2-2 南半球の夜空(5)
中期試験の範囲が発表されたその日に、イーサンがウォルターの家にやってきた。
「俺のノルマはこなしている様だな」
「もちろんだ」
掃除はすませ、夕食つくりも終えたアナベルは、完全無欠な気分で、イーサンと対峙した。
「約束だからトレーニングはつけてやる。が、お前、時間はあるのか?」
「土日の朝なら空いている。カフェのバイトは十時半からだ」
ウォルターの目の前で、二人が勇ましく?打ち合わせをしているのを、書籍用のタブレットを片手に聞いていたウォルターは、なんとなくため息をついた。
「土曜日は俺もジムでバイトだ。だいたい開始時間は同じだな。なら、八時か九時で時間を作れるか?」
「つくれる」
アナベルは断固とした口調で請合う。
「よし、なら、次の土日で、セントラルの公園で八時に待っていろ」
「セントラル公園はやみくもに広いが…」
「西口の入り口で待っていればいい。わかるか?」
「うん、大丈夫だ」
「トレーニングは約二時間で設定する。終ってからシャワーを浴びたいと思っても、そんな余裕はないが…」
「わかった、なんとかする」
「あの、ちょっと」
そこまで黙って聞いていたウォルターがやや控えめに口を挟んだ。
「なんだ?」
と、二人同時に訊かれる。
「中期試験明けからにした方が、いい気がするんだけど…」
「なんだよ優等生。いちいち水をさすんだな」
と、アナベルがやや不快気に反論した。
「さしたくて、さしてるわけじゃない」
「なら、黙ってろ」
アナベルが一刀両断で切り捨てた。
「気になるんなら、お前も見学に来るといい」
と、イーサンが面白そうに許可を与えてくれた。ウォルターは憮然として、タブレットに視線を落とした。
次の土曜日、アナベルは朝食の支度だけをして、急いで家をでた。後片付けは、リースにお願いした。暑さはすでに随分と和らいできている。秋の早朝の空気を楽しむ余裕もなく、アナベルは全力で自転車をこいだ。
片耳にはすっかり習慣化した学習用の音データをつけている。が、慣れすぎてあまり内容が入っていないようにも思えた。気がつくとぼんやりと別の事を考えていて、アナベルはそのことに気がいて、信号待ちで停止中に、あきらめて、音を聞くのを止めた。どの道、人通りが多い場所まで出てくると、何かを聞きながらでは危険だ。アナベルは素直にイヤフォンをポケットにしまった。
セントラル公園の西口に到着したアナベルは、入り口近くの有料の駐輪スペースに自転車を停めた。走って待ち合わせの場所まで行くと、イーサンはまだ来ていなかったが、何故だかウォルターが立っていた。
「お前、本当に来たのか?」
と、アナベルは嫌そうな顔をした。
「悪い?」
ウォルターも仏頂面で応じる。
「いや、暇なのか?それとも単なる冷やかしか?」
アナベルの不機嫌な言い方に、ウォルターはこれみよがしなため息をついた。
「自覚がないんなら、仕方がない…」
と、いう意味不明な言葉に、アナベルは彼の方を向き直る。
「どういう意味だよ?」
「何が?」
「自覚がないって」
ウォルターは目を眇めてアナベルを見下ろした。
「君が変だって話だ」
「はあ?」
「聞こえなかったの?今の君は、はっきりと変だ」
「お前、なに言って…」
と、アナベルは気色ばんだ。と、
「お前ら早いな」
ややのんびりとしたイーサンの声が、二人の背後からかかった。
「イーサン」
「朝から仲がいいな。続けろよ」
イーサンの言葉にアナベルは顔をしかめると、首を振った。
「いや、続けない。時間の無駄だ」
「ふーん、別にいいのに」
と、何故だかイーサンはにやにやしている。ウォルターを一瞥すると、いでたちを確認し
「公園で試験勉強か?」
と、声をかけた。ウォルターは
「ああ」
と、短く応じると、そのまま二人に先立って歩き始めた。
日曜日の朝の公園には、様々な目的を持つ人が集まっていた。散歩を楽しむカップル、ジョギングに集中する若い女性、犬を遊ばせる青年。スケッチや読書、アナベルのように何かのトレーニングをする者も幾人かいた。イーサンは芝生の広がるフラットな場所を適当に選ぶと、ストレッチから教え始める。ウォルターは適当なところに腰を下ろして、二人の様子を見物しながら、教科書用のタブレットに視線を落とした。
