表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オールドイースト  作者: よこ
第2章
119/532

2-2 南半球の夜空(10)

 ウォルターがアナベルに構わず二人分支払うと、中に入った。アナベルは駆けるようにして後を追う。追いつくと無言でプログラムを渡された。渡されたそれを見て、アナベルは少し驚いた。プログラムには「南半球の夜空」とあったのだ。


 中に入るとすでに少し薄暗かった。あまり人は入っていないようだった。ウォルターは入って来た時と同じく、アナベルを構う様子も見せず、適当な席に腰を下ろしたので、アナベルは彼の隣、五人分くらい席を空けて、腰を下ろす。腰を下ろして横を見ると、ウォルターがすでに目を閉じていた。


『眠りに来たのかよ』


と、アナベルはあきれて、正面へと向き直る。意識しないまま、また、考え始めていた。


…ルカに会えるかどうかは、正直、五分五分の確率だと思っていた。もし、中期試験がなかったら、もし、自分が追試にならなかったら…。あの場所にまだいて、間に合ったかもしれない。けど、最初からあの場所にはいなかったかもしれない。


そう思うのは自分を正当化したいからではなく、リパウルの情報を信じていないということでもなく、ルカは素性を隠したがっているような、そんな気がしたからだ。


それしても、あの女性は一体誰なんだろう。苗字が同じだった。ひょっとして、それこそ、母親違いのルカの姉かもしれない。そう思って自嘲する。会えなかったことに自分が落ち込んでいるのか、安堵しているのかさえ、よくわからなかった。会いたくなかったわけではない。けれど、やはり、会いたくなかったような気もする。


会えたからといって、どうなるというわけでもないことは、自分が一番よくわかっていたから。けど…。


 …手紙をありがとう…。


ルカが、あんなことをするから悪いのだ。あんな風に感謝を伝えるのは反則だ。


気が付くとまた泣きそうになっていた。ふっと、照明が落ちる。そうか、ここは夜空を見る場所なんだ…と、唐突に気が付く。


子供の頃、夜空を頻繁に見上げていた時期があった。家の中にいたくない時など、よく外にでて夜空を見上げた。カイルが一緒にいてくれて、星座を教えてくれたこともある。


なんとなくそのころの事を思い出していると、プラネタリウムの狭い夜空に、星が投影される。カディナでカイルに教えてもらった星座をアナウンスが紹介する。小さな夜空に映し出される星々が、ひどく懐かしかった。郷里の記憶と共に蘇るのは、懐かしい水色の惑星だ。製作者の方を見るが、薄明かりで様子がよく伺えない。なんとなく眠っているように見えた。アナベルの大好きな水色の惑星…。


気が付くと、涙が流れていた。一瞬、周囲を見回してしまう。当たり前だが、誰も彼女の様子に注意を向けている者はいなかった。

そうか…誰も見てないんだ。そう、気が付いて、アナベルは慌てるのをやめた。泣けばいい。誰も見ていない。アナベルは無造作にリュックからハンドタオルを取り出した。


泣きたい時は思いきり泣いた方がいいのだと、教えてくれたのはカイルだ。どうしても人前では泣きたがらない、負けず嫌いで、強情なアナベルの頭をなでながら、カイルは、つらい時は泣いた方がいいんだ。そうすると、つらいことが少し流れていくんだよ。そう言ってくれた。だからアナベルは泣ける時には、泣くことにしていた。ただし、人前では絶対に弱みを見せたくなかったので、結局、誰も見ていないと、安心出来るところでしか、泣けなかったのだが。


…そうか、私、今、つらいのか…。


自分がつらいのだということに今まで、気が付かなかった。何故こんなに息が苦しいのか、ずっとわからなかった。


ルカに手紙を渡そうとした事を、アナベルは後悔していなかった。みんなに迷惑がかかるということが、わかっていても、そうしたかったのだ。自分でも自分の身勝手さは承知しているつもりだった。

それでも、やはり後悔はしていない…つもりでいた。


ルーディアからの手紙を、むさぼるようにして読んでいたルカを思い出す。いつもどこか、軽やかで、何かを面白がっているようなルカ。あんなに真剣な眼差しを、彼にさせることが出来るのは、きっとルーディアだけなのだ。だから、後悔なんてしていない…。筈なのに。


