2-4 惑星に願いを(7)
アナベルが顔を上げると、ウォルターが首を傾げてこちらを見ている。アナベルも彼の方を向いた。
「カイルが一人で選んだのかなって…」
気がつくとそう呟いていた。言ってしまってから、慌てて顔をそむける。
「いや、別にそんなの、どうでもいいんだけど…!」
ふいに頑なな表情になってしまったアナベルの横顔を見つめながら、ウォルターは、彼女が何を気にしているのか、わかるような気がした。
「気になるんだったら、訊いてみれば?手紙で」
「手紙でって…何て…」
「そうだね、“綺麗なペンダントありがとう、誰かと一緒に選んだの?”って」
と、ウォルターが宙を見ながら呟いた。反応がないのでアナベルの方を見ると、呆気に取られたような表情で、こちらを見ている。
「どうしたの?」
「いや、そうか。…それでいいのか」
「え?」
と、ウォルターは訝しげな表情になってしまう。自分は何か、おかしなことを言ってしまったのだろうか?と、アナベルが首を振った。
「ううん、なんでもないんだ。その、ありがとう」
何にお礼を言われたのかわからない。ウォルターは首を傾げた。
「そうだよな。訊かないと分からないし、訊いて返事を見てから考えればいいんだ…」
「そうだね」
なんのことだかわからないながら、ウォルターは相槌をうった。うつむいたままアナベルが、再び
「いつも、その…ありがとう」
と、呟いた。横顔が妙に可愛かった。ウォルターはあまり凝視しないよう気をつけながら、少しだけ彼女の顔に見とれてしまう。
それから、目を逸らすと
「よくわからないけど、役に立てたんならよかった」
と、言いながら、再びタブレットに視線をおとす。今朝、読み始めた書籍は、すでに読み終わってはいたのだが…。
その日は、その後、ウォルターの自転車に乗って、家に戻った。マウンテンバイクの後輪の横に足をかけて、そこに立ち乗りする格好だ。アナベルは後ろに立って、ウォルターの肩に手を乗せる。ルール違反なので、おおっぴらには出来ない。
ウォルターの家に戻ると、アナベルは清掃作業にいそしんだ。ウォルターが、夕食を作らせて欲しいといったので、久しぶりで、調理をするウォルターの姿をアナベルは見学した。残念ながら、一緒に夕食を食べる事は出来なかったけど、少しだけ味見をさせてもらう。それから、残った時間で、試験のための勉強を進める。
ウォルターは終始穏やかだったし、昨日までどうアプローチしていいのかわからなくて憂鬱だった問題に、少しだけ進展させられそうな筋道が見えてきたこともあって、アナベルはなんとなく幸せな気持ちになった。
アルベルトの家に戻って、夕食後、自分の部屋に戻る。気がつくと、ウォルターから貰った青い星に見とれている。なんで、こんなに綺麗なんだろう。どうやってまわっているのか、今度ウォルターに訊いてみようと、アナベルは思いつくと、試験範囲に確実に入っていそうな箇所の復習に取り掛かった。
次の日学校では、学期末試験の範囲が発表された。この日から課題は出なくなるが、授業時間は通常通りだ。授業を終え、放課後、アナベルは図書館へ向かった。宅配のバイトをやめてから、ウォルターの家での、ハウスキーパーの時間まで、図書館で勉強するのが日課になっている。先週は、課題の方は、半分近く図書館で終えていた。残りの半分はウォルターの家でやらせてもらっていたが。
自分で決めた時間まで集中して、アナベルは壁に掛かる時計を確認した。もうそろそろ移動した方がいい時間帯だ。勉強道具をリュックに詰めると、アナベルはお手洗いに行こうと廊下に出た。廊下を進むと先のほう、別の廊下に通じる角の辺りから、見慣れた姿が現れた。ウォルターだ。よく図書館に出没する奴だと、アナベルは少しおかしくなった。
声をかけようと足を急がせると、彼は一人ではなかった。小柄な、栗色のボブカットの女性が、彼に続いて角から姿を現した。遠くてよく見えなかったが、二人は穏やかに歓談している様子だった。アナベルは思わず足を止めた。アナベルの後ろを歩いていた人が、突然足を止めたアナベルに驚いて、何か呟きながら、彼女を追い抜いて行った。ウォルターと、見知らぬ女性は並んで、廊下を進んでいく。
