2-3 十七歳(8)
「あ、昨日の話しかな?」
と、アナベルが出ようとすると、ウォルターが
「いい」
と、言葉短くアナベルの動きを制した。確かに彼の方が玄関には近い。
ウォルターは椅子から腰を上げると、玄関へ向かった。戻ってくる時には、何故かイーサンの方が前にいた。アナベルの姿を認めると、ニッと笑って手を上げた。
「よう、昨日はお疲れ様」
普段とかわらないその姿に、アナベルの方がげんなりしてしまう。
「イーサン、なんだよ。ウバイダと仲直りしたんだろ?なんで来るんだ?」
「ああ?お蔭様で、しっかり仲直りしたぞ」
と、イーサンが、妙ににやついた顔で肯定するので、アナベルの方が恥ずかしくなってくる。
「あいつも今日は帰らないとまずいだろう。少し親と話すつもりらしい」
「え?そうなんだ。よかったな…」
「まあ、どっかの誰かさんが妙な説教でもしたんじゃないのか?」
「妙な説教なんかしていない。お前こそ、少しは人の話を聞けよ」
と、言いかけて、はたと口を噤んだ。
「いや、今のは余計な口出しだ」
うっかりしていたが、今のイーサンは自分の『師匠』だ。ウバイダだって、妬いていたくらいではないか。
「ふうーん、それよりウバイダが傷ついてたぞ」
「何がだよ?」
と、アナベルが仏頂面で答えると、何故かイーサンはウォルターの方を一瞥する。ウォルターは黙って話を聞いている風だったが、イーサンの意味ありげな目配せに、顔をしかめた。
その様子にアナベルは首を傾げる。
「女の子の手を握って、あんな嫌そうに手を引っ込められたのは初めてだって」
と、イーサンが楽しそうにそう言った。
「なっ!」
と、呟くと、アナベルは無意識のうちに右手で左手を掴んだ。そして、咄嗟に、ウォルターの方を見てしまう。ウォルターは目を眇めて、イーサンを見ていた。
「…それを言いにわざわざ?」
と、ウォルターがやけに低い声で応じる。
「さあ」
と、イーサンは不敵な笑みを浮かべたまま、首を傾げる。
「あいつ、しょっちゅうあんなことしてんのか?」
と、アナベルは歯噛みした。だとしたら、女の敵ではないか?
アナベルの言葉にイーサンは可笑しそうに笑った。
「気にするな。お前のは、ただの実験だ」
と、アナベルに向かって言うと、ウォルターの方に向き直り
「そもそもこいつが面白い事を訊いたらしい。気になるんなら、こいつに訊くといい」
と、伝えた。
「お前、何言ってるんだ!?」
と、アナベルが叫んだが、イーサンはすでに立ち去る体勢だ。本当にそのことを伝える為だけに、来たのだろうか?
「じゃ、帰るわ」
「マジかよ…」
「今日はお前らにお礼を言いに来ただけがからな…」
「どこがお礼…」
と、アナベルがぼやくと、ウォルターが
「イーサン」
と、名前を呼んだ。それからイーサンの方を見ると
「わざわざ、ありがとう」
と、だけ言った。声色からはなんの感情も伺えない。しかし、イーサンはウォルターの返事に満足そうに笑って
「邪魔したな」
とだけ言って、本当に立ち去った。アナベルは
「なんの嫌がらせだよ…」
と、ぼやいた。と、ウォルターが立ち上がった。
イーサンが来てからずっと無表情になってしまっている。なんとなくアナベルが身構えていると、何を思ったかコーヒーカップを手に、アナベルが立つ流しの方へ来た。アナベルは背中を流しに向けたまま、横にずれてしまう。なんだろう、コーヒーカップなんて、自分がここに立っている時には、いつもテーブルに置いたままなのに。
「アナベル」
と、流しの方にカップを置きながら、ウォルターが名前を呼んだ。声がやけに近くに聞こえる。
「何?」
自分が緊張していることにアナベルは気が付いた。緊張?なんで今更、ウォルター相手に?