アナベルは手にしていたハンドタオルで、顔ごと覆った。


ルーディアだって、ルカに伝えたい事を、一生懸命に書いていた。


…だからいいんだ。間違っていない。いつかきっと二人で自由に、会いたい時に、会いたいように、会える時が来る…。


そう思ってまた、涙が止まらなくなった。そこには自分は必要ないんだ。どんなに想っても、その場所には自分はいないのだ、その場所には自分はいらないのだ…。


そうか、私はそんなことがつらいのか…。馬鹿みたいだ。だけど、その場所に自分はいなくてもいいんだ。泣きながらアナベルはそう思った。


それでいいんだ。手紙を書いている時のルーディアの表情と、読んでいる時のルカの表情、両方を知っているのは自分だけなのだ。当人たちだって、知らない事を、私は知っていて…。


そう思って、嗚咽が漏れそうになる。アナベルは、なんとか堪えた。もう、考える事を止めてしまいたかった。何度も何度も繰り返し繰り返し、ずっと同じことを考え続けていた。何度考えても結論は変わらない。だから、泣こう。泣けばいいのだ。疲れるまで泣けば、きっとその時にようやく、考えることを忘れる時がやってくるんだ。


***


気が付くとアナウンスが、終了間際であることを告げていた。アナベルはやや乱暴に、顔をぬぐうと、急いでハンドタオルをリュックに突っ込んだ。ウォルターが席で両手を伸ばして伸びをしているのが横目に入る。まだ、座ったままのアナベルのほうに近づくと

「ちょっとお手洗いにいくから、入り口のところで待っててくれる?」

と、それだけ言うと、返事も聞かずに、反対側の通路に向かって踵を返した。アナベルは急いで自分も女子トイレへと向かった。


 お手洗いの鏡で自分の顔を覗きこむ。残念なことに、泣いていたことが一目瞭然な顔になっていた。


『ばれるな…』


相手はウォルターだ。ばれても仕方がない…。と、アナベルはあっさりとあきらめた。それでも顔だけは洗って、ハンドタオルで水滴をぬぐった。少しはマシになったように思えた。それから急いでい入り口に戻ると、すでにウォルターが待っていた。アナベルの姿を認めると、何も言わずに歩き始める。


「どうだった?」

「どうって…」

アナベルが言いよどんでいるのをどう解釈したのか

「君に謝りにカディナまで行った時に、カイルさんのアパートに泊らせてもらったけど」

と、ウォルターが切り出した。


「うん、あったな」

アナベルが頷く。なんとなく、懐かしかった。

「夜、少し、寝付けなくて、外を見たんだ。結構、星がよく見えてて」

「そうだな。けど、私が子供の頃に住んでいたあたりは、もっとずっとよく見えた」

「そうなんだ。ひょっとして結構、詳しい?」

というウォルターの質問に、アナベルは笑った。


「いや、カイルが色々教えてくれたんだけど、殆どわからなくて、覚えていないんだ。もったいないことをしたな」

「へえ、いいね」

「うん。…そうか、お前、カディナで夜空を見たから、見に来たくなったのか?」

「そうだね。今日が最終日だって、思い出して」

「お前の方こそ、詳しいのか。星座とか?」

「前に話しただろ?祖父が野宿好きで…」

「ああ、寝袋を使ってたんだっけ?」

「うん、山とか野原とかに行くから、当然、星がよく見えて。祖父は好きだったみたいで、色々教えてくれてたな」


「お前のおじいさんって本当に多趣味だよな」

「そうかな?」

「うん、なんか、会ってみたかった」

と、アナベルが呟くとウォルターは首を傾げた。


「それは…どうかな?君の事は気に入るかもしれないけど…。なんというか、自分が関心のあることには、他が口を挟めないほど饒舌なわりに、普段は無口な人で…多分、取っ付き易い人ではなかった気がする」