その後姿を、何故だかアナベルは、呆然と見送ってしまう。当たり前だが、ウォルターがアナベルに気が付いた様子もない。その場に足を止めたまま、二人の様子を見続けていると、階段の手前で二人は足を止めた。自然な様子で、何かを話している。アナベルはなおもその様子を見つめていた。
ふっと、ウォルターがこちらの方を見た。気が付かれた、と思って何故かアナベルは、踵を返した。とにかくここは、気がつかなかったふりをして、ウォルターより早く彼の家に着こうと、急ぎ足で廊下を歩く。と、背後から手首をつかまれた。見なくても誰だかわかった。
「うわっ!!」
と、自分でも思いがけず大きな声が出て、びっくりして手を引っ込めてしまう。アナベルは自分でも慌てふためいた。振り返ると、予想通り、ウォルターが途方にくれたような表情で、彼女を見下ろしている。
「お前!なんで、いっつも…」
つかまれた手首を反対側の手で握りながら、アナベルは床に向かって抗議した。
「ごめん…」
と、少し息切れしたような聞きなれた声が耳に届く。
「その、君が急に早足になるから…」
と、ついでのようにウォルターは付け加える。
「うちに行くのかなって思って。それだったら、一緒にと思っただけで…」
「なんでだよ?話し、してたんだろ、さっきの人と。別にお前まで、急がなくても…」
アナベルは自分が何に対してむきになっているのか、自分でもよくわからなかった。ウォルターが自分の知らない女性と穏やかに話をしていただけだ。自分といる時より、ずっと大人びていて、静かな様子で…。
「なんで?もう、話は終ったし」
「別に無理しなくても…」
「特に無理はしていないけど…」
嘘ばっかりだ、いつも無理をしている。昨日だって、自分が寒いのに、カーディガンばかりか上着までかけて…。
「冬休みのバイトの件で話してただけで、またバイトさせてもらえそうだったから。さっきの人はその担当の人で」
と、ウォルターが先回りして説明する。アナベルは自分が気にしていた事を見透かされたように感じて、かえって頭に血が上った。
「バイトだって、無理して…」
「別に無理してってわけじゃなくて」
ウォルターは途方にくれたように呟いた。
「カディナまで来たせいだろ?旅費のせいでお金がなくなって。私がバカだったから…。あの惑星模型だって、本当は凄く高いんだろ?」
「あれは、完成品を買えば高いのかもしれないけど、僕のはアマチュア作成だから…」
言うと、ウォルターは少し口を噤んだ。
「やっぱり、迷惑だった?」
と、かすれた声で訊いてくる。アナベルは顔を上げた。ふと、ウォルターと目があった。
「迷惑なんて…」
「そう、ならいいんだけど」
と、どこか投げやりに言うので、アナベルはイライラしてきた。大好きな惑星模型。毎晩勉強前にあれを見て、元気を貰っているのに…。
「あれは…」
と、アナベルは言いよどむ。ふと、ウォルターが、改まってアナベルに視線を向けた。
「まさか、売る気じゃないだろうね?」
贈り主で製作者が、唐突に突拍子もない事を言い出した。アナベルは驚愕のあまり、一瞬息を呑んでしまった。
「な、なんで?!あれを売らなきゃいけない?」
いくら廊下とはいえ、図書館だ。思わぬ大声に、廊下を行く人から冷たい視線が突き刺さった。ウォルターも正気を疑うような眼差しで、アナベルを見やると
「そうだよね、流石にそこまでは…」
と、冗談のように言うので、アナベルは益々傷ついて、
「お前、私のこと、そんな風に思ってたのか?人から贈られた物を、勝手に売ってしまうような人間だって」
「そういう訳じゃ…」
「なら、どういう意味だよ?いくら金に困ってるからって、そんなこと…」
言葉が続けられなかった。それに言い争いに相応しい場所でもない。アナベルは口を噤むと床を見つめた。ウォルターは何も言って来ない。アナベルはそのまま踵を返すと
「もう、いい!先に行ってるから」
と、捨てセリフを吐くと、大股で歩を進める。と、すぐ後ろにウォルターも付いて来る。思わず振り返って
「なんで着いて来る!?」
と、抗議すると
「無茶言わないでくれ…」
と、苦虫を噛み潰したような表情でウォルターも応じた。
「無茶って…」
「僕が悪かった」
