2-5 奇妙な再会(1)
薄いベージュ色の落ち着いた壁紙の部屋。木目調の机は、キャスターのついた座り心地のよい椅子とセットになっている。その椅子に腰かけ、ルカは生物の問題に集中していた。
現在、彼の勉強を見ている家庭教師は三名。生物は特に出来栄えがよく、担当の家庭教師は、近頃では、彼の優秀さを褒め称えるのに余念がないほどだ。
もっとも、ルカの勉強を総括しているオリエには甘いところが全くない。ルカが得意な科目にばかり時間をかけている事を的確に見抜いて、その癖を容赦なく叱責する。が、そのオリエも今日は不在だ。
ルカは大好きな生物の問題に掛かりきりだった。とは言っても、どうしても相性がよくない科目はたった一教科だけで、それはすでに紙の書物でしかこの世には残っていない、古典という名の言語の教科だった。
ルカが生物の問題を次々と解いていると、インタフォンが鳴った。オリエから日中の来訪者には対応しなくてもいいと言われている。が、時計を見ると、すでに夕方とすらいえない時間だった。続いて、
『セアラです。誰かいますか?』
と、言う声が響いた。ルカは弾かれた様に椅子を引いた。この来訪者に対応したからといって、流石のオリエも咎めだてはしないだろう。
玄関に向かいながら、ルカは、何故セアラが突然訪ねてきたのか、その理由に気がついた。サイラスの学校はすでに冬休みを迎えている。思い出して、ルカはため息をつく。
…彼が来てるのか…。
玄関に着くと、ルカは内部モニタで、外の様子を確認する。セアラ一人だとは思うが、用心は必要だった。もっともサイラスが付いて来てくれているのなら、願ったり適ったりだ。夏以来、サイラスには会っていない。出来れば今、彼と対面したいと、割合本気でルカは思っていた。
ルカがロックを解除すると、玄関がスライドした。目の前に明らかに部屋着と思しき格好のセアラが立っていた。足元も見たところ、室内用だ。
「ルカ…」
セアラはルカを見上げると、安堵のため息と共に、やや、心細そうに彼の名前を口にした。
「セアラ、そんな格好で一体…」
「サイラスが…」
予想通りだった。ルカはため息をついた。場所が病院からオリエの住む部屋に変わっただけで、自分の周囲を取り巻く状況は何一つ変わってはいないのではないか。そんな錯覚に襲われる。
「入って」
本来そんな権限はないのだが、かと言ってこんな姿のセアラを、コンドミニアム内部の通路、いわば公共の空間に、立たせておくわけにもいかない。ルカは諦めて、セアラをオリエの部屋に招きいれた。
セアラと共に玄関内に入るとルカは
「ここ、知ってたんだ…」
と、セアラに訊いてしまう。別段、秘密にしていたわけではないが、具体的な場所まで教えた記憶はない。
セアラは
「ミサキから以前…」
「ミサキから?」
その名前を聞くなり、ルカは眉をひそめた。ルカの口調から批難の響を聞き取ったセアラは
「ごめんなさい…」
と、何に対してか謝罪する。ルカは再びため息をついた。
何故だろう。以前よりセアラに対して苛立つことが増えた。彼女がこんな風に弱い人間になってしまったのは、自分に原因があると、知っているのに…。
「謝らなくてもいいんだ。けど、ミサキさんとは…」
ルカが言いかけると、セアラは目を閉じて激しく首を振った。
「会ってないの。本当よ。ただ、ここの住所を前、貰っていたのを思い出して。私だって会いたくない。今日だって本当は彼女が恐くて…直前までどうしようって…」
「今は家を出てるから、…知ってるんだよね?」
というルカの言葉にセアラは頷いた。だから、来ることが出来たのだ。それでも、やはりルカの姿を見るまでは怯えていたのだが。
「サイラスと、何かあったの」
リビングにセアラを招き入れると、ルカが切り出した。途端にセアラは小さく震えはじめる。ルカはため息をついた。
「何か暖かいものでも持ってくるから、セアラは座ってて」
と、告げると、セアラが意外そうに顔を上げた。先ほどの震えは治まった様子だ。
「飲み物?ルカが?」
