2-2 南半球の夜空(9)
「……それは、今言おうと…」
「なら、よかった」
「アルベルト、なんて?」
「うん、別に。“彼の件でアナベルに話を聞いてください”名前を明記するのを避けている。毎回、慎重な内容だよね」
「その、名前と住所が分かったんだ。で、誰かが確認しに行くってことになって」
アナベルは自分の分のコーヒーカップを手に、流しに縋ってテーブルの方に向く。水色のコーヒーカップ。どうしてウォルターは、私のカップの色を、この色にしたのだろう?
「うん」
「行くんだったら、正体って言うと変だけど、それがばれてる私とお前がいいんじゃないかって話になって」
なんとなく、コーヒーカップに視線を向けたまま、アナベルは告げた。
「そうだね」
「…行くのか?」
別段確認する必要はない筈だったが、つい訊いてしまう。
「ルカの所だろ?サイラスのところならごめんだけど…」
ウォルターは目線を上げて、静かに応じる。
「そうなのか?」
「そりゃそうだ、ルカならまだ話が出来る。あれからどうなったか気になってるし」
「気になってるのか?」
「変かな?」
「いや…」
「君こそ行く気なの?」
ウォルターはいつも通り淡々と言葉をつむぐ。アナベルは訝しげに顔をひそめてしまう。
「どういう意味だ?」
「いや、行く気なのかなって。なんなら先に一人で偵察に行こうか?」
「どうしてそうなる?」
「なんだったら、手紙でも書く?僕が君の手紙を持って行ってもなんら不自然じゃないし、姉弟なんだから」
「さっきからなんだ?嫌味なのか?」
「嫌味なつもりはない。割と真面目だ」
「意味が分からない」
アナベルが首を振ると、ウォルターが訝しげに顔をしかめた。
「まだ、そんなこと言ってるんだ?」
「だから、何が言いたいいんだ?」
イライラとアナベルが応じる。
「なら、逆に訊くけど、君はどうしてルーディアからの手紙をルカに渡したいって思ったの?」
「どうして…って」
何を今更、そんな分かりきった事を訊いてくるのだ?
「ルカがそれを望んでいたから?」
「そうだよ。つまり、ルカはルーディアのこと、心配して…だからせめて元気だって伝えたかっただけだ」
「なら、僕もそうかな。君がルカを想って…ずっと悩んでるって、彼に伝えた方がいいと思うから…かな」
手にしていたコーヒーカップを見つめながら、ウォルターは淡々とそう言った。
「何、言って…」
「想ってるんだよ、君はルカを。まだ、目をそらしてたんだ?」
言いながら、アナベルを見た。
「そらしてなんか…」
その視線に、何故だかアナベルはうろたえてしまう。思わず顔を伏せた。
「じゃ、何?」
が、ウォルターは容赦せず、言葉を重ねる。
「それは、つまり…」
「つまり、ルカが想っているのはルーディアだから、自分がいくらルカを想っても仕方がない、ってこと?」
アナベルはうなだれていた顔を上げた。ウォルターと目があった。けど、彼の表情からは何の感情も伺えない。
「僕はそうは思わない」
アナベルの顔を見たまま、ウォルターは言葉を続けた。
「え?」
「ルカがいくらルーディアを想っても、彼の想いに行き場があるとは思えない。だったら、君が彼にアプローチをかけてはいけないという理由はないと思う」
「何言ってるんだ?」
「そんなにおかしなことは言ってないだろ?彼が何歳の時にルーディアと出会って、彼女に惹かれるようになったのかは分からない。最初はひょっとしたら、年上のお姉さんだったのかもしれない。けど、今はそうじゃない。そしてこれから先も、ルーディアはおそらくあのままなんじゃないかな。だとしたら、どれだけ想っても、最後にはルカはルーディアをあきらめるだろう。宗旨替えでもしない限り。そして少し話した感じだけでも、彼は年相応に女性に好意をもつタイプで…つまり特に少女を愛好する少年には思えなかったけど」
「そう…なのか?」
いつの間にそんな話をしていたんだ?アナベルは少し呆然としてしまう。ウォルターはため息をついて、目を伏せた。
…自分の方からルカにアプローチをかける。ルカのルーディアへの想いを知っていながら?それに多分、ルーディアだって…。
アナベルの戸惑いには構わず、ウォルターは言葉を続けた。
「さらに言えば…本当はあまり言いたくないけど、ルカは君にも惹かれている」
「え…」
ウォルターは一瞬アナベルの表情を見た。が、再びすぐに目を伏せる。
「嘘は言ってない。僕は生まれが生まれだから、横恋慕の類は苦手だけし、人に勧めたいとも思わない。けど、それは、関係の確実性の濃度によるとも思う」
「ややこしい言い方するなよ…」
