2-2 南半球の夜空(1)
九月が終る少し前、アナベルは唐突に、移動手段を自転車に切り替える、と言い出した。
「昨日の話…本気だったの?」
と、ウォルターが呟くと、アナベルは馬鹿にしたような顔になって
「当然だ」
と、頷いた。
「君、お金は?」
「アルベルトに借りたお金がまだ残っているから、スポーツタイプの自転車を買う」
「自転車で移動って、いろいろ間に合うのかな…。それに、危なくない?」
「なんだよ?!サイラスは長期休みにしか出現しないんだろ?だったら、別に構わないだろうが?」
「そういう問題じゃ…」
「それならイーサンも、納得するだろう」
元々この話は、イーサンとのやり取りがきっかけだった。
夏にサイラスという謎の少年に襲撃された際、ウォルターの蹴りがきれいに決まったという話を聞いてから、アナベルはキックボクシングに対して野望を抱き始めていた。もし、また、危険な目に合っても、自分がもう少し強ければ、奴を撃退できる、と言い出したのだ。
ウォルターはあきれたが、どうしてもイーサンと話がしたいというアナベルに、有耶無耶の内に、イーサンへの伝言を押しつけられていた。ウォルターはイーサンが引き受けるわけがないと思っていたのだが、どういうわけだかイーサンは乗り気になった。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「そうだな、まず、二週間、基礎体力づくりだ。最初からそんなにハードにはしないが、これをこなせないようなら、話にならない」
「いいよ。どんな?」
と、何故だか、二人はウォルターの家で打ち合わせをし始めたのだ。
「腕立て、腹筋、スクワットを一日五十回。朝晩で分けてもいい。とにかく各、合計五十回だ」
ウォルターは呆気に取られた。アナベルが幾つバイトを掛け持ちしていると思っているのだ?おまけに二年生になってからというもの、課題も毎日大量に出ているというのに?
「さらに走り込みだ。十キロは流石に時間的に無理だろうから、最低五キロは走れ」
「…走るのは…時間的に確かに厳しい…他に変えられないかな?」
「五キロがきついのか?わかった。自転車でもいい。こいつもそうしている」
と、イーサンはウォルターを指さした。
「わかった、自転車に変える」
「正気?」
ウォルターはアナベルの横顔をまじまじと見つめた。が、アナベルは無視した。
「トレーニングはいつから?」
「体が出来てない状態では、何をやっても危険だ。まずは二週間それをこなせ。話はそれからだ。あと、言っておくけど、やってないのにやったと嘘をついても無駄だ」
「わかった。そんな無意味なことはしない。お金の方は」
「それも二週間後だ。もし俺の満足のいく体に少しでも近づいていたら、お前の本気を認めて、無料で指導してやってもいい」
「本当か!?」
「嘘はつかない。いつから自転車を用意できる?」
「週末かな?」
「なら今週末から二週間後だ。また、話に来る」
完全に無視されている家主は心の中で、その話はここでするんだろうなと、げんなりと考えた。イーサンの言葉にアナベルは無言で頷いた。
それが昨日の話だ。
「で、お前、今週末の日曜日、暇か?」
「日曜日の予定はないけど。…まさか、自転車買うのに付き合えとか言い出さないだろうね?」
「言い出すつもりだった。日曜日はカフェの方はシフトが入ってないし。ダメか?」
「ダメじゃないけど…」
「イーサンに頼むのも悪いから。どういうのが向いているのか分かる奴の方が助かる」
「…つまり、僕が断ったら、イーサンに頼むの?」
「まあ、ダメモトだが。けど、今から師匠になる予定の人に、そんな雑用を依頼するのも、申し訳ないというか」
「…ひどい言われようなんだけど」
「何が?」
「気がついてないんならいいけど」