セアラの驚いたような呟きに、ルカはにっこりとした。
「そう、ホットミルクがいいかな?」
と、首を傾げる。セアラは呆然としていたが、はたと立ち上がった。
「わ、私も、キッチンに…」
「うん、ついて来る?」
と、ルカは笑った。
キッチンまで、付き添いよろしくついてくるセアラの顔から、来た時の怯えの色は殆ど消えていた。
ここには彼女を怯えさせる人間はいない。オリエさえも不在だ。今は、大好きなルカと自分の二人だけ。久しぶりでセアラは安心して、幸福だった。
キッチンに入ると、宣告どおりルカは棚から大きめのカップを取り出し、続いて冷蔵庫から大きなミルクを出してきた。蓋を開いてカップに注ぐと、カップを電子レンジに入れてパネルを操作して、ミルクを温めた。見守りが必要なほど複雑な作業ではない。電子レンジが働いている間、ルカはミルクを冷蔵庫にしまった。電子レンジがチンと音を立てると、ルカは温まったミルクをセアラに差し出した。
「砂糖を入れた方が飲みやすい?」
と、首を傾げる。セアラはほんのり暖かいミルクのカップを受け取ると、無言のまま首を振った。何故だか目が潤んでいる。感動した様子で、セアラはルカが暖めてくれたミルクを一口飲んだ。
「ルカ…なんでも出来るようになっちゃったのね…」
と、セアラは呟いた。ミルクを温めるという偉業に対する、セアラの大袈裟な賞賛にルカは苦笑を浮かべた。
「いくらなんでも、それは言い過ぎだよ」
けれども、セアラはルカの言葉に首を振った。
「ううん、今からきっと、もっと色々なことが出来るようになるの。一人で何でも…。もう、私なんて必要ない」
セアラの言葉にルカは悲しそうな笑顔を浮かべた。
「前の僕の方がよかった?何も出来ないままでいた方が…」
セアラは慌てたように首を振る。
「ううん、ごめんなさい。違うの…」
「うん、わかってる。僕にはまだ、色々な人の手助けが必要で、セアラだってそうなんだ。だから、必要ないなんて言わないで欲しい」
と、ルカは柔らかく微笑んだ。セアラはほっとした。
ルカが元気になって嬉しいのに、同じくらい寂しくて…。入院していた頃の彼なら、自分が独り占め出来るような錯覚に、たやすくおちいれた。本当は病院にいるころから、ルカを独り占め出来てたことなんてないのだけれど。
けど、今はそんな錯覚にふけることさえ不可能だ。それが辛くて、彼の回復を否定するような事を言ってしまった…。その事を、早速セアラは後悔した。ルカは確かに元気になったけど、優しい笑顔は以前のままだ…と、セアラはそれだけで安堵する。彼の側にいれば何も恐くない。
ルカは自分の分もホットミルクを用意すると、セアラを伴ってリビングへと戻った。オリエが戻る前に、話をある程度聞いておきたかった。セアラが落ち着いた様子なのを見て取ると
「それで、どうして、ここに?」
名前を出さない方がいいのだろうと判断して、ルカはさりげなく聞こえるように切り出した。セアラはミルクの入った大きなカップを両手で持って、それを見つめる。
「サイラスが…来て」
「うん」
「ママが、冬休みの間はいるからって…」
「うん」
「私は夏のことがあったから、嫌だって…夏休み明けにママにもそう言ったのに…」
「そうだね」
「マ、ママは私の言うことなんて聞いてくれなくて…。サイラスは、他に行く場所がないからって…」
「うん」
「ママは、サイラスと…」
言いながら、セアラは突然、顔をゆがめた。
「セアラ?大丈夫…」
と言うルカの心配そうな声に、不意にセアラの目から堰を切った様に、涙がこぼれた。
「セアラ…」
「ご、ごめんなさい…でも…」
これ以上は言えなかった。特にルカには絶対に…。
ルカは席を立つとセアラの横に座った。セアラの肩に手を伸ばすと、やわらかく抱きとめた。
「ごめん。もう、いいんだ」
と、言うと、ゆっくりとセアラの、くるくるときれいに巻いた髪の毛をなでた。
「しばらくここにいるといいよ。オリエには僕から言っておくから」
「…ルカ…」