いいにくそうな、回りくどい言い方に、アナベルは眉を寄せた。
「つまり、パートナー契約を結んでいるとか、そうでなくても揺るぎのない関係性を保持しているとか」
「まだ、硬いぞ」
「なんだよ、そのちゃちゃは?真面目に話してるんだけど」
「だって…」
無理している。ウォルターにとって自分の出自は軽く扱える話題ではない筈だ。
「ようは、ルカとルーディアはそれには当てはまらないんじゃないかって事を言いたいんだ」
「だから、その横恋慕をしてもいいってことか?」
「いや、横恋慕に該当しないんじゃないかって…」
「無理するなよ…」
と、アナベルは呟いた。
「え、無理って…」
「嫌なんだろう、本当は?その横恋慕とか。別に気を使って無理やり認めなくても…」
「いや、だから…」
「いいんだ。私が無理なんだ。第一、勝手な事ばかり言ってるけど、ルカとルーディアが本当はどんな関係かなんて、私とお前に分かるわけがないだろ?」
「それはそうだけど」
「なら、なんでけしかけるようなこと言うんだ?」
「それは…」
…多分、ルカのことで心を占められている彼女を見たくないからだ。今のように彼女が苦しんでいても、自分がなにも出来ないでいる、その非力さを実感したくないからだ。だったら、いっそのことアナベルがルカのものになってしまえば、もう、そんな彼女を見なくてもすむし、自分も余計な期待に苦しまなくてもすむ。そうなったら、たぶん自分はあきらめることが出来る。けど、今のまま生殺しのような状態が続いていって、その先で自分がどうなるのか見当もつかない。それならいっそ…。
ウォルターの逡巡を見て取るとアナベルはため息をついた。
「でも、わかった。結局私が嫌なんだ。お前に言っても仕方がないけど、ルーディアも多分、ルカのことが好きなんだ」
「アナベル」
「たかだか一週間二週間じゃおいつけないくらいの繋がりがあるような気がするんだ。あの二人には。根拠はないし説明も出来ないけど。だから、仕方がないんだ。けど…」
「何?」
「ずっと、だから考えても仕方がないって思ってたけど、けど、やっぱり逃げてたんだな、お前の言う通り。仕方がないってことを本当の意味では納得してなかったんだ。でも、今、わかった」
「つまり…」
「うん、私が嫌なんだ。そのお前の言う横恋慕みたいなのが。だから仕方がない」
あっさりと、彼女は言った。
「アナベル…」
ウォルターは判断に迷うといった風情で、呟く。
「さあ、結論は出したぞ。で、どうするんだ?一人で行くのか、私といくのか?」
「え?」
「なんだよ?そういう話だっただろ?」
「今ので割り切ったの?」
という問いに、訝しさが含まれてしまう。
「そんな簡単にいくわけがないだろうが。ずっとわかってても頭が煮えてたんだ。けど、考えた結果、結論は変わらない。ルカとルーディアは会えないけど両想いで、二人とも私にとっては大事な友人だ。だから、可能な範囲で応援する」
「君…」
「なんだよ?」
「いや、本当に男らしいというのか、潔いというのか…」
「なんだよ?潔いいのが、男らしいって偏見だろ?」
「アナベル…」
気が付くとすっかりしっかり復活してないか?追試ショックが思いのほか効いたのだろうか? ウォルターは嘆息する。いや、これは結局、単にルカに会いたいだけなのかもしれない。会える見込みがでてきたから、復活しただけなのかも…と、油断なくウォルターは思った。
***
ウォルターとの話合いの結果を受けて、アルベルトの家で話をまとめた結果、金曜日の放課後、二人でリパウルが調べてくれた住所に行ってみる、という結論に達した。
水曜日には大体の段取りが決まって、首尾よく誘い出せそうだったら、リパウルと連絡をとって、学校前のカフェか図書館のカフェで、リパウルと合流する。なるべく人が多いところで会う段取りをつける、そう、決定した。
「金曜日は宅配のバイトはお休みを貰って、授業が終わったら私が技研に行って、リパウルから住所を教わって、お前と合流する。それからルカの家に行ってみる」
「技研に近いの?」
と、ウォルターは確認した。
「いや、駅周辺のアパートみたいだ」
「ふーん」
と、だけウォルターは答えた。
見るとアナベルは真剣な表情だ。が、ふっと何かを思いついたようになって
「そういえば、週末のイーサンのトレーニングは再開で、いいんだな?」
「うん、そう伝えてくれって」
「なんか、伝言板みたいにしちゃって、申し訳ない。お前来るのか?」
「いや、流石にもう、いいよ」
「カフェの方には?」
…なんだろう、一体?この手のひら返しは?ルカに会うので緊張しているのか?