「さっきの話…」
「うん…」
「なんの話、してたの?ウバイダと…」
「それは…」
まさか、ウォルターの話をしていたとも言えない。ウバイダがウォルターに嫉妬して…イーサンはどこまで聞いているんだろうか。ウバイダが正直に話すと思えない。が、それほど、彼の事を知っているわけでもない。と、アナベルが逡巡していると、何を思ったか、ウォルターは、流しの方を向いたそのままの体勢で、流しに背中を預けるようにして、もたれていたアナベルの手を、無造作に握った。アナベルは驚いて、一瞬、呼吸が止まったようになった。そのまま、硬直してしまう。なんだろう、以前、手首を捕まれた時も、驚いた。…けど。今の自分は明らかに変だ。動悸が激しすぎて、息苦しい。手が震えそうになる。
「あの…なに?」
「実験…」
実験って、なんだってウォルターが?そもそも何の実験なのだ。
「振り払わないの?」
やはり流しの方を向いたまま、ウォルターがささやくような、かすれた声で言った。
「お前が離せばいいだろ?」
ウバイダの理屈で言うと、この状態でいきなり離すと、自分が相手に好意を持っていて、意識し過ぎていることになってしまう。そんな証明をするわけにはいかない。が、ウォルターは「いやだ」と、やけにきっぱりと言った。
こんな状態の時に限って、なんでそうなる。アナベルは混乱のあまり、泣きたくなってきた。もう、面倒なことは終わって、ようやく平和な日常が戻って、学校へ行って、ここに来て仕事して、ウォルターと勉強をして、時々は話をして…帰って、リパウルやアルベルト、リースと夕食を食べて。そんな風にやっと落ち着けるって…。
「なんで、そんなこと、言うんだよ…」
「だって、気になる。何を訊いたの?」
「お前には関係ない…」
逃げる為に反射的に言ってしまってから、アナベルは慌てた。
「ごめん、今のは無しだ。その…」
アナベルの様子にウォルターが、ふと肩の力を抜いた。
「こっちこそ、ごめん。どうかしてた」
と、呟いた。が、手を離す気配はない。
「お前が謝ること、ないだろ?」
「…エナが、僕になんて言ったか、気になる?」
と、突然ウォルターが言い出した。
「え?」
「君、気にしてくれてた。僕が…」
言いながら少しアナベルの方を見る。アナベルも、少しだけ、首をひねって上向いた。そうすると、こちらを見ているウォルターの横顔が見えた。
「お前が言いたくないんなら、いいんだ。無理をさせたいわけじゃない」
そう言うと、アナベルは俯いた。動悸が少しだけ落ちついてきていた。
「君にそう言われると、僕は本当に大人気ないんだけど」
「いや…」
「だって、気になる。なんの話をしてたの?ウバイダと…」
「なんで、そんなに気になるんだ?」
…こちらを向かないで俯いたままのアナベルの声が、ウォルターにはやけに遠くに聞こえた。それがひどくもどかしくて、どうにかしたいのに、エナにさされた釘が邪魔をして、上手く言葉が出てこない。
「…言えないんだ、アナベル。本当はもうずっと…きっと、君も気が付いている。だから、言った方が楽になるって。どんな結果でも…でも、言えないんだ」
言いながら、無意識のうちにウォルターは、アナベルの手を握るその手に力をこめる。アナベルがぎくりと肩を震わせたのがわかった。
「ウォルター」
アナベルは俯いたまま呟いた。今では離して欲しいのか、このままでいたいのか、彼女自身よくわからなくなっていた。
「聞きたい?」
と、だけ彼は訊いた。
「わからない。お前が何を言おうとしているのか」
「本当に?」
「お前は…」
「アナベル、僕は…」
ウォルターがアナベルの混乱には構わず、言葉を続けようとする。アナベルは聞きたくなかった。彼は、彼女にとって、大事な人間なのだ。とても、大切な…。
…恋愛なんかのせいで、彼を失いたくなかった…。
不意に何かに押し出されるようにして、言葉が漏れた。
「…お前は、恐くないのか?自分が、父親みたいになったらって…」
