、ウォルターの部屋のドアを激しく叩いた。
「おい!シーツを出せって言ってるだろ!!何回言えば、わかるんだ!!」
静かな音を立て、入り口がスライドする。ドアを叩き続けていたアナベルは、勢いあまって家主の胸板を殴るところだった。と、目の前に白い布の塊が突き出される。シーツだった。
アナベルは手早くチェックすると
「枕カバーは?」
と、尋ねる。ウォルターは見るからに嫌そうな顔をして
「次でいいだろ」
と、無愛想に告げると、アナベルを押しのけるようにして部屋から出てくる。そのまま、彼はキッチンへと向かった。アナベルはその背中に向かって
「新しいのと取り替えたのかよ!」
と怒鳴ってみるが
「部屋には入らないでくれ」
という、無愛想な言葉がこちらを向きもせず、発せられただけだった。アナベルは舌打ちすると洗面室へと向かう。
ハウスキーパーとしてのアナベルの仕事は、掃除、洗濯、調理の三点だ。これらを毎日、五時半から七時半の二時間かけて、やりこなす。…と、いっても、そう大きな家でもなし、住んでいるのもウォルター一人だ。
掃除が必要な場所はキッチンとバス、トイレ。ウォルターの部屋と、客室と思しき“開かずの間”への出入りは禁じられている。それに加えて、時々キッチン脇の物置部屋の埃を払うくらいのことだ。フローリングの床は、自動お掃除機が家主不在の間に働いているので、アナベルが念入りに掃除をしなければない場所は水回りくらいであろうか。
洗濯物は毎日一回。来て最初に洗濯機を回して、終業前までに乾燥機まで回りきるくらいの量しかない。…下着の類が毎回ないのが気になるが、以前そのことで険悪になってしまったこともあり、更に言えば、進んで洗いたい物でもなかったので、気にはしつつも、アナベルは無視することにした。
調理が必要なのは夕食のみ。朝食の作り置きは早々に拒否された。宅配サービスが一週間分まとめて配達してくれる、単身者向けレシピ付きの食材セットを用いて、一週間やりくりして調理する。これにもさほどの手間はかからない。食後の片づけは、ウォルターがやっているので、アナベルの仕事は、作って配膳するまでだ。
ウォルターの家にハウスキーパーとして入り始めて四ヶ月が過ぎようとしていた。当初はそう悪くない印象を持ってこの家に来ていたアナベルだったが、今では印象は最悪である。
中でもアナベルを苛つかせるのは洗濯だ。洗濯は、ほぼ自動化されており、ようは入れときゃ終るのだが、ウォルターはとにかく洗濯物を出し渋る。散々言って、ようやく出された衣類はシャツも毛糸物もひとまとめだ。仕事だから仕方がないとはいえ、同い年の男子の着替え(しかも気に食わない野郎の)を、いちいち分別するのは結構なストレスだ。その度
『どこまでボンボン育ちなんだ!』
と、心の中で一人、毒づく。おまけに寝具の手入れの類は、まったくやらない。ウォルターの部屋に入ることは徹底して拒否されていたので、こちらが勝手にやるわけにも行かない。考えるだけで、イライラしてくる。
鍵を預かっているわけではないので、自分勝手に家に入ることは出来ない。それに関しては別段構わなかったし、ある意味当然だろうと割り切ってはいたのだが、家の前まで来てインタフォンを押したはいいが、全く出てこない日があったりする。連絡先も知らされていないので、不在なのか居留守なのかもわからない。結局二時間、外で待ち続けたこともある。
だが、何にもましてアナベルがストレスを感じていたのは、作業時間の二時間、ウォルターが部屋にこもりっぱなしで出てこないことだ。家の鍵はリモコンで空けているらしく、玄関ドアは開かれるのだが、開いた当人の姿はない。ほぼ毎日通っているのにも拘らず、その姿を見ることは全くないのだ。
接する機会もないのだからイライラする必要もないのだが、居ることは確実な相手が一向に姿を見せないというのも、それはそれで不気味で、どちらかというと人懐こいアナベルとしては、逆にそれが落ち着かない。
通い始めた当初は、姉弟というので、少しは仲良くなれるかもしれない…という淡い期待のようなものを抱いていたのだが、流石に今はそれほどおめでたくもない。むしろ、かつての自分の、その甘ったるい観測が、腹立たしさに拍車をかける。