「あと、他にも頼みがあるから、お前の方がいいと思って…」
と、少し柔らかい調子になって、アナベルが付け加えた。
日曜日に、アナベルとウォルターは学校の前のバス亭で、待ち合わせをした。
いわくつきのバス停前で、無事に合流すると、二人は並んで歩き始めた。
アナベルのもう一つの頼みというのは、イブリンに送る品物の選定だった。イブリンから届いた、ウォルター宛の手紙に同封されていた、自分あての手紙に返事を書こうと、アナベルは、九月中、四苦八苦していた。ようやく書いたが、ウォルターからの返事を心待ちにしてるイブリンさんやご家族を、待たせたお詫びに何か送りたいとアナベルが言い出したのだ。
「君、意外に気にするね」
「うん、そんなことより、早く返事を送った方がいいっていうのは、分かっているんだけど」
「君のカード、きれいに書けてたけど」
「そ、そうかな…?」
先日イーサンと勇ましく打ち合わせしていた時と比較すると、多少は女子っぽい。イブリンが絡むと何故かアナベルは、自分の性別を思い出すらしい。
「お前はもう、とっくに書いてたんだろ?」
少し申し訳なさそうに、アナベルが俯いた。
「いや、君の手紙が書き上がるまで、いいやと思って」
「え、そうなのか?」
「うん、まだ書いてないよ」
と、ウォルターが答えると、アナベルは咎めるように眉をひそめる。
「お前…書く気あるのか?」
「何を書いたらいいのかわからない。碌なことがないし」
という返答は、ため息混じりになってしまう。
「それは…」
と、何故か再び申し訳なさそうな表情になったアナベルを、気使うように若干慌てて、
「いや、君のせいじゃないから。それに君がここまで気合を入れてるんだから、きちんと返事は書くし、責任を持って送るから」
と、ウォルターは請合った。
「うん…」
「君がこの手紙に関して、如何に奮闘したかを、書こうと思っているんだけど」
と、続く言葉に、
「え?本気で?」
と、アナベルが驚いた。
「だめかな?面白いと思うけど?イブリンもきっと喜ぶと思うし」
言われてアナベルは、世にも情けない顔になった。確かに碌なことがない。だからと言って、自分をネタにされるのも…。
「分かったよ、何か別に考えるよ」
アナベルが情けない顔のままになってしまったので、ウォルターは心を入れ替えた。
「で、どこで選ぶ予定なの?」
「以前お前に、丸い菓子を持って行ったのを覚えてるか?」
「ああ、あったね」
「あのお店、アフマディのお店の斜め向かいあたりにあるから…」
言いながら、すでに通いなれた道に入っている。車の入れない道路なので、人が好き勝手に歩いている。とはいえ、日曜日なので、このあたりは平日の夕方ほどには混雑していない。歩きながら話していても、人にぶつかるほどではなかった。
先日の木曜日にも、イーサンと一緒にここを通った。と、話しながら角を曲がって、アフマディのお店の前を、通り過ぎる…と、アナベルとウォルターは、二人同時に仰天した。アフマディの厨房に通じる建物と建物の間の細い通路で、イーシャが見知らぬ男性と抱き合って、キスを交わしているのが目に入ったからだ。
二人は同時に踵を返すと、見なかったことにして道の曲がり角まで戻ってしまった。急いでいたので、アナベルは、人とぶつかってしまう。角を曲がると、道の端によけ、二人して足を止めた。
「…なんで、戻ったんだ?」
アナベルが呆然と呟いた。
「そうだね。顔をそむけて行き過ぎた方が自然だったね…」
と、ウォルターも眼鏡の位置を直しながら同意した。
別段、自分たちにはなんの関係もない。が、実際に友人のラブシーンを、リアルで見てしまうと、やはり気まずいし、相当に気恥ずかしい。とはいえ、イーシャに彼氏がいることは知っていたし、あそこは彼女の家の店だし、つまり、自分たちが動転する必要はないのだが…。