アナベルは足を止めると、振り返ってウォルターを一瞥する。そのまま何も言わずに、再び歩き始めた。今はとにもかくにも、図書館から退館したかった。
二人は縦並びになって無言で、自転車のペダルを踏み続ける。ウォルターは昨日、自分の肩に置かれたアナベルの手を感じながら、頑張ってマウンテンバイクのペダルを踏んでいたことを思い出す。白状すると、結構大変だったのだが、それでもやたらと幸せだった。けれど、今はどうだろう?
家に帰り着くと、駐輪スペースに自転車を置いた。ウォルターは先に立ってはいると、真っ直ぐキッチンへと向かう。そして自分からコーヒーメーカーをセットする。後からついてはいる形になってしまったアナベルの顔は、未だ不快気に歪んでいる。
「なんで、お前が…」
「いや、バカな事を言ったお詫びに」
「もう、いいよ」
大好きな青い惑星。アルベルトの家に帰ったら、クローゼットの中にしまってやる。自転車でここまで来る最中、傷ついたアナベルは、心の中で一人、決意を固めていた。あんなに嬉しかったのに…。ある意味では、複雑な気持ちを背負い込んでしまったカイルのペンダントより、もっとずっと嬉しかったくらいなのに…。
そう思いかけて、ふいにアナベルはあれを貰った時の事を思い出してしまう。そうだ、あの時、二人でこの模型を持って帰る方法をここで検討して…。まるで、ずっと一緒にいるみたいに…
…僕はただ、君にここにいてほしかっただけで。単なる自分の勝手で…
流しに縋って、ずっと手を繋いだままで…ふいに、あの時の状況と、ウォルターから言われた言葉を思い出して、アナベルは混乱して頭に血が上った。あれを貰った時だって、考えようによっては、十分複雑な状況だったはずだ。自分はずっとカディナに戻るつもりでいたのに、なんだってあんな言い方を…。
ウォルターはアナベルの混乱には気がついた様子もなく、コーヒーメーカーの様子を、科学者のように観察していた。彼はどうやってアナベルに謝るべきか、そればかりを考えていたのだ。
「…アナベル…」
「ええっ?!」
自分の物思いに浸っていたアナベルは、急に名前を呼ばれて、驚いて妙な声を上げてしまう。ウォルターはゆっくりと振り返ると、
「その、本当に、ごめん。君がそんな事をする人間だって思ってた訳じゃなくて…」
「だ、だったらなんだよ?」
と、アナベルは必要以上に、つっかかってしまう。
「つまり…その、あれはただの自己満足だったから、君が喜ぶといいと思って。でも、何かの役に立つわけじゃないし…」
「また、それか…。役に立つとかたたないとか、あの青い惑星に失礼だろ?それに役には立ってる」
「え?そうなの?」
アレがどう役に立っているのか、ウォルターには今ひとつよくわからない。が、アナベルは、説明する気はないらしい。
「たってる。だから、そんな風に言うな。その、大変だったんだろ?作るのだって…」
「え、いや、それは…。フェンロンの工具があったから、それほどでも…」
「へえ、そうなのか。イーサンが…」
と、言いかけてアナベルは口を噤む。彼から聞いた事は、ウォルターに言ってはいけないことになっていた。が、ウォルターは聞き逃さない。
「イーサンが?」
と、訝しげな眼差しをアナベルに向けた。
「え、何?」
「イーサンは君にも何か余計な事を言ったの?」
「君にもって…」
「つまり、あの惑星が買うと高価だとか…」
「ああ!って、え…何、つまり…」
と、アナベルがウォルターを見ると、ウォルターは横を向いて、なにやら不快気に眉間にしわを寄せている。
アナベルはなんとなく納得した。つまり売る売らないはイーサンの思いつきか…。不意に彼女はおかしくなった。それから
「なんか、わかったよ。もう、怒ってないし、お前が私の事をそんな風に思ってるわけじゃないことも分かった。イーサンには世話になってるし、あいつの発想は私にもなんとなくわかるから、もういいよ」
と、応じた。
イーサンはウォルターの事を心配していた。アナベルがウォルターを雑に扱っているのだったら、トレーニングの件を考え直すとまで言っていたのだ。そう、納得しかけて、今度は別の疑問が湧いてくる。そもそも人の真剣な気持ちを、雑に扱うって何のことだ?