と、考えながらそう言った。どこかで聞いたような人物評だなと、アナベルはおかしくなった。アナベルの笑顔に気が付いて、ウォルターが視線を向けた。


「何?」

「うん、いや。なんか、誰かに似てないかって思って」

と、にっこりとする。ウォルターはアナベルが言わんとするところを察して、顔をしかめた。


「お前の方は、ちゃんと見てたのか、プラネタリウム。寝てたように見えたけど?」

「まあ、そうだね。こういう場所の椅子って寝心地がいいよね」

と、ウォルターは肩をすくめてみせた。なんとなくおかしくなってアナベルは笑ってしまう。

「お前って、やっぱりいい奴だよな」

と、言うとウォルターがなにやら勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「なんだよ?」

と、アナベルが首を傾げると

「いや、“意外と”とか“わかりにくいけど”とかが、ようやく消えたな、って思って」

と、言ったので、アナベルは余計におかしくなってしまった。



 その日は少し早かったけど、ウォルターの家には寄らずにそのままアルベルトの家に帰った。仕事から戻ってきたアルベルトに、顛末を報告すると、少し考え込んで、ウォルターに会えないかなと、アナベルに依頼した。


 次の日はようやく、トレーニングの再開だった。予言通り、ウォルターの姿はなかったが、イーサンの方が先に来ていて、試験前のトレーニングのおさらいをする。十時前まで目一杯動いて、汗まみれになったアナベルをみながら、イーサンが終了を告げた。何の気なしに、公園の入り口を見ると、前回も目にした人影が目に映る。


「イーサン、ひょっとして、待ち合わせしてるのか?」

汗をぬぐいながらアナベルが確認するとイーサンは肩をすくめてみせた。

「ああ、ありゃ、俺のお目付けだ」

イーサンにもお目付けがいるのか…と、アナベルは不思議に思った。


「待ってるんじゃないの?行かなくていいのか?」

と、アナベルが促す。汗まみれのトレーニングウェアを着替えたいのだが、イーサンがいるのでそれも出来ない。と、

「ああ…」

と、アナベルの事情に気が付いたのか、イーサンも軽く応じた。


「こっちのお目付けがいないんで、なんか、調子が狂った。まあ、明日同じ時間に」

と、言いながら手を上げると、入り口に向かって歩き出す。イーサンの後姿を見ながら、気を使ってくれていたのだと、アナベルも気が付いた。


師匠の姿が、お目付けだという人影と消えるのを確認してから、アナベルはパーカーの上衣を無造作に脱いだ。ふと、前回のときにはウォルターがいたのに、平気で着替えていた事を思い出して、自分で顔をしかめた。なにやら彼に対しては、自分は随分と無防備ではないか?と、今更のように思い返す。


弟だと信じていた頃の意識がまだ残っているのだろうか?だとしても

『あいつ、結構、エロいぞ…』

と、自分に言い聞かせる。普段は、そんなことには全く関心がありません、とでも言いそうな、すました顔をしているが、思い返すと、そうでもない。


アナベルは少し気を引き締めないと、と思いつつ、思う端から、まぁ、ウォルターだからいいかとすぐに割り切ってしまう。なにがどういいのかは、自分でもよくわからない。


 前回、ショートパンツをはいて行って、少し不快な気分になったので、今日は、ロングのジーパンに足を通した。そのまま、荷物を担ぐと、駐輪スペースまでダッシュでむかった。




 カフェのバイトは三時上がりだ。ウォルターが来ないことは分かっていたので、それほど時間を気にする必要もなかった。メリッサも流石に最近、何も言って来なくなった。二股の挙句両方にふられた、というストーリーが出来上がっているのかもしれない。そう考えて、面白がるべきなのか、不愉快に思うべきなのか少し悩んで、面白がることに決めた。


その方が落ち込まなくてすむ。更衣室で着替えると、カフェも覗かず駐輪スペースへと向かう。最近苦手の大学生のトニーは、今日はお休みだった。それもあって、今日は少しだけ、気が楽だった。自転車を引き出そうと、ハンドルを握ったところ

「アナベル」

と、いう知っているけど耳慣れない声で名前を呼ばれる。訝しがりながら振り返ると、トニーが立っていた。


「やあ、今日は休みだろ?」

と、アナベルは応答した。

「ああ、その…。君が出てくるのを待ってたんだ」

なにやら、俯きながら、トニーが言って来る。

「私?何か用事?」

と、アナベルは首を傾げた。なんだろう、彼に何か借りるか貸すかしただろうか?


「いや、その…」

と、なぜかトニーが言いよどむ。はたと、妙なことに気が付いた。こういうシチュエーションは、リースが好きなドラマとかで、なんか見ないか?と、ひらめいた。もし、この勘が正しければ、トニーは突拍子もない事を言い出す確率が…


「今日は一人なの?その、眼鏡とか金髪とか…」

なんだその言い草、と、アナベルは少し腹立たしい。


「いないよ」

と、無造作に答える。


「今、ボーイフレンドとか、いないんだ?」

いるように見えるのか?と、イライラしてくる。アナベルは終始一貫して、誰ともなんでもないと言っているというのに…。

「いないとなんだってんだ?」

無意味にけんか腰になってしまう。アナベルの反応が予想外だったのか、トニーが少したじろいだ。と、背後から


「アナベル!」


と、呼ばれた。よく名前を呼ばれる日だ。と、アナベルはため息をつく。

少し不機嫌な聞きなれた声。自分が安堵していることにも気が付いて、少し不愉快になる。結局、彼を頼っているのか…。アナベルは、振り向いて、そこに予想通りの姿を見つける。マウンテンバイクに跨って、少し不機嫌そうな表情で、こちらを凝視している。


「ウォルター」


と、アナベルは手を上げて、応じた。それからトニーの方を向き直る。

「で、用事って、なんだ?」

アナベルが、にこやかにそう問うと、トニーはアナベルとウォルターの様子を見比べて、肩をすくめてみせた。


「いや、なんにも。それより、行かなくていいの?お迎えが来たみたいだけど」

と、答えた。アナベルは満面の笑みで

「うん、じゃ」

と、答えると、自転車を引き出し、ハンドルを手に自転車を押しながら、小走りでウォルターの方へと向かった。ウォルターもマウンテンバイクから下りて、アナベルと並んで、ハンドルを押し始める。一瞬、トニーの方に視線を向けた。


…まったく、油断も隙もない…。


見るとトニーが両手を広げてみせた。ウォルターは一瞥すると、すぐに向き直った。横を歩くアナベルが

「なんだよ、今日は来ないって言ってたのに」

と、なにやら笑顔で話しかけてきた。


「今日は久しぶりで、ザナー先生の授業があったから…」

もっとも今日ここまで来たのには、別の理由もあったが。アルベルト・シュライナーから、例のごとく簡潔かつ慎重なメッセージを貰っていた。その件で、アナベルと落ち合った方がいいと思って、久しぶりにカフェまで来たのだが…。


「いいの、彼。何か話してたんじゃないの?」

「うん、いいんだ。もう終った」

「ひょっとして、邪魔したかな?」

と、ウォルターが無表情に言うと、アナベルが彼の方を向いて首を傾げた。


「なんだよ。わざと邪魔したんじゃないのか?」

と、微笑んだ。


その顔が、やけに大人びた女っぽい笑みに見えて、ウォルターはうろたえてしまう。

「え…違…」

と、呟くと、アナベルは普段の表情に戻って、

「冗談に決まってるだろ?その…調子に乗って悪かったよ」

と、苦笑した。


 なんだ、冗談か…。


と、思いながらウォルターは並んで歩くアナベルの顔を、見下ろした。もう一度さっきの笑顔が見たかった。


 …本当に冗談だったのかな?


なんとなく、彼女は全て分かっているのではないかと、そう思ってしまうことが、時々あった。ウォルターは視線の端で、彼女の横顔を見ながらため息をついた。

どちらにせよ、彼女が油断のならない存在であることは、自分にとって変わりはないのだが。


「それより、イーサンのトレーニングは、どうだった?」

「うん、追試の間、基礎トレもサボってたから、少しきつかったかな?明日もおさらいだ。まあ、焦っても仕方がないしな」

と、アナベルが笑顔で首を傾げる。昨日の出来事を引きずっている様子はない。ウォルターは、ほっとする。


「あまり君に強くなられても、僕が恐いから、ゆっくりやってってくれ」

「蹴られる様なこと言う方が悪いだろ?」

と、アナベルが口を尖らせる。そう言われると反論できないのだが…。

「じゃ、まあ、気をつけるようにするよ」

「なんだよ、それ?」


こっちに言わせたら、きっかけはいつも君なんだけど…。


その言葉を口にしたら、間違いなく怒られるので、ウォルターはため息と共に、吐き出すことにした。アナベルは何を思ったか、ウォルターの様子を見ながら、少しおかしそうに微笑んだ。


【南半球の夜空;完】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