セアラはカップを両手で包んだまま、泣きじゃくり続けた。そうして泣いている間は、ルカの優しい手が、自分だけのものになることを、彼女はよく知っていたのだ…。
オリエが戻ってくるまで、ルカはセアラとリビングで過ごした。退院してから今までは、ゆっくり会う機会も、セアラの話を聞く時間もあまりなかった。
子供の頃、ルカとサイラスとセアラは本当の兄弟のように仲良く育った。サイラスは早い時点でここから遠く離れた施設に入れられていたが、長期の休みには必ず戻ってきて、ルカの入院する病院にセアラと共に入りびたりだった。
三人のリーダーは、三人の中で一番弱い筈のルカだった。サイラスは引っ込み思案で口数が極端に少なく、そして、大人になったら、お医者さんになって、ルカの病気を自分が治すという野望を持っていた。セアラは看護師になって、サイラスを助けてルカの看病をするのが夢だった。
いつからか、サイラスは変わってしまい、気の強かったセアラはルカやサイラスより弱くなった。それでも、母親と同じく看護師になることだけは目指していて、高等校は看護学校に進学した。が、次第に学校へは行かなくなり、何かと理由をつけてはルカの入院する病院へと訪れるようになった。
入院中のルカはセアラを歓迎したが、それでも、彼女の学校での様子が気になっていた。五年制のその学校は、決して甘くはない筈だ。ルカが心配したとおり、休み続けた彼女は進級することが出来なかった。セアラは退学を希望したが、母親のパトリシアは許さなかった。
三年に進級出来なかったセアラが、今では殆ど不登校の状態になっている事を、ルカは今日、初めて知った。自分がセントラル大学を目指して、ここで勉強に励んでいる間、セアラは行くところもなく一人部屋にこもり、ずっと、家でなんとなく過ごしていたという。
「あきれちゃうわよね。折角元気なのに。でも、どうしても学校に行く気になれなくて…もう、看護師なんかになりたくないの。ママと同じ仕事なんて…」
「セアラ…」
幼い頃のセアラは、人の命に関る仕事をしている母親のパットを、間違いなく敬愛し、誇りに思っていた。けれど今は…
ルカがどう、セアラに言葉をかけるべきか逡巡していると、オリエが戻ってきた。ルカは少しだけほっとした。
オリエの帰宅に、ルカはセアラをリビングに残して、玄関まで出迎えた。セアラの来訪を簡潔に告げると、オリエは支度をときながら、ため息をついた。
「パットも困ったものね」
と、どの程度事情を把握しているのか、オリエはセアラではなく母親のパットに対して批難の言葉を向けた。ルカはほっとしたが、一抹の不安が残った。が、彼が切り出す前に
「ところで、どうしてセアラはここの場所を?」
「以前、ミサキに教えてもらっていたそうです」
と、ルカが告げると、オリエは顔をしかめて、ため息をついたが、そのことついては何も言わなかった。オリエがリビングに入ると、セアラが慌てたように立ち上がった。
「あの…」
「気にしなくていいわ。今日は泊っていきなさい」
「はい、ありがとうございます」
「サイラスについては、こちらで何とかするわ」
と、オリエがなんでもないことのように言ったので、セアラばかりかルカまで驚いて
「どうするんですか?まさか、ここに…」
と、返答した。オリエはルカの方を向くと
「まさか。あなた、サイラスと三週間、仲良く過ごせるの?あなたのその自信があるのなら、彼をここに呼んでもいいけど」
と、逆に質問されてしまう。
「…いえ」
と、ルカは俯いてしまった。
「そうね、ミサキのこともあるし、彼のことはおじい様に頼みましょう。今までそうしていたのだし」
「ですが、彼は…」
「流石に、そろそろ大丈夫でしょう。それに今の彼の元にはサラマンダーがいる。むしろその方がいいわね」
「すみません」
「いいえ、こちらも配慮が足りなかったわ」
「あの、パットは…」
と、ルカは気になっていた事をオリエに訊いてみる。が、オリエは教えるつもりはないのか、
「今日は、もう、遅いわね。何か頼みましょう」
と、言うと、二人を残してリビングを後にした。