カディナに居た頃、仲のよい友達には大抵兄弟姉妹が居て、アナベルは内心密かにうらやましく思っていたのだ。自分にも兄弟が居ると知った時は嬉しかったし、ハウスキーパーの仕事を通じて、少しでも打ち解けられるんじゃないかという、期待もあった。…が、現実はこうである。
オールドイーストのセントラル高等校には、固定したクラスがない。学生は試験の結果で五段階に評価され、それに基づいて学期ごとにクラスが分けられる。当然、教科ごとにクラスメイトは変化するし、一学期にある教科で同じクラスだったクラスメイトと、二学期も同じクラスになれるとは限らない。評価外のF判定をくらうと、補習と再テストを受けなければならない。が、その、いわば救済措置の機会も与えられるのは一度きりだ。評価外判定が一度ならば、追試の結果がE判定以上なら及第となるが、同じ教科で落第評価を二回とると、落第となる。また、二教科以上で評価外判定のFを貰った場合も、落第となる。
そういうシステムだったので、一年の現時点では、同級生はクラスではなく、出身母体によって固定化されたグループを形成しており、そのどれにも属せないアナベルは、ようは孤立していた。孤立している上、孤立しているという事実が周囲に浸透するほどにもなじんでいなかった。アルベルトの家に寄宿させてもらえているおかげで、徹底した孤独からは免れているが、正直に言ってしまうと、アナベルはもう少し友人が欲しかったのである。
シーツを洗濯機に突っ込みながら、アナベルはため息をついた。今ではウォルターと打ち解けられるなどという、期待はしていない。仲良くしようとはいわないが、最低限の礼儀と敬意くらい望んでもバチはあたらないだろうとは思う。
『せめて挨拶くらいはしろ!!』
と、思うのだが、所詮は雇われ人である。アナベルは再度、ため息をついた。
洗濯機を作動させると、キッチンへ戻る。先ほど部屋から出てきたウォルターがめずらしくそこにいて、テーブルの椅子に腰掛け、何か飲みながら何か読んでいる。
「めずらしいな」
と、見たままを言いながらアナベルは台所の清掃に取り掛かろうと、袖をあげる。
「来るなり君が、話があるから出て来いって言ったんだろ?」
と、アナベルの方を見もせずにウォルターは呟いた。
そうだった。が、それも無視されたので、手順通りに作業を進めようとして、シーツがないのに腹が立ったのだ。
「話って、シーツのことだったのか?」
言うと、ウォルターは席を立つそぶりを見せる。
「いや、冬休みに帰省するのかどうか、訊いておこうと思って…」
と言うアナベルの言葉に、ああ、と短く呟きウォルターは再度、腰を下ろした。アナベルは自分を雇っている人物…ウォルターの父親とは面識がない。エナとの面会日に、エナに冬休みの件で同じ質問をしたのだが、自分で確認しろといわれてしまったのだ。
ウォルターは少し考えて、
「君は、帰省するの?」
と、逆に質問してきた。
「いや…」
そんな金があったら苦労しない!!と、心の中で叫びながら短く答える。アナベルの返答を受けて、ウォルターは考え込む風になる。
「そうだな、帰省する予定だから、来なくていいよ」
「え、いつから?」
予想はしていたが、やはりうらやましい。金持ちはラクでいいと、また心の中で愚痴ってしまう。
「休みに入ったらすぐに帰って、休み前に戻る。学校が休みの間は来なくていいから」
ウォルターはコップに向かって淡々とそう言うと、残りを飲み干した。席を立ちながら
「休みの間の分も給料に入れとくから、遠慮なく休んでくれ」
と、告げると部屋へ戻った。
時間通りに作業を終えると、アナベルはアルベルトの家へ帰った。帰ってから次は、ルーディアのバイタルチェックのバイトだ。宅配屋からレンタルしているミニバイクを駐輪スペースに置くと、鍵を操作して家に入る。
「ただいまー」
と、言いながらアナベルは荷物を持って、地下に通じる階段を下りた。
地下室のドアを開くと、荷物を置いて、早速作業に入る。作業はそう難しくない。眠っているルーディは、アナベルにはわからない、色々な計測器と繋がれていて、計測器は彼女の健康状態を常時チェックしているらしい。アナベルが行うのは、その計器の数値に大きな振幅がないかの確認だ。決められたタブレットに、日時を記入して、その時点の数値を入力していく。大きな変動があれば、わかる人間にはわかるようになっている。