「どうしよう。気づいたの気づかれたかな?」
「さあ、どうだろう?」
「このまま、アフマディのお店の方を見ないようにして、急いで行き過ぎる?」
「いや、別のルートを探した方が…」
言いながらウォルターは、カバンから小型のタブレットを取り出した。そんなことを言い合っていると、背後から人の気配がした。通行の邪魔にはなっていない筈と思いつつ「すみません」と言いながら、アナベルが後ろを向くと、イーシャがスタイル良く立って、二人の様子を覗き込んでいた。アナベルは仰天したが、ウォルターは地図案内のタブレットを覗いたままだ。
「ねえ、ちょっと、二人して何の相談?」
と、イーシャが言葉を発した。
「えっと…あの…」
と、アナベルが言葉を濁した。
***
「全く、なんだってこんなタイミングよ」
よくわからないうちに、アナベルとウォルターは閉店中のアフマディのお店に迎え入れられていた。席はいつもの場所だった。イーシャが二人にミルク入りの濃いお茶を出してくれる。
「ごめん…」
他に言いようがなくて、アナベルは素直に謝った。
「で、何?こんなところでデート?」
「デートっていうか、用事なんだけど。ウォルターのお姉さんにお詫びというか、お礼を送りたいから、付き合ってもらってるだけ」
「ああ、例の美人のお姉さん、仲良くなったんだっけ」
「うん…」
なんだろう、妙に刺々しいような。結果的に覗き見みたいになってしまったが、わざとではないのだが…。
「じゃあ、ジェンフォアのお店に二人で行く途中と…ふうーん。いいんじゃない?」
「あの…どうかしたの?」
「何が?」
「なんか機嫌が悪いというか…」
「別に?悪くないけど?」
という口調が普段と違う。何が気に入らないのだろうか?
と、ウォルターがお茶を一気に飲み干した。
「心配しなくてもイーサンやウバイダに言ったりしないし、よそで言いふらしたりしない。アナベル、行こうか。イーシャ、お茶をご馳走様」
と、言い捨てると、席を立った。
「え、ちょっと…」
ウォルターの言葉に何故か唇を噛み締めているイーシャと、ウォルターの後姿を交互に見ながら、アナベルは慌てた。
「言いふらすって、なんだよ。その、イーシャに彼氏がいるのは知ってるし、別に今更、言いふらしたりとか…」
「アナベル…」
ウォルターが足を止め、ため息まじりに呟きながら振り返った。善意に基づく鈍感なアナベルの言葉は、多少の棘を含んだ自分の言葉などより、よほど強力な攻撃だ。ウォルターは一瞬、イーシャに同情した。
「さっきの彼はイシュマイルじゃないだろう。多分…」
「え?」
今度はイーシャの方が席を立った。厨房へと足早に立ち去る。
「ウォルター、イシュマイルのこと、知ってるの?」
「いや。けど、イーサンやイーシャの話だと、確かイシュマイルは華奢な優男だ。名前からいっても、中東あたりのアジア系かな。で、さっきの彼氏は、どうみても華奢な優男じゃなかったし、見たところヨーロッパ系…かなりしっかりした骨組みをしていたし、肌の色も白かった。ただの推測だけど、スラブ系じゃないかな?」
「その何系とかよくわからないんだけど…」
「まあ、君は見るからにミックスだから…」
「なんだよ?ミックスって?」
「雑種?」
「雑種!?」
「そう、混血は気性が荒い」
「…ケンカ売ってんのか?」
「いや、そんなつもりはない。悪かった、今のはただの偏見だ」
「なんだよ、その、開き直った謝罪は?」
「君、関心があるの?ないの?ないんなら出るべきだ。下手すると、プライバシーの侵害になる」
「そうよ!わけのわからない痴話げんかなら、外でやってくれないかしら!」
と、イーシャが厨房から声を上げる。
「痴話げんかって…」
「そうするよ、ご招待ありがとう」
「え、ちょっと待って…つまり、イーシャはイシュマイルと別れたの?」