「アナベル?」
「私は…」
アナベルの質問に、ウォルターは一人、自嘲の笑みを浮かべた。
「自分がロブみたいになれないことは、この一年で嫌になるほどよくわかったから。だから、そんな心配はしていない」
「ウォルター」
「君の…父親の事を、僕があれこれ言うべきじゃないと、わかってるけど…」
と切り出すと、アナベルが下を向いた。
「カディナで彼に会った時、彼はずっとエナの名前を…」
と、続けるとアナベルの肩がビクリと震える。
やはり、そうなのか…。なんとなくそうなのかなと、思ってはいた。
カディナで見たアナベルの父親は、ずっとエナの名前を繰り返していた。それはすでに愛の言葉でもなんでもなく、立派な呪詛だった。ハリー・ヘイワードがいつからあんな状態なのかはわからない。けれど、物心付いた時から、彼女にとってあれが日常だったのだとしたら、彼女にとって、恋愛とは、確かに、呪われたものでしかないだろう。
「ならない」
と、不意にウォルターがそう言った。
「え?」
アナベルは顔を上げ流しの方へ顔を向ける。こちらを見るウォルターと目があった。
「心配しなくても、君は君の父親のようにはならない」
ウォルターの言葉に、アナベルは俯いた。
「なんで、そう言える?」
アナベルの言葉にウォルターは、少し考えた。
「…どうしても自分を信じられないんだったら、カイルさんを信じればいい」
「カイルを…?」
「君を育てたのはカイルさんだ。そうだろ?」
アナベルは俯いたまま顔をしかめた。確かに自分を育てたのはカイルだ。けれど、どうあがいても、自分はカイルの子供ではない…。
「…でも」
「見てたから」
「え?」
「僕は見てた。それに、知ってる。君がルカを想って、それでも彼のためにルーディアの事を伝えようとしてたこと。僕に反対されて、君がむきになってたことも…」
ウォルターは早口にそう言った。本当は自分の口からこんな事を、彼女に言いたくなかった。けれど、アナベルは彼女の父親とは違うのだという事を、彼女に判って欲しかった。自分がロブとは違っているように…。
「それは…」
「君の父親は確かにエナに執着していた。けど、彼はエナのことなんて何も知っちゃいないし、彼女の事を想ってもいない。見てるのは自分の執着だけだ。君とは違う。だから…」
ウォルターの言葉に、アナベルは首を振った。
「そんな…、お前にそんな風に言ってもらう資格なんてないんだ。本当は私…、ルーディアの手紙をルカに渡した時から、その事を後悔してたんだ」
「そう…」
ウォルターにとって、アナベルのその懺悔は、少しだけ痛みを伴った。が、同じくらいの安堵も招いた。それは、彼女が自分の気持ちと、真正面から向きあっていたのだということの証明に思えた。
「皆に迷惑がかかるとかじゃなくて、あんな必死なルカを見たくなかったんだ。お前がいつか言ったように、どこかで、あの二人には未来がないのにって、本当はそう思ってたんだ…」
言いながら、アナベルが俯いた。見ると、泣くのをこらえるような横顔をしている。許されるなら、彼女を抱きしめて、好きなだけ泣かせてあげたかった。
「君がそう言うんだったら、僕だって君とそうかわらない」
「お前が?」
「追試の後、君はお礼を言ってくれたけど、僕はただ、君にここにいてほしかっただけで。君の都合なんてお構い無しで、単なる自分の勝手で、君にきついことをたくさん言った」
「そうか…」
少しだけ、彼女が笑った。ウォルターはほっとする。
「そうなんだ」
「お前のあの命令口調、あの時は腹が立ったけど、後になってみると、なんか新鮮な感じがして、あれはあれで面白かったな」
「そうなの?」
アナベルの気楽な物言いに、ウォルターは思わずがっくりしてしまう。あの時、自分の方は、結構大変だったのだが…。ふっと、振り返って、壁に掛かる時計を見る。
「あ、七時半近い」
「あ、本当だ」