アナベルがこの作業を始めて、大体一ヶ月が過ぎた。最近は各項目の適性数値がなんとなくわかってきて、異常があったら気がつける自信があった。先月発生した異常事態により、現在では、数値に大きな変動が発生した場合、アラームが鳴り、担当者の元に異常を知らせる仕組みになっているらしいのだが、アナベルが夕方のチェックの担当に変わってから約一ヶ月、今のところそのような非常事態は発生していない。
作業を終えると、アナベルは端末のある机へ向かった。生命技研の所有物だったが、ドクター・ヘインズの好意で、自由に使ってもいいとの許可を得ていた。アナベルは慣れた手つきで起動させると、早速欲しい情報を探し始める。冬休みの十六日間、夕方のハウスキーパーの仕事が二時間、移動を含めると約三時間が、まるっと自由になるのである。バイトを入れない手はない。
アナベルは頭の中で時間の配分を計算しながら、出来そうなバイトを検索する。
…カフェのバイトはシフトが決まっているから、これ以上は無理で、宅配のバイトの量を上限ぎりぎりにしても、いつもの時間より遅くまで出来るから、朝から夕方まで、宅配屋の時間前で…何か適当なバイト…
画面に集中していたアナベルの背後から
「何を見てるの?」
と、好奇心をあらわにした可憐な声が響いた。ルーディアだ。アナベルは驚かない。最初のうちこそ慣れずに一々驚いていたが、流石に慣れてきた。
「うん、バイトを探してるんだ?」
「バイト?まだ、働くの?」
端末が珍しいのか、ルーディアはアナベルの横に並んで画面を興味深そうに眺める。
「冬休みだからね。学校が休みな分、いつもより稼げる」
と、アナベルは画面から目を離さないでそう言った。ルーディアはアナベルの横顔を見つめると、いぶかしげに眉をひそめた。
「アナベル。あなた、勉強はいいの?」
ルーディアは外見から判断するに、アナベルより二、三歳は年下なのだが、時々保護者めいた話し方をする。そして、どうしたわけか、アナベルはこのモードのルーディアには、なんとなく逆らえない。年下のくせに偉そうに、という感情が湧いてこないのだ。
アナベルはため息をつくと、ルーディアの方に向き直った。
「二日は課題にあてるよ」
「勉強って課題を消化すれば足りるの?」
「それは…」
それを言われると痛かった。一学期の成績もなんとか落第は免れた、といったレベルだ。でも…。
「新年は無理だったけど、せめて春休みにはカディナに帰りたい…。でも、今のままじゃ、飛行機の往復チケットが買えない。でも、この休み中に頑張れば、春には帰れる分だけ稼げると思う…」
アナベルは正直に白状した。ルーディアはいたわる様にアナベルを見た。
「本末転倒ね。エナに出してもらえばいいじゃないの」
「無理だと思う。最初からそういう約束だし」
「そうなの…」
アナベルとルーディアが、しんみりとしていると、ノックの音がした。
「入りまーす」
と言う声と共に、リパウル・ヘインズが入室してくる。今日は珍しく髪を下ろして、眼鏡もかけていない。普段はパンツスーツ姿が多いのだが、今日は少し長めのタイトスカートだ。無機質な地下室が一気に明るくなったようにアナベルは感じた。
「リパウル」
「こんばんは、アナベル。ルーディアも、二人そろって何の相談?」
リパウルの質問にルーディアは肩をすくめて両手を開いて見せた。リパウルは訝しげに机の上の画面に視線を向ける。
「バイト、探してるの?」
「うん…」
「冬休みには、今以上、バイトを入れないんじゃなかったの?」
「その、ハウスキーパーの仕事が休みになったから、その分時間があるし」
「今のままだと、カディナまでの往復チケットが買えないんですって」
ルーディアがかわりに説明する。
「全部入れないで、少しは勉強するよ。これ、年末年始のケータリングサービスのバイト。日時限定だから、延長とか出来ないし、時期ものだから、そこそこの単価だし…」
リパウルは画面を覗き込んだ。確かにアナベルの説明通りだった。