「土曜日の予定はまだ、わかってないから。どちらにしろ、行くつもりはなかったけど」
「そうか。私のせいで、お前には大分時間を使わせたからな。悪かったよ」
と、なにやら殊勝な態度で謝られてしまう。
追試前の不自然なぎこちなさは、何がきっかけになったのかよくわからないが、あれ以降、確かに消えたのだ。しかし、反動みたいなこの復活っぷりが恐い。今週はハウスキーパーの仕事の後、空き時間で課題もするようになったし、質問も平気でするようになった。つまり、九月にルカと再会する以前の、アナベルに戻りはしたのだが…。
「そういえば、カイルさんに…」
「うん、ちゃんと手紙で報告した。返事が恐いよ。お前は、イブリンさんから返事来たのか?」
「いや、まだだけど。何か来たら知らせるよ」
「うん、こっちも迷惑かけて悪かった」
「君さっきから謝ってばっかりだけど?」
「たまにはいいだろ?一応、反省してるんだ」
「あ、っそ…」
一体何を反省しているのやら、アナベルの機嫌に反比例するように、ウォルターは自分の機分が悪くなっているような気がした。
そうこうしている間に、金曜日がやってくる。
アナベルとウォルターは、学校前のバス停付近で合流し、技研に向かう。休みの日には閑散としているバス停も、今日は学校の生徒で列を作っている。技研まではバスで行こうかと思っていたが、人の多さに断念し、駅向こうまでは自転車で移動することにした。駅前の有料の駐輪スペースに、自転車を置くと、二人は技研行きのバスに乗車した。
毎月の面会以外で技研に行くのは、オールドイーストに初めて来た時以来だ。最寄のバス停でバスを下り、五分も歩けば技研の入り口に到着する。こうして来ると、訪れ慣れている筈の建物が、ひどくよそよそしく感じられた。アナベルは予定通りに技研のリパウルの業務スペースを訪れて、ルカの住所を預かった。それから、外で待っていたウォルターと合流する。
技研から出てきたアナベルの顔が緊張でこわばっているのを見て、ウォルターも少し緊張する。
「わかったぞ」
「まあ、そうだろうね」
「バスで戻ろう」
言うなりアナベルは歩き出した。
ウォルターは複雑なため息と共に、技研を囲う壁を見つめて、歩き出す。彼は昨日、面接でここに来たばかりだったのだ。アナベルは後ろを振り返って、ウォルターが自分に追いつくまで足を止めた。それから、横に並ぶと
「そういえば、昨日の面会、どうだったんだ?」
と、訊いてきた。ウォルターは無表情になって
「いや、特には…」
と答える。その様子に、何故だかアナベルはあきれたように息をついて
「なんだよ、また、何か嫌な事を言われたのかよ」
と、応じる。
…何故分かったんだろう?