一通り体を慣らすと、イーサンは早速、拳の出し方をアナベルに教え始める。アナベルのフォームは、初めてにしては様になっていた。少なくとも自分の時よりは、形になっているようだと、横目で見ながらウォルターは思った。
イーサンはアナベルの動きを見ながら
「お前、家に大きな鏡とかあるか?」
と、尋ねる。アナベルは腕を下ろすと
「洗面台にあるくらいかな。全身が見られるようなのはない」
と、年頃の女性としては如何なものか?と言いたくなるような言葉が返ってくる。イーサンは半ば予想していた様子で、
「今のところは上半身だけうつるものでもいい、たまに型を確認しろ」
「わかった…けど」
アルベルトの家の洗面台の鏡は共用だ。アナベル一人が独占していいわけもない。
彼女の逡巡を察したのか、イーサンは続けて
「こいつの家の洗面台にも鏡はある」
と、片肘をついて、半分寝転んだようになって教科書を読んでいるウォルターを親指で指しながらそう言った。ウォルターは顔を上げ、無言で顔をしかめた。
「こいつに見て貰ってもいい。一応、一年近くはやっている」
「こいつに?」
と、なにやらアナベルもウォルターに負けないくらい顔をしかめた。
「型の確認は大事だ。鏡を見ながらやるのはイメージトレーニングにもなるが、人を相手にしてもいい。まあ、それはまだ先の話だ」
「わかった」
アナベルは不承不承頷いた。イーサンは頷くと
「じゃ、続きだ」
と、先ほどの続きを促した。
三十分ほど、続けてから、少し休んで、終る為のストレッチを教えてから、イーサンが
「どれくらい覚えているか明日もう一回見てやる。大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「そしたら、次回は試験明けだ」
「え?」
「そこのお目付けがうるさい」
と、イーサンは無表情のままウォルターに目線を向ける。アナベルは舌打ちしそうになった。
「それまで、型をやりこめ。休み明け、形になってたら、次は蹴りだ」
「わかった」
アナベルは勇ましく頷いた。頭から汗がしたたり落ちる。イーサンはアナベルに向かって頷くと踵を返した。終ったのを見て取ったのか、ウォルターが立ち上がった。イーサンは彼の方に手を上げると、そのまま西側の入り口に向かって足を進めた。入り口付近で誰かと合流しているのが目に入ったが、相手が誰かまではアナベルにはわからなかった。
(待ち合わせ?)
と、首を傾げていると、ウォルターが近づいてきた。
「君は?今からカフェ」
相変わらず見下す調子で、腕を組んで上から言ってきた。
「なんだよ?」
アナベルは、意味は無いがつい突っかかってしまう。
「いや、結構、汗、かいてるけど」
「わかってる」
言いながらアナベルは羽織っていたパーカーと、その下に着ていたTシャツを無造作に脱いだ。今まで超然としていたウォルターが、仰天して身を引いた。アナベルはウォルターの様子を一瞥して、顔をしかめたが、気にせずに続けてトレーニングウェアの下衣も脱ぎ捨てる。
胸だけのショートタイプのタンクトップとショートパンツ姿になったアナベルは、ジョギングを終えたばかりのようにも見えた。ショルダーバッグからタオルを出すと、ざっくりと汗をぬぐい始める。それからウォルターを斜めに見ると
「お前、気にしすぎだろう」
と、あきれたように呟いた。ウォルターは横を向いて、目を伏せたままになっていた。
「いや、ちょっとびっくりしたから」
「いくらなんでも、こんなところで、妙な格好になるわけがないだろうが」
「…十分妙だけど」
と、言いながらため息をついた。
「まさか、その格好でカフェまで行かないだろうね?」
「行って欲しいのか?!」
「なんでそうなるんだ…」
ウォルターは嘆息した。
アナベルは憤然とした面持ちで、
「カフェでは制服に着替えるから、いつもこんな感じだ」
言いながら、ジーンズ地のショートパンツを履いてから、Tシャツを頭からかぶった。すらりとした形のいい足に、つい目線がいってしまう。
「…その格好で行くの?」
ウォルターは目をそらしながら、またしても確認してしまった。アナベルのショートパンツ姿を見るのは、初めてではない。カディナに帰っていた時、持って帰った服が少なかったからか、彼女は、中等校時代に愛用していたのであろう、ショートパンツを履いていた。が、オールドイーストでは、ロングのジーパン姿しか見た事がない。ウォルターとしては、もったいないから、あまり惜しげもなく美脚を晒さないで欲しいのだが。