アナベルが今度は別のことに首を傾げていると、彼女が得心して、許してくれたことに安堵したウォルターは
「そうか、よかった。君が、切り替えの早い人で本当に助かるよ」
と、呟いた。
その言葉にアナベルは、本当に反省しているのか?と、突っ込みをいれたくなってしまった。
ウォルターはコーヒーを二人分用意すると、自分は流しに縋ったまま、自分の分のカップを手に取った。アナベルもなんとなく壁際に立ったまま、自分のコーヒーカップを手に取った。ウォルターはほっとした様子で、コーヒーの香りを楽しみながら
「学期末試験の準備は、進めてるの?」
と、切り出した。アナベルはなんとなくうんざりしてしまう。
「お前、都合が悪くなると勉強のこと持ち出すのな。お前は私の家庭教師でもなんでもないだろう」
と、呟いた。アナベルのその言葉に、ウォルターは天井を見上げた。それから、顔を下ろした。何がおかしいのか、妙にシニカルな笑みを浮かべている。
「なんだよ?」
その表情にアナベルは訝しげに眉をひそめる。
「いや…自分でも自覚なく、エナが言うところの“有意義な関わり”というやつを実践しているんだな、と思って」
と、呟く。アナベルは益々訝しげになって
「なんの話だ?」
と、問いただす。ウォルターはため息をつくと、いつもの表情に戻って
「土曜日の面接で、エナに、君の勉強の面倒をみるように言われた」
と、淡々と告げた。
「はあ?なんだそれ」
「そのまんまの意味だけど?」
「なんで、お前が…」
「さあ、君の追試の件で頑張った実績を認められたって所かな?」
と、ウォルターは首を傾げる。
「…お前、エナとは最近、どうなの?」
と、アナベルは妙な訊き方をしてしまう。
「どうって?」
「つまり、嫌な事を言われたり…」
ああ、とウォルターは呟いた。
「エナはただ、言うべきだと思う事を、言うべきだと思う言い方で言っているだけで、それを、こっちがどう解釈しようが、こちらの勝手と、割り切っているだけなのかもしれない。もっとも、意図的に人を不快にさせようとしている面もあるんだろうけど。けど、それにしたって、こちらが思っているほど陰湿な意図はないのかもしれない。たんにこっちが深読みしているだけで…。エナはあれで案外、裏面がない人のような気がする」
「それは…」
なんとなくアナベルにも分かるような気がした。最初のうちこそ、ハリーのこともあって、冷たい印象しか持てなくて、どうにも苦手だったエナだが、最近はただの、教育熱心な口やかまし屋に思えてきていた。苦手であるという点では変わりはなかったが、冷徹な人間というわけではなく、努力して成果をあげれば、それなりに評価してくれるのだということも、分かってきた。
…怠けると、容赦ないわけなのだが。