ウォルターの言葉につられて、アナベルも時計を見上げた。
「あの、ちょっと渡したいものが…」
と、言いながら、はたとウォルターは自分の左手に視線を向けた。アナベルも繋いだままだった自分の左手を見る。ウォルターは少し名残惜しそうに顔をしかめると、手を離した。
「ちょっとだけ、待っててくれる?」
それから、そう言い残して、書庫へと姿を消す。アナベルはなんとなく、自分の左手を右手で包んだ。最初ほどではなかったけど、今でも動悸が静まらない。アナベルはその意味を分かりたくなくて、途方にくれていた。
待つほどもなくウォルターが大き目の袋を手に、戻ってきた。ゆっくりとテーブルの上に置くと、中のものを取り出して、テーブルの上に置いた。直径十センチくらいのガラスの円柱。人工惑星模型だ。アナベルは、まじまじと中を覗き込む。円柱の中で自転する惑星は、青い海と緑の大地を地表に描き、白い大気をまとっていた。
「これ…!」
「うん、以前君が言ってたの。結構苦戦して、十二月になるんじゃないかと、ひやひやしたよ」
「え、じゃ…」
「うん、遅くなったけど、誕生月のお祝いで…」
アナベルは呆然と青い星を眺めた。こんなステキな物を貰ってもいいのだろうか?
「…いいのか…こんな…」
「言っておくけど、夏にバイトで稼いだもので、用意したからね」
と、ウォルターが妙な念を押してくる。アナベルはなんとなく笑ってしまう。
「お前、最近忙しそうだって思ってたら、これ作ってたのか…」
「うん…」
アナベルは自分でも意外なほど嬉しかった。これを作っている間、ウォルターはずっと自分の事を、考えてくれていたのだろうか?
「何、考えながら作ってたんだ?」
星を見ながら何も考えないまま、そう口にして、アナベルは頭に血が上ってしまった。さっきはあんなに聞きたくないと思っていたくせに、自分は一体ウォルターに何を言わせたいのだ?しかし…
「海の色が結構、難しくて、あと、大気の濃度をどうしようかなって…」
と、自分の作品を真顔で凝視しながら、ウォルターが製作に伴う苦労談を話してくれた。
「あ、そう…」
アナベルは何となく、がっくりしてしまう。彼女の表情をどう解釈したのか
「気に入らない?」
心配そうにウォルターが確認をとってくる。
なんて見当違いな心配をするんだろう?考えてみたら、彼は時々そういうときがある。なんでも分かってるみたいで、肝心なところで分かっていないのだ。
アナベルは黙って首を振った。
「すごくきれいだ。その…」
「うん、他の人の、役に立つ贈り物と違って、何の役にも立たないんだけど…」
「何言ってるんだ?役に立つとか、たたないとか」
憤然とアナベルは抗議した。このきれいな星に失礼だ。
「気に入ってくれたんなら、いいんだけど…。以前訊いた時、君が、地球みたいな星がいいって言ってたから…」
と、尚も自信がなさそうにウォルターが呟くので、アナベルは笑ってしまう。
「リクエストしたら、毎年これが貰えるのか…、すごいな」
「そんなにネタがある?」
「いくらでもあるぞ。でも、置くところに困るな」
「そうか、なら、どんな星でも作れるようにならないと」
と、ウォルターも笑った。
アナベルは自分が、ずっとウォルターと一緒にいることを、前提の様にして話していることにふいに気がついて、一人でうろたえてしまう。ウォルターも気がついたのか、真顔になった。恐る恐る顔を見合わせる。
「あの…」
と、同時に言った。
「あ、先に…」
「そっちこそ…」
と、お互いで譲り合ってしまう。ウォルターが
「これ、もって帰るの大変かな?」
と、呟いた。
「そう、リュックに入ればいいんだけど」
「どうかな?」
「自転車のかごに直接入れて壊れたら嫌だし…」
「なんか、やっぱりごめん…」
「何、言って…」
気が付くと二人で、延々と、持って帰る方法について、頭を悩ませるはめに陥ってしまっていたのだった…。
【十七歳;完】