「何が悪い?」
確かに悪くはない。むしろ、いつものロングのジーパン姿より、断然、魅力的だ。
「お前に服装のことを、とやかく言われたくないんだが」
「悪かったね」
センスがないという自覚はある。選ぶのが面倒なので、モノトーンのものばかり選んでしまう。
「おい、ひょっとしてお前、なんか、エロい目で見てんじゃないだろうな?」
何故だか仁王立ちで、アナベルが核心を突いてきたので、ウォルターは慌てて
「それは、君の自意識過剰だろ」
と、言いながら向き直る。なるべく足は見ないようにする。するとアナベルは宙を見た。
「まあ、確かにそれはないか。私みたいな枯れ枝見たって仕方がない」
「枯れ枝ってことは…」
「どうせ、あれだろ?大体男は、グラビア写真みたいな、こう豊満な方がいいんだろ?」
と、投げやりに言うので、ウォルターは無駄にむきになって
「なんだよ、その頭空っぽみたいな決め付け?人それぞれ好みとか、こだわりがあるに決まってるだろ?そんな、十派一からげみたいな言い方されても」
「好みはともかく、こだわりとかがあるのか?!」
「あるに決まってるだろ?例えば、闇雲に大きいより、手に入るくらいの方がいいとか…」
と、言いかけて、ウォルターはたと口を噤んだ。
「いや…今のはあくまで例えで…」
と、言いつくろうが、間に合わなかった。アナベルは、見る間に真っ赤になって肩を振るわせた。下から凄い形相でウォルターを睨みつけてくる。まずいと思ったときには思いっきりわき腹を蹴られていた。
「何、考えてんだ、この全身エロ野郎!!もう、二度とカフェには来んな!!」
唸るようにそう言うと、アナベルは荷物を掴んで、駐輪スペースまで、全力疾走した。脇腹を押さえながら、ウォルターが顔を上げた時には、彼女の姿は、すでに点景になっていた。
…またやってしまった…。
どうにも、ヘマばかりしている。ルカの爽やかさを分けてもらいたい…と、思ってしまって、自分のその発想に、ウォルターは余計に落ち込んでしまった。
普段の時間より少し早めにカフェに到着したアナベルは、駐輪スペースに自転車を置くと、更衣室へと足を向けた。途中、九月からバイトを始めた大学生のトニーが、男性用の更衣室から出てくるところだった。トニーもアナベルと同じく土日のみのバイトだった。
彼はすでにカフェの制服に着替えていて、アナベルと簡単な挨拶を交わしながらすれ違った。すれ違いざま、足を見られたような気がして、つい振り返ってしまう。すると何故かトニーのほうも、こちらを見ていて、アナベルと目が合うと、笑顔を見せた。アナベルは、本当に脚を見られていたような気がして、なんとなく不愉快な気持ちになった。
やや乱暴に更衣室のドアを開く。時間帯のせいか今日は一人だった。ふっと先ほどウォルターに言われた自意識過剰という言葉を思い出して、なんとか気持ちを切り替えた。
公園でウォルターといた時には、当然脚は見せていた筈だが、その時にはそれほど気にならなかったのに、何が不愉快なんだろう?と、思いながら、アナベルはジーンズのショートパンツを脱いで制服のパンツに履き替える。続いて、Tシャツを脱いでから、ふと自分の上半身に目線をおろす。
…手に入るくらいって、ウォルターの手は、結構大きいはず…。
夏にナイトハルトの家に泊るはめになった時、何故だか手首を捕まれた時の事を思い出した。自分の胸元をじっと見ながら、足りないな…と、考えて、顔をしかめた。一体、自分は何を考えているんだろうか?
そういえば、昔、ハリーに腕を捕まれた時は、あんなに不快で気持ちが悪かったのに、なぜ、ウォルターに手首を捕まれた時は平気だったんだろうか?と、首を傾げる。
とても驚いた。けど、不快ではなかった。さっきもそうだ。頭に血が上って、腹がたつけど、嫌なわけではない。あれだろうか、相手がウォルターだったら、蹴ったり蹴ったりして、怒りをぶつけられるからだろうか?そこまで自分で考えて、自分でもあまりにひどいと反省する。
他の人だと、どうだろう、と思考実験を始めようとして、アナベルは眉間にしわを寄せた。ここのところずっと取り付かれている、“考えたくないこと”が浮上してきたのだ。ウォルターが変だったせいで、公園からこっち、ずっと、本当に忘れていたのに…。アナベルは顔をしかめたまま俯いた。何か別の事をと思って、歴史の年代を頭の中で復唱し始めた。