ウォルターはため息をついた。イーシャが厨房から戻ってくる。
「そういう話は聞いてない。つまり、イシュマイルとも続いている。そうだろ?」
「えっと…」
「大袈裟に考えないでよ、アナベル。ドミトリィはバレエのクラスで時々一緒に踊るから…。キスしたのだって今日が初めてで…」
「でも…」
「彼は、その…とてもいいパートナーで、こんなに息の合う人は初めてなの…だから、その断れなくて…」
「そうなの?でも、イシュマイルは、いいの?」
「それは…そうなんだけど、つまり、前から色々…、その、一目ぼれしたんだって、私に。でも、イシュマイルがいるからって話は、してるんだけど…」
「相談して別れた方がいいという話になって、ヒロイン救出の使命にかられて、ヒーロー願望に取り付かれてしまった君のドミトリィ氏は、まんまと君に乗せられて、さっきみたいな状況に陥いらされてるわけだね」
アナベルが側にいるせいか、相手がイーシャだということを忘れて、つい、いつもの調子でずげずげと言ってしまってから、はたとウォルターは気がついた。見るとイーシャが凄い形相で睨みつけている。
「ウォルター。いくらなんでも、言いすぎだろ?」
すでに慣れきっているアナベルが取り成すようにそう言った。
…一体、誰のせいだと。だからさっさと出ようと言っていたのに。
「イーシャも気にすることないよ。こいつ嫌な奴で…」
…いや、そもそも君の、余計な一言二言が発端なのでは?
なにやら釈然としない思いに取り付かれながらも、すっかり憎まれ役を押し付けられたウォルターは、早々に、イーシャの機嫌をとることをあきらめた。
「君の話から類推するにドミトリィ氏は誠実な人のようだけど?イシュマイルと、君の望むとおりに上手くかないからって、彼の誠意を踏みにじって自分の痛み止めみたいに扱うのはどうかと思うけど?」
「…知った風なこと言って…何が分かるって言うのよ?」
「さあ、わからないけど。けど、君だって本来、誠実な人間だと僕は思ってるし、アナベルだってイーサンですらそう思っている。いくら自分が傷ついているからって、似合わないことはやめた方がいいと思う。君自身が後できっと後悔するし、余計に傷つくのは目に見えている。それだったら、彼の誠意に答える方がいいんじゃないの。少しでも気持ちがあるんだったら」
「…そんな簡単じゃないのよ…」
「まあ、そうだろうね。けど、アフマディ氏はそんなに狭量な人じゃないと思う。ただ、あくまで君が、少しでもドミトリィ氏を憎からず思っているんならって話だけど。単にいいパートナーで、ご機嫌をとっておきたいだけっていうんだったら、やっぱり感心出来るやり方とは思えないけど?」
「そんなんじゃないわ」
「だったら、前向きに検討してみたら、本当はイシュマイルには、いい加減あきあきしてるんだろ?」
「なんでわかるのよ?」
「さあ、最近イーサンとの舌戦に迫力がないからかな?惰性的な雰囲気に満ちているというのか…」
イーシャは呆気にとられたように口を開いた。
「君に一途なヒーローだったら、イーサンもウバイダも応援してくれると思うけど?君たちの舌戦が聞けなくなるのは残念だけど」
「何よ、それ…」
何故だかイーシャが泣き笑いみたいな表情になって、ウォルターをいなした。アナベルはここに至る、ウォルターの内心の呟きも知らずに、なんとか治まったかと安堵した。
「まあ、僕には関係ないから、どっちでもいいんだけど、とりあえず、アナベルも話が分かったみたいだし、僕らはいい加減退散するよ」
「そうしてくれる?」
「悪かった。じゃ、ご馳走様」
「イーシャ、あの…ごめん…」
「分かってる、アナベル。明日、学校で…」
イーシャはやけに大人っぽい笑顔を浮かべて、立ち去るアナベルに手を上げた。