「アルベルトが留守番代をくれるから、全部計算すると、いい感じなんだ。せめて春休みには帰省したいし」
「アナベル…」
リパウルはなんと言っていいのかわからない。アナベルの気持ちはわかる。が、ボスの意向を無碍に出来る立場でもない。アナベルはリパウルが何か言い出す前に、とばかりに唐突に、別の話題を振ってくる。
「そういえば、ナイトハルトが壮行会をやるって言ってるらしいんだけど、リパウルも来る?」
「壮行会?」
「リースの話だと、アルベルトが帰省前にはいつもやってるらしいよ。ちなみに戻ってくると残念会をするんだって、よく意味わかんないけど」
確かに意味がよくわからない。
「リースが、ドクター・ヘインズもどうかなって」
「その…、アルベルトは?いきなり参加しても迷惑にならない?」
「大丈夫だと思うけど」
リースはたんに、ドクター・ヘインズに会いたいだけだろう、ということくらいは恋愛ごとに疎いアナベルにもわかった。アルベルトも、多分リパウルのことが好きらしいので、迷惑どころか喜ぶのではなかろうか。
「そういえば、リパウルって、ナイトハルトと付き合ってるの?」
前から疑問だったことをこの際、とばかりに聞いてみる。以前、リースがそう言っていたのだが、オールドイーストに来た当初、リパウル自身、彼氏はいないといっていたし、そもそも二人が付き合っているようには見えない。
アナベルの直球すぎる質問に、リパウルは、仰天して目を見開いた。
「私が、あいつと?ないわよ」
と、さも嫌そうに言った後
「あの、それ、誰から聞いたの?」
と、妙に慎重に訊いてくる。
「リースが言ってたんだけど、やっぱ、そうだよね。前に彼氏いないって言ってたもんね」
「あ、リースね。そうなの、なんか昔っから周りに誤解されてて。でも、正直に言うとちょっと付き合ってた時期もあったんだけどね。でもほら、あいつああいう奴でしょ?」
と、いいながらふと訝しげな視線をアナベルに向ける。
「ひょっとして、アナベル。ナイトハルトのこと好きになったりとかしてない…わよね」
「いや、特には」
「そうよね、よかった。あいつ悪い奴じゃない…んだけど、多分。あまりお勧めはしたくないわ。恋愛は自由だから、口出しは出来ないんだけど」
「大丈夫だよ。そもそも恋愛とか正直苦手だし」
子供の頃から毎日のように恋愛なるものの負の側面を押し付けられてきたアナベルにとって、恋愛とは呪うべきものでしかない。友達の恋愛は、一応は応援してきたが、自分がそれに参加するなどと考えたこともなかった。
「うーん、壮行会か。お酒飲んで騒ぐのよね」
リパウルはお酒があまり得意ではないのか、腕を組んで考える姿勢になる。
「壮行会、金曜日だから、返事は急がないけど」
「金曜日なんだ。友人と食事に行く約束がある日だ」
幾分、残念そうにリパウルが告げた。アナベルはリースががっかりするだろうと、思った。
それからリパウルは、アナベルがチェックしたデータを確認すると、
「うん、大丈夫。って、ここにルーディアが元気に立ってるし…」
と、苦笑しながら、タブレットをおさめる。
「じゃ、そろそろ帰るわね」
「え、もう?夕食、食べていけばいいのに」
リパウルは、ここ一ヶ月の間だが、時々、夕食を一緒に食べる時がある。アナベルの誘いに、リパウルは寂しげに微笑むと、自分のスカートを指差し
「今日はミニバイクじゃないの、だからバスの時間があるうちに帰らないと」
と、残念そうに断った。
「それに、あまり頻繁だと、アルベルトにも迷惑でしょ?」
と、やや自信がなさそうに呟いた。
「そんなに頻繁じゃないじゃないか」
「まだ、そんなこと言ってるのね」
と、アナベルとルーディアが同時に否定した。二人の言葉に、リパウルは苦笑すると
「アナベル、バイトの件だけど」
「うん」
「反対は出来ないけど、判定外をとってしまったら、帰らなくちゃならない、ってことはアナベルが一番よくわかっていると思う。本当は、落第さえしなきゃいい、みたいな言い方、したくないんだけど…。アナベルのことは信用してるけど、無茶はしちゃ駄目よ」
と、だけ言った。
「うん…」
確かに一教科でも評価外判定をくらったら、強制送還なのだ。飛行機の往復チケット代がどうのこうのというレベルの話ではない。