一応、顔には出さないようにした筈なのに…と、ウォルターは内心首を傾げた。
「いや、別に…特には」
と、言うとアナベルはにやりと笑って
「お前は平気で人に嘘つける奴だもんな」
と、答えた。
「今のは嘘では…」
「あー、はいはい。言いたくないからごまかしたんだな」
と、アナベルの分かったような表情に、ウォルターはイラっとしてしまう。
「家に着いたら、僕が応対するから」
と、問答無用で切り出した。何か抵抗するかと思ったが、意外と素直に
「うん、任せる」
と、アナベルが応じた。ウォルターはかえって拍子抜けしてしまう。
「その、いいの…?」
と確認をとると、アナベルがあきれたようになって
「なんだよ、あいかわらず、わけの分からない奴だな」
と、言い返されてしまった。
バスに乗車して、住所にある最寄のバス停まで駅方向に戻ると、二人は無言でバスを下りた。ここからなら、駐輪スペースまで、歩いてでも帰れる。さして迷うことなく目的のアパートに到着する。いたって普通のアパートだった。入り口に守衛がいる様子もない。
二人は無造作に中に入ると、旧いエレベータで目的の階まで向かった。部屋の前に付くと、部屋番号を確認して二人で顔を見合わせる。表札の類はなかった。ウォルターが呼び鈴を押すと、すぐに室内から「はーい」という若い女性の声がして、待つほどもなくドアが開かれた。が、防犯の為か、チェーン越しでドアを開けてくれた女性は、体も入り口から離していて、顔が半分覗けるくらいだった。が、隙間から覗く女性の顔は若々しく、恐らく自分たちと同世代の、やや明るめの膚色の黒人女性だった。
「どなた…?」
警戒心もあらわに、訝しげに眉を寄せて、女性が確認してくる。ウォルターは無表情のまま
「こちらにお住まいのアンダーソンさんですか?」
「そうですが、どなたですか?」
「セントラル高等校の、ウォルター・リューといいます」
言ってから少し反応を待つ。出来ればチェーンを外して欲しいが。
「セントラル高等校の…?」
室内の女性は目立った反応は見せずに、ウォルターを上から下までしげしげと観察し始めた。ふいに、彼の後ろに立つアナベルにも視線を向ける。と、女性の表情に変化が生じた。
「…セントラル高等校の人が、うちに…何の用ですか?」
女性の口調の、あからさまな変化に、ウォルターはふっと目を細める。
「…知人に会いたくて、夏にこちらで見かけたという人がいたので、それだけを頼りに…」
「あの…、そんな人、ここにはいません。誰もいないんです。何かの間違いじゃないですか?」
「そうですか…失礼しました。では、お一人で?」
「母と二人です」
言うなり女性はドアを閉めた。ここまで大人しく、ウォルターの背後に控えていたアナベルが身を乗り出すが、ウォルターの腕に阻まれた。ウォルターはため息をつくと、アナベルを促した。
「行こう」
アナベルは一瞬、忌々しげにドアを睨んだが、あきらめたように顔をそむけると、ウォルターに従って、部屋の前から足を動かした。
アパートから出ると、アナベルがウォルターの横に並んで
「いいのかよ?」
と、少し大きな声を出した。
「仕方がない。多分、本当にいないんだ」
「なんでわかるんだ?」
「それは…」
ウォルターはため息をついた。アナベルは彼の様子を見て何かを察したのか
「わかった、後で訊く」
と、言うと黙りこくって歩き始めた。その様子をウォルターは横目で観察した。
こわばった、何かをこらえるような固い顔。表情がまた戻ってしまっている。ウォルターは一人でため息をついた。
彼女はルカに、会えると思っていたのだ。確率で言えば半々だったのに。そう、思っていたから、元気な彼女に戻っただけで…。と、アナベルが人にぶつかった。ウォルターは驚いて、彼女の腕を取ると、ぶつかった人に謝罪した。
「ご、ごめん…ぼんやりしてた」
言いながら、彼女は顔を上げる。見ると泣きそうな表情になっている。
…駄目だ、このままじゃ…。
自分の感情を度外視して、自分の信じる理想で無理やり自分を納得させて、理屈だけで、あきらめようとしている。そんなこと、無理なのに。理想も信念も理屈も忘れて、理不尽な心と向き合うべきなのだ。けれど、彼女は感情的になって、泣くことも出来ないのだ。ウォルターはこれまで、アナベルが泣くのを一度も見た事がない。
ウォルターは彼女の腕を放すと、唐突に
「今から、時間ある?」
と、尋ねた。
「時間って、お前んちでバイト」
「それ、休みにしよう」
「またかよ…」
「いいじゃないか、付き合って欲しいところがあるんだ」
確か今日は最終日だ。図書館で掲示されてるポスターを見てから、可能なら彼女と行きたいと思っていた。
ウォルターはアナベルの返事を待たずに、駐輪スペースとは反対の方向へ踵を返した。アナベルは、慌ててウォルターの後についていった。
少し歩いているうちに見慣れない区画に入った。大きな白い建物の前で、ウォルターが足を止めた。みると小さく看板が出ている。
『プラネタリウム…?』
子供の頃一度だけ、カイルに連れて行ってもらったことがある。カディナではプラネタリウムに頼らなくても夜空は見たい放題だった。が、ここではそうではない。どんな形でも、夜空を見るのは久しぶりだとアナベルは気が付いた。




